プロ棋士の桐山くんは伊地知姉妹に拾われました 作:あまざらし
無数の水滴が全身を刺激する。
「まだ大丈夫、目が覚めてきた。ただ……」
酷い吐き気だ。
冷水のシャワー。
どうにか鈍った思考を回復させたかったボクの苦し紛れな行動だった。
ああ、全身が鉛のように重い。
体の奥底から”休め”と警告されているみたいだ。
でも時間が惜しい。ボクはそれを無視する。
早々と着替えを済ませ急いで居間に戻ると、夜を告げる西日がベランダの窓から射しこむ。PCの前に戻り、ボクはディスプレイに映し出された棋譜を切り変えて、手を進めては思考する。
ふっと気を緩めると季節外れの肌寒さがボクを襲う。外は既に夜になっていた。
研究すると頭が熱くなるからと、空調の温度を低めに設定していたからだろうか。
どこか生きた心地がしなかった。
まるで光の届かない冷たい海の底にいるようで。
ああ、いくら深く深く潜っても”答え”が見つからない。
息苦しさの中で一人、海の奥底で藻掻くような、そんな錯覚。
もう島田八段との対局は明後日なのに……。
その事実に心臓が激しく波打つ。
このままだと今日も無駄に時間が過ぎてしまう。全然集中できていない。
そう、ボクは今、焦っていて……。
そして何より”緊張”しているんだ。
初めて対局した宗谷名人との記念対局でもこんなに緊張なんてしなかったのに。
今思えば、あの時は抑えきれない高揚感が勝っていたんだ。
でも今は違う。
ボクはこの一週間、敗北した時のことばかり考えていた。
『絶対に勝たないといけないのに』
時間は惜しい。でも風邪だけは避けないと。
仕方なしにボクは立ち上がる選択をした。
◇ ◇ ◇
夏休みが始まり7月の下旬。
ボクは虹夏さん達と会うことを暫く控え、将棋の研究に没頭していて。
初めは島田八段の過去の棋譜を掻き集めて。どんなタイプなのか分析して。いつも通りのボクなりの研究のルーチンだった。
今思うと夏休みでたっぷりと時間があったことが逆効果だったのかもしれない。
島田八段が勝利した中から気になった棋譜を検討していた時だった。
対局相手の敗着を見直していたんだ。仮にボクが対局相手ならどう指すのか。最善手を考える。別段オカシイことをしているつもりはなかった。
それなのに。
これは、いったいどの段階で劣勢になっていたんだろう。
形勢が悪くなったと思ったところから、ボクは次の手を検討しては一手一手戻していく。
しかし戻せども戻せども、島田八段への対策法は見えてこない。
あの人は一体どこから……どこからこの局面を思い描いていたんだろう。
そしてボクは思ってしまったんだ。
果たして……ボクは勝てるのだろうか?
『この人に』
今までだってA級棋士と対局して、勝利した経験もそれなりにあった。
でも、それは謙遜ではなく勢いで勝てていただけで。
だからこうして長い時間を掛けて研究すると、嫌でも現実に直面してしまう。
純粋な力量の差に。
島田八段の一手一手の重みに。気の遠くなるような時間を費やした研究量に。
A級棋士たちの凄みに。
見えないゴールと、対局まで数週間という余りにも短い時間。
それからはもうドツボにハマったように焦ってしまって。
嫌な未来が頭からこびりついて離れなかった。
──”このままだとボクは負ける”
ボクは空調の温度を調整して、息苦しさで深くため息をつく。
PCのある机に戻り座ろうと椅子に手をやると、その奥にある引き出しに思わず目が向く。
星歌さんから受け取った”結束バンドのチケット5枚”
あれからまだ誰にも渡せていない。
今そのチケットは上から2段目の引き出しに大切に保管してある。
この一週間、鍵が掛かったようにボクはその引き出しを開けることが出来なかった。
二海堂にあれだけ啖呵を切ったのに。
この前ロインでの誘いを断って虹夏さん達とも会わずに研究に取り組んだのに。
でもその結果、打ちひしがれているのが今のボクで。
こんな甘い見通しで棋士として、やっていけるのだろうか。
数日前にそんな己の情けなさから無意識に開いてしまった転職サイト。
でも高校生は希望する募集要項から外れているものばかりだった。
それに……分かっているんだ。
現実逃避してもボクにはこの道しか無い。
