その日、トレセン学園中等部のグラウンドは異様な熱気に包まれていた。新一年生の模擬選抜レースが行われるからだ。
毎年春に行われる風物詩であり、一年生の数だけ何度か開かれ、
ベテラン、新人問わずトレーナーが集まり、レースの成り行きを注目している。彼らからすれば、このレースを通じて金の卵を発掘したい。一方のウマ娘は担当トレーナーが着かなければ、レースにも出場出来ない。ここで多くのウマ娘とトレーナーが出会い、新しい物語が始まっていく。いわば出会いの場所だった。
しかし今回の選抜模擬レースは熱気が違った。
トレセン学園最強のチーム・リギルを率いる東条ハナが観戦に来ている。それだけで場は異様な緊張感に包まれているのだ。選抜模擬レースは生徒たちの中からランダムに選ばれた生徒が走る。距離は生徒本人が自分が出たい長さを選べるが、誰と走れるかは完全に運任せであった。そんな選抜模擬レースで、当時新一年生の中でも頭一つ抜けていたウオッカとダイワスカーレットが一緒に走るという事は、どこか運命的なモノを感じずにはいられない。現に東条ハナも、この二人を自らの眼で見定めるために足を運んでいた。
距離は中距離。芝、2000m。
レースはウオッカとダイワスカーレットの激しい鍔迫り合いの末、ウオッカの勝利に終わった。
その鬼気迫るレースにギャラリーは喝采を送り、東条ハナはいの一番にウオッカをスカウトした。
だが、ウオッカは断った。
『リギルは正道、お利口さんチーム。興が乗らない』
彼女らしいロックな断り文句だった。
その隙をスピカのトレーナーが掻っ攫った。破天荒なゴールドシップを擁するスピカはウオッカの琴線に触れたらしく、彼女はスピカに加入する。
ならばダイワスカーレットと、東条女史はスカウトするも彼女は断った。
この敗北は彼女に大きな影を落とした。以来、ダイワスカーレットはウオッカの逆張りを行なうことが多くなり、自身のチーム選びもそれが影響した。
スピカは型破りのチームと言っても、リギル同様歴史ある名門であることには変わらない。
ウォッカが名門を選んだなら、自分は新興チームがいいとスカーレットはリギルやシリウスを袖にしたのだ。
以来、ダイワスカーレットは孤独な己の道を突き進む。
彼女が最終的に腰を落ち着けたのは、タマモクロスやオグリキャップを擁するチーム・アンタレスだった。
そしてこのレースがウオッカとダイワスカーレットの長い長い戦いの歴史、その始まりといってよかった。
後のトゥインクルシリーズとチームレースに、大きく影響を与えたこのレース。しかし、一人最後まで走りきれなかったウマ娘が一人だけいた。
彼女は元来、短距離·マイル適性を持つスプリンター向きのウマ娘であり、そもそも今回の距離は無謀な挑戦だった。
だが彼女には夢があった。
日本ダービーを走る。そんなウマ娘なら一度は誰もが見る夢が。だがこの日以降、彼女は中距離路線に見切りをつけて、スプリンター路線に進んでいく。
周りが熱狂に包まれる中、彼女は一人ターフ去っていった。
名前をハニーマイティといった。
この時の選抜模擬レースは多くのトレーナーも観戦に訪れたが、姿を表わさなかったトレーナーもいた。
その日、バルカンのトレーナーは教え子達を連れて大井トレセンの近くにある蕎麦屋に出向いていた。
アーケード街の片隅にある昔ながらの立ち食い蕎麦屋で、奥に入ると小さいテーブル席がある。
そこに座っているのはトレーナーとイナリワン。シンコウウインディとトーセンジョーダン。
そして上座には最近、チームに加入したスイープトウショウが座っていた。
「ここは俺とイナリが初めて出会った時に来た思い出の場所だ。以来、祝い事はここでするようにしている」
そう言うトレーナーの前には山盛りの天ぷらと蕎麦。そしてビールがなみなみに注がれた大ジョッキが置いてあった。
彼は普通のウマ娘並によく食べた。チームバルカンの中でイナリの次に食べたのは、トレーナーだと言われている。
「ちょ、昼からお酒? 大丈夫なの?」
「てやんでぃ、ジョーダン! 今日はスイープの歓迎会だ! ハレの日に無粋なことは言うめぇ!」
真っ昼間から飲酒しようとするトレーナーにジョーダンが苦言を呈したが、イナリがそれを切って捨てた。
こういう所で、トレーナーとイナリは何だかんだ波長があっていたのだ。
「スイープ、わさびいるか? ウインディちゃんのを分けてあげてもいいのだ」
「い、いらないだけじゃないですか……」
普段は堂々としているスイープも、今日はいささか緊張気味だ。
この時のバルカンはまだチームとして最低限の人数すら揃っておらず、四人しか所属するウマ娘はいなかった。
それも各ウマ娘は実力はあれどどこかしら問題を抱えており、他のトレーナーが持て余してバルカンのトレーナーが引き取ったというのが実情だったのである。
いわばトレセンのはみ出しものが集まったようなチームであり、新入生などハナから眼中に無かったのだ。
このチームに新一年生のハニーマイティが加わるのは、誰も予想できなかった事であり、彼女の参加でバルカンは本当のチームとして機能していく事になる。
だがこの頃は、まだまだチームとして最低限の体裁すら無い集団であったのだ。
良くも悪くもバルカンがチームとして機能していくのは、マイティ参加後である。
だがこの頃は、バルカンというチームが存在すること自体、マイティは知らなかったのである。