『ペルソナ4短編集』   作:OKAMEPON

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自宅番長の主直


『怪物は涙を流さない』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 自分の理想に現実的な『形』が伴ったのなら、それはきっとこの人の姿になるのだろうと。

 そう思ってしまう程に、鳴上悠と言う存在は僕の理想そのままの人であった。

 幾つもの物語の中で魅せられてきたハードボイルドな格好良い探偵そのままで。

 だからこそ反発を覚えていた事はあったが、しかし自分が押し潰し続けていた心に向き合う事になり、己が閉じ籠っていた殻を叩き割られた後では。彼に感じるものは尊敬と憧れの気持ちばかりで。

 人付き合いが元々苦手で、共に過ごしていた所で誰かを楽しませる事も出来ない僕の個人的な厄介事にまで、彼はそのお人好し過ぎるまでの優しさで関わってくれて。

 一人は寂しいクセに自分からは中々誰かの傍には行けない僕の、そんな面倒で手間ばかり掛けさせてしまうそれすら彼は容易く乗り越えて僕の傍に居てくれた。

 純粋に謎解きが楽しかった幼いあの頃に戻った様で、でも昔とは違いそれを分かち合える誰かが居る幸せを、彼は僕に沢山教えてくれた。

 そして、それだけではなくて。

 菜々子ちゃんが拐われあの世界に連れ込まれ危機に晒されていると言う、否応なしに焦燥感が募る状況でも彼は決して取り乱したりはせず。寧ろ誰よりも一番冷静に行動し、浮き足立ちかけていた僕たちを落ち着かせながら最善を尽くして最速とも言える早さで助け出した。あれよりも早く助け出す事は誰にも出来なかっただろうと確信を持って言える。

 取り戻した菜々子ちゃんが目を覚ますまでの期間も彼は甲斐甲斐しいまでにその様子を見守るのと同時に、本来なら彼自身の事で手一杯であっただろうに、僕の個人的な事情にまで再び付き合ってくれていた。

 探偵であるにも拘わらず菜々子ちゃんの誘拐を阻止出来ず、更にはその後の救出に関しても人並み程度の貢献しか出来ていなかったと言うのに、そうやって彼に心を配って貰う事がとても申し訳無いのと同時に……どうしようもなく嬉しくもあった。

 人付き合いが苦手で、探偵としての自分としてばかり他人と関わっていた僕は、何をするにつけ「意味」だとか「価値」だとかを考えてしまって。「意味が無い」「価値が無い」と決め付けた事に時間を使う事を避ける傾向があった。それは間違っていたと自覚した今でも、逆に僕なんかと過ごしていたって楽しくもないし意味が無いだろうからと避けてしまう。

 でも彼はそんな僕の手を取って、「意味」とか「価値」なんてどうでも良くて、僕が何かに困っているなら当たり前の様に力を貸すし、そんな事を抜きにしても僕と過ごす時間は楽しいと言ってくれた。

 僕が……男だとか女だとかそんな事は関係なく、それでも女である事を抱えて今までも苦悩しながらも自分の夢の為に足掻き続けて此処までやって来た『白鐘直斗』がとても大切なのだと、僕の全てを優しく肯定してくれた。

 僕は、そんな彼に惹かれていった。

 最初は憧れと尊敬で、それは次第に親愛に似たものに変わって、そして……。

 

 どんな時も優しくも冷静で最善の判断を下し続ける彼が、まるで衝動的とも言える行動に……刃物らしきものを手にした相手を前に僕を庇う為に飛び出したその時には、驚きと困惑から頭が真っ白になる思いであった。

 結局それは僕の身内による悪戯的なものであり、刃物らしきものもかつて僕自身が作ったジョークグッズに近い偽物だった為大事には至らなかったが。しかしそれが悪意ある変質者などであった場合には大怪我では済まなかった可能性もあった。

 冷静な彼なら、単に盾になる様に庇うよりもあの場を切り抜けるもっと良い方法を幾らでも考え付いていたであろうに。

 だから、「どうして」と。僕自身取り乱しながらそう訊ねたその時の彼の顔を、僕はこの先もきっと忘れる事は無いだろう。

 

「直斗が危ないと思った」、と。そう端的に答えた彼は……しかしその言葉以上の感情を確実にその胸に抱えた表情で僕を見ていた。

 僕が知る一番近い言葉でそれを表すならば……「恐怖」、そして「焦り」と「後悔」。

 感情は豊かだが眼差し以外の表情の動きは少々小さい彼の、初めて見るその表情に僕は思わず言葉を失ってしまった。

「もう……自分が何も出来なかった所為で大切な人を喪うのは、嫌だ」、と。余りにも小さい……囁きの様なその声に、縋る様に僕の手を優しく握ったその手に、頭を横殴りにされたかの様な衝撃を受けた。

 

 何が起ころうとも何時だって冷静で、瞬時の判断ですら余りにも的確で、目先の脅威への対処だけではなく数手先を当然の様に考えていて、周りに常に気を配り瑣末な問題だろうと親身になって寄り添ってくれる。

 誰にとっても難しいそれらを当たり前の様に出来る人なのだと、僕の理想をそのまま形にした様な『強い人』なのだと、僕は何時しか彼のその様な姿ばかりを見て判断していた。

 それらは別に嘘偽りと言う訳ではなく、間違いなく彼の在り方ではあるだろうけれど。

 

 それと同時に、彼は僕と一つしか違わない高校生で。

 彼の書面上の経歴を辿る限りでは、大切な親しい相手との死別など経験した事の無い……身近な相手が命の危機に晒される様な修羅場など経験した事は無かった普通の人で。

 

 嗚呼、だから……だからきっと。

 本当は、ちっとも冷静じゃなかったのだ。

 恐くて恐くて仕方が無くて、大切で大切で仕方ないのだと何時だって全身で訴えていた幼い手を永遠に喪う恐怖に苛まれて、それを防ぐ事が出来なかった自責と後悔に蝕まれ、それでも。

 助け出す為に一番必要な事は何であるのかを間違えなかった……間違える事は出来なかったからこそ、あの場の誰よりも冷静で在り続ける他に無かったのだ。

 その心を引き裂く様に刻まれた傷痕は、今も痛みを訴え続けている。

 なのにそれを隠すかの様に誰にも見せようとはしてこなかった。でもそれは僕たちを信頼していないと言う訳ではなくて……。

 何処までも完全無欠の理想であるかの様だった彼の欠点とも言えるそれを、思いがけないアクシデントを切欠に、僕は目の当たりにする事になったのだ。

 大切なのだ、と。そう言葉以上に雄弁に伝えて来る彼の手は、ほんの僅かに震えていた。それは、刃物かもしれないものを前にした恐怖故ではなくて、また喪ってしまうのかもしれないと言う恐怖が彼の心を再び強く掻き毟ったからなのだろう。

 

 彼は、間違いなくとても強い人で、憧憬と尊敬を向けるに相応しい人で……だけど同時に、自分自身の恐怖や苦しみを自分以外の誰かと分かち合う事がとても苦手な……不器用で繊細な人であった。

 僕なんかよりも遥かに強い彼に、僕は初めて『守らねば』と言う……庇護欲とは少しばかり異なる感情を抱いてしまう。

 誰よりも先に立ちその背中を追い掛けるばかりであったその相手の、僕が気付けなかっただけで本当は傷だらけであったその身体と心を労らねばと、そう自然と思う。

 彼に向けていた尊敬と憧れと親愛と信頼が、その瞬間に明らかに何か別のものに変わった。生まれて初めて抱いた感情に僕は戸惑って、だから。

 

「直斗の事が大切なんだ……喪いたくない……。

 好きだ……。俺は、君の事が好きなんだ……」

 

 だから……、と。何かを続けようとして、しかしそれを呑み込んでしまった彼の言葉に何も返せなくて。

 そのまま、逃げ去る様にその場を去ってしまった。

 あの時、彼が一体何を言おうとしていたのか、僕は今も聞けずにいる。

 

 それから少しの間自分の気持ちを整理する時間が必要だった。

 何せ生まれて初めての感情であるのだ。

 確かに、今までにも何度か好きだの何だのと異性同性問わずに告げられた事はあるが、彼らの気持ちは僕には全く響かず断るしか無かったのだけど。

 しかし、彼のその言葉を聞いた瞬間、難解な謎を解き明かした時の高揚感ですら足元にも及ばない程の強い衝撃を感じた。

 彼の気持ちに何かを返さなければと思うのに、自分自身の気持ちが余りにも混乱している為言葉が出てこないもどかしさが身を苛む程だった。

 そんな風に随分と曖昧な態度で保留してしまっていたが、その間も彼はあの日僕に見せた不器用で繊細な面など知らぬとばかりに何時もの調子で僕の傍で静かに僕を見守っていた。

 彼の心に応えても、応えなくても。きっと彼は静かに僕を見守り続けていたのだろう。それでも、僕自身がその様に不誠実な状態に我慢がならなくて。

 色々と自分に向き合った結果、僕は彼に、仲間や親友や尊敬する先輩と言う以上に私的な感情を……有体な言葉で表現すれば「恋愛」的な感情を向けている事を認めた。

 今まで解いてきたどんな謎よりも難解なそれは、しかし紛れも無く僕の「真実」であったのだ。

 誰かに恋をするだなんて、今まで考えた事も無くて。それが本当に様々な人々が褒めそやすそれであるのかは確信は持てなかったけれど。

 突き詰めれば「愛おしい」としか表現出来ないそれは、多分「恋」なのだろうと思う。

 だから、僕は彼に自分自身の「真実」で応えて、そしてまあ……そういう関係性になったのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰も居ない病室の、そこにある電源の入っていないテレビの暗い画面を、彼は何を言う事も無く静かに見詰めていた。

 追い込まれ逃げ場を失った真の犯人は、恐らくはあちらの世界に逃げ込んだのだろう。

 命の危険がある場所ではあるが、僕たちがこうして生きてあちらとこちらを行き来している事を知っているからこその賭けだったのだろうか。

 何であれ、クマくんの協力が無くては脱出不可能の世界に自ら飛び込んだあの人は、ある意味では自ら檻の中に飛び込んだ様なものとも言える。

 尤も……あの世界の危険性を考えると、追い詰める事が出来ているなどと簡単に言う事は出来ないが。

 

