物語の世界と、現実の世界が、本当は別々のものだということに気づいたのはいつ頃だっただろうか。
物語に感銘を受けて現実の人生が変わることもあれば、現実での積み重ねが物語を形作っていくこともある。でも物語の世界に行くことはできないし、現実の世界が物語のように描かれていくこともない。
それは当然のことで、当たり前のことで、言うまでもないことで、そして物語を愛する子供には認めがたい、認めたくないことだった。
私がその事実に気づいたのは、割合早い内だったと思う。
テレビの向こう側には埃っぽい隙間があるだけだということを見てしまったときか。サンタクロースの正体が両親だということに気づいたときか。運動会でいくら練習してもいくら声援を受けても一位にはなれなかったときか。遠足の朝にてるてる坊主が雨に濡れて落ちたときか。
ううん。
多分、何かはっきりとしたきっかけがあったわけじゃないと思う。
本を読み終えて、ああ、楽しかったなと続刊を待ちわびる時のように。
はらはらとアニメを観終えて、来週の放送を心待ちにする時のように。
暗い映画館を出て、外の明るい照明に目をしぱしぱさせる時のように。
私は、いつの間にか物語を、ただ物語として終わらせてしまっていた。
小さなころは地続きだったファンタ―ジェンが、いまはどこまでも遠い遠い地平線の向こう側に行ってしまった。虹の彼方。歩いて渡ることのできない場所へ。
物語と現実を分けてしまったのは、他でもない私自身の成長というものでしかなかった。
そのことが、物語を愛する気持ちに陰りをもたらしたことはないと思う。
今も私は物語を愛している。
空想を遊ばせ、想像に遊び、車で移動中に外の景色に忍者を遊ばせる。
ただ、そこに立つことはないんだって、そのことをわかってしまったのだった。
なんて、ちょっと大人びたようなことを思ったりしちゃったりしたはずの私が、何がどうしてそうなったのか、物語みたいにステージの上でライトを浴びたりしてるわけだから、事実は小説より奇なり、ってやつなのかな。
降って湧いた現実は、私のささやかなセンチメンタリティを台風みたいに吹き飛ばして、物語の方を引き寄せては輝きだしたのだった。
スカウト、というものが存在するのは知っていた。
でもそれが、私に声をかけてくるなんて言うのは、ちょっと想像の外だった。想像してばっかりなのに。
学園祭の朗読劇を見て、とか。
表現力が素晴らしい、とか。
アイドルとしての素養が、とか。
ぼっち朗読会なんてクソ度胸、とか。
とか、とか、とか。
なんだか突然のことで、正直なところ、ちゃんと覚えていない。ただでさえ人見知りもしちゃうのに、大人の男の人だし、いきなり褒めてくるし、そういうのはもうちょっと、こう、ゆっくり目でお願いしたい。
とにかく、突然言われても心の準備ができてないし、アイドルなんてとてもじゃないけど畏れ多い、と思った。思ってた。
でも、プロデューサーさんは言った。
君がそんなに本を好きなら、君が本から得た楽しみを、喜びを、嬉しみを、みんなに伝えることができる、って。アイドルなら。アイドルになれたなら。君ならば。君だから。君こそが。
いま思うと、割と口八丁でうまく誘導された気もするけど、でも、決めたのは私だった。
私が本に魅了されたように、私が物語に憧れたように、みんなに本を、物語を好きになってほしい。
そして、もしかしたら、もしかして、私も、私だって、本の中のヒロインのようになれるかもしれない。なんて。夢見ることくらい、いいかな、って。
でも現実は、物語とは違う。
初めての環境。
初めて会う人々。
初めて見聞きする世界。
物語と現実は別のものだって、知ってた。わかってた。つもりだった。
でも現実は、私が知っているつもりだった世界よりも、もっとずっと広くて、複雑で、知らないことばかりだった。
空想の世界で遊び過ぎたって、想像の手足はちっとも疲れやしない。
でも現実の私は、少し走ればすぐにばててしまうような、お粗末なものだった。
歌えば声は嗄れてしまい、踊れば脚はもつれてしまう。
物語はすぐに覚えてしまうのに、歌詞や振り付けはなかなか頭に入ってこない。
想像する世界は、いつだって私をときめかせて、甘やかしてくれたけど、現実は厳しい。厳しすぎて、想像の世界に逃げそうになるけど、そう言うときに限って想像力はうまく働いてくれないから、疲れてしまう。
やっぱり私にアイドルなんて、無理なんじゃないかな。
プロデューサーさんを失望させちゃうかもしれない。そう思っても、ついそうやって弱音を吐いてしまった。だって、私だ。私だもの。七尾、百合子だ。夢を見ることはできても、夢の舞台に立つなんて、荷が勝ちすぎる。
物語の主人公になんか、なれっこない。
なんて泣きそうになってたはずなのに、気づけば私は好きな本の話で盛り上がってしまっていた。あの本が好き。この本も好き。このシリーズが好き。早く続きが読みたい。この主人公がこうで、この脇役がとてもいいキャラで。また口八丁にいいように持ち上げられてる気がする。
たっぷりとお話しした後、プロデューサーさんは言った。
──アイドルの物語は想像できるかな、って。
ライトアップされたステージの上で、のびのびと手足を伸ばして踊って、高らかに笑うように歌う、そんな楽しそうなアイドルの物語。
そのくらいは簡単だ。私くらいに妄想のベテランともなれば、観客の一人一人の顔だって想像できる。
プロデューサーさんは笑った。
──そのアイドルは頑張り屋さんだ。
うんうん、努力する姿はいいものね。
──何度も失敗して、何度も躓いて、それでも諦めない。
いい。すっごくいい。頑張ってほしい。
──悩んで、迷って、それでも、前を向いて。
ああ! その姿が目に浮かぶよう!
