「それって図書館帰りに買ってた本だよな」
「ええ、そうよ。読んでみる?」
彼女の持つ本に目を通し、思わず顔を手で覆いたくなる。
それは一夜の間違いから始まるタイプの恋愛小説だった。
「なぜ責任を取らせるのかしら?」
「あーあー、俺しらねぇ」
教えたらいつか絶対にめんどくさいことになるし。
その日の夜、食後にソファに座って動画を見ながら、ふたりでワインを飲んだ。
しかし、急激な眠気によって意識が落ちた。
目が覚める。
何故かいつもよりスベスベとした感触がする。
人肌のような軽い湿り気と、シルクのようなきめの細かい肌ざわり。
気付けば俺は上裸であるようだ。時間帯はすでに夜明け。
下は普通に履いているが、上半身にはチョーカー以外なにも身に着けていない。
胸元に吐息を感じる。
素肌に当たるその呼吸はナヒーダのものだろう。
彼女を抱く腕を動かすと、いつもと違って衣服の取っ掛かりがなく、どでかい水まんじゅうのようなプニプニとした暖かい何かで薄く覆われていて。
……いや、むしろこれは覆われていないのではないか?
嫌な予感がして、布団をめくらないままに彼女を抱き寄せる。
背に回した腕どころか、腰に回した腕にも衣服の当たる素振りがない。
ペタリとした素肌のとてつもない柔らかさと、僅かなふくらみが触れる感触。
……彼女の吐息が荒くなり、太ももあたりにあるその小さな両手に力が入る。
「責任を取りなさい」
そう、声が腕の中から聞こえる。
最初はそれが人の声だとは気付かなかった。
化け物が語り掛けているのかと思ってしまった。
「責任を取りなさい」
「……なんのだよ」
「言わないとわからないかしら」
凛とした声が響く。
「責任を取りなさい」
必死に昨夜のことを思い出す。
確か二人でソファに座って酒を飲んでいたはずだ。
だが途中からぷっつりと記憶が途切れている。……おかしいな。
「責任を…」
「俺、酒飲んでも記憶を失うタイプじゃないけど」
酒を飲んで記憶を失ったことなど人生で一度もない。
飲みすぎると気持ち悪くなるだけで、それもしばらく経てば消えるタイプだ。
しかも記憶の途切れ方に覚えがある。
「ナヒーダ。俺はこういう搦め手は好きじゃない」
「……ごめんなさい」
半分やってしまったかと思った。本気で焦った。
未だに頭が混乱して、現実感が感じられない。
「そんなことしなくても、俺はきみと一緒に居ると言っただろ」
「あら、じゃあキスもしてくれるかしら?」
これはきっと、手や頬という意味ではないのだろう。
「それは……」
「でしょう? だから必要だったの」
どう対応しようかと困惑してしまう。
「キスをして」
迷っていると腕の中から、毛布がずれて肩が露出しつつ、ゆっくりと唇が伸びあがってくる。
「しない」
彼女の両肩に腕を置き、転がすようにしてベッドへと押し倒した。
毛布は落ち、互いの身体が露わになる。
胸板と一体化したような広く薄い膨らみ。それは性別不詳のものではなく、確かに女性らしさが見て取れる。
だがそれだけだ。結局は揉むものなどそこにはない。
「なあ、きみは服を脱ぐ意味が分かっているのか?」
「……ええ、あなたを受け入れる覚悟はできているの」
「きみの体など気にもせず、ボロボロに使うかもしれないんだぞ」
「あなたはそんなことしないもの」
「一度の裏切りを、ここで使うとしてもか?」
彼女の両脚の間に片膝を割り入れる。
すると彼女の身体は小さく震えた。
きっと彼女は、彼女の描いた物語通りに、俺が動くと思ったのだろう。
それは覚悟ではなく理想化の部類だ。彼女の他者理解はカード遊びと大差ない。
「きみは全然、俺のことを分かっていないんだな」
こっちの気も知らないで。
どれほど、きみとの今の関係を大切に思っているかも知らないで。
簡単に、試すかのように、人の事を挑発しないで欲しい。
……しかし俺も、こんなことをしているようでは今更だ。
なら、俺は何が気に入らなかったのだろうか。
何がこんなにも俺を怒らせたのだろうか。
それはやはり、裏切りでなくとも、明確に俺を"騙そう"という意思が感じられたからだろう。
俺は、俺が自覚している以上に、彼女に入れ込んでいる。
「あなただって、わたくしのことを理解していない」
彼女は真っすぐに目を見返す。
そこには怯えなど見て取れなかった。
「わたくしがどれほど苦しんだかわかるかしら。どれほど悩んだかは? 分からないでしょう? ……わたくしが、どれほどあなたが好きかなんて」
その独白は、以前とは異なっていた。
自分の苦しみすら理解できず、ただ子供のように泣きじゃくる姿は、もうなかった。
意志を持って、彼女の眼差しはまっすぐにこちらを見据えていた。
「俺だってきみが好きなんだよ」
「でもあなたは恋ではないと言った!」
「ああ、きみみたいな、人ではない存在に対する恋だなんて、自分でも理解不能だからな! ……つか、そもそも恋なんて分からないと言っていたきみが、恋について語るのはおかしいじゃないか!」
「ええ、わたくしに恋だなんてわからないわ」
俺は彼女を家族として愛しているが、それは恋ではないはずだ。