 今から追い掛けるには今日はもう遅いから準備を万全にして明日改めて足立さんを探そう、と。

 何時もの様に冷静そのままの落ち着いた声音でそう提案されたそれに反対する者は居らず、今日はこのまま此処で解散となる。

 皆、その表情には確かに疲労が浮かんでいた。

 無理も無い……ここ数日は余りにも様々な事が立て続けに起こり過ぎたのだ。

 菜々子ちゃんの心肺停止状態から、生田目の逃亡未遂、その後の生田目からの事情聴取に、真犯人であった足立刑事への追求……。

 特に、菜々子ちゃんの死で誰もが取り乱していたあの時に、もし彼がその冷静さを喪っていたら……きっと取り返しがつかない事になっていたし、今こうして真実を追い掛ける事すら出来なかったであろう。

 彼だからこそ、極限の緊迫状態にあったあの瞬間に、「落ち着け」と……普段と何も変わらない声音でそう皆を御する事が出来たのだと思う。

 菜々子ちゃんの死に最も打ちのめされ絶望し慟哭していたであろうに……それでも彼は衝動のまま真実から目を背ける事を是とはしなかった。

 その後も生田目の事情聴取の際にも彼は酷く冷静で、混乱し所々要領を得ない内容になっていたそれを理解しやすく整理し、生田目自身の思考を落ち着かせる事すらやってのけていた。

 真犯人を推理する時ですら、彼は酷く冷静で。皆の意識の外側にあったその人の名を真っ先に挙げた程である。

 彼は、終始あまりにも冷静であった。

 菜々子ちゃんが息を吹き返したその時に、「良かった……」と静かに零していた程度で。僅かにその目は潤んでいたが取り乱す程に泣き出すと言う事は無かった。

 だから、なのか。

 

「……相棒、ちょっと色々と聞きたい事がある」

 

 解散してもその場に残っていた花村先輩は、そう静かに彼を呼び止めた。

 帰ろうとしていた彼は立ち止まり、ゆっくりと振り返る様に花村先輩に視線を向ける。

 

「聞きたい事……? 別に、構わないけど。

 此処で話せばいいのか?」

 

「……いや、ちょっと此処では話すのは難しいかもしれねぇ。

 色々と長くなるかもしれねぇしな。

 お前、今日も堂島さん家帰るんだろ?

 なら、ちょっとお邪魔させて貰った方が良いかもな」

 

 花村先輩のそれは予想外の言葉だったのか、彼は少し驚いた様にゆっくりとその目を瞬かせた。

 そして、暫しの間何かを考える様に沈黙する。

 

「……家に……。

 …………大丈夫、だとは思う。

 だけど、それは何時もの屋上とか、何なら陽介の家とかじゃ駄目なのか?」

 

「今の時期の屋上は長話をするのには向いてねーよ。

 俺ん家が駄目って訳じゃねーけど、俺としてはお前ん家の方が良いと思う」

 

 そう言われると拒否するつもりは無かったのだろう。

 彼は、「分かった」と静かに頷いた。

 すると、何故か花村先輩は僕の方へも視線を向ける。

 

「で、直斗はどうする?」

 

「僕が、ですか……?」

 

 急に話題を振られても戸惑ってしまう。どうって、何が?

 彼の事が気に懸かっていたからまだ残っていたのは確かだけれど、かと言って彼と花村先輩の個人的な事情にまで首を突っ込みに行く程に図々しい訳では無い。

 しかしそんな僕の遠慮しようとする態度をどう汲み取ったのか、花村先輩は一つ重い溜め息を吐く。

 

「こいつは……とんでもなく強情な難敵だからな。出来れば援軍が欲しいんだよ。

 ま、直斗が嫌ってなら無理強いは出来ねーけど。

 でも、そうやって心配して気を揉んでる位なら一緒に来た方が良いぜ」

 

 花村先輩が彼に一体何を話させようとしているのか、それはまだ分からないけれど。しかし、「相棒」と彼を呼ぶ程の間柄である花村先輩がする事なのだから、きっと何か大事な事なのだろうと思う。

 そんな花村先輩が、僕が居た方が良いと言うのだ。

 少し戸惑いつつも、花村先輩と共に先輩の家へお邪魔する事になった。

 

 先輩の家へ行く事になったとは言え病院から直行した訳では無くて。

 一度ジュネスに立ち寄って買い出しをしてから、と花村先輩に押し切られる事になった。

 霧に街全体が包まれる様になり奇妙な妄想に取り憑かれる人々が現れても、相変わらずジュネスには人が集まっている。

 不安そうな表情を浮かべつつも、生活するには買い物をするしか無いのだから当然か。

 不安に浮き足立つ様な顔で買い物カートを押す人々の間を縫う様に、花村先輩は彼の手を引く様に売り場を連れ回して買い物かごの中に食料品などをポイポイと投げ入れていく。

 普段の花村先輩らしからぬそれは……何処と無く怒っている様にすら見える。しかし、彼は何も言わずに買い物かごに押し込まれたものを戻すでもなく、文句すら言わずに静かにそれを受け入れていた。

 数日分はあるだろう食料品を手に堂島家へと帰る事になったのだが、冷蔵庫などに空きはあるのだろうか……?

 そんな心配を抱きつつも堂島家に上がらせて貰ったのだが……。

 

「お前……最後にちゃんと食ったの何時だ?」

 

 居間に通して貰うや否や、ゴミ箱にチラリと目をやった花村先輩は心配しているのと同時に怒っている様な声音でそう彼に問う。

 彼はそれに対して静かに、「今日の昼、愛屋で肉丼を食べたな」と答えた。

 それを聞いて花村先輩は「そうじゃねーよ」と吐き捨てるが、しかしそれ以上は何も言わずにまた一つ溜息を吐く。

 ……堂島家へ上がらせて貰うのは、彼に今までお世話になったお礼を兼ねて探偵バッジを渡しに行った時以来なのだけれど。

 あの時には緊張とかで浮ついていた為に気付けなかったが、改めて見ると堂島家の状態は明らかにおかしかった。

 汚れているとか、ゴミが散らかっているとかは全く無い。

 几帳面な彼らしく、そう言った物事は疎かにはしていないのだろう。

 だが、恐ろしい程に『生活感』と言うものが無かった。

 あの日……菜々子ちゃんが誘拐され向こうの世界に落とされて、生田目を追った堂島さんが重傷を負い入院して、この家の住人である二人が居なくなってしまったその日で時を止めてしまったかの様に。

 彼が此処で生活している雰囲気が全く無い。

 冷蔵庫は心配するまでも無く空っぽであった。今日買い出しに出た分程度では到底埋まらない程に。

 料理が得意で堂島家の食事を一手に担っていた筈なのに、彼が自炊している痕跡がほぼ無いのだ。かと言ってジュネスの弁当やら惣菜やらの空容器すら見当たらない。

 

「薄々こんな事だろうとは思ってたけどよ……。

 本当に、お前……」

 

 言葉が続かないとばかりに花村先輩は頭を抱える。

 余りの生活感の無さと花村先輩の言葉に、もしかして……と。どうにも人の感情の機微には疎い面のある僕にも色々と思い当たるものがあった。

 菜々子ちゃんを救出してから少しして、花村先輩は何かと彼に対して弁当を作ってきて欲しいと頼んでいたのだ。

 最近小遣いが厳しくて購買で買えなくて……やら、最近は親が忙しくて弁当を作ってる暇が無くて……やらと様々な理由を付けていたが。

 本当はそんな理由はどうでも良くて、自分の生活を半ば放棄しつつあった彼に『花村先輩の為に』と言う動機を与えて料理をさせたりして生活を破綻させない事が目的だったのだろう。

 花村先輩にお弁当を作るのなら、その時についでであっても自分の分を作るのだから。

 思えば、花村先輩は僕が彼と付き合っている事を知ってからは、何かと『彼女の特権なんだからもっと頻繁に手料理をご馳走して貰え』と僕を焚き付けていた。

 

 菜々子ちゃんの一件以降、彼は所謂『セルフネグレクト』に近い状態であったのかもしれない。

 堂島家の状態を綺麗に維持する事はしっかりとこなしていたし、身だしなみなどが荒んでいる様子も無かったが、食事などの面に関しては相当疎かであったのだろう。

 ……普段接している分には全くそれに気付かなかったから、あくまでも類推でしかないけれど。

 とても冷静で強い半面、情が深く不器用で繊細な人である事は分かっていたのだから、もっと注意深く観察しておくべきだったのかもしれない。

 そんな僕たちの心情を知ってか知らずしてか、彼は「お茶を淹れるよ」と立ち上がる。

 

「コーヒーの方が良いのかもしれないけど……この家でコーヒーを淹れるのは叔父さんの仕事だから」

 

 ポツリとそう呟いた彼のその声は、余りにも静かで何の感情も読み取れないものだった。

 ヤカンで湯を沸かす音すら何処か遠くから響いているかの様で、歓迎されてない訳では無いのだろうが、しかしそれすらも彼の本心ではどうなのかは分からない。

 

 人数分のお茶と、ジュネスで買ってきたばかりのお菓子を茶請けとして用意して。

 彼は、「聞きたい事って?」と。今日ここに来た本題を訊ねる。

 正直、今まで気付いてなかった彼の状態の方が衝撃的で僕としてはそれどころでは無かったのだけど。

 僕自身、花村先輩が一体何を彼に訊ねようとしているのかには興味があった。彼のセルフネグレクトもどきを糾弾してどうこうしようと言う様子では無さそうだが……。

 

 僕と彼からの視線に、花村先輩は真剣な表情で考え込む様に少し沈黙し、……小さな溜め息と共に口を開く。

 

 

「相棒の事を疑ってるとか責めてるとかじゃねえけど。

 悠、お前……俺の勘違いじゃないなら、生田目の事や足立の事を、前々から勘付いてたんじゃねえか?」

 

 

 想定外のその言葉に僕は思わず花村先輩と彼の表情を交互に見やる。

 花村先輩は何か確信を持っている表情で彼を見ているし、彼はと言うと否定する事は無く何時もと何も変わらない静かな表情と眼差しで花村先輩を見ていた。

 時計の秒針が一周以上回る程の沈黙の後、彼は静かに口を開く。

 

「どうして、そう思ったんだ?」

 

「細かい部分で言えば色々とあるけど、一番はお前が最初から最後まで冷静過ぎてた事だな。生田目の病室で俺たちを止めた時もそうだが、真犯人として足立の名前を挙げた時も。

 ずっと前から確信してたんじゃないかって、そう思っちまう位にお前が冷静だったからだ」

 

 花村先輩の真っ直ぐなその視線を受け止めて、彼は「そうか……」と呟いた。そして──

 

「足立さんの事に関しては、確かに確信があった。

 ……菜々子が落とされた時点で」

 

