花神誕祭の行われる日。
彼女は朝から、祈りを捧げるようにして過ごす。
おそらく前に言っていた『スメール中を見ている』という発言は本当なのだろう。
最近は様々な服装や髪型をしていたが、今日の彼女は出会った時の姿をしている。
やはりあれは神さまとしての正装の意味があるのだろうか。
「さて、今日は花神誕日よ」
お祈りを終えた彼女は、楽しくて待ちきれないという様子で目を輝かせた。
「おめでとう、ナヒーダ」
「ええ、ありがとう。……それで、今日はわたくしの誕生日なのだけど、どこかへ連れて行って貰えないかしら?」
「ごめん、今日は少し用事があるから、昼前までには家に居たいんだ」
「でも、わたくしの誕生日よ」
「すまない」
その返答に、ショックを受けて顔を曇らせる。
「わたくしの誕生日なのに……」
ベッドの上でそっぽを向くように不貞腐れる彼女を、後ろから抱きしめる。
「ごめんな。ただ少し事情がある」
「わたくしの誕生日よりも大切だなんて。一体どんな事情なのかしら」
振り返って正面向きに抱き着いてくる彼女の背中をゆっくりと撫で、あやすようにして機嫌を取った。
昼前ごろ、ドアをノックする音が響く。
「はーい」
「ナヒーダ、ちょっと待っててくれ」
返事をして扉へ向かおうとするナヒーダを引き留める、が。
「嫌よ」
彼女は真っすぐな眼差しで、即座に断言する。
「嫌。今日はわたくしの誕生日なの。わたくしを置いて行かないで」
そう言葉を続けた。
ここまで意固地になるとは思わなかったので困ってしまう。
「ごめん、頼むから少しだけ待っていてくれ」
彼女は俺が折れない様子を示したことで説得できないと察したらしく、途端に泣きそうな顔へと変わる。
「……あなたはわたくしのすべてなのに……」
消え入りそうな声で言う彼女を抱き締め、『少しだけ待っていて』と再度言葉を掛ける。
そして彼女から離れると、ナヒーダを背に、俺は扉を閉めた。
しばらくして、扉を開く。
正面には泣き崩れたらしいナヒーダが、床に座り込んで祈りを捧げている。
その悲痛な顔と目が合った。
俺はできる限り背筋を正し、深呼吸して、彼女へと歩み寄る。
一歩一歩が重く、身体が海に沈んだかのように動きづらく、呼吸は苦しい。
だが失敗する訳にはいかない。きっと彼女にとっては無二の経験として残るのだろうから。
「神よ、やっと見つけました。皆、お会いできるのを楽しみにしてます」
手を差し出す。
片膝をつき、仰々しく。
飾り模様の入ったベストを羽織り、花飾りのついた首飾りを下げ。
頭には蝶のついた三角帽子。
まるでプロポーズでもするかのような緊張感に耐えつつ。
真っすぐに、彼女を見つめた。
あっけにとられて何も言わない彼女の姿に、抑え込んでいた羞恥心が湧き上がってくる。
「……流石にもう次はやらねぇ」
この衣装を届けに来たガイアは、さきほどから崩れ落ちている。笑い過ぎで。
「ナヒーダ。そろそろ何か言ってくれると嬉しいんだけど」
そう言葉を掛けて、やっと彼女はフリーズから復活した。
「……今まで感じたことのないほどの感情が湧き上がっていて、どうすればいいのか分からないの」
「とりあえずこの手をどうにかしたい。降ろしていいか?」
「ダメよ」
膝をつき差し出した手を、彼女はやっと取ってくれた。
ナヒーダは満面の笑みを浮かべ、それと同時に両目から涙を流し始める。
その姿を見て俺は焦る。
「意地悪すぎた?」
「いいえ、悲しくて泣いている訳ではないの。でもお願い、涙が止まるまで抱きしめてちょうだい」
言葉に従い、腕を引いて彼女を立ち上がらせると、正面から抱き締める。
