私が追い越す理由。
私がここに理由。
その全てに意味はなくても、君を迎えるための私はいます。
今は不器用だけれど、それが私。それが俺だから。
吹く風全てが身体を裂く程に冷たかった冬のど真ん中に、私は近所の、帽子を被ったウマ娘のお姉さんと一緒に中山レース場に訪れていた。年の最後を締めくくるレースである「有馬記念」を見に来ていた。
どこを見ても人、人、人、たまにウマ娘。せっかく買って貰ったポテトを人とぶつかって落としてしまった事もあった。いつもなら泣いたはずだが、それ以上の熱気が私に落ち着きと鈍感を与えた。それくらいの熱量がこの中山レース場にはあった。
それが何故か。理由もあった。
『皆様の期待に応えてついにこの場に姿を現しました!』
皆の声を聞くまでも無い。なぜなら新聞やテレビ、ラジオでも当たり前に聞く存在。
私はその名前を口ずさみたかった。
それは私の憧れであった。その名は―――
『テイエムオペラオー』
自信ありげで手のひらを広げ、それを空に差し出してを差し上げて己の存在を示して自己の存在を証明する仕草に他者が思う行為に―――
「今度は負けろよ!」
「たまにはドトウに勝たせろ!」
「いつも同じ展開でつまんねえんだよ!」
罵声を浴びせられた。
それでも彼女はいつもと同じレースをしよう、同じ展開でレースに勝とう、そういう算段があったに違いない。今になれば思う事だ。現に、彼女の行った、結果を出したレースの全てがつまらなかった、と表されたからだ。
勝った殆どのレースがハナ差であった。
もし人を圧倒させるような強さを垣間見れたレースがあるとするならば、この前の天皇賞秋と、皐月賞。それくらいだった。
「うおおお! かっけえ」
「ふっ、彼女らしいな」
私を連れてきてくれたお姉さんが誇らしげに言った。
「今日はどんなレースをしてくれるのかな」
「分からない。レースは始まって終わって、その結果が自分を示してくれる。ドトウの応援が多いのも、彼女がいつも二着を取ってくれたからだと思う。トップロードがいつも皆の期待に応えるポテンシャルで走れる事も人気が高くしている一因だと今は思う」
「オレはオペラオーに勝って欲しい! どうやって勝つか見てみたい!」
「―――それも一つの醍醐味だ。どうレースを進めていくのかというのも彼女自身。だから、いつもあの娘は展開を見て、この状況でどうすべきか、というものを分かっている。それも、自分の身体の状況を自分自身で考えて、だ」
いつもの冷静なコメントでお姉さんは私に返した。
この空間は寒いのに暑苦しかった。
全てのウマ娘に対する、あらゆる方向に飛び交う期待が跋扈して熱を生み出していた。はずだった。
だが、テイエムオペラオー本人が登場してから、その歓喜は一気に冷え込んだ。
現在の本人の姿が観衆全てに現した状態はそれ程までに、期待を大きく裏切るものであった。
『おーっとテイエムオペラオー! 今日という日に左目に包帯を巻いている! どうしたことでしょう!』
こんな痛ましい姿でレースを出ている彼女の姿は人々を、それも彼女を応援しない人々さえ同情の意を示させるような状態であった。よく見れば包帯には血が滲んでいる。
理由は後から風の噂で聞いたことだが、寮で机に目をぶつけてしまったとの事。真相は不明。
でも、今の彼女はその事実を受け継いだ状態で立っていた。
「はーっはっは! こんな怪我くらいどうって事ないさ! バ体検査に通ったから私は、今ここにいる! 昨日が、今日の朝があってこその今の私だー! 過去の私の集大成が今の私!
