海灯祭のメインイベントである霄灯流しが行われる日、昼の間は四人で遊んだが、夕方からは二人にして貰った。
日暮れ後に、鍾離さんが予約を譲ってくれた食事処へと向かう。
そこは見晴らしのいいベランダ状の個室であり、二人きりで落ち着いて食事を取ることができるようになっていた。
メインイベントである霄灯流しが行われる直前に、海側に面した手摺の前に隣り合わせで椅子を並べ、港を見下ろしながらその時を待つ。
「そういえば、俺はきみと永遠を過ごすだなんて約束はできない。だけど、永遠をきみと過ごしてみたいとは思うよ」
ふと、以前の言葉を思い出し、そう声を掛けた。
「……あなたは意地悪で意地っ張りで、嘘つきだから、困ってしまうわ」
彼女は隣で街を眺めながら、なんてことのないかのようにそう言った。
「わたくしのこの心は、そんなあなたに右往左往しているの」
「……そんな俺が嫌いになったと」
「いいえ」
街灯りの映り込むその横顔をジッと見つめてみても、思惑は読み取れない。
彼女はただただ、ぼんやりと考え込むかのように、遠くを見ている。
「別にきみが俺と居たくないというなら、自由にしていいんだぞ」
それなら俺は、いい夢だった、そう思って元の世界へ戻るだけだ。
別離に対して苦しみはするだろうが、それもきっと時間が癒してくれる。
彼女は驚いた顔をしてこちらを振り返ると、俯いてから体をこちらへ向けなおした。
そして無言のまま、低い位置でハイタッチするように、おずおずと手を差し出す。
その手は指が軽く広げられていて、どうやら指を絡めて手を握れということらしい。
向かい合って手を繋ぐと、その手を介して震えが伝わってくる。
彼女は、大切なことを打ち明ける際にこうして、手を繋ぎながら震える癖が付いてしまった。
「……わたくしはあなたを攻撃した。短絡的に、ただ自らの心を慰める為だけに」
俯いているので、その顔は見えない。
「わたくしは、あなたが居なくなってしまうことが、とても怖い」
恐怖を思い出したのか、繋いだ手に力が籠められる。
「あなたを失いかけたと気づいたとき、頭がおかしくなってしまいそうなほどの恐怖を感じた。そしてわたくしは、ただの慰めのために、あなたに激情をぶつけた」
彼女は顔を上げた。
「こんなわたくしで、ごめんなさい」
飛沫のように大粒の涙をこぼしながら、裏返りかけた、引き攣った声で謝罪する。
「わたくしには、あなたを引き止められるようなものがなにもない。でもどうしても、あなたと一緒に居たいの。……嘘つきなあなたでいいから、どうか、わたくしを置いていかないで」
最後にそう口にして、耐えきれなくなったかのように、彼女はまた顔を伏せた。
白いサイドテールがふわりと揺れる。
「……まず、個人的なラインとしては、流血するかどうかだ。意図的に俺を流血させたなら、俺はきみを見限る」
手が更に強く握られ、ハァーハァーと過呼吸気味の、深く速い呼吸が聞こえてくる。
"見限る"という言葉は明確に彼女のトラウマを踏んだ。
「ナヒーダ、俺を見て」
恐る恐る上げられた顔は、涙にまみれ、ぐしゃぐしゃに歪んでいる。
その頬に片手を当てて、確りと目を合わせる。
「鍾離さんが指摘したように、俺たちの関係には少し歪な部分があるのは確かだ」
こちらを見ているようで見ていない、細かく揺れ続け、焦点の合わない瞳。
持ち前の想像力で、俺に捨てられる未来を見ているのであろう。
今の彼女は旅館での事件を引き摺っている。
ならば要点となるのは恐らく『俺を怖がらせてしまったという自責』、『自分も怖い思いをしたという不満』、『怖がられて逃げられるかもという不安』の三つ。