膝を降ろしたままである俺の目線は、両脚で立つ彼女より僅かに低いかどうかという程度。
彼女の体重に押されて少し後ろへ仰け反りながらも、背筋を伸ばすようにしてどうにか受け止めた。
「お二人さん。逢瀬を邪魔して悪いんだが、皆を待たせている。もうそろそろ移動しないか?」
動こうとしない俺らを見かね、しかし頃合いを測って、ガイアが声を掛けた。
それを皮切りとして、三人は部屋を後にする。
移動先はエンジェルズシェア。
人の少ない昼間を貸し切りにしたらしい。
「あっ、ナヒーダおねえちゃん! お誕生日おめでとう!」
扉をくぐると、真っ先にクレーがやってくる。
「クレー。"おめでとう"はもう少し後だ」
ガイアがクレーに注意をして、皆が配置に付く。
俺はナヒーダの手を引き、花車を模した、モチーフ元よりは小さいながらも凝った誕生日椅子に座らせる。
そして金髪で長身の女性が掛ける音頭に合わせて言葉を掛けた。
『誕生日おめでとう』
「ナヒーダおねえちゃん! お誕生日おめでとう!」
号令が終わるとすぐさまクレーが走り寄ってきた。
その後ろからはアルベドとガイアが歩いてくる。
「誕生日おめでとう」
「おめでとさん。さて、初対面のやつらも居るだろうし、顔合わせと行こうか」
長身の女性と牧師さんが祝いの言葉と共に歩み寄る。
「私は蒲公英騎士のジンだ。クレーの世話をしてくれて助かっている」
「私はバーバラ。この前、手伝ってくれたよね」
さきほど音頭を取ったのもジンさんだ。
次に来たのは赤いウサ耳を付けた落ち着きのない女性。
「偵察騎士アンバー、参上したよ! 最初に見つけたときは泣いていたから心配したけど、仲直りできたみたいで良かったよー!」
「城壁の上に居る彼女を見つけたのは、このアンバーだ」
ガイアがそう補足した。
「あっ、あんたがこの子を泣かせたんだよね! こんな小さい子をほったらかしにしちゃ、ダメなんだから!」
眉を上げて、まくし立てる様に非難する赤い女性。
「一応、彼女の方が俺より年上なんだが」
「そんな冗談で騙される訳ないでしょ!」
「お姉さんも自己紹介していいかしら?」
ウサ耳女を遮るようにして、最後にやってきたのは、魔女のような帽子を被った女性。
「わたくしはリサ。お初にお目にかかりますわ、可愛らしい神さま」
その言葉を聞いて、俺は警戒を顔に張り付ける。
「あら? これは花神誕祭を模したものだと思ったけれど、違ったかしら」
「リサには今回、この催しを開催するにあたって、スメール文化のアドバイザーをして貰った。その衣装も彼女が居たから仕上がったんだぜ」
ガイアが説明を加えた。
「バレてしまったのね。わたくしは草神様の信徒なのだけれど、偶然誕生日が同じだったものだから、小さな頃からこうして祝ってもらっていて……」
ナヒーダは、リサと名乗った女性と、にこやかだが含みのあるような会話をしばらく繰り広げた。
グミの実、ハゼの実、ニンニク、リンゴ、小麦、菓子、酢の7つからなるハフトスィーン。
ナヒーダを囲んでの簡単なダンスを含め、幾つかの催しと食事会を行った。
ちなみに、どうやら今日ここに集まったメンバーはほぼ、騎士団の関係者らしい。
伝統を感じさせる部分もあるが、基本的にはただの誕生日会であり、特筆すべきことはそう多くはない。
だが、彼女にとっては特別で唯一無二のものなのだろう。
終始ニコニコと、見せ掛けではない、満面の笑みを浮かべ続けた。
「これが掛った費用の請求書だ」
「ああ、分かった。予定通り、預け金から引いておいてくれ。……あとこれは謝礼だ。こっちはあんた個人に。世話になった」
ガイアから請求書を受け取り、代わりに、片付け後に皆で飲み食いするための金銭と、先程購入しておいたワインを一本渡す。
