まゆさんがプロデューサーさんにフラれたのは少し前のことだった。
その日、まゆさんはひとりぽつねんとソファに座りこんで、いつまでもいつまでもぼんやりとそうしていたそうだ。寮に帰ろうとしてたまたま見かけた美穂さんが気になって話しかけたところ、「フラれちゃいました」と短く返したそうで、恐る恐る見守っていた皆さんは大層驚いて、その話で持ちきりだったそうです。
なにしろ、まゆさんのプロデューサーさんへの愛情はとても深いもので、その献身ぶりたるや見ている方が不安になる程のものでしたから、そのまゆさんがプロデューサーさんにフラれたとなってはどうなることかと誰もが不安に思ったのでしょう。
プロデューサーさんが拉致監禁されるのではないかとかいう想像はまだ優しい方で、いや、無理心中を図るのではないか、いやいや、殺して食べてしまいひとつになろうとするのではないか、そんな無責任な冗談交じりの噂が流れたそうです。
勿論それらはあくまで冗談交じりの悪意のないもので、誰もがこの一等愛の深い傷心の少女に慰めの言葉をかけてやり、普段持て余し気味の優しさや思いやりをここぞとばかりに注いであげたそうです。
そうした思い遣りを受けて佐久間まゆは見事復活し、笑顔を取り戻したのだそうです。
全てにおいて伝聞系なのは、この事件のあった当時、ボクはバラエティ番組の収録で留守にしていたからです。出発するときは笑顔で見送ってくれ、帰ってきた時も笑顔でむかえてくれたので、さしものボクもすぐには気付けませんでした。
まさかこの可愛いボクがギネス記録もあるマカオタワーからバンジージャンプさせられるとは思ってもいませんでしたよ全く、などとお土産話を披露して少しおしゃべりをしているうちに、何処か精彩を欠くなと思いましたけれど、まさかそのような事情があったとは思いも寄りませんでした。
だからボクがボクの居ない間に起こって、ボクの居ない間に終わった事件の事を聞いたのは、何もかも終わった後の、終わってしまった後のことだったのでした。
マカオタワーからの絶景がいかに見事だったか、可愛いボクがいかに勇敢に飛び降りたか、というより突き落とされたか、また旅費より高くつくんじゃないかという料金設定や、最後に貰った、バンジージャンプ中の動画や写真の入った変な形のUSBメモリのことを話して、少し喉の乾いたボクはまゆさんの淹れてくれた紅茶に口をつけました。まゆさんが口を開いたのは、その時のことでした。
「まゆ、フラれちゃいました」
僕は紅茶の良し悪しというものはまだよくわからないのですが、まゆさんの淹れる紅茶はいつもふわりと立ち上る香りが優しくて、なんだかほっとする心地がするのでした。そんなのんびりとした感想が頭をよぎるくらいには、まゆさんの声は平静としていました。
カップを置いて、恐る恐るまゆさんに視線を遣ったぼくに、彼女は改めてその言葉を口にしました。
「まゆ、フラれちゃいました」
そこには悲しみや苦しみと言った色はなく、かと言って冗談めかしたような響きもありませんでした。ただただ、どこか遠い思い出の話でもするかのように、まゆさんはゆっくりと、しかしはっきりとそう言葉にしたのでした。
それを聞いたボクの気持ちと言ったら!
