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奈曽木刑事は、過去に何度も犯罪被害者の遺体と遺族の再会に立ち会ってきた。
あまりにも立ち会いすぎて、飽きてきたといってもいい。
遺族にとっては断腸の思いである遺体との対面でも、彼にとっては数えきれないルーティンワークの一回でしかないのだから当然だ。
人によっては激しい怒りを表すこともあるが、だいたいは虚脱感に包まれ、うなだれ、立ち尽くすだけ。
奈曽木には、ほぼ例外なくそうした人々の身体から発する白い霧状の煙が見える。
大切なものを失くしたときに残る滲みのようなものであろうか。
程度の差こそあれ、家族との別れの際には、この白煙がまとわりつくものだった。
違う。
この男は違う。
たった今、係のものに連れてこられて、家族の遺体に向き合うことになったこの男が放つ煙は、公安捜査部の随一の腕利きとまで奈曽木が正視できぬほどの妖気を含んでいた。
黒いウールのセーターとコート。
どこにでも売っているような平凡な格好の下にある、しなやかな肉体と白すぎる皮膚から噴き出しているものは白い煙などではなかった。
黒すぎる瘴気であった。
もしも手で触れてみたら、そこを腐り爛らせずにはいられない、毒そのもの。
すでに呪いに近い。
男は顔をあげ、遺体にかかっていた毛布をめくっていた係員を見つめた。
信じ難いことに係員の中年男は顔を赤らめてから、再び毛布を遺体にかけ、もとの状態に戻した。
手が震えているのは男の美貌に蕩けさせられた戸惑いであろう。
柳のような眉に切れ長の眼。
外人顔負けのすっきりとした鼻梁と小鼻、血の気の乏しい薄めの唇が開くと、米粒のように白い歯が光る。
男装の美女としか判断し難い美貌であった。
身体つきも男としては妙に細く薄く、その上どこかぬらぬらとした軟体動物を思わす雰囲気があった。
爆発テロの被害者である遺体は酷い惨状だった。
妻の方はまだましな方で、娘に至っては物体としか呼べないぐらいにバラバラにされていて、まともな判断をしたら遺族には決して見せられない有様だ。
なのに対面させたのは、男の強い要請によるものだ。
なぜ、そんなに妻子の抜け殻りも酷い物体に会いたがったのかはわからない。
わかってはいけない気がした。
それに、奈曽木はどうして遺族の傍へよってやらないのだ。
いつもならば、どんなに飽き飽きしていてもお悔やみの言葉を寄せて、そっと寄り添ってやるぐらいの配慮はしているじゃないか。
恐ろしかったのだ。
死体の傍にいる遺族の男の傍に近寄ることが。
男の負の感情に巻き込まれることが。
何十年もの刑事生活ではじめての経験であった。
美しさの奥にやや生活感のような翳が滲んでいなければ、もっと酷く取り乱してしまっていたかもしれない。
「どう―――」
声をかける前に遮られた。
「妻と娘です」
皮膚に似た青白い声だった。
哀しみも怒りも空虚ささえ感じられない。
誰も立ち入れない廃墟から聞こえる声のようであった。
「お気の毒です。事件の詳しい話はもう報道されていてご承知だとは思いますが、形式上、いくつか質問をさせていただいてよろしいですか」
「妻も娘も初めての海外旅行で喜んでました。僕がパスポートを申請しても発行されない立場ですから、ちょっとした海外旅行にもつれていってやれなかったせいでしょう」
奈曽木の胃の腑がぎゅっとすぼまる。
男の事情については誰よりも彼の方が詳しい。
「もし、僕がパスポートをもっていたら、彼女たちについていけて、きっと守ってやれたことでしょう」
「そ、そうかもしれませんね」
逃げられない。
唇がいやに粘ついていた。
「妻と娘をバラバラにした犯人は、イスラム原理主義の過激派ということでよろしい?」
「……FBIの報告によれば、そうです」
「噂ではその過激派と同じグループが日本にもいるそうですね。捜査はされているのですか?」
事件については散々報道されている。
男の妻子のほかに、日本人も相当数、巻き込まれていた。
マジソンスクウェアガーデンは仕掛けられた爆弾と戦闘用ヘリコプターによる攻撃で血の海になった。その中にあんたの家族もいた。
楽しい楽しい初海外旅行は血の惨劇で幕を閉じたんだ。
そんなことは、日本にいたって収集できる情報だろ。
あんた、妻子がテロに巻き込まれて死んだというのに、哀しんでいないんじゃねえのか。
「しています。ただ、遺族の方にも捜査の進捗は教えられない規則でして」
