誰かに唇を奪われた。
ふかふかとした親しみ深い唇が、まだ寝ている俺の唇を優しく愛撫する。
目を開けば、ナヒーダが居た。
どうやら早起きした彼女に口づけをされたらしい。
「最近、おはようのキスをしてくれないのだもの。だからこれは当然の権利よ」
もう一度、軽く唇を触れさせてから、目が覚めたのを確認して彼女はベッドを出ていく。
「今日は辛くないのね」
「ああ。ペペロンチーノのペペロンチーノ抜き、いわゆるアーリオ・オーリオだ。唐辛子を切らしたのを忘れてた」
ニンニクと塩で味付けしただけの野菜パスタを朝食として食べた。
そして朝食後は、午前中の仕事として、彼女の執筆の補佐役へと取り掛かる。
最近は執筆の仕事が増え、在宅だけでも生活が成り立つようになっていた。
だがまあその主な収入源は知識人の彼女であり、俺にできるのは身の回りの世話とちょっとした意見ぐらいだ。
テイワットの知識に疎いので、彼女の指導の下で論文は書いてはいるものの、大した成果にはなっていない。
「黒いお兄ちゃん、ナヒーダお姉ちゃん! 遊びに来たよ!」
今日はアルベドたちが来訪する予定となっていて、昼過ぎ頃には騒がしい赤色が到着する。
扉を開け駆け込んできたクレーが、そのままの勢いで、ソファに座る俺の膝の上に飛び乗ってきた。
彼女はナヒーダよりも腰の肉付きがないために、こうして座られるとその座骨が、座面となる太ももへ抉るように突き刺さって痛い。
「クレー、痛いから降りてくれないか?」
「えー、やだー」
周囲では、赤い小悪魔の椅子と化して動けない俺の代わりに、ナヒーダが扉を閉め、甘味を出してお茶の準備をしていた。
おやつの用意が終われば、膝の上のクレーと隣に座ったナヒーダの姦しい会話を聞きながら、アルベドの到着を待つ。
こうして役者が揃うと、否が応でもあのことを考えてしまう。
ただ、クレーには悪いが、男女関係に成り得ないという点ではまだクレーで良かったのかもしれない。
互いに異性だと思っていない、なんというか大型犬を相手にしているような気楽さがある。
今回の件がもしリサさん相手であれば、絶対に今よりも拗れた状況になっていただろう。
……それよりはマシであるにも関わらず、俺はまだ打ち明けられていない訳だが。
アルベドが合流すると、今日もまた、ナヒーダはクレーと二人で買い物へ出かけた。
当然ながらベッドで横になるようなことは許されず、監視役としてアルベドが付けられている。
「あの件は、ナヒーダさんには打ち明けたのかい?」
「……まだだ」
「やはりそうか。きみの様子からしてそうだと思ったよ」
アルベドは淡々とした表情と声で、コーヒーを飲みながらそう言った。
「正直な気持ちとしては、もうこのまま消えたい」
「それは駄目だと思うけどね。一番、無責任な解決方法だ」
「分かってはいるんだが辛い」
ナヒーダの努力も何もかもを台無しにするものであるので、とんでもなく打ち明け難い。
俺は力尽きるように、机へと突っ伏す。
「参考までに聞いておきたいんだけど、きみの好みの女性像ってどのようなものだい?」
「……あんたはそういったことに興味がないと思ってたが」
まさか、アルベドの口から異性関係を問う言葉がでるとは思っていなかった。
どういう風の吹き回しなのだろうか。
「ボク自身は生まれもあってあまり女性に関心がないけれど、自己の周囲の人間関係にまったく興味がないという訳ではないよ」
そう口に出す彼であるが、相も変わらず優雅にカップへ口を付ける姿には好奇心が感じられない。
本当に、どういった意図があるのだろうか?
疑いを向けながらも、彼の問いに答えるために頭を動かす。
「俺の好みは……、思惑の読めない知的で神秘的な女性だな。あと肉付きが良いほうが好き」
「それはつまり……、リサのような女性ということかな?」
「ああ、そうだな。おっとりとした雰囲気とその奥に潜む聡明さが、まさに好みそのままだ。高嶺の花過ぎて近づこうとは思えないけど」
好みだからと言って、付き合いたいとは限らない。
これは天文好きが、必ずしも実際にその星へ行こうとは思えないのと同じだ。
美しい星であるほど、その環境は人が生存するには適してなかったりするのだから。
現に、リサさんと付き合ったら色々と苦労しそうだし。
「……きみから見て、クレーはどうかな?」
耳を疑うような質問に机から飛び起きた。
「は? 女性として?」
「うん」
「ないな」
これに関してはもはや即答できる。
「そうなのかい? 見た目で言えばナヒーダさんとそう変わらないと思うけれど」
「ナヒーダは表情や仕草に精神年齢の高さが現れるから好きになっただけで、クレーに関しては無理」
赤い小悪魔には、理数系的な頭の良さは感じるものの、人としての賢さをあまり感じない。
例え体が成長したとしても、彼女を異性として見ることはないだろう。
そもそも性格的にも相性が良いとは言えず、もしクレーとアルベドのどちらかと暮らせと言われたなら、俺はアルベドを選ぶ。
「うん、わかった。そう伝えておくよ」
「……おい待て! 誰にだ!」
「冗談さ」
彼はそういうが、こいつはこいつで天然な部分があるから地味に信用ならない。
下手したらアンバーやガイア辺りに伝わってしまい、散々に弄られる未来が待っている。
