保有効果という心理用語がある。簡単に言えば、自分が所有しているものには高い価値を感じる傾向がある、というものだ。
また人は新しく手に入れるものよりも、失うものの方が重大な損失に感じる傾向があり、これをプロスペクト理論を呼ぶ。
そして現状を維持したいと感じる心理傾向は、現状維持バイアスと呼ぶ。
つまりトラバントは、危険を冒してグランベルから領地を得るよりも、苦心して手に入れたマンスター地方を失うことを何よりも恐れているのだ。
もちろんそれはレジスタンスも然りである。
まぁ、俺が多少誘導したというのもあるが、その結果賢王とまで呼ばれるようになったのだから、トラバントも感謝しているだろう、きっと。
近年になってロプト教団の専横は日増しに酷くなっている。
だがこのトラキア王国では、ロプト教徒というだけで迫害されることはない。禁じているのは、暗黒魔法の魔導書を持つことだけだ。
この法も、トラバントは最初渋っていた。ロプト教徒は見つけ次第処刑しろとか言ってたからな。
だけどなぁ、宗教ってのは難しいんだ。俺もそこまで詳しいわけじゃないけど、日本人なら一向一揆とか隠れキリシタンとかは誰でも知っているだろう。信仰を禁止して、見つけ次第処刑とかやっても、隠れ潜む奴は必ずいる。
そういうやつらは潜在的な敵となるのだ。
だからトラキア王国では、善良なロプト教徒ならば国民として受け入れている。
アルヴィスがロプト教をグランベル帝国の国教として認めたことで、少なくないロプト教徒が表に出てくることになった。
しかしマンフロイを筆頭とした一部の狂信者たちが暴走し始めると、善良なロプト教徒までもが迫害され始めた。
今は子供狩りの件もあって、大陸中でロプト教徒というだけで周囲から憎まれる。だから信仰を捨てずとも平穏に生きられるトラキアに来るロプト教徒は意外に多い。
そもそも善良なロプト教徒ってのは、マイラ派という聖騎士マイラの教えを信奉する一団なのだ。
マイラの教えとは、ロプト神を土着神の高位に位置づける事で神々の融和を図り、差別を無くそうとするものであった。
つまり、絶対的な階級社会であったロプト帝国とは反対の考えなのだ。
本当はくそとみそくらい違うのに、それが「ロプト」というだけで、今の民衆には一緒くたにされている。
臭い物に蓋をした結果、正しい歴史が継承されずに今に至るというわけだ。
だからトラキアにいるマイラ派の教徒は、自分たちは子供狩りを行うロプト教団とは違うということを切に訴えている。そして、トラキアという国がそれを認めていることも、彼らの後押しになっているのだ。
ロプト教にも深い見識を持ち、寛容な態度を見せたトラバントは偉大な王として歴史に残るだろう。
話が逸れたな。
時期的にロプトウスはすでにユリウスに降臨しているはずだ。アルヴィスの実権はほとんどないに等しく、ロプト教団の言いなりになっているように思えた。
子供狩りは日常的に行われているらしく、トラキアに逃げてくる民も後を絶たない。
現状、グランベル帝国の手が入ってこないのがトラキア王国だからだ。
よって、トラキアの人口は爆発的に増加している。マンパワーが増えるのはいいことなんだが、絶対的に知識層が不足してるんだよ。
まあ今まで知識ってのは貴族層が独占していたようなもんだからな。
でもね、これからトラキアは大きくなっていくんだ。その時に苦労するのはあんたたちなんだよ。書類仕事とか誇張なしに十倍とかになるよ。補佐できる人間が必要でしょ。人材ってのは一日二日で育つモンじゃないんだよ。
と説得したら文官たちは納得してくれた。
こうして学校が設立されたんだが、全然追いついてねぇ。そもそもの識字率が低い上に、民衆が教育の重要さを理解してないんだよ。
そりゃ百姓に生まれたら百姓で生きるっていうのが当たり前に根付いている価値観を覆すのは難しい。みんながみんな向上心を持っているわけじゃないんだ。
実際、俺の村でも読み書きできるのは村長含めて一握りの人間だけだったし。
そこでマイラ派の人間が活きてくるわけだ。元々ロプト教団以前の聖職者は知識層の集まりだったのだ。読み書きができ、薬草などの知識があって、初歩の医術などをこなすだけで、特別な能力を持っていたわけではなかった。
彼らが暴走を始めたのは、ガレがロプトの力を得て帰還してからだ。この辺りの話は長くなるので割愛するが、要するにマイラ派の教徒は普通に読み書きができる人間が多いってことだ。
