小日向美穂は考える。
恋とはいったい何だろう。
そんな考えが頭をちらつくようになったのは、同じプロダクションに所属する佐久間まゆが失恋したという事実を知ってからだった。
美穂からしてみると、彼女ほど恋というものを体現した少女はいなかった。
彼女は恋ゆえにアイドルをはじめ、恋ゆえに女を磨き、そして恋ゆえに失恋した。
彼女の歩く道は恋路で、彼女の原動力は恋心で、彼女の歌は恋歌だった。
恋の重荷も何とも思わず、恋の病に恋煩い、恋の闇に盲目になり、恋い侘び恋い渡り恋い震い、恋い余る末の失恋となれば恋焦がれる余りに恋い死ぬのではないか。
そのように心配し、慮り、あれやこれやと一同こぞって慰めもしたのだけれど、結局そのどれが功を奏したのか奏さなかったのか、傍目には常と変わらぬ笑顔を取り戻し、彼女は朗らかに歌を取り戻した。
これでめでたしめでたしとなればそれでよかったのだけれども、あまりに恋恋と考えすぎたせいか、はてでは恋とは何だろうかと美穂は思い至ったのだった。
あれほどまでに恋を体現した少女は失恋した、つまりは恋を失ってしまったわけで、そうなると佐久間まゆという少女は何者になったのだろうか。もちろん、恋を体現などというのは美穂の勝手な認識であって、恋をしていようとしていまいとまゆはまゆでしかないし、一人の少女の価値に何らの瑕疵をつけるものではないのだけれども、しかしそれはそれとしてその熱量はどこへ行くのだろうかと美穂は思った。
だってあれほどまでに、まゆは恋をしていたのだ。
目に見えそうだと思うくらいに、まゆの恋は激しいものだった。振る舞いが大袈裟であったり、声高に主張していたということではない。けれどあの目に宿った情熱にちらとでも焦がされないものは、恋というものを生まれてこの方知らぬのではないかと思わせた。
佐久間まゆという少女はさておき、佐久間まゆというアイドルの大半は恋の力でできていたように思う。恋の炎がその輝きを支え、恋の迷いがファンに共感をもたらした。その恋が失恋によって失われたのならば、佐久間まゆというアイドルの形は、強烈な陰圧によって内側へと潰れてしまうのではないだろうか。
という心配を気にした風もなく、今日もまゆはステージの上、星々の輝きもかくやというアイドルぶりでファンを魅了していた。
こうなってくるとますます美穂は困惑した。
恋とはいったい何だろう。
そもそも美穂には恋の経験自体が少ない。
まるでないというわけではないけれど、その数少ない経験にしたって、幼稚園の頃にだれだれくんと特別親しかったとか、小学校の頃にだれだれくんにときめいたとかその程度で、まゆのように質量をもつような恋心を抱いた記憶はなかった。
自分の方が年上なのに、という思いがなかったわけではないけれど、しかし確かにまゆの方が恋の大先輩なのは確かだった。
思い切って直接訪ねてみたのはなにということもない日のことだった。
たまたま顔を合わせ、最近どう、その節は心配をかけて、なんて他愛もない会話に挟むように、美穂としてはなるべく自然を装って訪ねてみたのだ。
「恋って何なのかな?」
「恋、ですか?」
まゆは小さく小首をかしげて、さも不思議なことを聞いたという風にまじまじと美穂を見返した。
それは、まあ、美穂からしてみると恋そのものといったまゆからしてみればそんな質問は人間って何かなとでも聞かれたような哲学的な質問にでも聞こえたのかもしれない。
「ほらその、まゆちゃん、あの……」
「失恋、しましたね」
何といえば傷つけずに尋ねられるだろうかという美穂の気遣いにそっと微笑んで、まゆの方から切り出してくれた。やはりまずいことを聞いてしまったかとひやりとした美穂に、しかしまゆは安らいだような穏やかな笑みを見せさえした。
「確かにまゆ、プロデューサーさんにふられちゃいました。これからどんなに頑張っても、きっと振り向いてくれないだろうなって、はっきりわかりました」
それは、辛いことではないのだろうか。
美穂の困り顔に、まゆは微笑んだ。
「でもそれで、まゆがプロデューサーさんのことを嫌いになるわけじゃないですよね」
「う、ん……それは、そう、なのかな?」
