目が覚めると、すぐ目の前に唇が見える。
ナヒーダが人の肩を枕に、脇へ嵌まり込むように眠っていた。
口はポカンと小さく開いていて、今日はいつもよりもぐっすりと眠っているらしい。
俺は声を掛けてから朝食の準備のために起き上がるが、彼女はそのまま毛布の中に引っ込んで丸くなった。
どうやら冬の冷たい空気を前に、萎んでしまわぬよう温室へと引きこもったようだが、まあ料理している間に起きてくるだろうからそのままにしておく。
スキレットにオリーブオイルと四つ切りのニンニクを加え、弱火で端が茶色くなるまで。
火からおろして唐辛子とクミンシードを入れ余熱で香りを移し、今度は中火で玉ねぎと共に炒める。
玉ねぎが透き通ったらパプリカとベーコンを加え、軽く炒めてから、トマト水煮と十分な塩を追加し弱火で水分を飛ばす。
あとは卵を幾つか落として蓋をし半熟に仕上げ、味を壊さぬようわずかに胡椒を振れば完成。
「ペペロンチーノベースのシャクシュカだ」
「何が違うのかしら? ……ごふっ」
「ごめん。どうせバゲットに乗せて食べると思って、かなり辛くした」
「いえ、大丈夫よ。ちょっと驚いただけ」
料理と共に並べておいたカフェオレに、彼女はクピクピと口を付ける。
「ねえ、なぜそんなにもペペロンチーノにこだわるの?」
「俺は意地っ張りだからな」
「……前に言ったことを気にしているのかしら」
今日は天気が良いようなので、朝食後は洗濯をして衣服を干す。
ナヒーダは相変わらず、俺と同じサイズのシャツを部屋着として使っていた。
「なあ、時々気になるんだが、きみの着てるそのシャツって、実は俺のだったりしない?」
「……なんのことかしら」
洗濯をしていると互いの衣類事情が分かるが、明らかに洗濯ペースからズレた衣服が何枚もあった。
また、彼女は心の動揺が目の動きに出る癖があり、瞳が細かく左右に泳いでいる。
そのため状況証拠でしかないものの、これは黒だと考えていいだろう。
しかし、本気で追及したかった訳ではないので、目を泳がせながらも頑なに黙秘を続けるその姿に根負けした。
どうやら彼女は、これに関しては沈黙でゴリ押しすることに決めたらしい。
「はぁ……、まぁ別にいいけど。それで、今日は本を返して、鍾離さんへのお土産を買うってことでいいか?」
「ええ。あと服を買いましょ! せっかくの旅行だもの、十全に遊び尽くさなくては勿体ないわ」
「衣服な。了解了解」
服を着替えてから、幾つか荷物を持って街へと出かける。
「こちらが返却する本です」
「ええ。確かに受け取ったわ」
まずは、旅立ち前に借りていた書物を返却しておく。
以前リサさんに揶揄われてから、ナヒーダが機嫌を損ねたために図書館にはしばらく近寄らなかった。
だが知識欲には勝てなかったらしく、結局はこうして通い詰めている。
「そういえば……」
「帰るわよ」
ナヒーダに腕を引かれて図書館から退出する。
リサさんが何か話題を切り出そうとしたが、それを余計なことだろうと判断したようだ。
「あらあら。少しぐらい、お姉さんとお喋りしてもいいじゃない」
ここへ通うようになったとはいえ、リサさんは未だ、彼女にとっての要注意人物となっていた。
本を返し終えた後は、旅支度も兼ねて衣服の買い足しに向かう。
「シャツの追加か」
「ええ、今は家の中だけだけど、外でも着る用にも欲しいと思って」
「……頼むから、外に行くときは中に一枚着てくれよ?」
「どうしてかしら?」
「首元から中が見えるんだよ」
サイズが合った服でも屈んだりした際には中が見えるのに、ダボダボの服ではなおさらだ。
場合によっては、胸どころか臍まで見える。
「そうなの……」
彼女は他人事かのように気の抜けた返事をした。
こういった部分に関しての理解が弱いので、意味を分かっていないのだろう。
羞恥心を教えるために、あとでスカートでもめくってみよう。
衣服を買いに出かける度に、必ず一つは俺が彼女の服を選ばされる。
しかも、どんなものであれ絶対に着るので、下手なものは選べない。
一度、悪戯心からメイド服を選んでみたときは、メイド服の彼女とデートへ行く羽目になった。
恐らくは今回選ぶ服を旅行で着ていくことになるので、暖かめのものを探すと、短めのコートといった感じのパーカーが目に入る。
カシミアのようなきめの細かい生地で出来ていて、手触りも良い。
「このパーカーとかいいんじゃないか? 生地の質が良くて軽く暖かそうだし、上品で可愛らしいデザインはきみに似合う」
「じゃあ、これにしましょう!」
嬉しそうに両手で服を抱えて持ち、会計へと向かった。
そして最後に、世話になった礼として贈る品を選ぶために街を散策する。
「さて、鍾離さんへのお土産って何が良いと思う?」
「うーん。やはり、お茶ではないかしら?」
「茶と言っても種類がありそうなんだよなあ。まあ、細かいところは店員に相談すればいいか」
"璃月人に贈る高級なお茶"というリクエストで、茶葉店にお任せすることにした。
比較のために何件かを巡れば、ナヒーダが香りや見た目から質を判断するための基準を導き出したので、基準を満たしたお店まで戻りそこで購入する。
一通り必要なものを買い終えたので、休憩がてらカフェへと入った。
「あー! デザート食べるなら、わたしにも奢ってよ!」
風を切る音とともに、赤いうさ耳が降りてきた。
「アンバー、仕事はいいのか?」
