透き通るような霞龍 作:右側に居るタイプのゴア・マガラ
透き通るような霞龍
そこに居ないものに価値を見る。いたはずのものに思いを馳せる。消えてしまったもの、いずれ消えゆくものは、それが儚いという前提にあって尚、脱却することのできない現実、あるいは記録としてそこに在る。
この世界には、見ることのできないモノの方が多い。空気、光、声、そして選択。
キヴォトス────青く、一つの歪みすらない空、多様な命が行き交う雑多な街との間に、巨大な”光輪”が横たわる巨大都市。
この街の支配者は、子供だった。この街の空のように無垢だと言えば聞こえはいいが、何ゆえ長にわざわざ老がつくのかということを考えれば、それがいびつであることについて論を俟たない。
その組織が持つ権力を誇示するかの如く聳え立つ塔、近代的な骨組みによって強固に積み上げられたビルディングのある階に、連邦生徒会の最高権力者足る子供、七神リンという生徒は居た。
最も、それは暫定的なものにすぎず、その上不安定で、さらに本人としても不本意なものだった、という但し書きまでがつく。連邦生徒会とは、その大仰な名前、今までの実績に反して、最早風前の灯も良いとこな組織でもあったのだ。
兎にも角にも、このままではいけない。このままではいけないということはわかったのなら、何もしないという訳にもいかない。
そんな危機的状況を切り抜けるため、彼女らはある人材を呼び寄せていた。いたのだが……
「……」
沈黙が続く。部屋の時計を一度見て、次に手元にあるタブレットの時計を見た。そのいずれにもずれはなく、実際の時間と乖離しているわけでもなかった。空はまだ晴天ではあるが、しかし約束の時間とは大きく離れている。それも後ろの方向にだ。
最初にいら立ちが心の中に訪れ、その次に焦燥が過ぎる。最後には、心配が充満した。というのも、今回呼び出した”人材”というのは、この過酷極まりない────とは、街の誰も感じていないが────キヴォトスの外から来た、異邦人であるからだ。キヴォトスの外では、銃弾が簡単には飛ばないと聞く。それは別に、彼らが平和主義者であるから、という話ではなく、ただ単純に、銃弾に耐えうる身体構造をしていないということであった。
その心配をよそに、待てども待てども待ち人は来ず。エレベーターはこの階を過ぎてどこかに昇り、また帰りに、この階を無視して降りていく。
空はどこまでも青く透き通り、太陽はいつも通り白く輝き、流れる雲はゆらゆら揺れていて────
「揺れている……?」
揺れていたのだ。ふわり、ふわりと。まるでフィルムをかぶせたかのように、よく見ていないとわからない程度に、背景の空との境界線が揺らいでいた。
このような暇な時間であれば、気にも留めなかったし、気づきもしなかっただろうし、仮に気付いたとしても、それを確かめてみようなどとは思い至らなかっただろう。
だが、この巡り合わせが────奇跡的なほどに間が良い、あるいは間が悪いのかわからないそれが────巨大な怪異の先触れであったのだ。
席を立ち、その揺らぐ雲へと近づいていく。それに従って、揺らぎは大きくなっていく。窓の照り返しが姿を映し出し、長い黒髪と瞳に覆いかぶさる眼鏡が浮かび上がる。
揺らぎは収まらない。ガラスに映る自分の姿すら揺らいでいて、その不思議は今にもどこかへと行ってしまいそうなほどに微かだった。空の向こう側は見えているのに、その間に居る見えていない何かがどうしても気になって仕方がない。
思わず手を伸ばす。自分がこれほどに理由のない、おかしな好奇心を持つ子供だったとは。彼女がそう思った瞬間のことだった。
伸ばされきった腕、そして手の平は、窓に阻まれ微かな振動を起こす。
その次の瞬間、揺らぎは消え、薄く湿った皮を引きずるような音が窓から手に、手から腕に、骨を伝い脳にたどり着いて、鼓膜を経由したそれと合わせて感覚を刺激する。その寸前には、既に脊髄が伸ばし切った腕をひっこめていた。
本来光は音よりも早い筈だが、今回に限ってはそうではなかったらしい。
消えた揺らぎはすぐさま変わり、蒼かった空はちかりちかりと瞬いく。リンは消えては現れ、現れては消える異常に、大昔の映画のフィルムが上から下に流れていく様子を想起し、圧倒されていた。
戦闘態勢を取り、直ぐ他の部署に警告を────
そうしている間にも、徐々に、少しずつではあるが、”それ”は正体を隠さなくなってくる。
ちらりと見えたそれは、白かった。いいや、暗く落ち着いた紫色で縁取られている。左右対称の姿をしていて、まるでトカゲのような四肢を持つ。それでいて、どちらが頭なのかはわからない。
羽根すらも備えられている。ぎょろりと何かが動いた。それは目で、玉のように丸く貼り出たそれが一心にこちらを覗き見たから、漸くどちらが頭であるかを理解することが出来たのだ。
遂に露になったそれは、傷だらけのドラゴン────というにはあまりにも奇怪で、生物的だった。身体中に焼きただれたかのような痕が残り、血が表皮に、炎熱で固まった痛々しい姿をしている。
キヴォトスには様々な種族が暮らしていて、いずれにも目の回るような特徴が備えられているが、しかしここまで大きく、異様な存在は、彼女の記憶の中にはなかった。
つまり
「先生?」
それが、外からきた存在なのだと結論付けるのに足る理由となるには十分だった。
窓からそれを搬入する作業は酷く大変だったが、何はともあれ呼び出した”人材”が無事にたどり着けたことに彼女は安堵する。先ほどから一言も発さず椅子に────は座れなかったので、床に大人しくへたり込んでいるドラゴン、あるいはトカゲ相手に、疲れているのだろうと判断して説明を始めた。それはときたましっぽを叩きつけて部屋の換気を手伝ってくれるのみで、それ以外に何もしない。無論これは皮肉であり、埃が舞う様に毎度顔をしかめる羽目になった。
実際その目つきからは思考が読み取れず、説明の手ごたえを得られないのが微妙に心労となるが、仕事は仕事であるので話を進めざるをえない。見た目で判断していては何も変わらないからだ。キヴォトスでは特にそうだった。
そして壁打ちをしばらく進めて、漸く一区切りついたその時のこと。エレベーターがついにこの階で止まったのだ。このドラゴンの説明をどうしようか、などと悩んでいる内に、足音はどんどん近づいてくる。まあとにもかくにも、自分の顔見知りであるのならば誰も文句を言わないだろうと考えたリンは────その人物が大人であることを確認して、目の前の”ソレ”が呼び出した人材ではないことに気づく。
その瞬間だけは、”ソレ”と同じくらいに、リンの眼球が見開かれていた。