セリスの目には、その拳がひどくゆっくりとしたものに見えた。吸い込まれるように村人のほほを捉えた拳は、その威力を存分に発し、罪なき村人は後方に大きく倒れ込んだ。
それを見た時、セリスは己の中に流れるバルドの血が大きく脈打つのを感じた。
「……セリス様」
隣にいたスカサハがセリスの肩に手を置いて押しとどめている。自分でも知らずのうちに立ち上がろうとしていたらしい。
「……分かって……いる」
セリスは歯噛みしながら身を屈めた。帝国の手は、遂にこのティルナノグ村までやってきた。しかし村人から情報を集めているということは、レジスタンスの拠点を突き止めることはできなかったのだろう。
ここでセリスたちが出て行けば、これまでの村人たちの協力が無駄になってしまう。セリスは耐えなければならないのだ。どれほど村人たちが帝国兵の暴虐にさらされようとも。
だが、ここでセリスには決して看過できないことが起きた。帝国兵のひとりが剣を抜いたのだ。
――村人を殺すつもりだ
セリスは瞬時にそれを悟った。そこからの行動は早かった。路地裏に身を隠していたセリスは、風の如き速さで間合いを詰めると、今まさに剣を振り下ろさんとしていた帝国兵を斬り伏せた。
「……ああもう! ラクチェ!」
スカサハは眉根を寄せながら、後ろに伏せているはずの妹の名を叫んだ。だがそこには影すら見えなかった。名を呼ばれたラクチェはすでに飛び出しており、セリスに続いて帝国兵を斬り伏せているところだった。
スカサハは小さくため息を落とし、近くの木箱を足場にして屋根へと飛び上がった。東の方に目を向けると、村から脱出しようとしている何人かの帝国兵が見えた。
そして彼らを目掛けて石を投げる村人たちの姿も。
村の出入り口では粗末な武器を握った若者たちが震える脚で踏ん張っていた。
(……皆、覚悟を決めたのだな)
スカサハは自分の心臓がドクンと跳ねるのを感じた。ダナン王の恐怖政治に苦しめられた村人たちは、賢王マナナンの時代を忘れておらず、その血を引くシャナン王子の解放軍に希望を託していたのだ。
スカサハの脚に一層の力が宿る。彼は屋根の上を飛ぶように走ると、頭上からの一撃で帝国兵を斬り倒した。
「ふぅ、これで少しは時間が稼げるか」
とはいえ、先発隊が帰ってこなければ、いずれ本隊が派遣されてくるだろう。スカサハは本格的な戦いが始まることを予感した。
◇
セリスたちは村を守ることに成功した。だがそれは、新たなる戦いの序章でしかないことを意味していた。先発隊が帰還してこないことを知れば、新たな軍勢を派遣してくることは間違いない。
セリスは女子供を避難させ、村人たちとともに迎撃の準備を整える。そうしていると、報告を受けたオイフェたちが青白い顔で村へ訪れた。
「セリス様! ご無事でしたか!」
馬から降りたオイフェはすぐさま臣下の礼を取る。
「オイフェ、私はこの通り無事だよ。そして……」
セリスはオイフェの後ろにいるシャナンに視線を移した。
「すまないシャナン。私が先走ったせいで、レジスタンスの存在が明るみに出てしまった」
「謝罪は無用だ、セリス。来るべき時が来た、それだけだ」
シャナンの言葉に、セリスは小さく頷く。
グランベル帝国の属国とされたイザークの国民は奴隷さながらの生活を強いられていた。今は亡きドズル家のランゴバルト卿の長男であるダナンがイザーク王を僭称し、圧政を続けているのだ。国民感情はいつ爆発してもおかしくない状況だった。
「セリスよ。私は待っていたのだ。おまえがおまえ自身の意志で
シャナンは感慨深く、セリスの肩に手を置いた。
「私だけではダメなのだ。おまえでなければ……バーハラで非業の死を遂げたシグルド公の遺志を継ぎ、そして聖者ヘイムの直系として、おまえは聖戦士たちをまとめ、世界から闇を払う義務があるのだ!」
セリスの肩に、シャナンの指から熱いものが伝わってくる。
「それが……私の運命なんだね……オイフェ、策はあるか!」
セリスは忠臣であり軍師でもあるオイフェに問う。
「はっ! すぐさま陣容を整え、王都リボーまで攻め上がりましょう」
オイフェの言葉に、セリスはうなずいた。後に解放戦争と呼ばれる戦いの、始まりであった。
神速の勢いで攻め上がったセリスたち解放軍は、城兵にはまったく気づかれずにガネーシャ城の包囲を完了した。
ガネーシャ城の城主であるハロルドは歴戦の武人であるが、長年の一方的な支配によって、その戦感は失われていた。
時刻は払暁、伝令の叫び声によって目覚めた彼は、信じられないものを目撃する。それは各所から立ち昇る火の手だった。
オイフェは自分たちに同調してくれる者を、かねてより城の下働きとして潜入させていたのだ。
「……レジスタンスか!」
ハロルドは混乱する兵たちに一喝すると、愛用の戦斧を掴んで解放軍の歩兵部隊に襲い掛かった。
「グランベル帝国の威光、思い知らせてくれるわっ!」
たとえ感覚を鈍らせているとはいえ、練磨の将の実力は健在である。だが相手が悪かった。
「今宵のバルムンクは……加減を知らんぞ」
流星が奔る。ハロルドは自分が死んだことすら自覚できず、愛用の戦斧とともに崩れ落ちた。
城主ハロルドが敗死したことはすぐに知れ渡り、帝国兵は次々と逃亡と投降を始めた。
ここに戦闘は終結した。
ガネーシャ城を新たな拠点としたセリスたちは、リボーへ進撃する戦略を検討していた。
そこに、一陣の風が訪れる。