きっとその時、まゆさんは悲しみも苦しみも、みんなみんな乗り越え終わってしまった後だったのでしょう。優しい優しい慰めと思い遣りに包まれて、まゆさんはプロデューサーさんへの思いを、ゆっくりと諦めたのでしょう。自分が、自分の愛が受け入れて貰えなかったというそのことを、鋭い、しかしやがて癒える傷として、丁寧に包帯を巻き終えてしまったのでしょう。
ボクにもみんなのような優しさや思いやりがあったなら、佐久間まゆという健気な少女を慰め、その傷が早く癒えるようにと祈ってあげられたことでしょう。
しかしボクがまゆさんに放ったのは、優しさの欠片もない言葉だけでした。
「そんなことで諦めるんですか」
ボクの小さな爆発に、まゆさんはきょとんとした目をしていました。
それはそうでしょう。きっと、優しい他の皆は、そんなことは言わなかった事でしょう。
でもボクは、優しい気持ちにはなれなかった。
「まゆさんの思いはそんなものじゃないでしょう。好きだったんでしょう。好きなんでしょう。プロデューサーさんのことが好きなんでしょう。好きっていう気持ちは、そんなに、弱いものなんですか。一度断られたからってなんですか。まゆさんがどれだけプロデューサーさんのことが好きなのか、ボクはよく知ってます。まゆさんがきれいで、かわいくて、それ以上に健気で、頑張り屋さんなんだってこと、ボクは知ってるんです」
だから、諦めないでください。
なんて、酷いことを言ったものだ。
まゆさんは少しの間ぼくを見下ろして、それからゆっくり、大きく瞬きをしました。
「幸子ちゃん、どうして幸子ちゃんの方が泣きそうなんですか?」
そっと頬に手を置かれて、ようやくボクは自分が泣き出しそうなほど熱くなって、らしくも無い事を吐き散らかしたことに気づいて、すぐに羞恥の気持ちがこみ上げてきました。けれどいまさら吐き出した言葉を取り下げることなんてできませんでした。
「まゆさんが泣かないから、ボクが泣きそうなんです」
強がりみたいに意味の分からない事を呟くと、まゆさんはそっと笑ってくれました。
「じゃあ、ますますまゆは泣けませんね。幸子ちゃんが、頑張れって言ってくれるなら」
止めて下さい、とは言えなかった。胸の裡から込み上げてくるものをみんなみんな飲み下して、ボクは笑うしかなかった。それだけがアイドルであるボクの武器だったから。
「ええ、可愛いボクが応援しているんです。絶対に、絶対にあきらめないでくださいね」
なんとも、みっともない話だと思う。
実際、酷い話だと思う。
まゆさんに簡単に諦めて欲しくないという気持ちに嘘はなかった。
でも同時に、諦めて、もうプロデューサーさんなんか見ないでほしいという気持ちもボクの本心だった。
ボクを見て、そう言いたい気持ちを、ボクは何とか飲み込んだ。
自分が可愛いということを、ボクはきちんと理解していた。
そしてそれ以外にこれといって取り柄が無い事も。
小柄な体はあまり運動能力には恵まれなかった。きっとこれからも余り背は伸びない事だろう。病弱ではないけれど、健康を謳えるほどでもない。
授業を受けて、勉強をして、宿題を滞りなく終わらせることは出来た。でもそれだけだった。テストの点数はいつも平均より少し上。そして優秀な子よりは劣るくらい。
努力は結果を出すけれど、努力以上の結果を出すことはなくて、才能という程に尖ったものをボクは持ち合わせていなかった。
そんなボクがアイドルとしてスカウトされたとき、何ものにもなれないボクが、何かになれるかもしれないと夢を見た。
幸せな子に、なれるかもしれないと夢を見た。
現実はそれほど容易くはなかった。
ボクは可愛い。それは事実。でも世界一可愛いかというと、売り文句ほどの自信はない。
同じプロダクションの中にさえ、可愛い子たちばかりだ。余所のプロダクションも含めれば、可愛い子はそれこそ星の数ほどいる。そりゃあ、そうだ。だってアイドルなのだ。可愛いことは、最低限の条件でしかない。
可愛いことだけが取り柄だったボクは、つまりアイドルとして最低限度のものしか持ち合わせていなかった。
それでも諦められなかった。それでも諦めきれなかった。他にとりえのないボクが、可愛いことさえ諦めてしまったら、きっと本当にボクは何ものにもなれないだろうから。
そのボクが一瞬でも負けたなと思ったのが、佐久間まゆという少女だった。
もともと読者モデルをしていたという彼女は、プロデューサーさんに一目ぼれしたという理由で事務所を止めてアイドルになったという経歴の持ち主だった。運命がどうのと、どんな恋愛脳だと思ったものだけれど、そんな嘲りはまゆさんの笑顔を前に容易く崩れ去った。
彼女は確かに恋愛脳かも知れない。しかし、遊びでやっている訳ではないのだ。彼女は本気で恋をしていた。恋に生きていた。本気で生きているから、その笑顔は何時だって輝いていた。