 静かにそれを肯定した彼に、思わず「何を」と声を上げてしまう。

 知っていたのならどうして、と。そんな僕の心情が伝わってしまったのか。彼は少し僕から視線を反らした。

 そして、どう説明するべきかを迷う様にまた少し沈黙し。

 考えが整理出来たのか、静かに話し出す。

 

「……最初に言っておくと、何か疚しい事情があったから黙っていた訳じゃない。

 単純に、確証の無い……仮説程度の推測でしかないものだったからだ。

 そして、その推測程度のもので良いのなら……天城と完二とりせと直斗と菜々子を落とした犯人とはまた別の何者かが存在している事は、久保美津雄の一件の時点で半ば確信はしていた。

 ……ついでに言うならば、あの世界に人を落とした犯人が二人以上存在する可能性に関しては、完二が落とされた時点で推測自体はしていた」

 

 流石にその答えは予想外だったのか花村先輩は息を飲んでいたし、僕は「何故」と問い掛けていた。

 そんなに早い段階で確証は無いにしろ確信していたなら、もっとやりようはあったのではと。

 言葉では無く、視線でそう訴えてしまっていた。

 そんな僕らの死線を受けながら、彼は動揺する事も無くただ淡々と静かな声で説明を続ける。

 

「生田目さんの犯人像……と言うか犯行の手口は完二が落とされた辺りから察しは付いていた。

 完二程の体格の男を無力化し誘拐し誰にも見付からぬようにテレビに落とすのは難しい。特に、何処に人の目があるのか分からない稲羽で誰にも見られないと言うのは至難の業だ。

 でも、無力化し誘拐しテレビに落とすまでの時間が酷く短いなら……少しはやりやすいだろう。あちらの世界に行く力がある者にとっては、誘拐したその場にテレビがあれば容易い。

 とは言えテレビだけを持ち歩くなんて目立って仕方が無いだろう。

 なら、人目に付かずテレビを持ち運ぶ手段は必要だし、ついでにその手段自体は人の気を惹かないものである。

 だから、運送業者か或いは郵便局の配送車が怪しいとは考えていた。

 どちらも、玄関から相手を呼び出していても不自然では無いし自然に相手に接触出来る。……ついでに、自分が配達しているエリア内ならターゲットの住所を知る事も簡単だ。

 天城、完二、りせ、直斗の件はその犯行手口であろうとは予想していた」

 

 地元では有名な天城先輩や巽くん、休業中のアイドルと言う事で自宅まで人が押掛ける程に注目されていた久慈川さんの三人ならともかく。

 一時的な滞在の為の仮住まいでありその住所を知る人など少なかった筈の僕の家を、マヨナカテレビに映ってから突き止めるまでの速さから考えて、配送業者などである可能性は高かったから……と。そう彼は静かに続けた。

 仮住まいだろうと物を揃える為に配送業者の類なら幾度と無く使っていただろうし、と。そんな彼の言葉通り家具や細々とした物を含めて何度配送業者が僕の家を訪れたのか数えるのも難しい程である。

 僕が捨て身の方法で犯人の存在とその犯行が終わっていない事を証明するまでもなく、彼は『推測』という形であれどそこまで考え付いていたのだと言う。

 しかし、ならば何故それを皆に話さなかったのかと言う疑問はまだ残るが……。

 僕たちが黙って聞いているからなのか、彼は淡々と言葉を続けていく。

 寡黙と言う程では無いが、物事を伝える時は端的に伝える事の多い彼が此処まで長々と話す事は思えば相当珍しいのだと、そんな関係の無い事もぼんやりと考えてしまう程に、彼のその言葉に淀みは無い。

 

「ただ、犯行手口の予想は出来てもそれ以上犯人を絞り込む事は難しかった。稲羽に出入りしている配送業者や郵便配達員の一人一人を虱潰しに探す事は……あくまでも高校生でしかない俺には出来なかった。

 結局、生田目さんに行き着いたのだって叔父さんたちが調べ直してくれていたからだ」

 

 その事に関しては仕方が無い面が大きいだろう。

 そう言った伝手も権限も無い彼に出来る事は限られている。

 寧ろそう言った力無くしてそこまで辿り着けている事の方が異常だ。

 しかし同時に、だからこそ皆にはそれを伝えなかったのだろうとも思う。

 配送業者や郵便配達員を警戒しろと言った所でキリが無いのだから。

 そう僕が口を挟むと、それを肯定する様に彼は頷いた。

 更には、そうやってターゲットが己を警戒していると知ればもっと危険な手段で誘拐に走る可能性もあった事を考えると下手に刺激しない方が良いと思ったのだとも答える。

 流石の彼も『救済』が目的だった生田目の心情など推察しようが無かったのだから、それは慎重な彼らしい判断だったのかもしれない。

 更には、それに……と彼は続ける。

 

「……生田目さんの犯行の手口について予想は出来たが、それだとどうにも辻褄が合わない事もあった。

 最初の事件である山野アナの件と、模倣犯だった久保美津雄の件だ。……小西先輩の件に関しては犯行の状況が分からないから保留にするとしても。

 ……山野アナはそもそも事件発生時自宅には居なかった。天城が言っていた通り、不倫報道があってからは密かに天城屋に泊まっていたからな。

 天城以降をあちらの世界に落とした際の手口……玄関に呼び出してその場で落とす方法なんて取りようが無い。

 最初の事件であるだけにそれ以降の手口とは全く別の方法であったにしろ……ならば何時どうやって山野アナと接触したのかという疑問が残る。

 山野アナが天城屋に泊まっている事を知っていたとしても、配送業者にしろ郵便にしろ呼び出すなら受付を通す必要があるし、そんな事をすれば当然足がつく。

 個人的な交流があったのだから個人的に呼び出した線が無い訳では無いけど……それならそもそも最初の捜査の時点でもっと厳しく調べられてるだろう。生田目さんが容疑者リストから外れていたのにはアリバイが固かったのもあるだろうし、そう言った怪しい動きはしていなかったからだ。……だから、山野アナの件に関しては生田目さんの犯行では無い可能性の方がずっと高かった」

 

 山野真由美の件についての犯行の手口に関しての違和感は割と早い段階から抱いていたと、淡々と彼は言う。

 そして菜々子ちゃんの件で生田目が犯人として提示されたその時に、その違和感は半ば確信に近いものになったのだ、と。

 

「久保美津雄の件についてはもっと分かりやすかった。

 ……久保美津雄がただの模倣犯である事には最初から分かってた。……それの理由に関しては本当に色々あり過ぎて、発言も行動も何もかもに辻褄が合わないからとしか言えないけど。

 ただ、久保美津雄の件は本当にイレギュラーな事だらけだった。

 まあ、久保美津雄を落とした犯人は生田目さんじゃなくて足立さんだったんだろうからそれも当然なんだろうけど。

 ……陽介、覚えているか?

 久保美津雄がマヨナカテレビに映った時、あいつは既にあっちの世界に落とされた状態だった。

 ターゲットにされてしまう相手を映していたマヨナカテレビが映る前の犯行……この時点で天城からりせまでを落としていた犯人とは違う可能性が高い。

 とは言え、久保美津雄がターゲットに成り得ない相手だったと言う訳では無い。あの時の街は、諸岡先生の事件で話題が持ち切りだったからな。

 当然……その犯人への関心は酷く高まっていた。

 だが、そもそもあの事件の前の久保美津雄は情緒不安定な引き籠もりの鼻つまみ者であったとしてもこの街でも一切無名の存在だ。……ほぼ誤解とは言え暴走族を潰しただのと何かと有名だった完二とは正反対に。

 しかも、久保美津雄は高校生で、幾ら容疑者として怪しくてもその個人情報の取扱は厳重だ。

 ……逮捕されて報道されるとかでもしない限り、久保美津雄が諸岡先生の事件の犯人であると結び付けられる相手は非常に限られている」

 

 一つは、久保美津雄と個人的に親しい相手。

 そしてもう一つは……容疑者として久保美津雄を追っている警察関係者。

 久保美津雄は引き籠もりである事もあって個人的な交流のある人間などほぼ居らず。

 ならば、久保美津雄を落とした犯人は……。

 

「天城からりせまでを落とした犯人がそうなのかは分からないが、少なくとも久保美津雄を落とした犯人は警察関係者なのだろうと、そう思った。

 犯人像が配送業者とかとは離れてしまうが、もしかしたら配送業者か警察関係者のどちらかが『あちらの世界に行く力』の持ち主で、もう片方は共犯関係にある存在である可能性はある。或いは、それぞれに独立した犯人が居るのか……。

 あの時点では流石にそこまでは絞りきれなかったが、犯人候補として稲羽の警察関係者を考慮しなければならなくなった事は事実だ。

 そして……警察関係者が【犯人】である場合、山野アナの事件はその人の仕業である可能性はあった。

 ……りせの時に、人が押掛け過ぎて警察が出動していただろ?」

 

 僕が本格的に捜査協力をする切っ掛けの件であっただけに、その時の事は以前僕も少し聞いた事がある。

 普段は本当に静かな街である稲羽では、マスコミやら何やらが大挙して押し掛けてくるなど極めて稀な事で。だから混乱に乗じた揉め事や厄介事が起きない様に警察が出張って身辺警護やらをする事があるのだ、と。

 今年は二度もそんな事があって大変だった……とも。

 今更になって、『二度』と言うそれが何であったのかを調べ逃していた迂闊さに気付く。

 一度は久慈川さんの時の事、そしてもう一つは……。

 

「山野アナの時にも稲羽署から身辺警護に人員が送られて来ていたと、文化祭の後の打ち上げの時にそう天城屋の人に裏付けも取ってある。

 流石に、誰が何時訪れていたのかまでは分からなかったけど。

 ……天城屋のロビーには大きなテレビがあるよな。身辺警護で傍に居たのなら……二人きりになる事はそう難しくは無かっただろうし、警察として鍛えている人なら例え抵抗されていたとしても女性を落としてしまう事はそこまで難しい事ではなかったと思う」

 

 そして【犯人】が警察関係者であるなら、事件の詳しい状況が不明である小西早紀の件でも犯行に及ぶ際の繋がりが出来る。

 山野真由美の第一発見者として何度か事情聴取の為に署に呼ばれていたと言う記録はあるのだ。

 ……稲羽署の取り調べ室にもテレビは存在する。

 そう大型のものではないが、比較的小柄であった小西早紀を押し込む事なら不可能では無かっただろう。

 