だから俺は彼らを受け入れ、識字率の向上を依頼している。
また話が逸れた。
トラキアには現在四つの神器が存在する。
アリオーン殿下のグングニル、キュアン将軍のゲイボルグ、黒騎士アレスのミストルティン、弓騎士ファバルのイチイバル。
実際にはもう一つあるが、あれは戦闘用ではないし、軽々に使うことはできないのでノーカンだ。
そして最前線であるメルゲン城を守るのは、トラキアの名将ハンニバルと、魔導騎将である俺だ。
トラキアでも本格的に魔導士の育成を始めたため、上位魔法を使いこなす者もちらほらと出始めている。
こういった理由でグランベル帝国はトラキアに手が出せずにいる。過去二度に渡る侵攻作戦が失敗して慎重になっているというのもあるし、レジスタンスも各地に存在するので、戦力の一点集中ができないというのもあるだろう。
レジスタンスといえば、ついにイザークで解放戦争が始まった。その先頭に立っているのはセリス。ついに物語が始まったわけだ。
まあ解放軍とはちょくちょく情報のやり取りはしてたんだけどな。ちなみに、帝国の手が入らないという理由で、原作キャラの何人かがこちらに流れてきている。
例えばレプトールがアルヴィスに背信したことを知ったエスニャはトラキアに亡命してきている。そしてシレジアに逃れたティルテュも、帝国に併呑された後にその伝手を頼ってトラキアに逃れてきた。
フリージ家も色々と面倒なんだ。フリージ家を継いだブルームはミレトス地方の統治を任されているが、実際には妻のヒルダには逆らえず、子供狩りも頻繁に行われている。
そんなことを考えていると、執務室の扉がノックされた。
「入れ」
「失礼します。ジャバローと名乗る傭兵が面会を求めていますが」
「ここで会う。案内してくれ」
「畏まりました」
やはりブラムセルは解放軍討伐に動いたか。ジャバローにはブラムセルが動いた場合にのみ始末するように依頼していた。ブラムセルが動かなければ、ジャバローは何もせずに大金を得ることができる。
動いた場合でも、解放軍の相手をするよりは労力が少ない。彼にとっては損のない契約だったわけだ。
それでもジャバローがブラムセルを裏切ってくれる確信はなかった。契約自体はこちらが先だが、情が移るってのは十分あり得ることだ。しかし、どうやらジャバローもブラムセルを好きにはなれなかったようだ。
「入るぜ、将軍さんよ」
「ああ、座ってくれ。ワインでもだそう」
「ほぅ、気が利くね。おっと敬語を使った方がよろしいでしょうか?」
「構わんよ。まだ私の部下というわけではないからな」
「そりゃ助かる。堅苦しいのは苦手でね」
そう言ってジャバローはソファに腰を沈めた。だが何かあればすぐに立ち上がれるように警戒は崩していない。
「ブラムセルはどんな男だった?」
「典型的な小物だ。ヤツとの付き合いはあんたらの方が長いんじゃなかったか?」
「外から見るのと内から見るのとでは違うこともあるさ」
ブラムセルはダーナの統治を任されると、すぐに大金を持ってメルゲン城にやってきた。よく口の回る男だったが、要するに仲良くやりましょうねと言いに来たのだ。
元々ダーナに攻め込むつもりのなかったハンニバル将軍は、その金を突っ返そうとしたが、俺が押しとどめた。ああいった猜疑心の強い輩は、断れば何か裏があると考えるものだ。
だから俺は「ダーナを攻めるかどうかは、これからのキミ次第だよ。ふふふっ」と言ってやった。それからブラムセルは定期的に金や
「それで、考えてくれたかな?」
「部下は乗り気のヤツが多いようだ。流浪の旅は何かと疲れるからな。腰を落ち着けるってのは、俺としても悪くない。帝国とやり合うってのも、なかなか面白そうだ」
「まだ決まったわけではないさ」
「解放軍を助けといてよく言うぜ。つまりは、そういうことなんだろ?」
ジャバローは笑いながらワインを呷った。
「ふぅ、こういう場所では構わんが、外では敬語を使え。これからは俺の部下になるわけだからな」
「ふふっ、畏まりました。ブラック魔導騎将殿」
そう言って、ジャバローは小さく敬礼した。
◇
初めてセリスを見た感想は、意外と小さいなというものだった。まあ隣にいるオイフェのガタイが良いってのもあるんだろうが。俺より三つか四つ年上だったか。
「お初にお目にかかります、セリス皇子。トラバント王よりこのメルゲン城を任せられておりますハンニバルと申します」