「まゆはそういうプロデューサーさんをきっと好きになったんだと思いますし、いまでも、好きな気持ちに変わりはないと思います」
美穂はますます困った。それは報われない恋というのではないだろうか。
ますますもにょもにょと眉を寄せる美穂に、まゆも困ったように笑った。
「でもたぶん、確かにもう恋ではないんだと思います」
「えっ」
「あ、でも恋なのかな」
「えっ」
うーんと小首をかしげるまゆに、美穂も困惑した。
恋ではなくて、でも恋なのだと。
「恋ってきっと、心の中にその人用の椅子を用意することなんだと思います」
「椅子?」
「そう、椅子。恋でなくても、まゆの心の中にはたくさんの椅子があります。美穂ちゃんの椅子だったり、紗枝ちゃんの椅子だったり、お母さんだったり、お父さんだったり、たくさんの人の椅子があって、たくさんの人が座っていて、まゆは時々その人たちの間をめぐって、その人たちのことを思い返したりするんです」
たとえは、わからないでもなかった。
美穂の心の中にもたくさんの人が思い出されて、その人それぞれに、その人のための場所が割り振られているのだ。例えばずっと前に亡くなったひいおじいちゃんのことは、深くは覚えていないけれど、それでもその椅子だけが思い出の品と一緒にそっと今でもその場所に置いてあるのだ。
「恋をすると、まゆの椅子はその人の椅子の隣に置かれるんです。いつも少し隣を見るだけでその人のことが思われるんです」
「自分の、隣の席」
「ええ、そうです。だから、歌っているときも、ああ、この人は私の歌をどんな思いで聞いてくれるだろうかと思いますし、うまく踊れた時も、どんな風に見てくれるだろうかと思いますし、ありふれた日常の中で、例えばご飯を食べている時だって、あの人はこの味は好きだろうか、一緒に食べられたらどんなに幸せだろうかって、そんな風に思うんです」
まゆの夢見るようなほほえみには全くの嘘偽りも、かけらほどの陰りもなかった。きっと美穂とこうして話している時でさえ、まゆの心のいくらかは、必ずその隣の席に向けられているのだった。自分の心の少なくない部分を、その人への思いに割いているのだ。
それは成程、強い力であるはずだと美穂は思った。何を見ても何を聞いても、その人への思いが必ずそこにあるのなら、万有引力か何かのように、その力はどこまでも届くだろう。
でも、と思う。
「その……報われない、って、わかってても?」
酷いことを聞くと思う。
でも、或いはまゆは恋という狂気にとらわれてしまっているのではないかと不安になったのだった。報われない恋に殉じる自分に酔っている、とまでは言いたくない。しかし将来性のない恋にいつまでも囚われていることは、冷たいことかもしれないけれど、まゆのためではないのではないかとも思うのだった。
年下の少女は小さく微笑んで、美穂さんは優しいですねと囁いた。
「そうかもしれませんね。確かにあまり生産性があるとは言えませんね」
「い、いやその、あの、ご、ごめ」
「実はまゆ、あんまりいい子じゃないんです」
「えっ?」
まるで思いもよらなかったセリフに顔を上げれば、美穂の視線を悪戯めいた微笑みが迎えた。
「恋の席は一つじゃないみたいなんです」
「えっ?」
「恋される、というのは、とても刺激的で、とても甘くて、しあわせなものですね」
にっこりとほほ笑んで、呆然とする美穂を置いてまゆはするりと立ち上がった。
それではと言いおいて足取りも軽くまゆは歩き出した。その先では、小柄な少女が自分の愛らしさを同行者に謳っているところだった。
何が何やらさっぱりわからないままであったけれど、まゆに気づくなりその少女の目に確かにともった熱に、なるほどと美穂はうなずいた。
恋はどこにでもあるもののようだ。
◆◇◆◇◆
小早川紗枝は考える。
恋いうんは何ですやろか。
自分も年頃の少女であるし、恋の一つや二つ、と言いたいところであったけれど、いざ思い起こしてみてもはっきり恋らしい恋というものをしてこなかったように思う。それはもちろん、幼心のうちにときめいたり焦がれたりはあったのかもしれないけれど、自分でも思い出せないような恋は恋のうちではないと思う。父親と結婚するというようなものだとも思う。