 小西早紀の名前が出た途端、花村先輩が憤りと共に悲痛な表情でその目を静かに瞑った。

 菜々子ちゃんの死と共にその心の深い傷を抉り出され晒す事になった花村先輩の痛みは、まだ何も癒えてなどいない。

 普段は賑やかで根に持つ様には見せない様に振る舞いつつも、花村先輩はその心の底では激しい情動を抱えている人間なのだと。あの時僕は思い知った。

 そんな花村先輩へと少し痛ましげな視線を向けた彼は、湯気の昇らなくなったお茶を一口飲んで暫し沈黙し……そして再び話し始めた。

 

「足立さんに関しては、【犯人】だとかを疑う前々から色々と違和感はあった。

 何て言うのかな……俺たちの動きをコントロールしようとしている、とでも言えばいいのか。本来なら守秘義務がある内容を零しているのも妙だったけど、それが的確に俺たちの方針に関わるものだったからな……。

 今は稲羽に居るみたいだけど、元々は本庁の所謂エリートだった人だ。その割に随分ととぼけたフリをしているし……。それに関しては足立さんなりの処世術だったのかもしれないから、あまり深くは考えなかったが」

 

 だけど、と深く何かを思う様にその眼差しに翳りが生まれる。

 しかしそれはほんの一瞬の事で、彼が言葉を続けた時にはすっかり何処かに隠れてしまっていた。

 

「……足立さんは時々家に来て叔父さんと一緒に食事する事もあったし、足立さんだけで家に来る事もあったんだけど……丁度直斗を救出したその日にも来ていて、そしてその時にこう言ったんだ。

『第四の誘拐殺人にならなくて良かった』、と。

 誘拐殺人扱いになってるのは山野アナと小西先輩の事件だけ、諸岡先生の事件は猟奇的殺人ではあっても誘拐なんて起きてない……それは警察でも公式見解の筈。

 叔父さんは久保美津雄に全ての犯行を押し付ける事に疑問を感じて捜査していたから、足立さんがまだ犯行は終わってないと思っててもおかしくはないけど……でも何かが強く引っ掛かった。

 何かを隠しているんじゃないかと……。

 確信を持ったのは脅迫状の一件だけど、足立さんを強く疑ったのは多分その時からだな……」

 

 彼が話し終えても、僕も花村先輩も何も言えなかった。

 何故、どうしてと。そう言いたい事が沢山有り過ぎてどこから手を付けるべきか途方に暮れていた。

 暫しの沈黙の後、花村先輩が漸く彼に訊ねる。

 

「……正直色々と言いたい事だらけでどう言うべきかは分かんねーけど。

 どうして俺たちに何も言ってくれなかったんだ?

 久保美津雄の時だって、そうじゃなくたって……幾らでも言う機会はあっただろ?」

 

「……言っただろ? これは根拠は無い推測みたいなものだと。

 今話した事以外にも仮説なら無数に立てては棄却している。

 それに、もし俺がさっきまで説明していた事を皆に話していたとして……そうすれば確実に皆の思考を誘導する結果になるだけだ。

 無駄に視野を狭めて、見えている筈のものを見落とし、有りもしないものを見て、関係性が無い事柄無理やり結び付ける。

 言葉には気を付けるべきだ、その言葉が齎す結果についても責任を負うべきだ……。

 俺は……無責任に好き勝手な事を言って皆の目を曇らせたくは無かった。

 人の思考が如何に簡単に誘導されてしまうものなのかを理解しているのなら、軽はずみな事は言うべきじゃなかった。

 それに、問題はそれだけじゃない。

 俺が正直にそれらを話していたとして……俺たちに一体何が出来た?」

 

 何が出来た? と。そう問う様な彼の言葉に花村先輩は言葉を詰まらせる。

 そんな花村先輩に、彼は静かに畳み掛ける様に言葉を続けていく。

 あくまでも自分たちは学生で、犯人の犯行を阻止するにしてもその現場を取り押さえるしかなくて。それですら困難を極める。

 そもそも、二人をあちらの世界に落として殺した足立でさえ、殺人犯として起訴出来ない可能性がある。

 犯人に辿り着いたとして、その行動を公的な権力で止める術など無い。

 犯人が配送業者や警察だと言ったところで、それが誰なのかは分からない以上姿の見えない犯人を追い続ける事になるのだし、無闇に不安を蔓延させるだけ。

 

「それに……生田目さんにしろ足立さんにしろ、あの人たちは天城たちの家の事を知ってる。その気になれば何時でも加害出来る状態だった。

 幸い……と言っていいのかは分からないが生田目さんに『悪意』は無かったから良いものの、そんな事は分からなかった時点では何時行動をエスカレートさせてもおかしくなかいと考えざるをえなかったからな。

 既に、誘拐……と言うよりテレビに落とす事に何の躊躇いも持ててなかったんだ。なら、何時それがもっと直接的な加害に繋がってもおかしくなかった。

 更には、結果的に小西先輩の件とは無関係だったけれど、直接生田目さんに問い質すまでは普通に疑っていたんだ。

 もし小西先輩を落としていたのが生田目さんだったなら、何故天城たちは助かっていたのか疑問に思って調べていただろう。……俺たちの動向などを把握されている可能性は十分にあった。

 まあ、実際に俺たちを監視していたのは足立さんの方だったけど」

 

 だからこそ、相手の目を無駄に惹き付ける様な真似は出来なかったのだ、と。彼は少し疲れた様に言葉にする。

 しかしそれで納得する訳にもいかない。

 

「しかし……せめて久保美津雄が模倣犯に過ぎない事が分かっていたならそれを言えば良かったのでは……」

 

「……それは、そうだったかもしれない。

 だが、久保美津雄という格好のスケープゴートが現れた時点で犯人がこれ幸いと犯行を止める可能性があったし……久保美津雄の件を詳しく紐解くと警察関係者に犯人が居る事を話さなくてはならなくなる。

 ……相手は公的な権力を行使出来る立場の存在で、最悪の場合幾らでもこちらの罪を捏造するなりして拘束出来るんだ。

 ……それを説明したとして、演技の上手いりせならまだしも、完二や里中辺りだと普段通りに振る舞う事が出来なくなって余計に犯人の目を惹いて最悪の事態に発展していたかもしれない……。

 そう考えると、黙っていた方が良いと思ってしまった」

 

 良くも悪くも、彼は深く考え過ぎるが故にそれに雁字搦めになってしまっていたのだろう。

 せめて警察組織に対してある程度働きかけられる僕が仲間に加わった時点で話してくれていたならと思うのだが……沈黙に慣れ過ぎていたからなのかもっと他の理由があるからなのか、そうしようとは思って貰えなかった様だ。

 

「お前の言い分は分かったけど……ならせめて堂島さんにだけでも本当の事を打ち明ければ──」

 

 そう花村先輩が口にした途端、彼の眼差しがより深く翳る。

 そして、深く深く溜め息を吐いた。

 

「……言っただろう、陽介。

 俺は、久保美津雄の事件から警察関係者に犯人が居ると疑っていたと。

 ……当然、叔父さんだって容疑者候補だ」

 

 思ってもみなかった言葉に、今度こそ僕たちは言葉を喪う。

 だって、誰がどう見ても彼は堂島さんと菜々子ちゃんの事をとても大切に想っていた。確かな信頼がそこにあったし、『家族』だとそう誰もが思う程にそこにあったものはとても温かなものだった。

 だが、彼の言葉が真実ならば……少なくとも久保美津雄の件があってから、足立が犯人だと確信するまでの間ずっと堂島さんの事も疑っていたと言う事になる。

 

「……叔父さんが犯人でなければ良いとはずっと思っていたし、叔父さんには何か動機があると思えないし、そんな人には見えなかった。……こんな事を言った後だと信じて貰えないかもしれないけど、俺は心から叔父さんの事を信頼しているよ。

 ……でもそれは、『叔父さんが犯人では無い』と言う根拠にはなりえないんだ。

 それに、明確な殺意があって落とす動機はなくても……何かの事故で山野アナを落としてしまった可能性ならあるかもしれない。

 当時の山野アナは相当に情緒不安定だったらしいし、何かの弾みでって事は可能性としてはゼロではない。

 俺だって、一番最初にあの世界に行った時陽介と里中を巻き込んでしまった。故意では無いけど、やった事自体は足立さんや生田目さんと同じ事だ。……そういった事が起きた可能性を、俺は否定出来なかった。

 そして……もし事故としか言えない何かでそんな事になったのなら、……叔父さんに限って有り得ないとは思うけど、菜々子の事を思って口を噤む可能性が無い訳では無いと……そう考えてしまった。

 俺の身近に居た相手の内、怪しさで言えば圧倒的に足立さんの方が怪しかったけど……でもそれも叔父さんの事を知ってそれを隠す為に動いている可能性だってあった」

 

 だから何も言えなかった、と。そう静かに語って。

 しかし、割り切れないものはあったのか、目を伏せて静かに息を吐く。

 

「……それでも、せめて二通目の脅迫状が届いた時に……足立さんを犯人だと確信出来たその時に、警察署に連れて行かれたあの時に……。

 俺が……もっとちゃんと説明出来ていれば、せめて菜々子だけは間に合ったかもしれなかったのに……。

 叔父さんは現実主義者だけど目の前で起きた事を否定する程盲目じゃ無い。何なら取調室で叔父さんの目の前でテレビに手を突っ込んでしまえば良かった、でも……俺は……」

 

 出来なかった、と。彼はそう何度も呟いた。

 その言葉は、何時もの静かで落ち着いたものから、次第に暗く濁ったものになる。

 

「……俺の所為だ。俺が……俺がもっと上手くやれていたら。

 俺がもっとちゃんと出来ていたら、俺がもっと最善を選べていたら、間違えていなかったら……。

 菜々子があんな風に苦しみ弱っていく事も無かった、叔父さんが大怪我をする事も無かった……。

 陽介たちに……あんな事を考えさせなくても済んだ……。

 足立さんだって、もっと上手く拘束する方法はあったかもしれない。

 全部、俺が上手く出来なかったからだ……」

 

 その途端、衝撃から黙り込んでいた花村先輩が立ち上がる様にして彼の胸座を掴む。締め上げられても、彼はそれに抵抗しようとはしていなかった。

 

「全部自分の責任だ!? ふっざけんなよお前!

 ああっ、クソ! だからお前こんな有様になってたんだな!?

 それで自分を罰してるつもりだったのか?

 お前……ほんと……。……何でそんなに自分で抱え込もうとするんだよ。

 しんどいならもっと言葉にしろよ! 助けて欲しいなら言えよ!

 お前がそんな風にボロボロになってっても誰も嬉しくなんて無いんだからさ!

 そりゃ、お前程あれやこれやと考えたり推測したりするのは無理かもしれねーけど、それでも俺はお前の相棒だろ!?