今日の私は左目は確かに見えないが、私には右目もある!」
とんでもなく強気な発言に再び群衆が沸くが、この状態でレースに出るウマ娘は私が見てきた中では初めてな事に変わりない。
それでも、彼女のいつものリップサービスと笑顔、自信に満ちあふれた声に変わりは無く、私も疑う事はしなかった。
それもそのはず、この年の彼女は負けたことが一度も無かった。
その上ウマ娘シニア路線王道G1をも全部勝っている。そして、今日、このレースに勝てば、伝説のウマ娘、シンボリルドルフでさえ達成できなかったグランドスラムの制覇が掛かっていた。
にも関わらず毎回、同じように自信有り気にリップサービスを披露し、ちゃんと一着を取り、最後にはウイニングライブをして『オペラ劇場・嗚呼それが我が宿命』を披露していた。まるで勝って当然と言わんばかりの自信に満ちた笑みを振りまいて。
皆はそれが続く一年に飽き飽きはしていたものの、それがなくなる不安も同時に抱えさせた。
「え! お姉ちゃん! これやばいよ! オペラオーが怪我してる!」
お姉さんにそう言うが、返ってきた言葉は、
「あいつなら大丈夫だ」
信頼だった。
今になれば理由はぼんやりと察せされるものはあったけれど、この時の私はまだ分からなかった。
なぜなら本番のレースに出た事なんて一度も無かったからだ。
この独特の緊張感から感じる静かな熱気を感じる幼さは、この頃のお姉さんにはもう無かった。だから、信じていたのだ。
テイエムオペラオーの、心の強さを。
中山レース場G1のファンファーレが鳴ると、出揃ったウマ娘達がゲートへと足を運ぶ。
冷ややかな空気の中に差す陽光が僅かでも彼女達の支えになっているのか、ゲート入りを真から拒絶している娘はいなかった。普段なら、ゲート入りを拒む娘は結構いた。今もいる。(主にゴールドシップ先輩)
もしかしたら、レースの開始位置は太陽の向きとと一致していて、皆が輝きの先を求めていたからなのかな、と思ったが今は分からない。
『そして今年最後のビッグレース。第四十五回、有馬記念。今、最後のウマ娘が収まりまして、16人体制完了致しました』
このレースは伝説だった。
彼女達にとっても。
私にとっても。
皆にとっても。
『今、ゲート開いた! スタートを切りました!』
ゲートが開いた途端、一気に沸く会場の人々たち。私もその熱気の一部となって、周りに人がいることも忘れて黄色い声援、いや咆哮に近い声を上げて叫んだ。レース前のオペラオーの怪我の事なんて、この時にはとうに忘れていた。
でも、彼女達がどのようなレース展開を望み、どのように立ち回っていたのかは彼女達それぞれであった。それでも、勝ちたいという思いだけは変わらない。全てのウマ娘達に通ずる想いと同じだ。
逃げ宣言をしたウマ娘は、思うようなスタートが切れずに、得意の脚質を披露なんてできなかったけれど、それでも自分を示すために前へと向かう姿を見せ、それに続くように皆が皆の、自分の得意脚質で、見せたいレースを私に届けてくれた。
お陰でペースの遅いレースだった。正直、このレースのタイムに関しても褒められたものはなかった。素人目に見ても、今の私から見てもそう思う部分がある。
レースタイムなんて皆で作り出すもの。生まれたレコードはみんなの努力の結晶。それを個人の力とするならば、前の様子なんか見ずにずっと先頭に立って逃げて勝つ娘だけが本物の強さを見せてくれる娘なんだと思った。
それでも、勝負というものの手段はルールの中でしか問われる事はない。皆が皆、勝つための位置を取って、勝つための走りをしている。
そんな中で、オペラオーは後ろから三番手の位置だった。いつも中段から前目に付けてレースを展開する彼女にとっては珍しい位置取り。
土煙を上げながら、観客に歓喜を届けるウマ娘達のレース運び。圧倒されない客はいない。
それでも、お姉さんはこのレースの異変に気付いていた。
オペラオーが前にいけない事に関してだ。皆が皆で彼女を取り囲むようにレースの展開を進めていた。全員から完全にマークされていた、という言い方が正しいのだろうか。
それもみんなが勝ちたかったから。年間無敗の最強ウマ娘に。それだけ無敗のウマ娘は他のウマ娘に『負け』という烙印を押し続けた。それだけ『悔しさ』を与えて、自身の勝利を謳った。