最初の一つは既に先のライン引きで触れたので、残りは二つ。
「ごめんな。きみが俺を攻撃したのも、元はと言えば俺がきみを傷つけたからだ。反省してもらいたい部分もあるが、決してきみだけのせいではない」
トラウマの原因となったあの日、扉越しに彼女を拒絶したときのことを思い出す。
俺が傷を付けていなければ、今回の帰還未遂があれほどまでに彼女を駆り立てることはなかった。
彼女が依存気味になっているのも、あの時付けた心の傷が元のはずだ。
「俺はきみと生きると決めたんだ。先の言葉とは矛盾するが、例え何があろうとも」
本当に元の世界へ帰ってしまったなら、また来て見せる。
今の関係が途切れたなら、諦めずに修復を模索する。
「もし決別して離れ離れになったとしても、きみが望むなら、俺はきみに会いに行く」
見限ったとしても、一度繋いだ縁はそう簡単に切れないものだと思う。
「俺はきみが好きだよ。女性として」
しかしそこで号令が響き、街の明かりが落とされ周囲に闇が落ちる。
そして入れ替わるかのように、灯籠の灯りが徐々に空へと上がっていく。
少しタイミングが悪かった。
手は繋いだまま、言葉を交わさずに、幻想的な灯りのショーを眺める。
……あれは火事の原因にはならないのだろうかと疑念に思ったが、口には出さない。
彼女の様子が気になり顔を向けると、ちょうど彼女もこちらへ振り向くところだった。
灯籠を背景に互いを見つめあう。
改めて思えば、"相手の瞳の中に自分が居る"というのは不思議な感覚だ。
見ている側のはずの俺が、見られている側でもある。
相手を見て思った事が、身振り手振りを通して、相手に読み取られてしまう。
これはもう、読心と大差がない。
どちらからともなく、徐々に顔の距離が近づいていく。
間接光によって照らされる美しい顔、その中にはエメラルドの眼差しが輝いている。
この光景を見てしまえば、瞳に乾杯した理由も理解できた。
そっと、唇同士を合わせる。
二人が彫像となってしまったかのように時間を過ごす。
そのとき彼女が唾を飲み、キュッと啄むように唇が動いた。
それを切っ掛けに、今までのような大人しいキスではなく、軽く口を開いて彼女の小さな唇を食べるように口づけをする。
「んっ!」
マシュマロより柔らかい、まるで水そのもののような唇が、唇に挟まれ形を変える。
上唇を咥えて軽く引っ張ると、どうやら唇の裏側への刺激に弱いらしく、彼女の体がぶるりと震えた。
もふもふと口を動かして、下唇を彼女の上唇のさらに奥へと差し込む。
そして唇を尖らせるように力を込め、その上唇の裏側を摺り上げて刺激する。
一定リズムで食んでいると、徐々に慣れてきたらしく、彼女も唇で食み返してくる。
今までよりも濃厚に擦れ合う唇に、脳が震えるようにゾッとする快感が走った。
ここにきて漸く危機感を感じて口を離すが、しかし、それは即座に彼女によって塞がれる。
俺から学んだと言わんばかりに、まったく同じ動きで口先を扱う。
小さな下唇がこちらの上唇の裏に入り込み、ちゅちゅと音を立てながら健気に吸い上げる。
唇と唇の擦れ合いによる甘い痺れで、口元の感覚がよく分からなくなっていく。
互いに互いの唇を食みながら、唇を積極的に擦りあわせ、唇で唇を揉みしだき、何度も何度も求めあう。
互いに満足するまで唇を絡めた結果として、夜空に浮かぶ灯籠は数を減らし、まばらなものとなっていた。
並んで椅子に座ったまま、その消えゆく残光を眺める。
ずっと繋がれている片手は、余韻を示すように、いつもより暖かい体温を伝えている。
「わたくしも、あなたが好きよ。……ずっと、ずっとこう答えたかった」
