1. 赤い不発弾
小柄な体が腕の中に潜り込んでくる。
顔を近づけてきたのでキスの催促だと判断し、寝ぼけたまま唇を奪う。
後頭部に手を回せば、いつもはフワフワとしているのに、今日はサラサラとした髪質。
もう片手で引き寄せた腰は太陽のように暖かく、その唇は柔らかいようで弾力の強い、ゼリーのような感触だった。
その違和感が気になり唇同士を絡めてみれば、たどたどしい口遣いで唇を絡め返してくる。
最近は、気温はまだあまり上がらないものの、日差しが温かくなりすっかりと春の陽気だ。
そして春が来たということは、俺たちがモンドに来てからもう一年を越えたということでもある。
ここに定住してから、時折の問題はあれど、ナヒーダも楽しそうに日々を過ごせていた。
キスにも慣れたらしく、初めは興味津々に目を開けたまま唇を重ねることが多かったが、最近は目を閉じて雰囲気を味わうことも多い。
見つめ合いながらするのもいいが、目を瞑っていると口先の感覚に集中できるため、俺もこうして彼女に倣っている。
キスとキスの合間には、ハッハッとした早く短い、やけに初々しい息遣いが耳に届く。
「はぁっ、んっ」
熱い吐息を吐くその口にまた唇を重ねれば、彼女は先ほどよりもさらに積極的に求め返してくる。
触れ合った胸元はいつもよりも柔らかくクッション性があり、逆に腰は少し小さくなったように思えた。
こんなに胸があるはずがないし、少し太ったのだろうか?
「ぷはぁ。……黒いお兄ちゃん、クレーだよ?」
背筋を走る悪寒に目を開く。
腕の中では、赤い小悪魔が困った顔でこちらを見つめていた。
「……ごめん」
状況が理解できず、やっと捻り出した言葉は一言の謝罪だ。
「ううん、クレーは大丈夫。……でも気を付けてね。ナヒーダお姉ちゃんが怒っちゃうから」
暖かさは布団の中から去っていく。
日常が崩壊する音が聞こえた気がした。
しばらく呆然と現実逃避していると、ナヒーダが呼びにくる。
「もう。クレーが起こしてくれたはずなのに、また寝てしまったのね」
彼女はスリッパを脱ぎ、もそもそと布団の中へ入ってきた。
「おはよう。目は覚めた? 目覚めたのなら、お寝坊の罰としてキスをしてちょうだい」
「……ごめん、今はそういう気分じゃない」
罪悪感に押しつぶされそうになりながら、そう言葉を口にした。
強いストレスによって吐き気がする。
「どうしたの? 気分が優れないのかしら?」
オロオロとしながら心配そうに俺の顔色を伺う彼女の姿を見て、より一層……。
飛び起きて手洗いへ走る。
その後、ナヒーダ達に心配されながらも、何とか朝食を食べた。
「だいじょうぶー?」
「ごめんなさい。わたくしがもう少し早く気づければ、もっと食べやすいものを用意できたのだけど」
「……きみのせいではない」
改めて状況を認識し、しかし頭はそれを現実だったと受け入れることを拒み、軽い吐き気と頭痛に見舞われる。
幸いにして被害者のクレーはあまり気にしていないようだったが、あれは明確にナヒーダへの裏切りだった。
しかもその相手は彼女の一番の友達であるクレーな訳であるし、もはやその意味を考えるだけでも精神が削られる。
自分で為したことでありながら、自分自身がそれを事実だと信じられない。
「黒いお兄ちゃん、また後で来るね。むりしちゃだめだよ?」
食事を終え、クレーは心配そうな顔をしながらも、騎士団の仕事へと向かう。
「体調が悪いときは何もせず休みなさい。大丈夫よ、わたくしがついているわ」
ナヒーダが看病の準備をして、否が応でも俺はベッドで横にさせられる。
彼女はそのフチに腰かけて額を優しく撫でた。
「……あなたの体調が悪いというのに、少し嬉しいわたくしがいるの」
自己嫌悪を含む微笑みを湛えて、自白するように彼女は言う。
罪悪感を抱えている様だが、謝るべきは俺の方だ。
彼女の頬へ手を伸ばす。
「……すまない」
「なぜあなたが謝るの?」
その問いには答えられず、互いの間にしばしの沈黙が落ちる。
「……病で気が弱っているのね。あなたはただ、元気になることだけを考えればいいのよ。よしよし」
彼女は沈黙の意味を、病気からくる不安だと解釈した。
病人を安心させるためか、伸ばされた手を取り、小さな身体に明るい笑顔を浮かべる。
その無垢な信頼が今の俺には辛かった。
夕方ごろ、様子を見にクレーと、追加でアルベドが訪ねてきた。
ナヒーダはいくつか買いたいものがあるらしく、看病係をアルベドに交代し、クレーと買い物へ向かう準備をする。
「少しクレーと一緒に買い物に出てくるわね。アルベド、彼が眠りそうになっていたら起こしてあげて?」
「ああ。任せてくれ」
「じゃあ行ってくるね! 黒いお兄ちゃん、アルベドお兄ちゃん!」
ナヒーダとクレーは買い物へ出て、俺とアルベドが取り残される。
病人扱いといえども、能力の暴発の危険から、彼女無しにベッドで横になることは許可されなかった。
テーブルに着いた俺たちの前には、コーヒーが計二つ。
アルベドはコーヒーに口を付けながら、世間話として話題を切り出した。