最大で18人しか出られないレースで一人しか一着を取れないのがこの世界。そのレースに参加出来るかどうかなんてそれまでの自分自身にかかっている。
それに、皆が皆、個人のみの力でこのターフを駆けている訳ではない。トレーナーがいて、仲間がいて、家族がいて、友達がいて、その期待を全て背負って走っている。
だから負けられない、抑えられない、たまらない。
全員で歯を食いしばってまで勝ちに拘る理由は精神の奥底から身体を突き動かして、レースの展開にまで及んていた。
「あんなの汚いよ!」
「汚くなんかない! 全てのレースはこのレースに出ている全てのウマ娘が紡ぐ想いの結晶。レースのルールを破らなければ、全部一緒なんだ。
あいつはここまでやってここまできてしまったから、このような扱いをされているだけで、あいつ自身はあいつのままだ。きっと今も、そして次も、私の、お前の、皆の期待に応える努力をする。あいつはそういう天才だ」
姉さんは私に対してよくこう言っていた。
『お前は私と同じタイプで全く違う方向性に向かう天才だ』
この頃はよく分かっていなかったけれど、今なら何となく分かる気がする。
お姉さんがテイエムオペラオーを天才と称する理由。それは、次のレースの事を考えて今のレースをしているからだ。と、この頃を振り返って思った。
パフォーマンスの安定度は歴代のウマ娘を見てもトップクラスだって、誰もがあのスパンでずっと一位をとり続けられるだなんて思ってもいないもの。
これは、私がテイエムオペラオーの事を好きだから言える事なのかもしれないけれど、敢えて言いました。
「頑張れ! テイエムオペラオー!」
他のウマ娘さん達が好きな人達の思いはここで踏みにじって、声を上げた。
大歓声の中迎え入れられた中山レース場の最後の直線に続々とウマ娘さん達がターフの上から地鳴りを響かせて駆け抜けていく中、オペラオーはマークされ続けていた。
『残り310mしかありません! 外の方からダイワテキサス! そしてナリタトップロード! ダイワテキサス! ナリタトップロード! さぁ、ダイワテキサスか、ナリタトップロードか! 内々にアフリカンボスも突っ込んできている!』
実況も先頭に立つ二人のウマ娘さんの名前を先に上げて、彼女達の最後の直線を迎え入れる様を、今テレビの目の前でこのレースを視聴している全ての人々に状況を伝える。
『さぁ、残り200を切った! 残り200を切った! テイエムは来ないのか!』
テイエムオペラオーにとっては極めて絶望的な状況であったのは、観客にとっても明らか。
このレース展開で勝てるものなどいなかったのだ。勝てるウマ娘はこのようなレース運びは行わないし、オペラオーはそのような位置取りは過去一度もしたことが無い。するわけが無い。
この展開はオペラオー以外のウマ娘さん達の勝ちたいという思いが全てつまった歪な結晶が形となって表れてしまったもの。だって、一度もオペラオーから一着を奪っていないから。
『テイエムは来ないのか!』
観客席からウマ娘の表情など見られるはずも無い。でも、みんなはテイエムオペラオーの表情や考え、思想を上手く読み取れていた気がしてならなかった。理由なんて聞くまでもない。
どうせ諦めている。今までに強さを見せつけるレースをしてこなかったからだ。
どうせ皆が自身をマークしているから負ける。今年に入って勝ち方が分かってしまったからだ。
どうせ飽きられている。自身のウイニングライブが一辺倒だからだ。
そんな考えはオペラオーが持ち合わせていなかった。
彼女は最初からそうだった。自分自身を誰よりも信じていた。
だから―――
『テイエム来た!』
完全に包囲されていたはずのテイエムオペラオーは敷き詰められたとても狭い馬群の隙間をついて、残り僅かしかないゴールへの道を、懸命に地を蹴って追いかけていた。
まさしく剛脚の名に恥じない足で、一気に他のウマ娘さん達を抜き去っていく。
『テイエム来た!』
しかし、この走りはいつものレースで見せるような、余裕のある走りでは無かった。今思えばフォームなんかもめちゃくちゃだった。
後から聞いた話だが、彼女に備わっている心臓は他のウマ娘さん達よりも1.5倍ほどのサイズがあるらしく、そのお陰で運動によって消費される筋肉のエネルギー量を最小限に抑えられていた。
それが彼女に次のレースに備えた余裕のあるパフォーマンスを披露させられた秘訣でもあった。