他の生き方なんて出来ない。
一度決めた棋士の道から逃げることなど許されないのだ。
不意に目から涙がこぼれ、眼鏡を外し手で拭う。
結局、深夜になり今日も有用な研究成果は生まれず。
身体の悲痛な訴えを渋々受け入れて、ボクは仮眠を取る。
でもこのところ体を横にしても頭は休むことを拒むのだ。
金縛りにあったように体は動かないのに、脳内は盤面を描きひたすら駒を動かす。
何か対策が進むわけではない。でも少しでも足掻くようにと。
そして夜が明け、無為な時間をあざ笑うように今日も寝不足の一日が始まる。
眠れなかったこと、研究が進まなかったこと。
小さな不安が度重なり、緊張が止まらない負の連鎖に陥る。
そう、今のボクのコンディションは最悪だった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
ボクはコンビニに買い出しに向かっていた。
引きこもっていたせいでネットで定期注文していた水がいつもより早く底をついたから。
ここ数日は気が滅入るような灼熱の暑さで。まだ外を歩いて数分なのに、汗が止まりそうになかった。
たった数分のコンビニですら辿り着けたことが奇跡に思える。
やっぱり今日は休まないと。
でも……きっと今日も眠れぬ夜を過ごすのだろう。
今も休むことを知らない脳内に、そんな嫌な予感が高まる。
ボクはもはや慣れつつあるこの習慣に諦めを感じつつ、コンビニのドリンクコーナーに向かっていた。
そんな時だ。
すれ違いざま”虹夏さん”を見た気がしたのだ。
最初はもう疲れてついに幻覚でも見たのかと。
そう思った。
でも、
「れ、零くんがゾンビみたいになってる!」
忘れられるはずもない、いつもの彼女のトーンで。
声はまるで最大にボリュームを上げたスピーカーから聞こえたように鮮明で。
その鮮やかな金髪の少女のことを間違えるはずもなかった。
でも、久しぶりに会った虹夏さんは随分と慌てた素振りで。
次々に繰り出される彼女の質問にボクは反射的に答えつつ、次第に自分でも何を言っているのか分からなくなって……。
そしてボクはされるがままに虹夏さんに連行されたのだった。
「い、いただきます……」
「「いただきます」」
島田さんとの再戦なんて明日に控えていないかのように温かみのある空間。
ボクは二週間ぶりに伊地知家で少し早い夕食をいただいていた。
「零くんその様子だと胃も弱ってるよね……」
「あ、いえ、その本当にすみません」
虹夏さんが消化に良い食事も用意してくれて。ボクはそんな感じでただひたすら謝っていた気がする。
そういえば、ちゃんとした食事っていつ以来だっけ?
もう記憶が曖昧で。
その日の虹夏さんや星歌さんと交わした言葉も正直、あまり覚えていなくて。
でも、きっと呆れた表情だったんだろうな。
「食器はいいから! 零くんは横になってて!」
そんな虹夏さんの一言に案内されるまま、ボクは居間の広いスペースに手早く敷かれた布団に横になって。
「おやすみ桐山」
星歌さんの柔らかな言葉が聞こえると、ゆっくりと居間の光が暗く落された。
ああ、そういえば酔っ払ってた時もボク、ここに寝ていたんだ。
目を瞑ると、夕刻から降り出した雨の音が遠のき、そしてカチャカチャっと食器を洗う心地よい音も次第に聞こえなくなって。
迷惑をかけて……ごめんなさい。
虹夏さん、星歌さん。
あれ? この香りどこかで。
微かに虫除けスプレーの匂いがする。
そうあの時の……。
そしてボクは、久々に深い深い眠りについたのだった。
◇ ◇ ◇
熱を伴った陽の光で意識を取り戻す。
外が明るい。
(もう朝?)
少し焦ったボクは慌てて時間を確認するとまだ6時前。まだ手合いまでは余裕がありそうで一安心する。
安堵すると鼻歌のような歌声が台所から聞こえた。
虹夏さんの声だ。
朝食の仕度かな?
台所に向かうと、少し暑そうな後ろ姿の彼女は集中しているからなのかボクに気付いていないみたいだ。
あ、そうだ。
昨日のこと謝らないと。
「虹夏さんおはようございます」
「えっ? あ、あはは。おはよー、ゴメンゴメン起こしちゃったね」
「いえ全然。こちらこそ昨日はすみません。その手伝います……今のはライブの曲ですか?」
新曲は虹夏さんが歌うのかな?