ブーと、机の上でサングラスが振動した。
それを耳に掛けると、通信相手は彼女しか居ないので拒否などできずに自動で繋がる。
『起きているわよね? これから甘味を買って帰るからね』
「りょーかい。俺はアルベドと茶をしながら待ってるよ」
「それが通信端末なのかい?」
「初めはそうなる予定でなかったんだけどな。気づいたら機能が追加されてた」
「ふむ。きみの故郷ではそのような形が一般的なのかな?」
「似たようなものはあるはずだけど、眼鏡に搭載するのは一般的ではないな。……というか、通信端末を知ってるのか?」
「ああ、アリスさんがその試作機を使っているのを見たことがある」
「へぇー。そうなのか……」
ふとクレーの母親であるアリスさんと何時か遭遇する可能性に思い至り、元から重たい気分が更に重くなった。
クレー以上にヤバい人だと聞いているし、もう既に今からでも逃げ出したい。
「ただいまー! 黒いお兄ちゃん、なにその眼鏡!」
掛けたまま談話している姿を、帰ってきたクレーに見つかった。
「かわいい!」
「うるせぇ」
サングラスを外して衣服の首元に吊るす。
「あれー、外しちゃうの?」
「別に俺は目が悪い訳ではないし」
「じゃあっ、クレーに貸して!」
「どうぞ」
赤い太陽は色眼鏡を掛けて、得意げにポーズを決める。
「クレー可愛い?」
「ああ、面白いよ」
「ぶー!」
「はいはい、可愛い」
「やたーっ! アルベドお兄ちゃーん」
俺の次はアルベドをターゲットに定めたらしく、眼鏡と共に走り去っていった。
買い物の荷物を仕分けして軽食などの準備を終えてからは、本日の予定通りに四人で映画を見る。
三人掛けのソファーの端に座り、膝にはナヒーダを乗せ、真ん中に座るクレーがこちらに寄りかかって、反対端のアルベドを足蹴にしていた。
「あはははは! なんでそうなるのー!」
「ふふふっ!」
今日はコメディー映画を選んだ。
クレーが大声で笑い飛ばし、釣られるようにナヒーダも笑う。
人々の面白い姿を見るのが趣味なところのある白緑の彼女には、この作品は丁度よかったかもしれない。
「こらっ、クレー。ボクを蹴らないでくれ」
「ごめーん、アルベドお兄ちゃん!」
ソファの反対側ではアルベドが真剣な眼差しで、映像内の小道具などを観察し考察を呟いている。
だが笑い転げながら脚を振り回すクレーに蹴り飛ばされて、苦言を呈した。
しかし彼は結局のところ、映画の最後まで何度も蹴られ続けていた。
映画を見た後はクレーとナヒーダが中心となって感想などを歓談し、四人で軽く夕食を食べてから、アルベド達は帰宅した。
彼らが帰った後は、向かい合わせに膝へ乗せてソファへ座り、今日の出来事を語り合う。
「それでね、クレーったら断固として動こうとしなくて」
顔のすぐ前の至近距離に咲く笑顔から、楽しそうな声が絶え間なく零れる。
「そうなのか」
「ええ、そうなの! でね、……」
それに声色を合わせて相槌を返せば、それ以上の喜色を込めて彼女は語り続ける。
日々の何気ない日常が楽しくて堪らない。そんな様子だった。
「そういえば、お帰りのキスをしてちょうだい。先ほどまではクレーたちが居たから仕様がないけれど、今はもう居ないのだもの」
首に腕を回して、膝の上、目線の高さのそう変わらない場所から、愛おしそうに見つめてくる。
そして一度、花のように微笑んでから、彼女は俺の唇の隙間へと唇を合わせた。
しばらくされるがままにしていると、唇で応じない俺に対して、彼女から不満が上がる。
「唇を絡めて欲しいのだけれど」
「……気分じゃない」
顔を合わせたからだろう。ゼリーのようなあの弾力が思い出され、罪悪感から吐き気がする。
「最近のあなたはなんだか変よ。どうしてしまったの?」
「………」
黙っていると彼女は、無理やり唇を絡めてきた。
唇の裏へ唇を差し込み、小さな口で、食べるがごとく擦り合わせる。
「……ナヒーダ」
「あら、これを教えてくれたのはあなたよ?」
軽く目を細めた、からかうような眼差しで至近から微笑む。
「忘れてしまったのなら、思い出させてあげる」
目を瞑り、ちゅくちゅくと唇を吸い上げる彼女。だが、俺はそれに答える権利など持っていない。
上唇、下唇。右端、左端、そして真ん中。
順々に場所を変えながら、唇全体を優しくゆっくりと、彼女は啄んだ。
「……気持ちよくなかったかしら?」
「………」
赤く染まった長い耳が、不安げに垂れ下がる。
「ねぇ、ちゃんとわたくしを見て」
彼女は両手で俺の頬を持ち、強制的に目線を合わせる。
それは心配そうな眼差しだった。
「……帰りたいの?」
「……そうではない」
「でも、ホームシックが再発したのではないかと、わたくしは疑っているのだけれど」
ここ最近の俺の態度はやはり、彼女へ心配を掛けてしまっていた。
「そうでないなら、わたくしはまた何か、怒らせるようなことをしてしまった?」
「………それも違う」
言葉を介して、一歩一歩近づいてくるような。
彼女は聡明だからこそ、真相を当てられることが怖かった。
「これ以上は聞かないでくれ」
一方的に会話を打ち切って、俺は就寝の準備へ向けて立ち上がる。
膝から降ろされた彼女は、服の裾を握り、捨てられることを恐れる子供のように付き従った。