思春期の女の子としてはあんまり健全ではないかもしれないけれど、紗枝はこの日まで恋というものにさほどの興味を持ったことがなかった。同級生たちのいわゆるコイバナというものを聞いてみてもいまいちピンとこず、誰それが格好いいだとか誰それが素敵だとか聞いても、字面通りに格好いいとか素敵だとかは思ってもそれにときめくということがなかった。
なんだか遠い世界のことのように思えるそんな色恋というものについて考えたのは、友人である小日向美穂がぼんやりとつぶやいた同様の質問ゆえである。
恋って何だろうね。なんだか疲れたような言葉は、問いかけと言えば問いかけの体裁をとっていたけれど、紗枝に尋ねたというよりはわけがわからないと中空に放り投げたような形だった。
のんびりとお茶をすすりながら紗枝はその中空に投げられた問いかけを、ふわふわと中空でばらしては眺めてみたのだけれど、やっぱり良い答えは出なかった。
「なんやろねえ」
「なんだろうねえ」
ほわほわとしたつぶやきには、やっぱりほわほわとした答えが返った。
恋の歌を歌うこともあるアイドルとしてはなはだ問題だとは思うのだけれど、別に紗枝が一から十まで歌詞を考えて歌っているわけではない。正直なところ全然わからないでその意図を尋ねに行くこともあるし、うんうんと頭をひねって何となく自分なりの答えを持って歌っているようなところがある。結局のところファンの共感というものは本当に心が通じているわけではなく、紗枝の歌う歌詞を投げかけられたファンの中で化学反応が起こり、ファンの中だけで終始する気持ちの動きでしかないだろうとドライなことも考えたりする。
それはもちろん、自分の気持ちが一から十まで伝わってくれたらそれは素敵なことだとま思うけれど、人間というものは心を尽くして語り合っても半分くらい通じればいい方だと思うし、それが不特定多数に向けて自分でも正直あんまりわかっていない気持ちとかを歌うときなんかはなにが通じているのやら自分でもさっぱりわからない。ファンの方でもたぶんそこまでは期待していないと思う。アイドルというのは夢やら希望やらを振りまきはするけれど、別にそれで通じ合わなくてもいいと思う。無数の誤解と錯覚とが重なりあり積み上げられて生まれるのがアイドルという夢であり希望であり、そして無数の誤解と錯覚の中からほんのわずかに伝わるものがあればそれで十分だと思う。
恋というのも所詮はそういう化学反応に過ぎないのではないか、とまで乾ききったことを言うつもりはない。もちろん化学反応には違いないのだろうけれど、そのケミカルにファンタジーで色を付けてポップでキッチュなふわふわしたなにかに仕上げるのが年頃の少女として正しいスタンスだと思う。
とはいえ、二歳年上の美穂と二歳年下の紗枝では、その年頃の中でもさらに違う枠組みに分類されてしまうのかもしれない。たった二歳差と言えばたった二歳差であるけれど、十代の二歳差というのは決して小さくない差なのだ。
振る舞いや装いから大人びて見える紗枝だけれども、実際に年上の美穂と親しく付き合っていると、この恥ずかしがり屋で幼く見える少女が存外に年上らしく振舞うことも知っているし、そうした彼女の振る舞いと比べてみると自分の子供っぽさというものがいい意味でも悪い意味でも浮き彫りになるのを感じたりもする。
自分がもし美穂と同じ十七歳でアイドルになったとして、果たして彼女のように臆病で恥ずかしがり屋な自分を克服し笑顔を振りまけただろうかと問われれば自信はない。如才なく振る舞いはするかもしれないだろうけれど、二年の間に凝り固まったものはきっと今の紗枝よりも柔軟性を欠き、かたくなさをもってその足を止めただろう。もちろんそんなことを言えば、美穂が十五歳でアイドルになったとしたら、或いは成長する前にくじけてしまったかもしれないが。
美穂のようになりたい、と思う訳ではない。美穂の良さは美穂の良さであって、紗枝の良さではない。紗枝の良さというものを紗枝自身がしっかりと把握しているわけではないけれど、しかしもし紗枝が美穂の在り方を真似しようとしても、それは美穂の劣化品でしかありえない。美穂の笑顔は紗枝の笑顔ではない。美穂が認めてくれる紗枝の良さというものを、わざわざ殺してまで選ぶものではない。