自分と比べてどうであるとか、他と比べてどうであるとか、そう言った事を抜きにして、ただただ純粋に、ああ、可愛い人なのだなとそう思ってしまった瞬間に、輿水幸子は敗北していた。手持ちのたった一枚の切り札、可愛いにおいて敗北を喫したのだった。自分の為にただ可愛くあろうと努力してきたボクと、ただ一人に振り向いてもらいたいが為にかわいいを磨く彼女。ボクは可愛くあろうとして、可愛いというものを忘れていたのかもしれなかった。
年上の少女の観察は続いた。誰かの為に献身を続ける姿に、ボクは看過されつつあった。自分のことだけを考えていたボクが、誰かのことを考える余裕が出てきた。
そうしてできた余裕は、ボクの心に沁み込んでくる猛毒だった。
まゆさんは愛の深い人だった。たった一人に向けられている愛情でさえ、はたから見ていても色濃く見える程に、その愛は強い物だった。そしてその愛はただ只管に献身だった。奪うことをせず、傷つけることをせず、ただひとえに献身だった。
みんなが傷心のまゆさんがどんな行動に出るかと恐れている中、ボクだけは逆のベクトルを恐れていた。愛を向ける先を失ったまゆさんが、この世に意味を見失い命を絶つのではないか。あるいはそこまでいかなくても、アイドルという仕事にどんな甲斐も見いだせず、ひっそりと辞めて行ってしまうのではないだろうか。ボクはそれを恐れた。
諦めるんですか。
そう煽って、焚き付けたのは、まゆさんがそうした道を選択しないようにという思いもあった。
そして同時に、自分本位の身勝手な思いからでもあった。
ボクはまゆさんの頑張りを尊敬していた。どれだけすげなくされようと献身を続けるその姿勢をずっと見続けてきた。まゆさんの姿に、それが愛なのだと信じていった。
だから諦めないでほしかった。そんなことで諦められるものなのだと言わないでほしかった。
だってもしそうなら、ボクのこの気持ちも、まゆさんのたった一言で諦めてしまえるものなのかもしれないと、怖くなったから。
いつからかボクの中には、ボク自身にもどうしようもない熱がわだかまっていた。手を伸ばしたくて、でもきっと伸ばしてしまったとたんに終わってしまう熱がボクの中にあった。あの人を見る目でボクを見て欲しかった。あの人にかける声でボクに話しかけて欲しかった。あの人に向ける笑顔でボクに笑いかけて欲しかった。
ボクは、輿水幸子は、どうしようもなく佐久間まゆという年上の少女に恋焦がれていたのだった。
「あきらめ、ないで」
だからこれは同情ではない。思い遣りでもない。
ただただボクの身勝手な思いからくる、身勝手なお願いなのだった。
◆◇◆◇◆
お前の気持ちには応えられないし応える気もない。
朝の紅茶の感想と同じ様な調子で、プロデューサーさんは余りにも呆気なくそう仰いました。
呆けるまゆに、プロデューサーさんはいつも通りの仕草で紅茶を一口すすって、ああ、おいしいな、とそう仰いました。
同じ口が告げる二つの言葉に、まゆは混乱しました。
プロデューサーさんはゆっくりと言葉を選んで、それから鋭く仰いました。
「まゆ、お前は運命を信じるかい」
それは問いかけの形を取っていましたが、しかし答えを求めてはいないようでした。
「私は運命を信じていない。というよりは、嫌いなのさ、運命なんて言葉」
運命の人だという、まゆの言葉を、まゆの思いを、一言の下に切って捨てられたような気持でした。でも知っていました。わかっていました。プロデューサーさんがまゆの思いを受け取ってはくれないということは。プロデューサーさんはまゆたちの可能性を見出して引き出してくれる。でもその結果の全ては、その可能性の輝きは、全てアイドルのものであってプロデューサーさんのものではないのです。皆に優しくて、皆に厳しくて、全ては平等なのでした。
「全てが運命なのだとしたら、世の中の努力なんてものには意味がない。そうなるようにしかならなくて、そうあるようにしかあれないのなら、そんなの世の中の何処に楽しみがある」
プロデューサーさんは、うなだれかけたまゆに、厳しく前をみろと仰いました。背筋を伸ばすまゆに、プロデューサーさんの視線が真っ直ぐ突き刺さりました。何時も見ていたつもりでした。ずっと見続けていたつもりでした。でも、その日まゆは初めてプロデューサーさんの目を見たような思いがしました。
「お前の努力は本物で、お前の思いは本物だ。運命なんかじゃあない。お前自身が決めて、お前自身が頑張ってきた結果だ。だから私も戯れなく応えようと思う。私はお前に応えられない。私はアイドルを愛しているから」
誰か一人を愛することなどはない。
はっきりと告げられて、しかし悲しくはありませんでした。悔しくもありませんでした。少しだけ寂しくて、でも、きっとそう言うだろうということを、まゆはどこかで知っていたのでした。だって、だからこそ好きになったのだもの。