 何なら、俺よりもずっと考える事に長けてる直斗を頼ったら良いじゃねーか! お前の大事な彼女なんだろ!?

 なあ、悠! 聞いてんのか!?」

 

 花村先輩に揺さぶられるままであった彼は、戸惑った様な顔をする。

 まるで、思ってもみなかった事で叱られてしまった子供の様な……普段は穏やかだが冷静な大人びた表情ばかりの彼もこんな表情を浮かべる事もあるのかと驚いてしまう程に、どうかすれば少し年齢以上に幼く見える表情で。

 そしてオロオロと視線を彷徨わせ、僕と花村先輩を見た。

 

「……俺は、しんどかったのか……?

 助けて欲しいと、そう思っていたのか……?

 そう言う事を考えた事が無くて……分からないんだ。

 何かを抱え込んでいるつもりなんて無い、必要なら何時だって皆の事を頼ってる。でも、それじゃ足りないのか?

 それに、俺の所為だとしても自分を責めて罰した所で菜々子や叔父さんが元気になる訳じゃないのに……そんな事はしない」

 

 本気で困惑している様子の彼に、思わずゾッとする。

 花村先輩も同様に、何処か唖然としている様ですらあった。

 掴んでいた胸座を離し、花村先輩は彼の言葉の真意を探るかの様な目を向けるが……しかしそこには言葉以上の意味は無い事を理解し愕然とする。

 自分の食生活を放棄している様な行動も、異常なまでに自分の推測を己の内に抱え込もうとする事も、全部彼自身はあまり自覚していないのだ。

 しかしそれで傷付いたり苦しまない訳ではなくて。実際花村先輩が何かと気遣ってなければとうに倒れていた可能性の方が高そうである。

 繊細やら不器用やらを通り越して、最早致命的なまでに彼は自分自身の痛みに鈍かった。

 他人の感情の機微には驚く程に聡く何処までも深い優しさを向けられるのに、肝心の自分にはそれを向けられない。

 抑圧し目を背けている……と言った様子ですら無い。

 それが尚更に事態の深刻さを示しているようだとすら思う。

 

 困惑していた様子であった彼だが、僕たちの反応を見てそれはおかしな事なのだとでも思ったのか、戸惑いつつも「そうか……」と静かに呟いた。

 

「すまない、心配を掛けさせてしまって。

 でも、大丈夫だ。もう、大丈夫だから……」

 

 心配しないでくれと、そう言葉にする彼は確かに何時も通りの彼に見える。

 しかしその態度は、それ以上の干渉を拒絶しようとしているかの様に僕の目には映った。

 そしてそれは、花村先輩にとってもそうだったのだろう。

 何かを堪える様に唇をギュッと噛んだ花村先輩は、それでも堪え切れなかった感情を絞り出す様に声を震わせる。

 

「全っ然、大丈夫なんかじゃねーよ。

 そんな風に無理して取り繕った顔で言われたって、何も納得なんて出来ねぇよ。

 何でもかんでも打ち明けろだなんて事は言うつもり無いけどよ、でも……俺は、俺たちは。

 お前が自分の気持ちを打ち明けられる相手にはなれないのかよ……」

 

「俺は、相棒じゃねーのかよ……」と、無力を噛み締めるかの様な悔しさの滲むその言葉に、彼は明らかに動揺する様にその眼差しを揺らした。

 はく、とその唇を声も無く震わせて。しかし言葉に迷ったかの様に一度引き結ぶ。そして。

 

「そうじゃ……ない。そうじゃないんだ。

 そんなつもりは……。

 俺にとっては、陽介は何にも代えられない相棒だし、直斗は一番大切な恋人だ。

 俺は、二人の為なら何だって出来るし、困っていたら……いや困ってなくても、何だって力になりたいとそう思ってる。それは、陽介と直斗だけじゃなくて、特捜隊の皆にもそう思ってるけど……。

 だから、信頼して無いとかそんなのじゃなくて……。

 ただ……ただ、俺は……。分からないんだ……」

 

「分からない……?」

 

 彼の言葉の意味を尋ねるようにその言葉尻を捕らえると。

 彼は戸惑いの様なものを滲ませつつ頷く。

 

「元々……親は仕事人間で放置されている事の方が多かったし、転勤も多かったから此処に来る前も何度も転校してて……。その、何か困った事があったり話したい事があったとしても、それを話す相手は居なかった。

 それに、大体の困り事は自分で調べたりすればどうにか出来る事で、だから誰かに話したりする必要は無くって……。

 ……そんな事ばかりだったから、多分俺は、こうした時にどうしたら良いのか分からないんだと思う。……いや、そもそもそれを困ってると分からなくなってるのかもしれない。正直、今も何に困ってるのか、陽介たちに言われてもあんまり分からないんだ……。陽介と直斗に言われて初めて、多分本当は困ってるんだろう、苦しかったのかもしれない、と、そう意識した位で……。

 何にせよ、それは俺の問題だから……陽介たちに何か瑕疵がある訳じゃない」

 

「だから、良いのだ」と。そう静かに首を横に振ってしまった彼に、思わず胸の奥から湧き上がる衝動のままに抱き着いた。

 余りにも唐突に思えたのだろうそれに、彼は酷く困惑し焦った様にその手を震わせて、狼狽えているのか僕と花村先輩の間でその視線を彷徨わせる。

 花村先輩は花村先輩で、突然目の前で抱き締め始めた恋人同士のそれに、些か居心地の悪そうな顔をして、若干顔を反らせるかの様にその視線をあらぬ方向へと向けている。

 そんな二人の反応など構うものかと、僕は彼の背中までを逃がさないとばかりにホールドした腕に更に力を籠めた。

 

「先輩は……馬鹿です、大馬鹿者です……!」

 

 馬鹿だ、と。そう言葉にする度に、彼はちょっとショックを受けているかの様に僅かにその身を揺らす。

 そんな彼に有無を言わせぬ様に、更に腕に力を込めた。

 屈強と言っても良い程に鍛え上げられた体躯の彼は、幾ら力を込めた所で僕が抑え込めるなんて訳は無いけれど。

 逃げたり離れたりする気は無いとでも言いた気に彼はそのまま大人しく僕の腕の中に囚われていた。

 本当に、馬鹿だ。どうしようも無い程に馬鹿なのだ、この人は。

 不器用で、繊細で、お人好しで、他人の事ばかり気にかけて、苦しい事を抱える事に慣れ切ってしまった馬鹿な人。

 ……彼が僕たちにしてくれた様に、本当は僕たちの方が彼のその心に気付いて寄り添ってあげるべきだったのだ。

 僕らはまだ子供で、……でもそれは彼だってそうだったのだ。

 優しさに、その献身に、直向きな誠実さに、僕たちは甘えてばかりで。彼だってそれを求めているだろうと言う『当たり前』をどれだけ顧みてあげられていただろう。

 こんなにも苦しんでいたのに、今の今まで僕たちは彼に殆ど何もしてあげられなくて。彼から与えられるばかりで、それを疑う事もしなかった。それが、どうしようも無い程に、不甲斐なくて悔しい。

 一番の大馬鹿者は、彼の恋人であるというそれに浮かれるばかりで、彼の事をどれ程本当の意味で分かってやれたのだろう。

 敬慕や憧れに目を焼かれてはいなかっただろうか。

 相棒である花村先輩は彼の危うさに気付けていたのに、僕は……。

 

 悔しくて、悲しくて、思わず涙が零れてしまう。

 それに、彼はビクリと身体を震わせて。

 そして、彼の方から優しく抱き締め直して、ゆっくりと僕の背中を摩る様に撫でる。

 

「……そうだな。俺は、多分……色々と間違ってたんだろう。

 でも……だから。どうか泣かないで欲しい。

 そんな風に直斗が泣いていると、苦しい。

 きっと、その涙は俺の不甲斐なさの所為なんだろうな。

 ……ごめんな、直斗」

 

 そんな事を言わせたい訳では無いのに、と。思わず首を横に振ってしまう。そんな僕に彼はほんの少し微笑んだ。

 

「俺は……何時だって直斗に、皆に支えて貰ってるよ。

 あの時だって、皆が居たから俺は間違えなかった」

 

 あの時と、そう言われて思い浮かぶのは生田目の病室での事で。その考えを肯定するかの様に彼は微かに頷く。

 

「俺は……最初に事件を起こしたのはあの人ではないだろうとは分かっていても。それでも、菜々子の死の原因になったあの人に対して本気で怒っていた。殺してやりたかったし、許したくは無かった。……まあ、今でも別に菜々子や皆にした事自体は全く許してないけど。

 ……でも、あの時に陽介や直斗が『落とそう』ってなった時。

 これじゃ駄目だって、これだけは駄目だって。そうハッキリ思ったんだ」

 

 そして、真っ直ぐに僕と花村先輩を見詰めて。

 自分の心を何処までも愚直に僕たちに伝えて来る。

 

「それはきっと俺の我儘だけど、俺は……。事件を解決する為に、『真実』を探す為に……何より、人を助ける為に始めた事を、皆と過ごした時間を、戦ってきた全てを、嘘にしたくなかった。過ごした時間を思い返した時に、それを少しでも後ろ暗く感じるなんて俺には耐えられなかった。

 復讐して、その瞬間は気が紛れるかもしれないけれど。でも、陽介も直斗も、どんな極悪人だとしても、それで相手の命を奪った事を正当化して納得出来る様な性格じゃないだろ。……あのまま感情に押し流されて選択してしまったら、何時かきっと必ず後悔する日が来る。取り返しのつかない事に苛まれる日が来る。……それだけは、受け入れ難かった」

 

 だから、止めたのだと、止める事が出来たのだと。そう彼は言う。

 憤怒も、憎悪も、あの日彼のその胸の中には確かにあったのに。それでも彼はその感情のままには動かなかった、否、動こうとしたその時にはその感情は御されていた。それは、自惚れで無いのだとしたら、僕の為だとも言って良いのだろうか。

 荒れ狂う感情の嵐に逆らう事は、決して簡単な事では無い。理知的であろうと努めていても、結局人は感情に流される。感情によって目隠しされて容易く『真実』を見誤ってしまう。……『真実』を理解していても尚、赦せない事だってある。

 彼は何て事無いものであったかの様にそう言葉にするけれど。しかし、彼がどれ程菜々子ちゃんを愛していたのかを、家族を大切にしていたのかを僕たちは知っているからこそ。その決断は想像を絶する苦しみであったと分かるのだ。

