1. 零の続き
「おはよう、ナヒーダ」
そう声を掛けて髪を撫ぜるが、くすぐったそうに笑うだけで起きようとするそぶりはない。
なので気付けとして、耳の付け根をグニグニと揉みこんでやる。
秋の花神誕日からさらに日が過ぎ、季節はもう冬になる。
二人の距離が零となったあの日から、彼女の過度な要求は減った。
どうやらキスを交わしたという事実が心の支えとなったようだ。
また彼女は少し明るくなった気がするが、これはきっと『成長しよう』とか『大人びよう』という気負いがあったのだと思う。
それが口づけによって緩まり、結果として明るさに繋がったのだろう。
俺に関しては、まあ当然ではあるものの、彼女を女性として意識してしまうことが増えた。
手を繋ぐだけで緊張してしまうような状態は一過性であったが、今でも時折、彼女の横顔には見惚れてしまう。
月明りのようなその理知的で優し気な眼差しが、俺の心を捕えていた。
しばらく戯れ合ったあと、腕の中から『おはよう』という声が響く。
「顔を寄せてちょうだい」
その声に顔を下げれば、鼻先にちょんと、小さなキスが乗った。
「ねえ、次はあなたよ」
彼女の鼻先にキスを返すと、そこに花のような笑顔が咲く。
それがこそばゆくて今一度抱きしめて誤魔化した。
朝食としてまずはペペロンチーノパスタを作り、最後に生卵を加えて軽く火を入れトロトロに。
卵が加わると途端に甘みと濃厚さが現れ、元であるオイル系のパスタから、カルボナーラのようなクリーム系パスタの風味に変わる。
「辛みが効かせてあるのに、舌当たりが柔らかくて食べやすいわね」
「レシピはほぼいつものペペロンチーノだけど、卵を入れるだけで大きく変わるんだよな」
ただ、もう少し唐辛子を増やしてもよかったかもしれない。
そうして食事を済ませてからは、二人で仕事へ出かけた。
ナヒーダがスマホ端末に追加してくれた元素機能のお陰もあって、俺たちの受ける仕事は比較的に割が良い。
街の中での依頼であれば元素反応や腕力の必要な仕事が多いので俺が、街の外での依頼ならば戦闘が多くなるので彼女が、それぞれ主体となってこなしている。
その"街中での仕事"として取り分け多いのが、高所での清掃作業であり、本日頼まれたのも広場にある巨大な風神像の清掃だ。
ナヒーダの植物操作により安全かつ速やかに高い場所へと登り、元素機能を使って地上へ戻ることなく水を撒いてブラシで擦る。
巨大とはいえ水元素を利用すれば比較的容易に汚れが落ちるのと、ナヒーダの指示による効率的な手順によって、昼過ぎ頃には清掃を終えた。
細かい汚れは多々あるものの、遠目からでも分かるような目立つ汚れを落とすことが主目的なので問題ない。
一仕事のあとは最繁時を過ぎたカフェで食事を取り、午後は冒険者の依頼を入れていないので、ゆっくりと寛ぎながら新聞を読む。
「璃月で海灯祭というものが開催されるらしいな」
「海灯祭はその名の通り、灯りを海へ飛ばす祭りなの。灯篭の灯りが星々のごとく夜空を埋め尽くすのが美しいのよ」
「へえ、見たことあるのか?」
「……ないけれど」
彼女は時々、他人の経験や知識を自分の体験かのように語る。
これは、単純な社会経験のなさもあるのだろうが、"自分の目で見ることを諦めていた"という面もあるのかもしれない。
あまりにも長い鳥籠生活ゆえに、『自分の目で見ることなどないのだから、他人の目こそが全てである』と考えていたとしてもおかしくはない。
これはまあ、一緒に時間を過ごしていれば次第に改善されると思うので、そう心配はしていないが。
ふと、視界の端に赤い姿を捉えた。
どうやら騒がしい輩に見つかってしまったようだ。
「ナヒーダお姉ちゃん、やっほー!」
「やっほー、クレー」
ナヒーダは微笑みながら、胸元で小さく手を振る。
「黒いお兄ちゃんは、何をみてるのー?」
「新聞だ。璃月で海灯祭というものがやるらしい」