なにせテイワットでの唯一の身寄りが彼女なのだし、特別に強い親しみを感じても不自然ではない。
「でも、考えもせずに"恋ではない"と否定するあなたよりは、きちんと自分の気持ちと向き合っているつもりなの」
「……」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
反論しようと考えを回せば、結局はどれも、恋ではないという結論ありきの考えしか浮かばない。
俺の考えを見通すかのように彼女の瞳が突き刺さる。
「以前、あなたはわたくしが成長していると言ったわね。それはわたくしが誓いを果たしているという証拠。ならばあなたは、きちんと、わたくしを見るのが道理というものでしょう?」
「……確かに、きみは成長しているようだ」
「なら…」
彼女の言葉を遮って続ける。
「俺にだって時間は必要なんだよ。だから、"まだ"だ」
成長を言い訳に関係を止めていたのに、そのタガが外れてしまったならば、何をするかなんて自分にもわからない。
ましてや怒り含めた様々な感情で興奮している今の状態では。
先送りであるのは分かっているが、少なくとも、自分自身で納得できるまでは、時間を稼ぎたかった。
「……なあ、アラジンと不思議なランプについての話は知ってるか?」
『
昔、遊んで暮らすアラジンという男がいた。
ある日、アラジンの元へひとりの魔法使いがやってきた。
魔法使いは言う「魔法のランプを手に入れてくれ」と。
アラジンはとある洞窟に案内され、お守りの指輪と共にそこへ潜る。
彼は無事ランプを手に入れたが、魔法使いの様子を怪しみそれを渡さなかった。
怒った魔法使いは彼を洞窟に閉じ込めた。
アラジンは地下を彷徨い歩いて途方に暮れ、ついには祈るように両手を合わせた。
そのとき、偶然触れた指輪からとても大きなお化けが現れ、彼を地上へと戻してくれた。
家へと帰ったアラジンは、ランプを売ることでお金に変えようとした。
ランプを綺麗に磨こうと布で擦ったところ、またもや大きなお化けがあらわれ、お金が欲しいという願いを叶えてくれた。
』
「というような話だ。面白かった?」
「ええ、面白かった。……でも、なぜその話をしたの?」
「これは千夜一夜と呼ばれる物語の中に出てくる作中話で、そして千夜一夜というのは、毎晩面白い話を聞かせて気を紛らわせ、王様の悪癖を先延ばしにするという話なんだ」
「……それはつまり、わたくしの"悪癖"を、語り聞かせの代わりに先延ばしにするということかしら?」
「ここでの意図は、そういうことだな」
彼女が素直に話を聞いてくれていてよかった。
話を語る内に、それによって稼げた時間で、だいぶ頭が冷えてきた。
物語を思い出すために閉じていた目を、再度開いて、彼女を見る。
頭がそこまでは回らなかったので、まだ押し倒した姿勢のままではあるが。
「分かったわ」
ナヒーダの声が、冷えた頭に入ってくる。
「でももし、眠る前のお話をあなたが忘れることが一度でもあれば、わたくしはあなたを食べてしまうわね」
「……ああ、もし忘れるようなことがあれば、素直にキスに応じ…」
「ねぇ、その王様が求めたものはきっと、キスでは無いでしょう?」
背筋が凍るように焦燥感が走った。
どうも先行きに暗雲が立ち込めているようだ。
走馬灯のように様々な考えが巡る中で、せめてもの抵抗を口に出す。
「……実は王様が求めたのは命だ。流石にそれは勘弁してもらいたいんだけど」
「まあ、それは奪うことはできないわ。……なら代わりに、わたくしはあなたを貰う」
「それはどういうことだろうか?」
「ふふっ、どういうことかしらね。……約束よ?」
そう言って彼女は、俺の手を取りキスをした。
やってしまった。
先延ばしをしようとした結果、これは、単なる自滅だ。
話で気を逸らすこと自体は良いアイディアだったが、千夜一夜に関する説明だけは要らなかった。
「ごめん、この話は無かったことにならないか?」
「ならないわ。一度口に出した言葉が口に戻ることは決して無いの」
「約束として言葉にした訳ではないから無効だと主張したいんだが」
「不用意な言葉を口にしたあなたが悪いのではないかしら」
「約束と言っても俺が得るものがない」
「そのときは、わたくしをあげる」
「……確かにそれは魅力的だな。俺の失うもの程度では釣り合わないほどに」
寝る前の話を忘れなければいいだけだ。
ネット環境もあるし、それもダメなら適当に話を創ってもいい。
そう自分に言い聞かせた。
言い換えれば、俺は観念した。
「ほら、話は終わりだ。とっとと服を着ろ」
「もう少しだけ、このままが良いわ」
起き上がろうとしたところで、ぶら下がるように首へ抱き着いてくるナヒーダ。
仕方なく、その背に腕を回し、そのまま押しつぶすようにベッドへ倒れこむ。
身じろぎをする度に、ペタリペタリと、汗で少しペトついた彼女の肌が触れる。
筋肉質でない、むしろ運動不足気味ともとれる彼女の身体は血行が弱く、風に当たると肌の表面がひんやりとして心地よい。
「本当に食べてしまうかもしれないぞ」
「望むところよ」
そう冗談を交わしながら、昼頃までゆっくりと二度寝をした。