『テイエム来た!』
しかし、その時はそんな余裕のある走りなど一切していなかった。逆に利用していたように見えた、とお姉さんは後で語っていた。
大きな心臓から送られる血流を一気に、自分が、自分自身の走りに特化させた筋肉に全て送り込み、その繊維を破壊するほどのエネルギーを使って、前へ、前へと進んでいたに違いない。
『テイエム来た! テイエム来た! テイエム来た! テイエム来た!』
未だかつて無いレース展開に、絶望に打ちひしがれたもの、それぞれが自分が推していたウマ娘さん達がようやく勝利を手にする期待に胸躍らせたもの、そのほか全ての気持ちを、テイエムオペラオーは今、ここで走っているウマ娘さん達置き去りにした。
「いっけえええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」
私は叫んだ。きっとその声が憧れに届くと信じて。
きっと、皆の足音に紛れて聞こえてなんかいなかったのだろうけれど、彼女はそれに応えるように―――
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!」
その叫びは今の私の耳にも響いている。そう、今も。
ここにいるみんなはもう忘れているかもしれないけれど、テイエムオペラオーがこんなにも、自分の喉が張り裂けそうな程の叫びを上げて自身に喝を上げて必死にゴール板を追っている姿は今も過去にも、きっと未来にも無いだろう。
それでも、心地の良い叫びであった。今はそう言える。
『抜け出すか! メイショウドトウとテイエムー! テイエムー! テイエムかー! テイエムかー! 僅かにテイエムかー!』
私を含めた観客は、オペラオーがいつの間にかゴール板を過ぎ去っていた事実に僅かな時間を要した。本当に勝ったのか分からない。そういうどよめきの声があがった。
勿論、歓声の声の方が大きかったのが確かだった。
掲示板にも、暫くして7の文字が一番上で目映く輝いていた。
本人もレースが終わって暫く流していたが、どう自分を取り繕って良いのか分からないまま、虚無の表情に近い何かを浮かべて皆に手を振っていた。流した汗が全て血液であるかのような、それでいて蒼白でもない、作られた笑顔を添えて。
レースに参加したウマ娘さん達皆は、当然悔しがっていた。そんな中、自身有り気に己の勝利に、自信と情熱を込めた自分語りと己への賞賛を忘れない姿こそがいつものテイエムオペラオーで、その姿にみんな嫉妬して、次も頑張ろうとその場で熱意を燃やしていたはずだった。
でも、今のオペラオーを見て、皆は一斉に、何も出来なくなった。それもその筈、いつもの彼女ではなかったからだ。
何かが宿っている訳でもない。理由は彼女にしか分からない。
勝利インタビューでもそうだった。雄弁は金なりと言わんばかりの自慢気で軽快かつ、時に人を苛立たせるような発言も添えるような姿はどこにもない。ただ真面目に質問を聞いて返すだけの存在となっていた。成り下がった訳では無い。
だって、誰も届いていない所に来てしまったのだから。
※ ※ ※
ウマ娘さん達のレースが終わったらウイニングライブがあるのはお約束。そして、”オペラ劇場・『嗚呼それが我が宿命』”が今年のシニアのG1のお約束であるのも皆の常識の一つだった。
陽が落ちた頃合いに最初のライブが始まった。デビューした娘達の賑やかで初々しいライブだった。慣れない振り付けに、必死に身を任せていた。自分の、自分たちを称えてくれた人達への演舞であるの一つなのに、それがどこかぎこちなかった。
きっと人を楽しませる演出がそこにある事なんて一切考える余裕なんて無かったのだろうなぁ、と今になれば思うけれど、これもこれで味がある、だなんて振り付けを思い切り間違えた事のある私が言ってみたり。
そんな中つつがなくライブは行われた。
お姉さんも所々楽しんでいたり、気にかけている人には振り付けの間違いに気付いて目を尖らせていたりと、二重に楽しめた。
そして、最後に行われるのは今日の主役のテイエムオペラオーのウイニングライブ。沢山のライブを重ねてすっかり陽も落ちているというのに、照明も、観客も、演出の全てが太陽みたいに光り輝いていて、月の光なんて忘れさせてくれた。