「今日のきみはやけに顔色が悪いけど、なにかあったのかい?」
「………実は寝ぼけてクレーの唇を奪った」
「ぶふっ、ごほっ、ごほっ。……それは本当かい?」
彼は衣服の袖で口元を拭いながら、疑念の眼差しでこちらを見る。
「ああ、本当だ」
直視できないので、俺は目線を下げつつ言葉を続けた。
「きみの家族に酷いことをした。謝って済むものではないが謝らせてほしい」
口元に手の甲を当てながら、彼はしばし考えこむ。
そして彼としての見解が定まったらしく、立場を述べた。
「クレーが許したのなら、ボクも許すよ。でも、どうしてそんなことに?」
「端的に言えば、寝起きに腕の中にいたからナヒーダだと思ったんだ」
「うーん。それに関しては、クレーにも悪いところがあったみたいだね。後で叱っておく。ただ……」
真剣な、あまりアルベドから向けられることのない、眼差しで彼は続ける。
「きみのその行いは、クレーとナヒーダさんの両方を傷つける行為だ。そのことはよく考えておいて」
「……ああ。すまない」
テーブルに額が着くほど、深く頭を下げた。
もう顔を上げる気力もないので、そのままテーブルへ突っ伏して倒れこむ。
「ところで、許しはするけれど、貸し一つでいいかな? きみの能力を使った実験をしてみたいから、ナヒーダさんを説得して欲しいのだけど」
「……その申し出はありがたいけど、それは俺を気遣ってなのか?」
「気遣い? 何のことだい?」
アルベドは全く理解できないという表情で問い返してくる。
「…まあ分かった。借り一つだ」
「うん、良かった。こんな風に機会が訪れるなんて思っていなかったよ」
どうやら俺の罪悪感を気遣って、といった意図はないらしい。
ましてや"良かった"とまで口にしていいのかと疑念に思うが、彼は割とこういうやつでもあった。
しばらくアルベドと雑談しながら待っていると、部屋の外から騒々しい声が聞こえてくる。
「黒いお兄ちゃん、アルベドお兄ちゃん、早く食べよう!」
クレーは騒々しく扉を開くなり、そう言って、テーブルの上で紙箱を開いた。
どうやらタルトケーキを幾つか買ってきたらしい。
「おいしそうでしょ? さいきん開いたばかりのお店のデザートなんだよ。アンバーお姉ちゃんに教えてもらったの!」
「果物のタルトなら食べられるかしら? クレーと一緒にあなたの食べやすそうなものを選んでみたのだけれど」
荷を下ろしたナヒーダが、俺を挟み込むようにしてクレーの反対側から声を出す。
こうして両側を囲まれていると本当に賑やかで姦しいが、精神的には少しありがたかった。
ケーキを食べ終えて、クレーたちは帰宅した。
そして俺は再びベッドへ寝かされそうになったが、どうにか交渉によりソファへ座る権利を得て、そこで時間を過ごす。
「このお酒を飲んでみてちょうだい。アルイクシルというのだけど、手作りしてみたの」
座っている間に、ナヒーダが小さなショットグラスに入った液体を持ってきた。
「薬酒というやつか」
「ええ。まだまだ試作だけれど、体調不良を癒す効果はあるはずよ」
試作で調子が戻るならば完成したら怪我すら治りそうだ。
……無理に怪我を治すと、代償として寿命が縮まりそうで怖い。そう考えつつ、液体を飲み干した。
彼女は飲み終わったカップを洗い場へ置くと、ソファの隣に座って俺の腕を抱く。
「そういえば、そろそろ引っ越しを考えないかしら?」
「引っ越し?」
個室が欲しくなったのだろうか。
「ええ。今はクレーたちが泊まるようになったのだし、あなたとわたくしの寝室が欲しいと思ったの」
今は俺たちがベッド、アルベドとクレーはソファで寝ている。
たまにクレーがベッドで寝入ってしまい、代わりに俺たちがソファで眠ることもあるが、基本的にはクレーも俺たちの睡眠事情を尊重してくれていた。
だが別に寝室や客室があれば、その方がより快適に過ごせるだろうことは確かだ。
「あと、お風呂が欲しいわ」
「……以前のあれは、あくまでも君への贖罪を兼ねてのものだ。だからもう一緒には入らないからな?」
その言葉はある種の嘘のようで、口にしていて自分に嫌気が差した。
嘘ではなくとも、朝の事を踏まえれば、それは明確に詐欺を働くものであるから。
「いいえ、一緒に入って貰いたいの。……わたくしと入るのは嫌?」
「うん、嫌だな。流石に一人で入りたい」
「たまにでもいいの。お願い」
彼女は頭一つ分低い目線でこちらを見上げながら、まっすぐな眼差しで懇願する。
「あなたにはもう罰はない。だからお願いになるのだけれど、わたくしはできれば、あなたと入浴を共にしたい」
嘘を指摘されているかのようなその言葉に心臓が痛む。
これ以上の誤魔化しはもう、精神的に無理だ。
「……分かった。きみの望む通りでいい」
「えっ、いいの? なら、毎日一緒に入りましょ? わたくしそのための入浴剤も研究しているの。あとあなたのためのシャンプーも作ってみたいわ。わたくしのお勧めの香りでよければ……」
彼女はタガが外れたように願望を語りだすが、俺にそれを止めることなど到底できなかった。