奈曽木の答えに男はうなずいた。
合図をして遺体安置室を二人で出る。
これ以上、死者の前でこの男と話を続けていたくなかった。
一緒にいた係員など死にそうなぐらいに青ざめていた。
外に出て、階段を上ると太陽の光が差し込んでいる。
ようやくほっとする場所に出れたような気がした。
「お茶でも飲みますか」
「いりません。普通の食べ物は口に合わないもので」
「普通、とは?」
「僕がまともに食べられるのは妻の手料理だけなのです。旅行に行く前、彼女は一週間分の食事を僕のために作り置きしていってくれました。それも、三日ほど前になくなりました」
「それ以来、お食事はどうされているのです?」
「食べていません。もともと、食事はしない方なのです」
確かに、普段から何を常食にしているかわからないような男だ。
妻の手料理しか食べないという言葉に言い知れぬ寂しさを感じたが、そもそもこの男に似合うものといえば、おそらくそれは……
新鮮な血液だけだろう。
「えっと……瓜生義龍さん」
何度も口にしてきた名前だが、本人に問いかけるのは初めてだ。
「あなた方のほうがご存じでしょう。僕は瓜生義龍。年齢は二八。神戸市で花屋を経営しています。妻は、雪絵。同い年です。旧姓は溝口。娘はリエ―――十歳です」
娘の名前と年齢を告げるときにだけ、わずかに人間の父親であることをうかがわせた。
この男でも、愛娘と戯れて遊んであげたこともあるのだろう。
神戸で経営している花屋についての報告は常に受けている。
堅実で、それなりに繁盛していた。
そろそろ監視を打ち切るべきだという意見も兵庫県警の公安部でもでていたぐらい、平凡な生活であったという。
だが、その平穏は一週間前に最悪の形で終焉を迎えた。
「妻と娘はすぐに死ねたのですか?」
嫌な質問だった。
しかも、この質問がすべての引き金を引いてしまう気がしてならなかった。
本来ならば起こって欲しくない。背筋を凍らす将来の惨劇の。
「娘さんは最初の爆弾の被害を受けた。そのことに気が付いた奥さんはすぐに娘さんを探そうとして、第二の爆弾によって吹き飛ばされた。それでも、まだ彼女は生きていた。這いずり回って、娘さんを探していた形跡があった。この時点で、もしかしたら彼女は重傷を負っていたとしても助かっていたかもしれない。だが、そのとき、マジソンスクウェアガーデンの上空に、テロリストたちの戦闘用ヘリが防衛網の間隙をついて侵入し、逃げ惑う人々を七面鳥のように備え付けのチェーンガンで撃ちまくった。そのとき、流れ弾の一つが奥さんの足に当たり、辛うじて続いていた彼女の生命を終わらせた。そういう流れのようです」
「つまり、妻は苦しみぬいて死んだわけですね」
「―――断言はできませんが、たぶん」
こらえきれなかった。
これ以上、男―――瓜生義龍の質問に答えることは、とてつもない禍根の原因にしかならない。
「最後に一つ。報道されていない、犯人の組織の名をおしえてください」
「バビロン解放戦線。さきほど、質問されましたが、日本に関係者はいません」
義龍はうなずいた。
が、奈曽木の発言を信じているようにはみえなかった。
奈曽木自身、嘘をついたことを見破られたと感じた。
「わかりました」
すべての愛する家族を失い悲嘆に暮れているたった一人残れた男は振り向いた。
もう用はないとでもいうように。
遺体安置室にある家族だったものの欠片にも興味はないとでもいうかのごとく。
「待ってください」
奈曽木は思わず制止した。
彼をこのまま行かせてはならなかった。
これから行われる地獄をとめることができるのは、もしかしたら今の彼だけかもしれなかった。
今こそ刑事として、全力を尽くさねばならない。
力強く断言した。
「テロリストは我々とアメリカがなんとしてでも殲滅します。奥さんや娘さんのような犠牲は二度と出させません」
それがすべてで、瓜生義龍は二度と振り返らなかった。
ドアが閉まる。
妻と息子をテロの脅威によって失った、美貌の花屋の主人が立ち去っていくのを奈曽木は為す術もなく見送るほかなかった。
これから世界に血の雨が降る。
あのとき、瓜生義龍がしたパスポートの申請を受理しておけばこんなことにはならなかった、と奈曽木ははじめて自分たちの判断を呪った。
菊地秀行先生の傑作「魔界行」の仇役である瓜生義龍が、本編とは逆の立ち位置で主役になっていたらという妄想を少しだけ形にしてみました。
続きを書く予定はないのですが、同好の士がいたらちょっと楽しんでいただけると嬉しいです。