そこにいたのは有馬記念に参加していたウマ娘全員……… ではなく、一人を除いて一人を加えたウマ娘さん達だった。
「あの、私はレース参加していないんだけど」
「一人、野暮用で抜けちゃってね。代わりにどうだいアヤベさん! 今日のオペラにはベッドが必要だから持ってきたんだ! ちゃんと布団乾燥機―――」
「出る」
こんな流れでアヤベさんこと、アドマイヤベガさんのライブへの参戦が決まった。
思えば豪華な顔ぶれだ。トップロードさんにドトウさん、ステイ―――が抜けちゃったんだっけ。
レースに出た皆がここで、それぞれの衣装を身に纏ってここに立っていた。
そう、このレースでさりげなく競走中止となったツルマルツヨシさんも含めて。彼女の身体が弱いことを知っていたオペラオーは気を利かせた。
騎士(オペラオー)に敵対する、通風になって椅子から立ち上がれない女王役、としてだけれど。
それでも、ツヨシさんはとても喜んでいた。いつも身体が弱いことを気にかけて、皆に迷惑をかけている、と思い込みながらも、ライブの舞台で皆に笑顔と元気な姿を届けたいという願いのひしめき合いに苛まれていたからだ。
だから、あんな役でも、あの時は泣きそうな程、目が潤わせてステージの上に立っていた。
暫くすると、ステージのバックスクリーンにオペラオーが大きく映し出され、マイクを手に取り語っていた。
『やぁ! 諸君! 今日は記念すべき僕の、僕による、僕の為だけのライブに来てくれた事に感謝の意を表しようではないか!』
先ほどのレースの虚無に近い笑顔から、いつもの余裕のある声色、表情、立ち振る舞いに私は安堵を覚えた。
「うおおお! これでこそテイエムオペラオーだぜ!」
大歓声の中、私も混じってそう叫んでいた。
『今、ここには! 今日、僕と共に走ってくれた仲間がいる! きっと僕に勝ちたかった娘もいるというのを承知で、この場に呼んだ! そうしたら、こんなにも僕と共にライブに踊りたい仲間がいたんだ! 僕はまずこの環境に感謝の意を表します!』
すると、みんなの方へ振り返り、オペラオーはぺこりと頭を下げてお辞儀をした。勿論、台本なんて無かった。彼女の、彼女なりの、ファンとウマ娘さん達への向けての感謝のお辞儀であった。とても綺麗な姿勢だった。
「こんなの許されるのかー!」
「負けた娘達のことを考えろー!」
「ふざけんな、全部お前がかっさらいやがって!」
当然野次も飛んだが、このライブの頃合いとなればごく少数となっていた。
皆がテイエムオペラオーを認めていた。皆がその勝利に関心していた。
聞こえていたのかもしれなかったけれど、オペラオーは続けた。
『今日も! いつもと同じくオペラ劇場をお届けします! しかも、スペシャルバージョンで!』
いつものリップサービス。スペシャル、には引っかかたけれど、今ならこのオペラの台詞を全部言える。それ位、何度も見たライブでもあった。
ゆっくりと幕が下りる。準備に多少なりとも時間がかかるというのはこの頃の私でもなんとなく察しがついていた。
沢山の舞台道具が、彼女のオペラのの為に敷き詰め、並ばれて、彼女らしさの演出の為にスタッフも動いているのだろう、と察していた。
そして、再び幕が上がると、化粧直しをしたウマ娘さん達がそれぞれの位置について、それぞれの振り付けの準備のポーズを取っていた。
皆もそれを見て静まりかえっていた。それと同時に照明も段々と暗くなり、やがて会場は刹那の暗闇に包まれる。
そこに、軽快なBGMが辺りを包むと―――
『おお、ドトウ、教えておくれ。君を振り向かせるその名を―――』
辺りが僅かに盛り上がりながらも、すぐに静まりかえってその彼女たちの台詞を一字一句聞く耳立てて、その場に突っ立っていた。それがこの頃のウイニングライブ。
『あのお方は太陽、あまねく世界を照らす者。そう、そ、その名は―――』
みんながみんな、特に上位でオペラオーとのレースを勝ち上がってきたウマ娘は、この台詞なんかは、何も見なくても口ずさむ程度には覚えていた。
思えば、人と話すのが苦手なメイショウドトウさんですら、この台詞を言えたんだ。恥ずかしがり屋なのに、皆の前で。
『そ』
でも、この日は違った。
『れ』
このライブは、ウイニングライブは皆を称えるものでもない。
勝った者を称えるものではない。
『は』