 そこにある何処までも深い愛情を、誠実なまでに僕たちの幸せを祈る心を、そして……僕たちと過ごした日々の全てが僅かに翳る事すら許せない程に彼にとって掛け替えの無いものであるのかを思い知らされる。

 

「俺は、何時だって皆に支えられている。

 陽介に出会えてなかったら、きっと俺は空っぽなままだった。

 直斗に出会えなかったら、誰かの事をこんなにも特別に愛しいと思う事が自分にもあるんだって知る事もなかった。

 だから皆の力になりたくて、出来る限りの事をしたくて、守りたくて。……でも、多分それを一人でどうにかしようとし過ぎて、陽介と直斗をこんなにも心配させてしまったんだな。

 ……でも、不思議だな。

 二人にそんな心配をさせてしまったのに。どうしてだか、嬉しい気がするんだ」

 

 そう言って微笑んだ彼に、もう危うさはなくて。

 花村先輩も安心した様な顔をして、すっかり冷えてしまっていたお茶を飲んだ。

 

「まあ、もう大丈夫そうだな。

 つか、これからはこんな風に思い詰めたりする前に、絶対に俺か直斗には話せよ。

 ほんと、何か微妙にズレてんだよなぁ、お前って」

 

 所謂天然ってヤツ?と、少し茶化す様に口にした花村先輩に、彼は思い当たるものが無いのか少し首を傾げる。

 

「そうなのか? 養殖された覚えは無いからそうなんだろうが」

 

 その返しに、「ズレてんなー」と花村先輩は苦笑いした。

 どうやら、いつもの調子に戻ってきたらしい。

 病院から今まで、花村先輩も随分と張り詰めた様子だったのだ。緊張が解けて安心したのだろう。軽く肩を動かした花村先輩は、軽い調子で彼に尋ねる。

 

「そういや、生田目とか足立の事以外で何か気付いたけど黙ってる事とかあるのか?」

 

 折角なんだから言っちまえよ、と。そんな調子の言葉に。

 彼は少し目を瞬かせてから、まるで「降参」とでも言いた気に苦笑する。

 

「……全く、陽介は鋭いな。

 とは言え、ここから先の話は何かしら根拠がある訳では無い……本当にただの推測であり予想だ。

 それでも良いなら話すけど」

 

 まだ何か話してない事があるとは思ってなかったのか、突っついた花村先輩自身が「マジかよ」と微かに呻いたが。自分が言い出した手前それを聞き出さないという選択肢は無く、彼に話すようにと促す。

 正直僕としても彼が一体何に気付いて黙っているのかには興味があった。恋人としても、そして探偵としても。

 謎とみたらどうしても解き明かし知り尽くさねば気が済まないのはもう性分なのだろう。彼が話す気があるというのであれば、それを聞き出さない選択肢など存在しない。

 そんな僕たちを見て、彼は微かに頷いてから話し出す。

 

「そもそもの話、春から起きていた一連の超常的な事象に関して本当にただ偶然にそこにあったものだと……本気でそう思うか?

 俺にはとてもそうは思えない。

 ……恐らく、テレビの向こうの世界自体はずっと昔からあった。

 だが、マヨナカテレビはそうじゃない。あれは、俺が八十稲羽に来る一二ヶ月前からジワジワと広がっていったんだ。人々の噂伝いに、それも稲羽の街だけに限定して。

 一応俺が調べられる範囲で確認してみたが、数十年以上前に変なラジオ放送があったらしいとは街のご老人から話は聞けたが、少なくともここ十数年は稲羽一帯に類似した噂があった痕跡は無かったし、更には稲羽の外にそう言った噂が拡散していった様子は無かった。……この、ネットで何処の地方の情報でも容易に全国的に拡散する時代で、だぞ?

 五百歩譲ってマヨナカテレビがただの根の葉も無い噂話ならともかく、確かに超常の現象として存在するものなのに。

 如何にも胡散臭いオカルト情報誌とかサイトとかが飛び付きそうな格好のネタなのに。

 地理的に完全に隔離されている訳でも無いのに、近隣である筈の沖奈の方ではとんとマヨナカテレビの噂らしい噂も聞こえてこない。

 マヨナカテレビが稲羽でのみ発生する現象なのだとしても、どうにも妙に思えてくる。

 まるで、『何か』が意図的に稲羽の外にそれを出さないようにしているかの様じゃないか?」

 

 マヨナカテレビに死んだ山野アナや小西先輩が映っていた事は知っている人は知っている筈だが、それに関して誰も気にも留めない。

 事件を取上げているワイドショーで好き勝手言われているそれを面白おかしく噂しているに関わらず。

 マヨナカテレビが映り始めてからもう半年以上経つにも関わらず、稲羽での噂以上の何かにはなっていない。

 そう言われれば、確かに何かが妙である気はする。

 人の好奇心は凄まじいもので、眉唾物のオカルトにだってそれを確かめようとする人は少なくは無いのだし、そう言ったネタに飢えている人は一定数以上居る。そんな彼らにとって本来マヨナカテレビは格好の獲物である筈だが……そんな動きは無い。

 

「それに、霧に関しても超常的な何かだと割り切るにしても妙な所が多い。

 霧に関して数年前からポツポツ発生していた様だが、こんなにも頻繁に……長雨の後に確実に出る様になったのは本当にここ一年にも満たない期間の話であるらしいし、更には街全体を覆い隠す程になったのも最近……丁度四月頃の話だ。

 そして、山野アナの事件以降霧はどんどんと濃くなって、ついにはこの有様だ。

 それに……あちらの世界の霧が此方に漏れ出ているにしたって、この霧はどんなに濃くなろうとも稲羽一帯にしか拡がらない。……まるで、見えない壁か何かが稲羽一帯をグルリと囲っているみたいに。

 そして、もう一つの稲羽の外には決して広がらないもの……。

 マヨナカテレビも、霧も、元を辿れば同じものにかもしれないし、或いは事象としては本来はバラバラのものだったのかもしれないけれど。何にせよ、それらが奇妙に噛み合ってしまっている様な気がしてならない」

 

 そして、と。

 彼は自分の掌に目を落とし、小さく溜息を吐いた。

 

「足立さん、生田目さん、……そして俺。

 現時点で『最初からテレビの向こうの世界に行く力があった』と判明している者は全員、多少のズレこそあれど丁度マヨナカテレビの噂が広がり始めた今年の春先に外から稲羽を訪れた者ばかりだ。

 ……生田目さんに関して言えば、生家は稲羽にあるから厳密には『余所者』では無いのかもしれないが……長く稲羽を離れていた事には変わらない。

 そして、俺と生田目さんはマヨナカテレビを見た事を切欠に今回の一連の件に巻き込まれ……或いはそれを引き起こす事になった。もしかしたら、足立さんですらマヨナカテレビを見た事が何かの引き金になっていたのかもしれない。

 何とも妙な繋がりを感じないか?

 何もかも、タイミングが合い過ぎている。

 ……まるで、何者かが用意した盤面に駒を配置したかの様だ」

 

 変な陰謀論やオカルト論染みてて正直そう言う事は考えるのは好きでは無いけど、とそう彼は前置きをした上で続ける。

 

「……直斗はあの時まだ特捜隊の仲間に入ってなかったから知らないだろうけど、陽介は覚えてるよな、クマの影と戦った時の事。

 アイツの影は、『何か』からの強い干渉を受けていた。

 本来シャドウは本人に一番の関心を向けてるのが普通だろう? 抑圧している自分自身と言う意味でもそれが当然だ。

 だが、クマの影はクマ自身よりも俺たちの方により強い関心を向けていた。正直、あの時戦ったのは何処までがクマ自身のシャドウだったんだろうかと今でも思うよ。

 ……あちらの世界の住人であるにしろ、一つの心を持った存在のシャドウにあそこまで干渉出来る存在って、一体何だと思う?」

 

 そんな彼の問いに、僕たちは何も言えなかった。

 だが彼は別に落胆した様な様子もなく、淡々と続ける。

 

「そして、生田目さんの時に現れた『クニノサギリ』。

 アイツは一体何だったのかと言う話にもなる」

 

「生田目のシャドウだったんじゃ……」

 

 花村先輩の言葉に、僕は引っ掛かりを感じて首を傾げる。そして僕の疑問を肯定するかの様に、彼はそっと花村先輩のそれを否定した。

 

「いいや、あの時の生田目さんは彼自身だったよ。

 俺たちが今まで対峙してきたようなシャドウではない。

 第一、『クニノサギリ』が現れる前に別に生田目さんは自分自身を否定したりなんてしてないだろ。

 とは言え、本人を完全に呑み込んでいたのだし、ペルソナの類でも無さそうだった。

 つまり、あの時に対峙した『クニノサギリ』は、今まで俺たちが戦ってきたシャドウたちとは、また少し違う何かだったんだ」

 

 じゃあ、あれは一体何だったのかという話に当然辿り着く。

 そして、彼はある種の仮説だという前置きを念入りにした上で、彼自身の考えを話し出した。

 

「正直な所、あれは生田目さんの意識から現れた存在では無いとは思う。生田目さんを依代にしていただけで、恐らくは無関係だ。

『クニノサギリ』と言う名を持つ存在として俺が真っ先に思い浮かんだのは古事記に名を記されてる神のそれだった。

 だが、『クニノサギリ』は日本神話に名がある神としては相当にマイナーな神なんだ。

 イザナギとイザナミの神産みで生まれた数多の神の一柱であるオオヤマツミの子として生まれた、平原にかかる霧を神格化した……現世と神域を分ける境界の神。

 とは言え古事記にしかその記載は無く、古事記にすら名前が記されているだけで何かの逸話がある訳では無く、その後に続く神の系譜がある訳でも無く、『クニノサギリ』を祀る神社は鹿児島にある狭霧神社のみ。

 はっきりと言えば、認知度は無いに等しい存在だ。

『クニノサギリ』には对となる『アメノサギリ』……山の頂上に掛かる霧を神格化した存在がいるが、此方の方はさっき言った狭霧神社以外に島根の仰支斯里神社でも祀られているから多少はまだ認知度があるのかも知れないが……『クニノサギリ』と同様に逸話も無い名ばかりの神だ、実際大差は無いだろう。

 そんな存在が、別に日本の神話に詳しい訳でも無い人間の意識からポッと出てくると思うか?