「お祭り! アルベドお兄ちゃん、クレーお祭り行きたい!」
赤い小悪魔に遅れて、アルベドも歩み寄ってきた。
「うん。買い出ししたい物が幾つかあるし、行ってみてもいいかもね」
アルベドの返事に、クレーは笑みから更なる笑みへと表情を変える。
「じゃあじゃあ、ナヒーダお姉ちゃんたちも一緒に行こう!」
「わたくしは行ってみたいけれど、あなたは?」
「偶には遠出してみるのもいいかもな。俺もそれでいいよ」
ナヒーダは自分の目で見てみたいと思っているだろうし、海灯祭とやらに行くのはいい提案だろう。
「やったー! あっ、それおいしそう! クレーも同じの食べたい!」
喜んで飛び上がっていたクレーは、テーブルの上の皿に目が留まったらしく、そのまま別の話題へと飛びついた。
「クレー。きみもボクも少食だから食べきれないだろう?」
「別に残るなら俺が食うから気にしなくていい」
ナヒーダも少食なので、よく彼女の残りをコーヒーのお茶請けとして食べている。
そして普段から俺は腹いっぱいまで食わないので、食べるだけならまだ余裕があった。
「わかった! 店員さーん!」
即座に注文するクレーを見て、アルベドは額に手を当てた。
「はぁ、すまない」
「いや別に構わないけど。ただ代わりに旅の間、クレーの舵取りに関しては頼りにしてる」
赤い小悪魔を放っておけば、目覚ましと称して爆弾を放り込まれる未来が容易に想像できる。
ナヒーダが比較的お寝坊であることを考えれば、彼を頼るのが最も現実的だ。
「うん。できる限りは頑張るよ」
自信なさげに彼は笑った。
四人で食事を取りながら出発日などの日程を語り合ったあとは、それぞれが午後の仕事へと出かける。
俺の仕事は、ナヒーダが執筆する書籍の査読や、資料の整理、あとはお茶の用意など身の回りの世話だ。
つまりは彼女の補佐役である。
カフェから自宅へ戻ると、まずは竈に火を入れてお湯を沸かし始め、食事にも使う小さめのテーブルを綺麗に拭き上げて、仕事用のテーブルクロスへと取り換える。
コーヒーを用意して彼女に提供すれば、一先ずは役目が終わった。
あとは彼女の対面に座り、"課題"として出された本を読みながら、声が掛かるのを待つ。
「……元素石碑の基礎設計に関する本を取ってくれないかしら。三段目の左から十二番目よ」
「了解」
本に栞を挟んで閉じ、本棚へ向かう。
書物を全て暗記し、脳内だけでやりくりして執筆することもできるはずだが、どうやら本の手触りなどの刺激も執筆には重要であるらしい。
他の人々がするような手続きを真似することにも、意味があるのだと彼女は言っていた。
「これだな」
「ええ、ありがとう」
そしてしばらく経ち、課題図書を読み終えたので次はレポートの作成に取り掛かった。
彼女に新しく追加してもらったタイプライター機能を起動すれば、空中にキーボードとディスプレイが投影される。
キーボードを叩けば、指先にクリック感が伝わり、カタカタという音が小さく響く。
タッチタイピングをするには指先の感覚がなければどうしようもない。
なので指先へのフィードバックの重要性を説明したところ、バリア機能を応用して感触や音を付けてくれた。
レポートにはテイワットでの言語ではなく日本語を利用している。
これは、彼女が日本語をより深く理解するために、そうして欲しいと頼まれたためだ。
平仮名から漢字への変換も彼女が用意したシステムを使っているので、時々変換できない言葉があるのは仕方ない。
特に就業時間が定められている訳ではないが、日が暮れる頃には仕事を切り上げる。
資料を本棚へ戻し、テーブルクロスを元の物へと取り替えた。
今日の夕食はナヒーダが作るということで彼女に任せ、俺は新聞を詳しく読んで海灯祭の情報を仕入れておく。
調理がひと段落したころ、おそらく煮込み途中の待ち時間なのだろう、手持ち無沙汰な彼女は、こちらに背を向けて膝の上へと乗ってきた。
