「ご主人様ー! アスナが来たよー!」
一之瀬アスナの来訪はいつも突然だ。月曜日の朝という、一週間の中でもとびきり憂鬱な日の雰囲気を全て吹き飛ばすようにやって来た。まるで突風のように。
……とはいえメイドの流儀らしいのか偶然でもなければ必ず連絡してから来てくれるし、今日アスナがこうしてシャーレへ来てくれたのも今週の当番担当だからだけど。
”おはようアスナ。朝から元気だね”
「うんっ! だって今週はずーっとご主人様のそばにいられるからね! テンション上がるのもわけないよ~」
アスナはその場でくるっと一回転し、にっこりと人懐っこい笑みを浮かべてそう言った。バニー姿で。
”……ねぇアスナ、どうしてバニー服なの?”
「え? んー、ご主人様が喜んでくれるかなーと思って。サプライズ!」
”一応、シャーレの当番は仕事扱いだから制服推奨なんだけど”
「大丈夫だいじょーぶ、明日からはちゃんと制服で来るから。あ、ミレニアムの制服とメイド服、どっちがいい? どっちも制服だからさ。ご主人様の好きな方を選んでいいよ~!」
”考えておくね”
「それでそれで、一日目からいきなりバニー服大作戦の感想はどう? 驚いた?」
”とっても”
「やったぁ、大成功だね! ご主人様はバニー服好きだもんねー!」
”まぁ、うん。否定できないのがちょっと悔しいというかなんというかだけど”
アスナを知る者なら誰もが知っていることだけど、彼女はスタイル抜群だ。すらっと伸びた背丈、細長くて綺麗な腕、柔らかそうでハリのある脚線美。黄金比が人の姿を取ったと言われたら信じてしまいそうなプロポーションを彼女はしている。
そして何よりも彼女を象徴しているものといえば、
「ご主人様、どうしたの? ボーっとしてるけど大丈夫?」
”あぁ、いやうん。なんでもないよ”
思わず見惚れてしまっていた、なんて口が裂けても言えなかった。彼女は私の視線に気づいていただろうか。気づいていないと信じたい。
一之瀬アスナの象徴、それは豊かな胸だ。彼女を一目見る際、おそらく誰もが必ずそこに視線を奪われることだろう。それは私も同様で、彼女を見かけるたび、会うたび、ほとんど必ずと言っていいほど胸に目が行ってしまう。普段着ているメイド服姿でも平静を保つのがやっとなのに、今日のようにバニー服でいるときなど心臓が変に高鳴ってしまって仕方がない。
生徒に対して向ける言葉ではないかもしれないが、正直に言うと彼女の豊満なバストは目に毒だった。
”とりあえず仕事を始めようか”
「その前にちょっと遊ばない?」
”ダメだよ”
「えー……」
”今週は珍しく大きな仕事の予定が一件も入ってないけど、書類は溜まってるからね”
「むぅ~……掃除と洗濯とかは必要無い?」
”ちょうど先週の当番の子と片付けてしまったところなんだよ”
「そんなぁ」
アスナは不満そうな表情を浮かべてソファに座り込んだ。彼女の気性的に何かやっていないと気が済まないのは知っているけど、でも無い仕事を作り出せるほど私は器用ではなかった。
”アスナはゆっくりしてくれてて構わないよ。たぶん今週はずっと暇だと思うから休んでて”
アスナを気遣ってそう言ってから、私はしまったと思った。暇、という単語を彼女の前で使わない方がいいと気づいたときには手遅れだった。
「暇だったらさ」
アスナはそう言っておもむろに立ち上がると……すたすたと私のほうへと歩いてきて私の目の前でくいっとしゃがみ込んだ。視線が合うより先にやっぱり胸に目が行ってしまった。そんな私の視線の行き先を知ってか知らずか、アスナは上目遣いで言った。視線を顔に戻せば、今度はその大きな目尻と愛らしい整ったまつ毛が私を誘惑しているかのように錯覚してしまった。
「撫でて、ご主人様!」
アスナはそんな私の心中を知ってか知らずか、先ほどは違ういたずらっぽい笑みを浮かべてそう言った。
”……撫でません”
「えー、暇ならちょっとくらいいいでしょ? あ、じゃあぎゅーってしてくれてもいいよ!」
”アスナ……”
「撫でるのと、ぎゅーっとするのと、どっちにする~?」
自由奔放を絵に描いたような性格のアスナはいつだって自由だった。今日だってシャーレの当番だというのにバニー服を着てやって来るし、暇だと言えばこうして遊んでとせがんでくる。動物で例えるならめちゃくちゃ人懐っこい大型犬のような生徒だった。
だからだろうか、私は思わず……きっと、魔が差してしまったのだと思う。一度この子を驚かせてやろうと、そんな軽い気持ちでの思い付きを私は実行してしまったのだ。
「あ、やっと撫でてくれるんだ~」
私はアスナの頭ではなく、
むにゅ
……胸に、手を伸ばした。伸ばしてしまった。アスナの胸はこの世のどんなものよりも柔らかく、さらっとしていてなめらかですべすべとした極上の手触りをしていた。指はどこまでも沈んでいくように感じられた。
「あっ」
アスナはそう言うと黙ってしまった。どうだ、驚いたでしょ、とこの時までは私はそう思っていた。
だが直後に見せた彼女の反応を見て、自分がいかにバカなことをしでかしてしまったのかを思い知ることになった。
「……」
”アスナ……?”