「ナヒーダ、そろそろ帰ろうか」
そう言葉を掛けると、寄ってきた彼女を、腕に座らせるようにして抱き上げる。
これは姫様抱っこから、背筋を立てられるように片腕を支えに変えたものだ。
「皆、今日は楽しかったわ。ありがとう。さようなら」
意図を察したナヒーダが、笑顔で手を振りながら別れの挨拶をする。
花神誕祭に関して、空想も含めて、今日が近づくにつれて散々に聞かされたので、最後に何がしたいかはある程度分かっていた。
さすがに花車で帰ることはできないのでこれはその代わり。
なお片腕で彼女の背を支える関係上、その体重はほぼすべてがもう片方の腕に掛かる。
大型犬を片手で持ち上げるようなものなので筋肉が悲鳴をあげるが、俺は必死に涼しい顔を保つ。
昼の酒場を後にしてしばらく。
もうそろそろ良いかと思ったがナヒーダは降りることを拒否した。
仕方ないので首に腕を回してもらって、腕を労りながら家へと帰る。
そしてようやく、ベッドへと彼女を降ろす。
抱っこで疲れた俺はそのまま倒れこんだ。
「君が生まれてきてくれてよかったよ。改めて、誕生日おめでとう」
「……ひとつ、貰えていないものがあるの。わがままを言ってもいいかしら」
独り言かのような、迷いを含んだ声色で彼女は言う。
誕生日プレゼントは後で彼女と選ぼうと思い、まだ購入していない。
しかし、もしかしたら買っておいた方が良かったのかもしれない。
「べつにかまわないよ」
今日の主役をないがしろにするわけにもいかないので、俺はベッドの上で身体を起こす。
「なら、キスをしてちょうだい。手ではなく、ちゃんと口に」
彼女は真っすぐな目で俺を見ながら、はっきりと言葉を紡いだ。
ナヒーダが膝立ちで迫り寄ってくる。
「わたくしはもう、自分の心の声を無視したくないの」
両手で俺の頬へ触れる。
「貰うわよ。いいかしら?」
「……わかった。いいよ」
彼女は俺の両頬に手を添えたまま、ゆっくりと目を閉じて、風にそよぐ葉のように、ふわりと優しく口づけを落とした。
膝立ちの彼女を、座った俺が少し見上げるような形でのキス。
唇というのは敏感な器官であり、それゆえに彼女の唇の柔らかさ、その小さな唇のくにゅりと変形する感触が克明に伝わってくる。
彼女が身じろぎをすれば、唇同士が押し合って僅かに擦れ、それを過敏な神経は甘い痺れとして主張する。
味覚は感じずとも、キスの味、というものが明確に感じられた。
長くも短い、短くも長いキスを終えると、彼女は顔を真っ赤にして崩れ落ちる様に抱き着いてくる。
恐らく彼女も、口づけの生々しさをよく理解したのだろう。
俺たちはしばらくの間、何も言わずに抱き合う。
「……キスというものは、想像していたよりも遥かに素晴らしいものだったわ。まるでわたくしの心そのものが唇となっていたみたいに」
「俺も、きみの唇の形が心に刻み込まれたかのように、まだ感触が残ってる。正直、恥ずかしいので外の風に当たりに行きたい」
「だめ。今日はわたくしの誕生日だもの。許さないわ」
彼女は俺の肩に手を置いて身を起こすと、目を合わせながら言った。
「わたくしはあなたが好きよ」
「俺もきみが好きだよ」
「わたくしは、あなたが好きなの」
「ああ、分かってる」
「いいえ、分かっていないわ。分かっているならば、今すぐにでも、わたくしにキスをしてくれるはずだもの」
彼女はまた、互いの息の掛かる距離にまで顔を近づける。
「わたくしを見て。つぎは、あなたからキスをして」
細められ蕩けるような色合いの瞳と、暖かい吐息を漏らす柔らかな唇が、"もう一度"と催促する。
俺は、それに答えた。