突然そう言われ、先ほど自分が何と言ったかを思い出す。
長い口づけを挟んだのに、律義に返答をくれたらしい。
「あなたは意地っ張りで意地悪だから、好きという言葉一つに但し書きを加えてしまうのだもの。盗賊イタチに素直さを習ったらどうかしら」
「へいへい。俺は意地っ張りで意地悪ですよ」
「でもそんなところも、わたくしは好きよ」
ちょんと、伸びあがるようにして、彼女は唇の先端を小さく触れ合わせた。
「……俺がこのテイワットで生活できているのは、きみの存在が心の支えになっているからだ。きみが居なければ、とっとと故郷へ帰ってしまっている」
身を焦がすようなホームシックが今は治まっている、そしてあの時まで出てこなかったのはやはり、いつも彼女が居たから。
「多少の語弊はあるものの、つまり俺はきみ無しでは生きていけない」
正確に言えば"テイワットでは"という言葉が入る。
「……駄目よ。そんなことを言われては、黒い喜びが収まらないわ」
彼女はやや焦点の合わない目と、わずかに歪んだ口元で、無表情気味にそう言った。
良心と本心とがせめぎ合っているらしく、その葛藤が表情に表れていた。
「本当に、わたくし無しでは生きていけなくしてしまいたいの。もう帰ろうとは思うことができないほどに」
やはり彼女の心は未だに癒えていないようだ。
……だがそのような独白をされても、どう反応すればいいのか分からない。
「わたくしだけを、見つめてちょうだい」
流石にその流れで言われると、答えに迷ってしまう。
「ああ、俺は何時だって、きみの瞳を見つめてるよ」
俺は背後のテーブルへ手を伸ばして盃を取ると、意図的に軽く道化染みた口調でそう語り酒を飲む。
以前一緒に見た映画の台詞をもじった言葉だ。
「……わたくしは真剣な話をしているの」
「なら、もう少し受け手のことを考えてくれ。先のきみの言葉は俺の反応など何も考えていない」
その指摘に彼女は黙り込む。
「あと、俺はもう、きみだけを見てるんだよ」
盃に顔を向け、目を合わせずに言う。
少し声のトーンを落として、記憶に残る彼女の瞳を思い出しながら。
惚れ込んでしまっていると改めて自白するのは、"好きだ"と伝えるよりもずっと恥ずかしいものだ。
「……わたくしの目を見てもう一度」
「無理」
「なら、言行不一致よ。もう一度言って」
「"見る"の意味が違うことぐらい分かってるだろ」
溢した本心をわざわざ言い直させられるのは、本当に勘弁してほしかった。
「そういえば、灯籠の火は火事の原因にならないのかしら?」
「雰囲気を壊すと思って俺は黙っていたけど、きみが言うのか……」
「だって気になるのだもの」
彼女はポーっとした表情で、遠く景色を眺めながら言った。
「俺の世界だと、度々火災の原因となっていた。だから飛距離や大きさに制限が加えられたはずだ」
「まぁ、あなたの世界にもあるのね! ぜひ見に行ってみたいわ」
目を輝かせてこちらを見た。
「ああ、いつか一緒に見に行ってみよう」
「約束よ!」
そうして咲いた花のような笑顔が心地よくて、隣に座るその小さな肩を抱きしめる。
「あっ、大変」
「どうした?」
「写真を撮り忘れてしまったの」
夜空にはもう灯りは見当たらない。
たしかに機会を逃してしまったようだ。
「まあ仕方ない。次の機会を楽しみとしよう」
「……いいことを思いついたわ。情報端末を貸して」
指示に従い二人で自撮りの用意をすると、彼女の手に顎を引かれ、次の瞬間に撮影音が響いた。
「……ナヒーダ」
「いいでしょ? もうこんなにもキスを交わしているのだもの!」
その言葉に反論はできなかった。