もしかしたら聞いたら駄目だったのかも。
「いやいや違うよー好きな曲なんだ。だから口ずさんじゃった。えへへ……そ、その下手だったでしょ」
「いえそんな……キレイな声でした」
どちらかと言うと可愛らしい歌声だったけれど。
でも、本当に綺麗でもあったから。
強く刻んでおこう 惨めな夜もバカ笑いも
あのね、その後が言えなかった日も
鳴り止まなくてなにが悪い 青春でなにが悪い
「良い歌詞ですね」
何処か投げやりな歌詞。
でも後先考えない自暴自棄にも思えるその歌に、今のボクは少し救われた気がしたから。
「おー同士だね! じゃあ後で曲、教えちゃうねっ」
久々に見た虹夏さんの晴れやかな表情が、温かく余韻みたいに残った。
◇ ◇ ◇
その後は虹夏さんはライブに向けて練習へ、ボクは対局へ。それぞれの予定でお互いバタバタしてしまって。
星歌さんには謝る時間も無く、ボクは自宅に戻って身支度をして将棋会館へ向かったんだ。今日は昨日までは止まらなかった脳内のシミュレートもピタッと止んで。
今思うと不思議な感覚だった。
会館に到着してからも、夢を見ているかのようにフワフワとしていて。
対局前に島田さんとも軽い会話をしていたはずなんだけど。
緊張していたのだろうか。その時の記憶は曖昧だった。
開始10分前。
先後だけは間違えない。
それだけに集中。
呪文のようにそう唱えていたら、予定時刻はあっけなく過ぎて始まった対局。
数ヶ月ぶりのリベンジとなる対局は序盤からとにかくチグハグだった。
想定した盤面にまるでならない。
予想外の手ばかり指される。
そしてある程度進んで冷静になったところで、島田さんの意図がようやく伝わった。
多分これ、島田さんはボクの得意戦型で向かい受けようとしてたんだ。
一方のボクは、島田さんの得意な型で合わせようとして。
だからチグハグで。お互いが相手の得意な型で迎え撃とうとしていて。
なんでこんなことになってるんだろう?
不思議だった。
でも考えてみたらここ数週間、ボクは島田さんの研究ばっかりしていたから。対島田戦の幻想に引っ張られ過ぎてしまったのかもしれない。
だからこの一局は噛み合わず赤信号で進まない車のような。
そんな一局だった。
初めて島田さんが長考したタイミング。ボクはこっそり正面の島田さん観察する。
気だるそうにお茶を一口飲んでいた彼は、今はどんな気持ちなのだろうか。
少し渋い表情で。でも少し気恥ずかしそうに見えたのはボクの勘違いだろうか。
多分、勘違いだと思う。
でも……。
島田さん”も”ボクを相当研究していたことは伝わってきたから。
トップ棋士の島田さんが。
少し気恥ずかしさを伴いながらボクもお茶を一口含んだ。
(研究、無駄になってしまってごめんなさい)
そう心の中で謝って。
対局後、神宮寺会長が今日の対局の解説をしていた記事を閲覧すると、
「序盤はあれだね。お互い両思いなのにすれ違っている状態だねー いやぁ焼けるねえ」とコメントしていて。
会長のニヤケ顔が目に浮かんだけれど、その表現が妙にシックリしてしまって文句も言えなかった。
対局はその後、あまり前例のない手が続き混迷を極めたまま終盤に進んだ。
振り返れば形勢はシーソーゲームのようにお互いに傾き合う危うい展開だった思う。そんな中、残り時間も少なくなり島田さんが最後に逃げ道を間違えて、そこをボクがなんとか逃さず153手で相手が投了。
ボクが勝利し、獅子王戦トーナメント決勝に駒を進めた。
対局直後の島田さんの言葉は印象的だった。
「桐山、なんか”また”お互い不完全燃焼だな」
「はい」と頷いて、間を置いてボクは目線を少し上げる。
盤を見つめる視線は険しく、どこか悔しさを滲ませている正面の島田さん。
でもすぐ考えがまとまったのか、彼の視線は緩み、力を抜いてこちらに目を向ける。
僕たちの目線が一瞬合わさり、島田さんは思い出したように話しかけた。
「そういえば今日初めて桐山の顔をちゃんと見た気がするな。次も、楽しみにしてる」
複雑な表情の中に見せる確かな島田さんの優しい笑みに、ボクはあれだけ渇望していた勝利の喜びよりも先に、何故かホッとしてしまったんだ。
「是非また。ボクも楽しみです」
こうして、あれだけ迎えるのが苦痛だった今日はあっという間に終わった。
その後、8月に入ってすぐ獅子王戦トーナメント決勝に進んだボクは後藤九段との対局を迎え。
三番勝負の初戦。
あっけなく初戦を落とし、ボクは黒星スタートとなった。
前半描写、少し多忙だった時に、今の心境もしかして小説に使えるかも! とハイになりちょびっと誇張しつつ書き出したはいいものの……すぐ力尽きて気力が出なくなり数ヶ月後やっと続きが書けました。