「セリス・フォン・レアル・シアルフィです。トラキアの楯の名はイザークにまで届いております。帝国の侵攻を二度に渡って防ぎきったとか……」
「みなが祖国のために戦ったからこそです。彼の活躍も大きかった」
ハンニバル将軍の視線がこちらを向く。
「ハンニバル将軍の補佐を務めております、ブラックです」
「あなたがあの高名な魔導騎将殿ですか。噂ではあらゆる魔法を使いこなすそうですが」
「ははっ、それは随分と誇張されたものですね。私が得意なのは雷魔法と風魔法ですよ。もちろんトールハンマーやフォルセティなどは使えませんが」
俺が冗談めかして答えると、レヴィンは薄く笑った。
「ああ、そういえばセリス皇子。ミレトスに入ったならマギ団と協力してください。セティという男がリーダーのレジスタンスです」
俺の言葉に、レヴィンは何の反応も示さなかった。それから大まかな流れを確認し、一息入れることになった。
そこに一組の夫婦が現れた。
「お話は終わったかしら?」
「――叔母上! むぐっ!」
まだ若々しさを残すエスリンがセリスを抱きしめる。
「お久しぶりです。キュアン将軍」
「ああ、本当にな、オイフェ。それにシャナン、レヴィンも」
キュアンもまだまだ剽悍さを保っていた。アルテナにゲイボルグを継承することなく、今でも小枝のように振り回している。二度に渡る防衛戦では、獅子奮迅の活躍をしたひとりだ。
あの運命の日、西の空に
「立派に育ったわね。オイフェの判断は間違ってなかったってことかしら」
エスリンはセリスを手元に置いて育てたかったのだが、あの頃のトラキアは微妙な情勢だったのだ。不戦条約があるものの、アルヴィスが攻め込んでこない保証はない。
不戦条約が解かれた後もそうだ。実際アルヴィスは二度に渡ってトラキアに侵攻してきた。
前線からは遠い南トラキアで育てるという案もあったが、結局はオイフェに任せることにした。おそらくエスリン自身も自分では甘やかしてしまうという気持ちがあったのかもしれない。
「それとね、セリス。ひとつお願いがあるの」
と、可愛らしい仕草でエスリンは笑う。
「入ってらっしゃい、リーフ」
「初めまして、セリス皇子」
緊張した面持ちでリーフが挨拶する。
「うちの息子よ。この子ったら、あなたと一緒に戦いたいってきかなくてね」
「その気持ちは嬉しいですが……いいのかい? キュアン将軍の息子というなら、王国でも期待されているだろう」
「いえ、僕は……セリス皇子と共に戦いたいのです!」
「……そ、そうなんだ」
いきなり手を掴まれ、セリスはたじろいだ様子で一歩下がる。
この年頃の子は英雄譚に憧れるものだ。それに、ここにいてはどうしてもキュアン将軍の子として扱われるし、自分を試したいという気持ちもあるのだろう。
「そこまでいうのなら……」
結局はリーフの熱意に押される形でセリスが折れた。
「彼以外にも、解放軍に志願している者はおります。よろしければ同行させていただけますかな?」
「ありがたい。我らはまだまだ寡兵。志願しているのなら是非とも受け入れさせていただきます」
ハンニバル将軍の申し出に、オイフェは快く応じた。
◇
「お会いにならずとも良かったのですか?」
セリス皇子との会談も終わり、俺は客間の一室に場所を移した。そこには燃えるような髪色の司祭が静かに佇んでいた。
「遠目でも分かりました。彼の目には力がある。必ずや帝国を打倒し、世界を闇から救い出してくれるでしょう」
司祭は祈るように窓の外を眺めた。
「あなたが加われば、解放軍はさらに盤石になるでしょうね」
「……帝国はまだまだ解放軍を楽観視しているようです。しかし私が解放軍に加われば、あの暗黒司祭たちは解放軍まで巻き込んで私を始末しようとするでしょう」
この司祭はとある理由で暗黒司祭たちに狙われている。父親から受け継いだ赤い髪は目立つだろうし、その身体に刻まれた聖痕は、決して彼を運命の円環から逃さないだろう。
「それに私は……セリス皇子ほど、あの男を憎み切れないのです。母は確かにあの男を愛していましたし、子供の頃に見た柔和な笑みを、私は覚えています。決して非道なだけの男ではないのです。すべての元凶はロプト教団、暗黒司教マンフロイにあると、私は考えています」
司祭が静かに瞑目する。しかし唇を嚙みしめているようでもあった。マンフロイは彼の母親を殺した男でもあるのだ。
「運命の扉は開かれました。私は影から彼らを支えましょう」
司祭の赤い瞳が、一層輝いたように見えた。