土砂降りの雨。
崖沿いに進めるだけ進んでみたが、これ以上は進めそうにない。
「この雨だと足場どころか土砂崩れが怖いな。今日は進むのは無理そうだ。さきほど通り過ぎた小屋へ戻ろう」
「そうね、急ぎましょ。じゃないと、頭にキノコが生えるわよ」
「生えねーよ!」
小屋の隅から一枚の毛布を見つけ、二人で包まる。
想定外の降雨量によって床は軽く浸水していて、壁際の箱の上に座り込むのがやっとの惨状。
ナヒーダの能力で水を枯らせるとはいえど、雨で気温も下がっているので今夜はこのまま眠るしかない。
肩を寄せ合った彼女が、声を掛けてきた。
「ねえ、あなたのことについて聞いていいかしら?」
「しばらく動けそうもないし、別にいいぞ」
そして俺は一通りの自分の経歴を語る。
こちらとは常識が異なるようなので、詳しくは語らず、分かりやすく言い換えながら。
日本人としてであれば特に代わり映えのない、ごく普通の人生だ。
「……それで、気づいたらあの場所に居たってわけだな」
ナヒーダは真剣な顔で考え込み、次のように述べた。
「世界と世界の距離とは近いようで遠い、遠いようで近いもの。あなたの能力が持つ偏在性は、世界を隔てる壁と相性が良いみたいね。厚くもあり薄くもあるそれを、望むがままに解釈できるのだから」
「つまりはどういうことだ?」
「寝て起きたら元の世界へと戻っている可能性も十分にあるわ」
「それはいい知らせだが、せっかくだからもう少しこの世界を見て回りたい」
未知にあふれた異世界というものは、少し歩くだけでも探検心がくすぐられる。
どうせ元居た場所へ戻るにしても、どのような世界だったのかぐらいは知っておきたい。
「大丈夫よ。わたくしが許可するまでは戻らせないわ」
「許可が必要なのか」
わざとらしく呆れて言えば、ナヒーダは"ふふっ"と楽し気に微笑む。
「あなたの能力は眠りを通して行使されるの。だからわたくしが居る限りはその力を制御することができる」
「眠りを通してねえ」
起きている間に利用できないなら、それは意識的に利用できないということであって、実質としてこの能力は無用の長物だろう。
案外に実用性の無いものであることが判明し、少し気落ちした。
「次はそっちについて聞いてもいいか?」
「面白いものなど何もないわよ? それでもいいのなら」
ナヒーダも経歴について語り始める。
見た目に反した落ち着いた声で。
「わたくしの過去はとても単調なものなの。それこそ聞いているうちに、風を吸った風スライムみたいにあくびが抑えきれなくなってしまうわ。それでもいいのなら」
『
わたくしはスメールの現在の神、クラクサナリデビ。
前代の神であるマハールッカデヴァータの後任としてこの世に生まれた。
スメールの民はわたくしに知恵の神としての立場を求めた。
しかし、わたくしはそれに答えることができなかった。
……わたくしには彼女に及ぶような英知はなかったから。
失望した賢者たちはわたくしを檻の中に閉じ込めた。
わたくしはずっと籠の中に居た。
わたくしに唯一あったものは夢だった。
アーカーシャという機械を通して学んだ知識が、夢を彩ってくれた。
初めて暝彩鳥が夢に出てきた時には、それは翼を広げずに、切り株に止まった姿勢のまま空を飛び回った。
その光景はとても奇妙なもので、そのことから翼という器官の用途を理解し、夢の中の暝彩鳥は羽ばたくことができるようになった。
そして知識が増えるに従って、夢は精巧で賑やかなものとなっていった。
わたくしの夢はどのようなものでも再現できた。
でも唯一、どれほど知識を増やそうとも、人だけは居なかった。
いくら動植物で賑やかになろうとも、それは寂しく人情味のないものでありつづけた。
』
「わたくしは自らの足で旅をすることを夢見ていたわ。だから、わたくしを籠から連れ出してくれた、それを叶えてくれたあなたには、とても感謝しているの」
寄り添って座ったまま、こちらを真っすぐに見上げてくる。
その表情は好奇心に溢れた楽し気なものではなく、むしろ慈愛に溢れたような、そしてホッと安心したかのような落ち着いた笑みだった。
「もしよければあなたのこれからの物語。そのすべてをわたくしにも感じさせてちょうだい」
まるで告白染みた重い言葉だと思うが、彼女の境遇を思えば言葉が重くなるのは当然だろう。
「さっき語ったように、俺にはこの世界についてはなんの知識もないからな。ガイド役として導いてくれると助かるよ」
彼女はそれを聞くと『やはり、あなたにはわたくしが必要ね』とおどけて笑う。
「でも、ガイド役としては役者不足かも。わたくしは知識があるだけで、実際に行ったことがあるわけではないから」