「運命がお前の目をくらませるなら、ここで運命は終わらせよう。私はお前に応えない。これは運命なんかじゃあないんだ」
それでも、まゆの恋は本物でした。
そう告げると、プロデューサーさんは少しだけ笑って、そうしてそうだなと頷かれました。
「ありがとう。そしてすまない」
それは静かで、そして断定的な恋の終わりでした。
自分の恋が終わったのだということを、まゆは少しの間一人で考えていました。少しと言っても、実際には考えに没頭し過ぎて、美穂ちゃんに声をかけられたころには外はすっかり真っ暗になっていましたけれど。
「まゆ、フラれちゃいました」
そう言葉にすると、途端に実感がこもってきました。
本気でした。本気の恋でした。本気で恋して、そして本気で失恋したのでした。
悲しくはなくて、悔しくもなくて、ただほんの少し寂しくて、そうしてまだうまく思い出にはできていないのでした。
沢山の人に慰めて貰いました。
プロデューサーさんだけが恋の相手じゃない。世の中には星の数ほど人がいる。こういうときは気晴らしが必要だ。本当にたくさんの人に声をかけて貰って、気を遣って貰って、まゆは自分が気付かなかっただけで、本当にたくさんの人から愛されているのだということを、今更になってようやく気付けたのでした。それまでのまゆの目がくらんでいたとは言いたくありません。でも、今までまゆが見落としてきた本当にたくさんのことが世の中にはあるのだなって、少なくない気付きがありました。
少しして、まゆは幸子ちゃんをお出迎えしました。収録で台湾にお出かけしていた幸子ちゃんは一連の騒動の中一人だけ仲間外れで、声を聴きたくなったのでした。幸子ちゃんにも慰めて欲しいのだと、きっといやらしい本音があったのでしょう。まゆはみんなの優しさに触れて、優しさに飢えてしまったいやしい女なのです、なんて。
少しの寂しさを埋めるために幸子ちゃんの声を聴きながら、まゆは考えました。幸子ちゃんはどんな風に慰めてくれるでしょうか。狼狽して、動揺して、あわあわと頭を捻って、可愛いボクが隣に居てあげますからね、なんて言ってくれるのでしょうか。
その期待はあっけなく裏切られました。
まゆがタイミングを見計らってプロデューサーさんとのことを告げると、幸子ちゃんはまず困惑して、そしてもう一度つけると、酷く硬い表情でじっとまゆを見上げてきました。その顔にちょっと驚いてしまいました。幸子ちゃんのそんな顔を、まゆは今までに見たことがありませんでした。そんな、怒ったような、泣き出しそうな、悲しそうな顔。
「そんなことで諦めるんですか」
強い、口調でした。責めるような、口ぶりでした。
「まゆさんの思いはそんなものじゃないでしょう。好きだったんでしょう。好きなんでしょう。プロデューサーさんのことが好きなんでしょう。好きっていう気持ちは、そんなに、弱いものなんですか。一度断られたからってなんですか。まゆさんがどれだけプロデューサーさんのことが好きなのか、ボクはよく知ってます。まゆさんがきれいで、かわいくて、それ以上に健気で、頑張り屋さんなんだってこと、ボクは知ってるんです」
だから、諦めないでください。
責めるようで、怒るようで、そして、縋るような声でした。
他の誰もが、大丈夫だよ、気にしないでいいんだよ、そう言って慰めてくれた中、幸子ちゃんだけがこうして怒りもあらわに、悲しみもあらわに、まゆの思いを見つめて声を荒げてくれたのでした。
誰もがまゆの事を思い遣ってくれました。
けれど幸子ちゃんだけがまゆの恋心を、拾い上げて押し付けてくるのでした。
まゆは少しの間その事実を噛み砕いて、それから呼吸を整えました。
「幸子ちゃん、どうして幸子ちゃんの方が泣きそうなんですか?」
真っ赤になった幸子ちゃんの頬に手を遣ると、幸子ちゃんは驚いたように零れ落ちそうなほどに目を見開いて、それから小さく唇を結んで、恐ろしく強い光を称えた眼差しでまゆを見上げるのでした。
「まゆさんが泣かないから、ボクが泣きそうなんです」
それは不思議な理屈でした。けれどその眼の端に浮かぶ輝きが、その美しさが、まゆの代わりに流れるのだと言われれば、何だかそれは光栄な気がしました。
「じゃあ、ますますまゆは泣けませんね。幸子ちゃんが、頑張れって言ってくれるなら」
まゆの中で、プロデューサーさんへの思いはすっかりなくなってしまった、とは言わないまでも、ずっと穏やかなものに落ち着いて、ただ遠い星を思うような憧れになっていました。それでも私がそう答えたのは、幸子ちゃんが私を見てくれていたからでした。幸子ちゃんが望む私を、幸子ちゃんに上げたいと思ったからでした。
「ええ、可愛いボクが応援しているんです。絶対に、絶対にあきらめないでくださいね」
この小さな星を傍に置いておけるなら、きっとまゆは何を置いてもそうするでしょう。
それは運命ではなく、きっとただの小さな恋だから。