アスナは黙りこくったまま、ぷるぷると体を小刻みに振るわせていた。俯いた顔は見るからに赤くなっていた。
その様子も表情も、おそらく私が今まで見たことないアスナだった。けどそこに意外な一面を見たときの驚きや嬉しさといったものは微塵も感じ取ることはなく、ただやってしまったと、そう思った。
”ごっ、ごめん!”
私はここでようやく手を離した。私は何をやっているんだ。生徒を怖がらせてしまうなんてと思ったが、もう遅かった。
「……今日はもう、帰るね」
アスナはそれだけ告げると足早に執務室を去って行った。一粒の雫をこぼしながら。
私は手に残った感触と一緒に恐ろしいまでの後悔も手に入れた。
その日のそのあとのことはよく覚えていない。一日中ぼーっとしていたかもしれないし、仕事に没頭していたかもしれない。わからない。
終業後、モモトークにメッセージがいくつか届いていた。すべてアスナからのものだった。
『今日はいきなり帰っちゃってごめんね、ご主人様』
『明日からもちゃんと行くから』
『ごめんね』
アスナからのメッセージに、いつもの明るい彼女はどこにも居なかった。……謝らなければいけないのは私の方なのに。
返信のメッセージを書き込んでは消し、書き込んでは消し……結局、その日のうちに私は彼女に謝罪することができなかった。
――
翌朝、シャーレの執務室。出勤予定時刻からほんの少し遅れてアスナはやって来た。昨日とは違い、ちゃんとミレニアム指定の制服を着て。いつか見たときと比べて胸元のボタンはしっかり留まっており、素肌を覗かせてはいなかった。
”あー……その、おはよう”
「うん、おはよう」
ぎこちない挨拶を交わし、お互いに席へついた。気まずい空気が執務室に流れていた。原因は間違いなく私にある。
手遅れになる前に。私はふぅと深呼吸をして、アスナへと声をかけた。
”アスナ”
「……なぁに?」
”……昨日は、ごめん”
たったひと言だけなのに、酷く勇気のいる謝罪だった。先生なんだからもっと何か他に言えることもあったかもしれないが、この時の私はただこのひと言だけしか伝えることができなかった。
”本当に、ごめんなさい”
「……」
謝罪の言葉をただただ述べる私にアスナは何も言わなかった。
「……」キコキコ
深く頭を下げる私の耳に何か音が聞こえた。なんだろうと思わず顔を上げると、椅子に座ったままのアスナが目の前にいた。聞こえた音は椅子のキャスターが動く音だったらしい。
「……私はさ」
アスナがやや俯いたままゆっくりと話を始めた。
「私はご主人様のことが、先生のことが、好きだよ。そばにいるとすごく楽しいんだ」
「好きなのは、ほんと。ほんとにほんと。でも、でもね」
「昨日みたいな、ああいうことは、その」
「……そういうことしてもいい関係じゃないと、だめだよ」
「そういう関係じゃないと、しちゃだめだと思う」
「そうじゃなかったら、だめ」
「……先生は、どう思う?」
最後にそう尋ねる前にアスナは俯いていた顔を上げ、私の顔をじっと見つめてそう言った。
……答えなんて、ひとつしかない。
”私も、そう思う”
「だったら」
ほんの少しだけアスナは座ったまま私のほうへと近づき、言った。
「そう思うんだったら私のこと、撫でて?」
”いや、でも”
「撫でて」
アスナらしくない強情な頼み方だった。向けられた視線から「撫でてくれるまでここを動かない」と感じてしまうほどに。……ここでも応えはひとつだった。ひとつしかなかった。
私は恐る恐る、彼女の頭へと手をやる。途中、手の動きが止まったが、なんとか動かし、彼女の頭髪に触れた。
「ん……」
さらりとした髪の感触が手を伝わって届いた。ふわりと何かのいい香りもした。一度だけでなく二度、三度、私はアスナの頭を撫でた。思えば私が彼女を撫でたのはこれが初めてのことだったかもしれない。
「……えへへ」
撫でるたび、アスナは子どもっぽい笑みを浮かべた。
「ご主人様、大好き!」
何度か撫でたあと、彼女は先ほどまでの様子が嘘のように喜びを爆発させた。させたときに両手を思いきり上げたせいか、ぱちんと何かが弾け飛んだ。
「あっ」
”あっ”
弾け飛んだのはアスナの制服の胸元を留めていたボタンだった。あっという間に彼女の胸は露わになり、私の視線が思わずそちらへと向いてしまった。慌てて私はアスナの顔へと視線を戻したが、当たり前だけどアスナはそんな私の視線の移り変わりに気がついたようで、また昨日のようないたずらっぽい笑みをにんまりと浮かべた。
「ふーん、なるほどね。ご主人様は私の胸が好きなんだ~?」
”それは、その”
言い訳などできなかった。
「うーん、見るだけならいいよ!」
”い、いいの?”
「いいよ!」
思わず飛び上がりそうになるのを必死でこらえた。
「でも、」
アスナは突然私の手首を掴むと自身の胸元へと持っていき、素肌に触れるか触れないかとかのギリギリのところで止めた。い、いったい何が起きてるんだろう。さっぱりわからない。私の心臓は早鐘を打っていた。
「お触りは厳禁だからね!」
アスナは満面の笑みを浮かべてそう言った。私は酷く赤面した。