「いいや、最高のガイドだよ。おかげであの檻を脱出してここまで来れた」
「でも」
「大丈夫だ。実践が足りないというなら一緒に学んでいけばいい」
「……そうね。あなたがそう言うなら、わたくしも一緒に学んでみたいわ」
彼女は頭を預け、その小さな身を寄せた。
その後も俺たちは他愛もない会話を続け、箱に腰かけたまま、二人で寄り添って眠る。
雨は翌日も、そのさらに翌日にまでも降り続いた。
「……もう食料が無いな」
重くて保存の利きにくい生鮮類は初日に、軽くて保存の利く携帯食は昨日と、今日の朝昼で食べ尽くす。
ここの地形は、比較的マシなルートを選んだにもかかわらず想像以上に昇り降りが多く、その運動量を補うために予想より消費した。
必ずしも糧食を必要としないナヒーダは絶食して彼女の分を譲ってくれたが、もともと食の太くない彼女の分は購入した量からして少なく、大勢には影響がない。
「無理してでも進むしかないか」
怖いのは体力を失った状態で何らかの危機に陥ることだ。
それよりかは、十分な体力のある内に前進した方がいいかもしれない。
彼女が人間性をうまく理解できないことだとか、それでもどうにか寄り添おうと努力していることだとか。
ここに足止めされている数日、互いに様々なことを話した。
そうして理解が進んだおかげで、彼女への信用は以前よりも深まっている。
「最悪の時は任せた」
「ええ、わたくしに任せなさい」
意を決して小屋から出ようと荷造りをしている途中。
「まって、誰かが来るわ」
雨音に交じって人の走る音が聞こえ、それが小屋の扉を開いた。
フードを被っているのでその顔は見えない。
「よかった。無事だったんだね」
聞き覚えのある声だった。
「ティナリ!」
小屋に入った彼は水を払ってフードを脱ぐ。
「君たちが賢明でよかったよ。ここに居なかったら引き返す予定だったんだ」
そして彼は背負った荷物から、十分な食料と、予備の衣服を渡してくれた。
「こんな雨の中駆けずり回るだなんて、レンジャーって凄いんだな。心から尊敬するぜ」
「ええ。わたくしもあなたのその崇高な在り方を尊敬する」
「僕が君たちの旅程に口を出したんだから、その責任を取るのは当たり前さ」
ティナリはさも当然とばかりに言う。
「僕はこれで失礼する。この雨だ。救助が必要な人はまだまだ居るんだ」
ナヒーダは祈りを捧げるようにして、声を掛けた。
「あなたにはきっと草神の加護があるわ」
「ははっ。うん、そうだといいな。ありがとう」
その後すぐに、ティナリは雨の中を走り去っていった。
ダボっとしたTシャツと、紐で縛るタイプの脛出しズボン。それが二人分。
やや大きめなのは、小さくて着れないということが万が一にも無いようにだろう。
実用重視なのは彼らしい。
俺たちは受け取った衣服に着替えると、また木箱に二人で座り込む。
「スメールは死域と呼ばれるものに浸食されている。でもそれに対抗して今でも活気を保って居られるのはレンジャー長たちの働きがあってこそ。ティナリはその中でも特にずば抜けた存在なの」
「災害の中を走り回るんだから勇気があるし、勇気だけじゃなく危険を乗り越えるだけの知恵もあるんだろうな」
「ええ、そうよ。彼らは世界を旅したリシュボラン虎のように、勇敢で聡明なの」
"リシュボラン"の意味は分からないが、世界を旅した虎という例えは何となく理解できる。
「ふふっ。スメールシティからここまででリシュボラン虎には出会わなかったものね。風に吹かれたスミレウリみたいに不思議そうな表情をしているわよ」
今日もよもやま話で暇を潰し、雨音を子守唄に眠った。
翌日。長かった雨が上がる。
相変わらず人が見当たらない鉱区を歩き通す。
大雨の影響で地面は不安定だが、数時間ほど歩けばトロッコ用の線路と共にきちんと整備された道が現れ、そこからは不安もなく安定して進んでいった。
線路の終点の先、木で整えられた坂道を登ると、ようやく層岩巨淵の出口へとたどり着く。
そこには簡素ながらもしっかりとした造りの建造物が建ち並んでいて、開拓村のような様相を呈している。
俺たちは村入口の見晴らしのいい高台から、ここまでの軌跡を眺めた。
そこにあるのは、平地ならまだしも、人が通れるとは思えないような起伏だ。
「洞窟があったのは対岸のあの辺りだな。よくこの道のりを歩いてきたもんだ」
「思っていたよりもずっと時間が掛かった。旅にはこんなアクシデントも付き物なのね」
「まあ、ほんと何とか無事に通過できてよかったよなあ」
「彼には感謝しないといけないわ」
「次に会うのが何時になるかは分からないけど、あらためて礼を言いに行かないとな」
そのまま、綺麗に晴れた満点の星空の下で眠りについた。