読み返していた新聞を横に除け、シートベルトのように彼女の腰に腕を回す。
「ねえ、いつもは料理していると抱きしめてくれるのに、今日は無しなのかしら?」
「"いつも"と言えるほどしていたか? 時々気まぐれに抱きしめてはいたけど」
「そんなことは重要ではないの」
「はいはい」
新聞から手を放し、彼女を両手で抱きしめつつ、首を傾けてそのうなじにキスをする。
キスまでされるとは思っていなかったらしく、彼女は耳を赤くして俯いた。
俺は片手を腰に回したまま、もう片手を新聞へと戻し、彼女を膝に乗せると前が見えないので、肩越しに覗き込んで目を通していく。
「鍋は大丈夫?」
「ええ。しばらくは弱火で煮込むだけ」
ピコピコと、耳をわずかに上下させながら彼女は答えた。
部屋には鍋がくつくつとささやく音と、窓の外からの遠い喧噪だけが響いている。
腰を抱く腕にやや力を入れて、もう少し彼女を抱き寄せた。
ふかふか柔らかい腰と、暖かいその背中が、小春の日差しのようにじんわりと心に安らぎを与えてくれる。
なんとも贅沢な時間の過ごし方だろう、そんな感想が心に浮かぶが口にはしない。
「もうそろそろ、鍋の様子を見ないと」
そう言って立ち上がろうと腰を浮かべた彼女を、直後にもう一度抱き寄せた。
両手を前に伸ばしたまま"ポスン"と落ちてきたその顔は、覗き込まずとも、驚きで呆けているだろう事が分かる。
「……どうしたの?」
彼女はこちらを振り返りながら、不思議そうな顔でその意図を問ってくる。
「いや、なんとなくだ」
先ほど言われた"そんなことは重要ではない"に似た意味を込めて、そう返す。
そしてそのまま、白くフワフワとした髪の毛に顔を埋めた。
……何だか、体の調子がおかしい。
「寂しくなったのかしら?」
「抱き締めろと先に言ってきたのはきみだろ?」
彼女の髪は細く柔らかく量が多いために、犬猫のような肌触りのよさがある。
顔を埋めて香りを嗅げば、木々の香りが鼻先を満たす。
「その、ちょっと恥ずかしいわ。……変なにおいがしないといいのだけれど」
「良い香りだよ。例えるなら、お茶みたいな優しい香り」
"猫を吸う"という感覚も、このような感覚なのだろうか。
森林のような木々の香りには、僅かにココナッツのような甘い香りが混じっていた。
食後しばらくして銭湯へと出かけ、帰ってきたら日課である読み聞かせを行う。
これは彼女にとってはとても大切な習慣となったらしく、ちょっと忘れかけただけでも怒られた。
そのおかげでまだ一日も欠かさずに継続できている。
「今夜はどうしようか」
「途中まででいいから、銀河鉄道の夜をまた読んでほしいの」
「わかった。少し待ってて」
ベッドの上に二人で転がったまま、スマホ端末で小説サイトを検索する。
ふと、頬に柔らかな暖かさを感じた。
「ナヒーダ」
「ふふっ、暝彩鳥が水鉄砲を浴びたような顔をしているわね」
振り向けば、とても楽しそうに笑う顔が見える。
あとで仕返ししてやろう。
「……ここまででいいわ」
朗読の途中で、彼女からストップが掛かった。
「もう少しで読み終わるけど?」
「ええ、でもいいの」
目線を向ければ彼女は、優し気だが真剣な表情で虚空を眺めている。
「あなたが選んでくれたから、この作品はわたくしのお気に入り。だけれど、結末はすこし嫌い」
ぽつりぽつりと、ゆっくり溢すかのように、心の内が言葉となっていく。
「お別れになってしまうくらいなら、わたくしは永遠に、ふたり夢の中で過ごしていたい」
心境を吐露するその頬に、軽く唇を触れさせた。
「へ?」
「さっきの仕返しだ」
「……考えていたことが、風に流されて飛んで行ってしまったわ」
上手いこと気分転換として作用してくれたようで、ゴソゴソと音を立てながら彼女は腕の中に入り込んでくる。
小さく柔らかいその身体を抱きしめ、眠りについた。