「恋……恋なあ」
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで、などと言うくらいだから、それはまあ、恋をしている人というのは見ればわかるものなのだろう。それこそ佐久間まゆなどその筆頭だった。誰に教えられるでもなく、ああ、あの人は恋をしているのだなとはっきりわかった。まあ彼女の場合は忍ぶ様子などかけらもなかったから、この例えなら輿水幸子の方がふさわしいだろうけれど。
そんなことを言ってみれば、美穂はぎょっとしたように顔を上げた。
「え、気づいてたんだ」
「そらまあ、幸子ちゃんえらいかわいならはったから」
気の抜けた声を上げて感心する美穂だけれど、紗枝からすると幸子の恋心はいっそあからさまなくらいだった。もはや意地になっているといいたくなるくらいに、幸子は自分の恋を隠そうとしていた。そうしてひた隠しに自分の胸の裡に閉じ込めようともがけばもがくほど、恋の形ははっきりと固まって、幸子の柔らかく薄い心の殻を突き破ろうとするようだった。それを知った上で、卵を暖める親鳥のようにそっと寄り添って恋心を撫でさするまゆの振る舞いは、紗枝からすると悪趣味といってよかった。
そのようなことを京都人特有の酷く婉曲で上っ面ばかりは柔らかな言葉で修飾して、ほのぼのとした声音でさえずっていれば、その真意まではわかっていないだろう美穂は字面通りに受け取って何やら感心したように頷いた。
「紗枝ちゃんは私より恋がわかってるね」
「そう、やろか」
皮肉を皮肉、嫌味を嫌味と理解せず、ひたすら正直に受け取る美穂の素直さがまぶしくて、面映ゆくて、紗枝はなんだか妙なダメージを受けながら、それをごまかすようにお茶をすすった。
「そうだねえ。幸子ちゃんの中のまゆちゃんの椅子はとびっきり大きそう」
だからだろうか、美穂のそんな不思議な言葉に、深く咀嚼することもなく小首をかしげてしまった。
「あのね、まゆちゃんが言うにはね」
そうして告げられたまゆなりの恋というものの形を紗枝は拝聴し、なるほどと頷いた。いつもその人のことを思っている、何かにつけてその人のことを思う、というのは、確かに恋心と言ってよさそうだった。家族や友人などの近しい人よりもさらにずっとその気持ちが強いものならば、その気持ちの強さは単なる親愛とは言えないだろう。
例えば、紗枝ならこんな具合だろうか。こうしてお茶をすすってみると、お茶を共にする美穂が浮かんだ。買い物に出かけた時のことを思い出すと、自分の足のサイズの小ささに驚いた美穂の顔が浮かんだ。
おや、と小首をかしげながらも連想は続いた。続いてしまった。
ダンスのステップを踏むときに思い浮かぶのは美穂の軽やかな足取りだった。歌声を響かせれば聞こえるのは美穂の元気な声だった。ファンたちの声援を受けて高揚しながら思うのは美穂はんは見てくれてはるやろかということだった。
あれれ、と思い始めた時には手遅れだった。
貰い物のお菓子を手に取った時につい美穂の分はと思ってしまう自分。着物の柄を選ぶときに美穂が褒めてくれたものが浮かんでしまう自分。メールが来るたびに美穂からだろうかとチェックしてしまう自分。
次々に浮かんでくる美穂の顔に、ああ、これは、そういうことなのだろうかと思いついた。思いついてしまった。わずかに熱くなり始める顔を隠そうと湯飲みを持ち上げ、それさえ美穂とおそろいのものであることに気づいていよいよ紗枝はテーブルに突っ伏した。
「さ、紗枝ちゃん?」
「……なんでもあらしまへん」
なんでもなくはないだろう、と思っているだろうことは顔を上げなくてもわかったけれど、かといって紗枝にはこの顔を見せるような度胸はなかった。幸子が意地になっているだなどといったけれど、なるほどこれはしのぶのも道理だ。とてつもない羞恥の熱量が紗枝を身もだえさせた。
そんな紗枝の姿を困惑しつつ眺めながら、なお胸の裡にほころぶ紗枝の笑顔に動揺する美穂のことなどまるで気づきもしないまま。
◆◇◆◇◆
小日向美穂は考える。
小早川紗枝は考える。
これが、この気持ちが恋ならば。
なるほど、この世は恋に満ちている。