「久しぶりだな、セリス」
「えっ!? あなたは……レヴィン!」
「ご無沙汰しておりました、レヴィン様」
その人物は、かつてシグルド公子とともに戦ったシレジア王レヴィンであった。あのバーハラの惨劇の際、シグルドは志し半ばに倒れたが、彼の活躍で多くの戦士が脱出することに成功した。シレジアがグランベルに占領された後も、レヴィンは反グランベル勢力を築くべく大陸中に暗躍し、セリスたちのもとにも度々姿を現していた。
「私はこの時を待っていたのだ。おまえが決起する時をな。反帝国の兵を挙げるのに、イザークほど適した国はない」
「ええ、この国の人たちには勇気があるし、帝国を心から憎んでいます」
「そうだな。おまえもやきもきしていたんじゃないのか? 見かけによらず堪え性がないからな、おまえは」
そう言ってレヴィンはシャナンに視線を向けた。レヴィンはシャナンの子供の頃を知る数少ない人物だった。
「あなたには敵わないな」
シャナンは小さくつぶやいた。
「で、オイフェよ。大筋の策に変わりはないか? セリスには伝えたのか?」
「リボーを攻略してからと思っていたのですが、良い機会です。セリス様、よろしいでしょうか」
「え? ああ、頼むよ。オイフェ」
セリスは襟を正してオイフェに向き直った。
「我らがトラキアからの援助を受けていることは、以前にお話ししましたね」
「ああ、確かトラキア王国は、帝国の介入を受けていない唯一の国だったね。子供狩りもなく、大陸でも平和な場所だとか」
「はい、帝国がまだ王国だった頃の王、アズムール王が交わした不戦条約の期限が切れた後、アルヴィスは二度ほどトラキアに攻め込みましたが、いずれも失敗に終わっています。それ以降、トラキアでは大きな戦乱はなく、平和が維持されています」
「さすがはトラバント王だ。賢王と名高いだけはある。素晴らしい王だ」
セリスは本心からそう答えた。だがそれを聞いたオイフェは複雑な表情を浮かべていた。その理由を知るレヴィンとシャナンは小さく苦笑した。
かのトラバント王は、かつてはトラキアの傭兵部隊を指揮して大陸中を飛び回っていた。獰猛にして狡知、冷酷にして残虐、トラキアの飛竜隊と聞けば多くの者が震えあがった。報酬次第でなんでもやる彼らを、人々は軽蔑と畏怖を込めて、トラキアのハイエナ部隊と呼んでいた。
まだセリスが生まれる前のことである。
オイフェにはどうしても当時のトラバントの印象を忘れられないのだ。
「資金的な援助もそうだが、このバルムンクの情報も彼らからもたらされたものだ。まさかイード神殿に眠っているとは思わなかった」
シャナンは腰に提げていた神剣をクッと押し上げた。
「じゃあもしかして、ティルフィングの場所も?」
セリスは期待を込めてオイフェに問うが、オイフェは苦々しい思いで首を横に振った。
「ティルフィングは、アルヴィス自らが保管しているようです。保管場所を知る者もごくわずかのようで、突き止めることはできませんでした」
「セリスよ。神器とは必ず所有者のもとへと還るものだ。おまえが戦い続けていれば、いずれ聖剣はおまえの手に戻ってくる」
レヴィンは力強い言葉をセリスに投げかける。セリスはその言葉に、なぜか確信めいたものを抱いた。
「……話を戻しましょう。我らはこのまま王都リボーを目指します。リボーを制圧した後は、南下してイード砂漠を越え、ミレトス地方に入ります。トラキア王国を通ることになりますが、すでに話はついておりますのでご安心ください」
「ミレトス自由都市か。かつては賑わっていたと聞くが……」
「はい、ロプト教団と帝国軍のヒルダ女王の残虐的な政治により、かなり衰退してます。逃げ出す市民も多く、トラキアにかなりの数の難民が押し寄せたようです」
「それがトラキアの力になったわけか。皮肉と言うか自業自得だな」
人は力だ。ミレトスだけではなく、トラキアには多くの難民が流れてきた。そしてトラバントはそのすべてを受け入れたのだ。トラキアは国土の広さに対して国民が少ない。また難民の多くは帝国憎しの感情が強く、兵としても有用だったのだ。
「我らはミレトスを帝国の手から解放し、民衆の支持を得ます。そしてそのまま北上して帝国に攻め上がります。時を同じくしてトラキアとアグストリアも、東西から帝国に兵を進めます。つまり三方から攻めるわけです」
「なるほど。しかしトラキアはともかく、アグストリアは大丈夫だろうか? レジスタンスは多いと聞くが、個々に活動していてまとまっているとは聞いていないが……」
セリスが不安そうな目を向けるが、それもオイフェの想定内だ。
「セリス様、トラキア軍の黒騎士という方をご存知でしょうか?」
「ああ、漆黒の全身鎧をまとった騎士だろう。名前は聞いたことがないが……」
「はい、名前は伏せられております。ですが彼はアグストリアのさる貴族の血を引くお方なのです」
「なるほど。彼がアグストリアのレジスタンスをまとめ上げるという算段か」
「ご明察です」
オイフェはペコリと頭を下げた。
「細かなところで変更はあるかもしれんが、大筋はそんなところだ」
そう言ってシャナンが話を締める。
「話が終わったところすまないが、おまえたちに頼みがある」
レヴィンは一旦中座すると、真珠色の髪の少女を連れて戻ってきた。
「名前はユリアという」
レヴィンは記憶を失ったという少女を紹介した。
それはセリスにとって、運命とも言える邂逅だった。