 生田目さんが無意識の内にでも『クニノサギリ』という存在を知ってた可能性は相当低いだろう」

 

 そもそも僕たちがペルソナとして顕現させているものだって、誰もがある種間接的にではあっても耳にした事はあるだろう程に、その名は広く知られている存在ばかりである。 

 神話も何も附随しない名前だけの概念神が「ペルソナ」の類として顕現するとは思えないと彼は続ける。

『クニノサギリ』なんて聞いた事もなかった僕としては、その意見は否定出来ない。

 

「あの世界には、シャドウやペルソナとは違う……神の名を冠した何者かが居るのは確かだと思う。

 その神様が神話の中に語られる様な『ホンモノ』であるのかは分からないけど。何にせよ、凄まじい力を持っている存在である事は確かだ。

『クニノサギリ』も、倒す事こそ出来たが、俺たちではどうやっても解除出来ない『洗脳』の力を持っていたし……」

 

 僕も含めて全員が操られた最悪の状況を思い返してか、彼は少し暗い顔をする。だが、直ぐにそれを振り払って続きを話した。

 

「だから今回の一連の事件も、その裏にはそう言った存在の関与がある可能性はある。

 最初に事件を起こしたのは足立さん自身なのだとしても、そこに至るまでの盤面を整えたとでも言うのかな。

 それが一体何者であるのかまでは流石に想像が難しいけど……」

 

 そして、少し考え込む様に黙った後。

 小さく溜息を吐いて、彼自身確信は持てない様子で続ける。

 

「それと……『クニノサギリ』が現れたのであれば、この先で『アメノサギリ』とも戦わなくてはならない可能性があると思う。

『クニノサギリ』と『アメノサギリ』は対の存在だから、今回の一連の事件に無関係であるとは思えない。

『アメノサギリ』が【黒幕】なのかは分からないけど……。

 何にせよ、普通のシャドウとは一線を画する存在と対峙しなければならない可能性は低くない」

 

 そう締め括って、今の所はこれで全部だと、少しスッキリした顔で微笑むのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 花村先輩が帰ってからも、僕は堂島家に残っていた。

 一人で色々と抱え込んで潰れ掛けていた時とは違い、抱えていたモノを吐き出した彼にはもう危うさは無いけれど。

 それでも、一人きりの家は彼にとっては静か過ぎるのだし。何より、僕自身が彼の為に何かをしたかったのだ。

 帰らなくても良いのかと彼に訊ねられたが、今日は此処に居たいと訴えるとそれ以上は何も言わず、そうかと静かに頷いて彼は静かに夕飯の支度を始めた。

 手際良く調理を進め、少し待っているだけで既に良い匂いが漂い始める。彼が料理している姿を直接見るのはこれが初めてであるけれど、不思議ともう何度も見慣れたものである様な気もするから不思議なものだ。

 僕も、彼も、食事の際に積極的に話したりする質では無いので、共に食卓を囲っていても随分と静かな晩餐ではあったけれど。

 ふと箸を置いた彼は、ポツリと、溜息の様な言葉を呟く。

 

「……誰かと夕食を食べるのは、随分と久し振りな気がする。

 ……温かいな」

 

 きっと……寒々とする程に寂しくなってしまったこの家で、彼はろくに何も食べる事が出来なかったのだろう。

 僕はそっと寄り添う様に、彼との距離を詰めた。

 腕が触れ合う程の距離に、彼は少しその目を瞬かせて。そして、安心したかの様にその表情を少し和らげて。そっと僕に寄り掛かる様に肩を寄せて、満ち足りた様な微笑みと共に目を閉じる。

 

「……直斗は温かいな。

 ……俺は、温かいものが喪われた後の寒さが、こんなにも心に堪えるものだとは知らなかった。

 大切なものを、守りたかったものを、喪う辛さを、俺は知らなかった……。

 稲羽に来るまでの俺は、今考えるとそう言ったものを持とうとする事自体を何処か諦めていたし……。そして、大切なものが一つ一つ増えていった後は、精一杯に自分に出来る事をやっていれば、俺は絶対にそれを守ってやれるのだと、そう驕ってもいたんだろう」

 

 だから多分色々と間違えたのだろう、と。そう静かに彼は言うけれど。

 彼がそう思うのも当然な程に、彼は最善を尽くして全てを守っていた。

 誰よりも真っ先に道を切り開いて、目まぐるしく変化する戦況の中で最善手を打ち続けて、誰も倒れない様に深く傷付く事の無い様に。それを、そこにあった直向きで誠実な想いと、それを成し遂げる為の努力を、どうして間違っているだなんて言えるのか。

 

「先輩は間違ってなんかいないですよ。……ただ、先輩がちょっと疲れた時には僕たちを頼って欲しかったんです。

 先輩が僕たちにそうしてくれた様に、僕たちだって先輩を助けたかった。

 どうにもならない様な気持ちにだって、答えが出せる訳ではなくても寄り添って一緒に考えたかったんです」

 

 ただそれだけなのだ。だけれど、たったそれだけの事も、決して簡単な事では無い事は僕自身がよく知っている。

 様々な事情や感情に雁字搦めになって、自ら自分を追い込んで……そしてどうしようもなくなって途方に暮れて。

 それでも、皆が、彼が、助けを拒む様に他人から距離を取り続けていた僕を助けてくれた様に。

 今度は僕が、そうやって力になりたいのだ。

 

「……そうか」

 

 彼と温もりを分かち合う様に、そのまま暫し寄り添い合って時間を過ごした。

 そして、夕食も食べ終わり、片付けも終えた頃合いで。

 

 

「もう随分と遅くなっているし、辺りも暗いし視界も悪いから送っていくよ」

 

 彼はそう声を掛けてくれる。

 だけど、僕は……。

 

「あの……僕、今日は此処に泊まりたいです」

 

 一世一代の告白をするかの様な覚悟で、そう口にすると。

 彼は目を丸くして固まった。

 暫しの沈黙の後に、ギシギシと錆びた歯車が動く様な幻聴すら感じる動きで、漸く彼は反応する。

 

「え……っと。今この家には俺一人しか居ないのは、分かってるよな?

 そして一般的に、恋人関係にある男の家に一人で女性が泊まると言う事で起こり得る事態とかも、知識だけでもあるとは思うんだけど……」

 

「わ、分かってますよ……それ位。

 いや、その……別にそう言う目的で泊まりたい訳では無くてですね。

 あの、その……。先輩、もしかして夜とかもあまり眠れていないんじゃないかと思って、それで……」

 

 言えば言う程、自分でも一体何を言ってるんだと思ってしまう。

 僕と彼は、恋人ではあるけれどまだそう言った関係には至っていない。

 単純に僕がまだそこまで踏ん切りをつけれていないと言うのもあるし、それを察した彼が僕を気遣ってそう言った雰囲気になる事をそれとなく避けてくれていたのもある。

 とは言え、ここまで精神的に色々と追い詰められていた状態で、そこに更に僕にそう言った欲望を向けてそれを露にする事を抑え込んでいたのは、彼にとっては相当負担になってしまっていたのではないだろうか。

 一般的に、この年頃の男性の欲求の強さは凄いものであるのだと言われているし……。

 いや、正直な所この期に及んでも、僕はまだそう言った行為に踏み切る勇気は無かった。知識は一応あるけれど、正直それを実践に移すにはもう何段階か精神的な部分の踏ん切りが欲しいのだ。

 今日の目的としては、彼がちゃんと夜にその身体を休める事が出来ているのかを確認したいだけで。

 だが、それを彼に押し付けてしまうのは……と言う葛藤も有る。

 

 慌てている僕を見て何を思ったのか、彼は少し苦笑して僕を優しく抱き締める。

 

「大丈夫、別にそう言う事を無理に求めるつもりは無いよ。

 直斗が、俺の事を心配してそうしようとしてくれているのは分かっているし、その気持ちがとても嬉しい。

 ただ、一応ちゃんと忠告はしておかないと。直斗が変な勘違いして、他の人にもそんな事をしたら困るなって……」

 

「か、勘違いなんてする訳ないでしょう!

 第一、僕がそう言う意味で……想いを向けているのはあなたにだけですよ……」

 

 すると、彼は嬉しそうに笑って少しばかり抱き締める強さを強める。

 

「俺にとっては凄い殺し文句だな、それは。

 あっ、……泊まるのは良いけど、着替えとかはどうする?

 流石に、直斗が着れそうな服とかの備えは無いんだけど……」

 

 ふと思い出した様にそう言った彼の言葉で、何も考えていなかった事に気付いてしまった。彼の服を借りる……のは流石に無理がある。

 

「取りに帰るしか無いですね」

 

 まあ幸い、僕の家と堂島家はそう遠く離れている訳では無い。

 着替えを取りに帰る程度、あまり時間は掛からない。

 が、彼はそれでも用心の為にと一緒に付いて来てくれる。

 深い霧の中、誰に見られている訳でも無いので、つい手を握ってしまう。

 僕とは全く違う筋張って大きな手は、痛くないけれど離さない位の絶妙な力で僕の手を包み込んでいて。それだけで胸の奥で鼓動が早まっている気がする。

 人目があると思うとどうしても恥ずかしくて外ではそんな風に手を繋いで歩くだなんて出来ないのに、何とも不思議な事だ。

 辺りを覆い尽くす霧だけでなく。外を出歩くには少し遅い時間帯である事もあって周りには誰の気配も無い。まるで世界に二人きりになってしまったかの様だとも思う。

 

 マンションに着いて、手早く着替えを用意して。

 上がって貰っても構わないのに律儀にマンションの外で待っている彼の下へと足早に急ぐ。

 

「すみません、お待たせしました」

 

「いや、そんなに待ってないよ。直斗は準備するのも手際が良いんだな」

 

「こういう仕事をやっていると、何時でも直ぐに動ける様に最低限必要な荷物はまとめておく様にクセが付いてるんです」

 

「成程、名探偵の知恵ってやつか」

 

「そんなのじゃないと思いますけど」

 

 そんな他愛ないじゃれ合いの様なやり取りを交わしながら二人で手を繋ぎながら来た道を戻る様に堂島家へと帰る。

 どうせ直ぐに戻るのだからと暖房は消さずにおいた事もあって、家の中は温かくて。玄関を開けた瞬間の彼の表情は、安堵にも似た複雑な感情に彩られていた。

 

 その後は風呂を借りたり、風呂上りにまた他愛ない会話を楽しんだりして時間を過ごして。そして、そろそろ寝る時間となった。

 

「最後にもう一度確認するけど……、本当に俺の部屋で良いのか?

