今日は朝から自宅にクレーが居座っている。
どうやら非番で暇だったらしく、ナヒーダと姦しく会話をしたり、俺にちょっかいを掛けたりして彼女は遊ぶ。
ソファに座っていると、隣にクレーがやってきた。
膝立ちでこちらの顔を覗き込むようにしながら、不思議そうに見つめてくる。
「黒いお兄ちゃん、どうしたの? さいきん元気ないね」
「……実は、この前のことをナヒーダにまだ言えてなくて」
「そうなんだ。意気地なし」
軽いノリで重たいブローを叩き込まれた。
脳の情報処理が影響を受け、一瞬、目の前が揺らぐ。
「しょうがないなあ。じゃあ、クレーがどかーんてしてあげる! ナヒーダお姉ちゃん、こっちみて!」
何をするのか?
そう疑念に思うだけで、彼女が俺の首に手を回している不自然さを気にしなかった。
それが悪かったのだろう。
赤い小悪魔に唇を奪われた。
しかもナヒーダの目前で。
クレーはわざわざ、唇同士の触れ合いがナヒーダから見える位置取りでそれを行った。
弾力の強いゼリーのような唇が、ちゅうと吸いつくような独特な感触と共に襲ってくる。
「クレっ……、待てっ……」
恐らくそれしかキスのやり方を知らないからだろう。
両腕を回して首にしがみ付く彼女は、アルベドの同類を思わせるような馬鹿げた筋力で、無理やり唇を絡めてきた。
こいつは日がな走り回っているので身体能力が割とあり、こうして首に取り付かれてしまうとされるがままだ。
赤い爆弾は目を閉じて、野生動物がマーキングでもするかのようにグリグリと唇を擦り付ける。
ナヒーダにはされたことのないような、強引で力尽くな口づけだった。
俺は唇を奪われつつも、ナヒーダヘ目線を向ける。
彼女は呆然とした表情で硬直し、棒立ちでこちらを眺めていた。
だが目が合ったことで現実を突き付けられたらしく、表情を変えないまま、無言で涙をこぼし始める。
ナヒーダと見つめ合いながら、クレーと唇を絡め続ける。
必死に状況を打開しようと考えを巡らせるが、現状が酷すぎて何から始めればいいのか分からない。
走馬灯のように今までの記憶を思い出すが、現実逃避だと気づき思考を戻す。
そして改めて、現実に絶望した。
思考を停止した頭には、ちゅくちゅくと唇の絡み続ける感覚だけが刻まれていく。
「んっ、ぷはぁ! どうだった?」
満足したのか、赤い爆薬はようやく唇を離す。
リンゴのような頬をして、上向きに伸びたその耳は真っ赤に染まっていた。
ナヒーダはまだ状況を受け入れられていないようで、焦点がどこにも合っていない、明らかに現実逃避した眼差しだ。
恐らくこれは、考えられる中で最も最悪の展開を辿っている。
彼女の努力を否定するだけでなく、彼女の心、今まで築き上げた関係、それら全てを破壊しきった。
「……ナヒーダ」
俺の声を聴いて、彼女は走り出す。
体の制御が覚束ないほどにショックだったらしく、振り向きざまに脚を滑らせて腹を打ち、それでも即座に起きあがって扉へ向かった。
開きっぱなしになった家の扉は、キィと、まだ音を立てている。
あまりにも最悪の結末に、もはや苦笑いしか出なかった。
「……俺、ナヒーダに捨てられたかも」
「その時はしかたないから、クレーが貰ってあげるよ」
「そりゃ心強いな……」
赤い小悪魔はニコニコと、こちらを見つめながら笑っていて考えが読めない。
だが曲がりなりにも、クレーを頼った俺が悪いのだけは明らかだ。
俺は自らの目元を片手で覆いながら、ボフンと、行き場のない手を彼女の帽子に置く。
クレーに戸締りを任せて外へ出ると、まだ白い後姿が見えたのでそれを追いかける。
……いや、本来であればもう見えない位置にまで行っていたはずだ。
ということは、意図的に追いかけさせられているのだろう。
まだ交渉の余地はあるかもしれない。
幾つかの角を曲がり、人気のない路地裏へ入ると、彼女は立ち止った。