「いーの、いーの! 見回りはパパッと終えたし、ここからなら門が見えるから怪しい人にも気付ける!」
彼女は口煩いわりにガサツだが、なんというか人柄的な魅力に優れていて嫌いになれない。
ただリサさんへの態度を見る限り、そういう心情がナヒーダにバレれば碌でもないことになることが見えている。
なので必要以上には関わらないように心がける。
「ナヒーダちゃんは本当に知識があるよねぇ。そこの誰かさんとは大違いだ」
「常識に疎くて悪かったな」
アンバーとは何度か食事を共にしていて、その際の雑談を通して俺がテイワットでの常識的な知識をあまり知らないことがバレてしまっている。
彼女は俺がナヒーダを泣かせたことをまだ許してないようで、こうして度々、小言を言われていた。
「でも、それも彼の魅力なの」
「それまったくフォローになってないんだけど……」
背筋を伸ばし行儀よくケーキを食べるナヒーダは、甘味によってニコニコと顔を緩めている。
大人びた雰囲気と見た目相応の表情のギャップが可愛らしかったが、口にしたその言葉は考えてのものなのか分からなかった。
買い物も終えたので、カフェでアンバーと別れて家へ戻ってくると、ナヒーダはまたシャツに着替えた。
今回着ているのは俺が元の世界から持ってきたものなので、もう隠す気すらないらしい。
これは罰が必要だな。
「ナヒーダ、後ろを向いて」
「? なにかしら?」
「そのままバンザイ」
彼女が両手を上げたので、一気にシャツを首元まで捲り上げる。
見えたのはレースのショーツと、何も付けていない背中。
腕を上げたまま数秒間硬直した後、腕を下げると同時にペタリとしゃがみ込んだ。
手放されたシャツの裾が少し遅れて地に落ちる。
「今回は大袈裟だっただけで、普段から全部見えているからな?」
「……わかったわ。気を付ける」
俺がなぜこんな事をしたのかを理解できたらしい。
多少常識に疎くとも、こういう部分では聡明なので助かる。
「……驚きすぎて、脚に力が入らないの。抱き上げてちょうだい」
床にしゃがみこんで顔を伏せたまま、そう乞ってきた。
俺は彼女をベッドの上へ運ぶために膝裏に腕を通して抱き上げ、謝罪の言葉を投げる。
「悪かったよ」
「本当に驚いたの。リンゴが空へ落ちていったのかと思ったわ」
彼女は不満を語るが、しかしその顔はジェットコースターでも体験したかのに目を輝かせていた。
「どうしてそんなに嬉しそうなんだ?」
「だって、部屋に戻るまでそれをしなかったのは、"わたくしの体を他者へ見せたくない"という独占心でしょう?」
「……そんな時に限って頭が回らなくていいんだけど」
いや、外でしたらアンバーに捕まる、というのは今更言ってもただの言い訳か。
「ふふっ。わたくしはいつも、あなたの心を意識しているのよ?」
腕の中から顔を見上げ、少し目を細めて眩しそうに微笑む。
俺は両手が塞がっていて顔を背けることも難しいため、逃げ場が無かった。
打撃を受けた心臓は静かに高鳴る。
しばらくベッドの上でふたり寛いでいると、読書をしていた彼女から声が掛かった。
「耳かきをさせて欲しいの」
そう言って、ナヒーダは自らの膝を叩く。
先日、彼女の読んでいる恋愛小説をぱらぱらとめくったところ、ちょうどそのような描写が描かれていた。
なので自分も試したくなったのだろう。
「ああ、いいよ」
彼女の膝に顔を乗せると、ワンピース代わりのシャツの裾はそう長くないために、彼女の太ももが頬へと触れた。
絹のような手触り、ここでは頬ざわりと言ったほうがいいだろうが、の肌が顔にペタペタとくっ付く。
また、彼女の太ももに囲まれた空間は、主に彼女の肌から揮発した暖かな水蒸気に満たされている。
なので直接的に彼女の肌へ触れていない部分までもが、その体温を濃厚に感じ取ってしまい、まるで顔を太ももに挟まれているかのようだった。
「逆を向いてちょうだい」
言葉に従い寝返りを打つと、彼女のお腹が視界を塞いだ。
なんとなく彼女の腰に腕を回し、その少しぽっこりとして柔らかなお腹へと顔を埋める。
……最近、妙に人恋しい気がする。
「あら、なんだか今日は甘えん坊ね。よしよし」
彼女は軽く笑うような口調で言いつつ、頭を撫でてきた。
反論しようとも思ったが、思いのほか気持ち良いので素直に受け入れる。
「終わったわ。次はわたくしの番よ」
軽く眠ってしまっていたようで、彼女の声でそれに気づいた。
伸びをしながら起き上がり互いの姿勢を交換する。
そして膝の上の彼女の側頭部、そこにそびえ立つ長い耳を見て、少し熟考してしまう。
「……このままじゃ綿棒が届かないから、耳を裏返すよ」
表と裏を入れ替えるように耳をめくりあげた。
そうすると耳の付け根が上向きに折れ曲がり、犬猫と同じような形で耳の穴が露出する。
「痛くない?」
「ええ、大丈夫。……ひゃっ!」
口と目を見開いて、彼女は驚きの声を上げる。
「耳の入り口に埃がついてただけだ」
「そう、なの……」
声を出したのが恥ずかしかったようで、ほんのりと頬が赤みを帯び始めた。
その姿が可愛らしくて、俺は指の背でそっとその頬を撫でる。
肝心の耳掃除は、彼女が人ではないためかあまり汚れがなく、時間がかからずに終わった。
少し名残惜しいので髪に指を通すように頭へ触れていると、膝の上の彼女は、徐々に眠りへと落ちていく。
耳を裏返したままの寝姿を眺めつつ、起こさぬように優しく髪を撫で続けた。