 その、そういうつもりじゃないのは分かってるし、俺だって直斗を無理に襲ったりなんかはしないけど……。何なら居間で寝た方が……」

 

 彼のその心遣いは有難いけれど、しかしその為にこうして泊まるのだからと押し切ると、彼は観念した様に少し天井を仰いでから、小さく息を吐いて頷いた。

 

「……まあ、直斗がそこまで言うなら、俺も嫌とは言わないけど……」

 

 そう言いながらも彼は机やソファーを動かしてスペースを作って、来客用の布団を自分の布団の横に並べる。

 そして、変な雰囲気になる前にとでも思ったのか、早く寝ようと催促して僕が布団に潜ったのを確認してから部屋の明かりを消す。

 それでも、流石に落ち着かないのか、そわそわとしている様だ。かく言う僕も、今更ながら緊張してしまってかなり心拍数が上がっているのが感覚で分かってしまう。

 

「……思えば、こうやって誰かと一緒に寝るのなんて、文化祭の打ち上げ後に天城屋に皆で泊まって以来だな……。その前は修学旅行の時だし」

 

「まあ確かに、そう言うイベントの時でもないと、中々誰かと一緒に寝るような事って無いですよね」

 

「俺の場合物心付いた時から一人部屋だったし……。川の字になって寝るとか、やった事ないんだよな」

 

「僕もそう言う経験は無いですね」

 

 彼も、僕も、幼い頃から両親は仕事で家を空けがちであったし。物心ついて少し経った頃に僕は両親を亡くしておじいちゃんに引き取られたし……。改めて考えるまでもなく、誰かと一緒の部屋で寝る経験なんてあまり多くない。

 そう思うと、恋人同士であるとは言え、そういう目的でもないのにこうして同じ部屋で布団を並べて寝ていると言うのも随分と不思議なものである。

 

「……でも、こう言うのも悪くないな。

 ちゃんと傍に誰かが居るんだって、そう実感出来るし……」

 

 随分と疲れが溜まっていたのか彼は次第にうとうととし始めるのだが、ふと目を閉じては何かに眠りを妨げられてる様に目を開けてしまうという行動を繰り返していた。

 その目を開ける直前の表情は、何処か怯えている様にも見えて。

 僕は、そんな彼の手を握って自分の胸元まで引き寄せて。それに驚いた彼が固まっているのを良い事に、彼の背中に腕を回す様にして抱きしめる。

 

「な、何を??」

 

 困惑している様子の彼に構う事なく、その背中をゆっくりと擦る様にぽんぽんと柔らかく撫でる。

 

「大丈夫、大丈夫ですよ。

 怖い夢を見ても、僕がちゃんと此処に居ますから。

 魘されていたら起こしますから、安心して寝てください」

 

 悪夢を祓う力なんて僕にはないけど、でも彼が悪夢に囚われ魘される前に起こしてあげる事は出来るし、そして悪夢の余韻に凍えたその心を少しでも慰める事は出来る。

 だからどうか、少しでも安心して眠って欲しいのだと。そう想いを込めて、その広く逞しい背中を撫でていると。

 暫し黙ったままなされるがままに僕に背中を撫でられ続けていた彼が、ゆるゆるとその手を伸ばして僕をそっと抱き締める。

 

「…………あの日から、ずっと夢に見るんだ。

 叔父さんが死んでしまう夢を、菜々子が死んでしまう夢を。

 それは段々、直斗が、陽介が、皆が死んでしまう夢にもなって。

 様々な形で死んでしまう皆に、俺は何も出来なくて、止められなくて。

 そして、一人になって……」

 

 だから、眠るのが……多分怖かったのだ、と。あまりにも小さな囁きの様なその言葉に、僕は何も言わずにその身体を抱き締める。

 僅かに震えるそれは、きっと誰にも言わない様に隠し続けてきた彼の恐怖なのだろう。

 

「……叔父さんも菜々子も居ない家は……凄く寒くて。

 起きた後も、それが夢だったのか現実なのか、あやふやで。

 毎日、少しずつ深い海の底に沈んで行く様に、何処にも出口が無くて……」

 

 相槌を打つ事もなくただただ静かに彼の言葉を聞いていた。

 今はただ、彼がずっと押し込めてきたそれを少しでも軽くさせてあげたくて。

 言葉は無くとも、それでも僕が寄り添っている事が少しでも彼にとって救いになっている事を願いながら、その身体を抱き締め続ける。

 

「菜々子が、死んだ時。これは夢なんじゃないかって、思った。

 何時もの悪い夢、起きたら消えてしまう様な……でも、それは現実で。

 俺は……菜々子に何もしてあげられなかった。

 助けるって、絶対に菜々子は俺が助けるからって、叔父さんと約束もしていたのに。

 怖いよって、そう怯えていた菜々子に……俺は……何も……」

 

 あの日の事を思い出して、彼は辛そうにその表情を歪める。

 結果としてその後菜々子ちゃんが息を吹き返したのだとしても、あの日のそれは彼にとってはもう忘れる事など出来ない傷になっているのだろう。

 

「だけど、俺は……泣いたり出来なかった。

 菜々子が死んでも、息を吹き返しても。

 悲しいとか、辛いとか、苦しいとか、嬉しいとかは分かるのに。

 全然、泣けなくて。

 本当の犯人は足立さんなんだって分かっていても、憎いとかも思えなくて。

 陽介に言われた様に、何時も何処か冷静に考え続けてしまう。

 自分よりも大事だって、そうはっきり言える位に菜々子の事は大切に思っている筈なのに、俺はそれでも涙を流せない」

 

 昔から泣いた事が殆ど無いのだと、そう彼は何処か遠くを見ながら呟く。

 

「……それを自覚して、……怖くなった。

 皆の事を、こんなにも大切に想っているのに。でも、本当の所は何も思っていないんじゃないかって。

 だから、叔父さんの事も疑えてしまったんじゃないかって。

 俺は……」

 

 思わず、彼を抱き締める力を強めてしまった。

 その言葉を遮るつもりはなかったのに、それでも……その言葉は僕にとっては看過出来ないものであったからだ。

 

「そんな事は無いです。先輩は、僕みたいな人の機微に疎い人間から見てもそれでもハッキリと分かるくらい、菜々子ちゃんや堂島さんの事も、そして僕たちの事も、心から大切にしていました。それは絶対に嘘じゃない。

 涙を流せないからって、それが嘘である訳じゃないでしょう?

 それに、泣いてる暇が無い位に、色んな事が一気にあなたの肩に圧し掛かってしまって、それを間違えてはいけないと感じたからこそ冷静で在ろうとしただけです」

 

 それは決して、心が無いだとかそう言うものではないのだと、そう訴える。

 ……彼は、他人に甘えるのが極端に下手なのだろう。

 自分が様々なものを抱え込み過ぎて一杯一杯になっている事にすら自覚出来ず、本来なら「辛い」「助けてほしい」と思う様な状況でさえそれまで「一人でも解決出来てしまっていた」という経験によって何も感じられず。

 激情に流されて取り返しのつかない事をする訳にはいかないと、どうにか踏み止まって冷静で居た事を、自分にはまともな心が無いのではないかと疑って。

 不器用どころの話では無い程に、彼は自分を甘やかす事が何処までも苦手であった。

 それでいて他人には何処までも優しく誠実で、甘やかす事もとても上手いのだから質が悪い。

 

「僕は先輩が大好きです。

 あなたの、真っ直ぐな優しさも、僕を見守り支えてくれている時の眼差しも、細やかな気遣いの向け方も。

 そして、不器用な位に自分自身を甘やかす事が下手な所も。

 あなたの全てが、大切で愛しい」

 

 甘える事が極めて下手な彼が、こうして僕にはその弱さを見せてくれる事に、言い様の無い充足感を感じてしまう。僕は彼の力になれているのだと、彼の心の支えとなっているのだと、僕自身がそれを実感を持って肯定出来るその歓びは、決して綺麗なだけの感情では無いけれど。

 それでも、それも僕自身の気持ちであるのだし、自分自身に向き合う事から逃げないと決めたからこそ、それを素直に受け止めている。

 彼の全てが知りたかった。

 その強さも、弱さも、気高さも、卑怯さも、心の傷も、何もかもを。

 その全てを知り尽くして受け止めて、そして彼を守る為の力に変えたい。

 

「僕は、あなたになら僕の全てを差し出しても構わないと思えるんです。

 そしてそれと同時に、あなたの全てを受け止めて、それを守りたいとも思う」

 

 そして、意を決して。

 彼を抱き締めていた手を放して、今度は彼の頬に手を添える。

 緊張で胸が裂けてしまいそうな気もする程に、鼓動は早鐘の様に胸の内で高鳴っていて。しかし、もう後には退けないとばかりに、そのまま彼の唇を奪う。

 唇同士を触れ合わせるだけの口付けはほんの数秒程のものであったけど。

 僕もきっと顔が真っ赤になっているだろうが、彼の方も耳が一気に赤くなったかと思うと頬の方も仄かに赤く染まった。

 

「今はこれ位しかまだ出来ませんが……愛してます」

 

 生まれて初めての口付けに、どうにも気持ちが浮ついてしまう。

 僕の想いは、彼に届いただろうか?

 そう少しばかり不安になりかけた瞬間、彼の右手が僕の頬に触れ、そして滑る様に顎に添えられて。再び柔らかな感触を唇に感じる。

 

「俺も、愛してるよ。

 直斗が望むなら、俺は俺の全部をあげる。直斗の望みを何だって叶えてあげたい。

 だから……どうか俺の傍に居て欲しい。直斗の傍に居させて欲しい。

 俺を置いていかないでくれ」

 

 彼が誰にも見せて来なかった心の奥の、とても深い場所に居たのだろう寂しがり屋な一面に、僕はそれを柔らかく抱き締める様に微笑む。

 

「ええ、勿論。大丈夫、僕たちはどんな時だって一緒です。

 あなたを置いていったりなんてしませんから」

 

 その言葉に、彼は安心した様に微笑み。

 そして、静かに押し寄せて来た眠気にうつらうつらとしていたかと思うと、ふとした瞬間に穏やかな寝息を立てていた。

 今まで色々と張り詰め続けていたからか、余程深く眠っているのか。軽く頬に触れたりしても起きる気配は無い。

 何処か幼くも見えるその寝顔を見詰め、そっと微笑んで。

 そして彼の温もりを感じながら、僕も穏やかな眠りの波に抗う事無く目を閉じるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆




足立さんのマガツイザナギを見た瞬間に今回の一連の出来事の裏にイザナミが居る可能性に辿り着き、マリー救出時に『クスミノオオカミ』に対峙した時点でそれを確信し、イザナミと戦う為に反魂香やらサマリカーム持ちペルソナやらを徹底的に準備して挑んだのに。何も出来ないままに目の前で直斗や皆が自分を庇って死んでいく所を見続ける事になる番長くんの事を思うと、心がぴょんぴょんしますね。
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