──それが君だ。
そう、私!
瞬間、想像の中のアイドルの顔は、私の笑顔になっていた。
ステージの上でライトを浴びる、その笑顔は私のものになった。
乗せられて、乗せられてしまって、え、って固まる私に、プロデューサーさんは悪戯っぽく笑った。
──このお話の主人公は君だ。七尾百合子。妄想のベテランなら、明日の自分位想像しないとね。
明日の、明日の、ずっと先の明日の、その延長線。手が届かないほど、遠く思える、未来。でもそれはもう、歩いて渡れない場所じゃなくなっていた。今はまだ見えない地平線の果てから、確かに風が吹いてくるのを、その時私は感じたのだから。
プロデューサーさんは風だった。
私の風だった。
時に暖かく、時に冷たく。
時に激しく、時に優しく。
私の背を押し、私の心を暖め、私の先を行き、私と共にいて、不安という暗雲を払ってくれる。
ダンスがうまくいかないときは、一緒に体の動かし方を悩んでくれた。
いつも想像の自分と現実の自分とのギャップに躓く私の姿を撮影して、動画を見ながら少しずつそれを埋めてくれた。現実に寄せるんじゃない。想像の自分になれるようにって。
うまく歌えないときは、いろんなアイドルの歌を聞かせてくれた。そして私の歌も。
本だけではわからなかった、歌うっていうことを、教えてくれた。録音した自分の声はなんだか別人のものみたいで、少しおかしかった。
ステージに立つのが不安で、怖くて、おじけづきそうになった時には、冗談を言って私を和ませてくれた。観客をプロデューサーだと思うんだ。みんなですか。そう、観客全員プロデューサー。きっと笑っちゃいます。笑い飛ばしちゃえ、君はアイドルなんだから。
そうだ。私は、アイドルなんだ。
今更みたいに呟いた私に、プロデューサーさんは笑った。自分が場違いみたいに思えたら、さも当然ですよって顔をするんだ、って。アイドルのふりしてステージに立ってたら、みんなアイドルだって思うよって。
あの日、私は、アイドルのふりをした七尾百合子だった。
でも、いまは違う。違うんだって胸を張って言える。もう、ふりなんかじゃないって。
ステージから降りて、汗だくで、頭の中真っ白で、ふらふらしてる私に、プロデューサーさんはタオルと一緒にあの言葉をくれた。お疲れ様、アイドル。お疲れ様、百合子。じゃあ、そろそろ普通の女の子のふりをしようかって。
それでやっと、呼吸ができた、気がする。あははって、自然と笑い声がこぼれて、息ができた。
物語はいつの間にか、現実になってた。
別々のものだって、そう思ってた。でも違った。違ったんだ。いつだって物語は、現実を生きる私たちの中から生まれてくるんだから。虹の彼方をうらやむ必要なんてない。虹の根元は、いつだって私の胸の中にあるんだから。
私自身が物語の世界の住人になっても、私の胸からあふれ出る言葉はなくならなかった。
本を開くことでしか得られなかった喜びは、本の外の世界にも溢れ出していた。物語の中でしか見られなかった夢と、現実でも出会えるんだって知った。
物語の主人公のように夢を見て、物語の主人公のように悩んで、物語の主人公のように活躍して。
いつかきっと、私も物語の主人公になるんだって、そう信じられた。
だって、そう。
そうなんだ。
私は、アイドルなのだから。
あの日、遠い遠い地平線の向こう側のように思えた光景を、いま、私はこの目で見ている。
輝く風が、私をどこまでも運んで行ってくれそうだった。
数えきれないほどの物語を読んできたけれど、この気持ちは、この胸の高鳴りは、誰のものでもない、どんな物語にだって載っていない、私の、私だけのときめき。
このお話の続きは、これから。
そう、すべてはこれからのこと。
私たちの物語は、これからはじまっていくのだった。
了
blown /blóun/ 動詞 blow の過去分詞. 形容詞 ふくれた; 疲れた; 壊れた; 息切れした; ハエが卵を産みつけた. 《古語》 開花する.