レースには負けた人もいる。というより、どれだけのウマ娘さん達を集めても、一人しか勝てない。勝った娘が注目されるのが当然で、勝った娘を祝福するのがこの催し。
でも、オペラオーはどこかで、その感情が麻痺していたのかもしれない―――
だって、この時―――
「テ・イ・エ・ム・オペラオー!」
このタイミングで観客の合いの手が入るのはいつものお約束。私もそう叫んでいた。
でも、スピーカーから聞こえたのは静寂に近い何かであった。
少しすると、ステージのバックの大きなスクリーンにテイエムオペラオーの顔がアップで映し出されていた。
そこには、大粒の涙を目にためながらも、それを頬を伝わせているオペラオーの姿があった。
そう、合いの手で静寂に近い何かを演出していたのは他でもなく、テイエムオペラオーだった。彼女は何も言わなかった。言えなかったのだ。
何を思ってここに立っていたのかは知らない。
全ては私の推測の中で、きっとそれは彼女の疲れによるものなのかもしれない。だって、足下を見れば包帯でぐるぐる巻きになった足があって、それで立っているのだから。
きっと、それは彼女の心にあるのかもしれない。だって、皆から蔑まれながらも必死で勝ち取った勝利の数々の行く末がこのライブなのかもしれないから。
きっと、それは彼女の―――
考え込んでも分からなかった。その頃の自分は幼すぎた。
でも、今日を一緒に過ごしてくれたお姉さんはそのオペラオーの姿を見て、
「よくやった」
と一言添えて、私を連れて、被っていた帽子のつばを口角の方へ下げてこの場を去った。
本音を言えば私もライブの続きを見たかったけれど、いつも飢えていた野獣のような眼差しで色んなものを見渡していたお姉さんの浮かべた目が、トパーズみたいな宝石のように輝いていたせいもあって、何も言い返す事が出来なかった。
それ位の伝説があったと、明日の新聞で語られていた。
※ ※ ※
月夜が眩しい夜に該当だけが足下を照らす帰り道。お姉さんの手に引かれて私は後悔を交えた帰路を進む。ライブが見たかった。それだけだ。
「今日はどうだった?」
「もう少しライブ見たかった」
「………それは、すまなかったな」
「でもいいもん。目標出来たもん」
「目標か。いいなそれは。どんなのだ?」
「皆と俺自身に負けないウマ娘になる!」
「ほお……… それは良い心掛けだ。その為に何をするんだ?」
「沢山走る!」
「走るには何が必要だ?」
「体力と筋肉!」
「実はそれだけじゃ走れないんだなぁ。他には?」
「飢える!」
「それは私の心情だ」
思えばあの頃の私は無邪気そのものであった。思ったこと何でも口にして、時に人を困らせて、その上で考えてもらって、それでいてバレそうになるとすぐ別の意見を用意して、それすらも考えてもらって、私の意見のように語っていたっけ。
恥ずかしい事だよな。他人の事を自分の事のように語るなんて。まるで自分隠す為に他人利用しているみたいなんだよな。
「じゃあ、お姉さんに勝つ!」
私がそう言うとお姉さんは私の方を見てにっこりと笑った。その刹那だった。
びゅうと一つ強烈な風が吹いて、お姉さんが被っていた帽子を空へと追い上げた。
黄色い目に鼻には白い絆創膏。きっちりした口元にすっきりした口元を備えた美人で、気迫のある表情が私の前に現れた。
「ああぁ………!」
「情けない声を上げるな。元々あれは姉貴が、サイズが合わないからって、私が譲り受けたものだ。今飛んでいっても、また、新しい―――もう一個別の、大きいサイズのを買えば良い」
お姉さんが見せた軽やかな笑顔に、その頃の私は目を輝かせて、こう返した。
「ブライアン姉ちゃんはなんで、あの時半泣きだったの?」
お姉さんは三冠ウマ娘、ナリタブライアンだった。だから、顔を晒せば有名人。晒さなくても雑誌で有名と、外に自分の居場所なんてどこにもなかった。
それでも、私と見たいレースとして今日の有馬記念に誘ってくれた。
多分、これは一生忘れない宝物。
「泣いてなんかいない。ただ、昔を思い浮かべていただけだ。お前にはオペラオーみたいな栄光あるバ生を送って欲しいと願う一方だが、私のような挫折まみれのバ生は似合わないと思ったんだ」
だからこそ、だからこそ、だからこそ――――
「俺、オペラオーに言われたもん! 過去の全てが今という集大成だって!」
「じゃあ、今も、未来もその姿勢を貫いてくれよ。ウオッカ」