「……最近、あなたの様子がおかしかったのは、こういうことだったのね」
振り向きながら彼女は言った。
「わたくし、勘違いしてしまったの。あなたが本当に、わたくしを求めてくれているのではないか、って」
仮面のような作り笑顔だった。
唯一人間らしさを残すのは、とめどなくこぼれて頬を伝う涙のみで、それ以外は目元から口元までの全てが硬直していた。
「現実というものは残酷ね。こんな事ならばまだ、籠の中に閉じ込められていた方が良かった」
その言葉が胸に刺さる。
あれほど外の世界を望んでいた彼女に、それを後悔させてしまった。
それは今までの俺たちの関係その全てを、根本から否定するものであった。
「初めに裏切ったわたくしが悪いのかもしれない。でも、こんなことってないでしょう?」
仮面の笑顔がくしゃりと崩れ、悔いるような、心からの後悔に染まった表情へ変わる。
「ねぇ、わたくしはどうすればよかったの?」
俯いて両手を握りしめ、その涙は地を叩く。
「わたくしとの生活がつまらなかった? なら、あなたを楽しませるために努力させて? それともこんな身体では満足できない? なら、ただの道具としてで良いから傍に置いて? ……そもそもわたくしのことが嫌い? なら、……そう言ってちょうだい……」
「……口で説明しても信用できないと思う。だから、心を読んでほしい」
「ええ、言われずとも、そうさせてもらうわ」
彼女は指カメラを構え、無表情気味でやや不機嫌に目を細めた、まるで裁判官のような表情をする。
冷静さを演じるために心を閉じたのだろう。
まだ混乱している俺の頭の中はぐるんぐるんと考えが巡り、眩暈がして纏まらない。
だからできる限りシンプルかつ率直に言葉を選ぶ。
「……事の発端は、間違えてクレーの唇を奪ったことだ。目覚めたら腕の中に居たので、きみと間違えた」
「へぇ、それで?」
逆らえないと思わせるような超常的な声色で、彼女は続きを問いただす。
「アルベドにはそのことを打ち明けたが、きみには中々言い出せなかった。それを見かねたクレーが解決しようとしてくれたらしい」
「じゃあ、あれはなんだったの?」
「クレーの考えは俺にも分からない」
「ふぅん」
「俺が好きなのはきみだけだ。……こんな事になって済まなかった」
「………」
泣きそうになる目元を堪えながら、俺は謝罪を口にする。
もっと早く伝えていれば、例え別れることになったとしても、ここまで彼女を傷つけることにはならなかった。
彼女はあっさりと、指カメラを降ろした。
どこまで心を読み終わったのか、そもそも本当に心を読めるのかは、分からない。
むしろ今までの用例からすると読めるのは心そのものではない可能性もある。
だが彼女は何やら納得したような、決心したような顔つきで、こちらへ歩み寄ってきた。
目前で宙へと浮かび上がり、目線の高さを合わせて、仄かで暗い微笑みを投げかける。
「……わたくしはあなたを閉じ込めてしまいたい。閉じられた世界で、永遠にあなたと暮らしたい」
彼女は俺の頭へと触れる。
この動作には何の意図があるのだろうか。
「だから、そうさせてもらうわ」
「ナヒ……」
彼女の言葉の意味を理解し、ヤバイと思って逃げようとした。
しかし身体が動くよりも先に急速に意識が落ちていく。
最後に目にしたものは彼女の、決意に満ちた、されど焦点の合っていない表情だった。
「……ここはどこだ? ナヒーダ」
見渡す限り真っ白な、見るからに現実ではない光景が広がっている。
何よりも異様なのは音が無いことだ。
自分は白い地面に立っていて、目の前には彼女が居た。
「ここは夢の世界よ。あなたは現実では眠りについているの」
確かにあの意識の落ち方は以前にも体験したものだった。
違うのは、次の朝を迎えるのではなく、そのまま夢の中へと誘われたこと。
「わたくしたちが最初に出会った時に、言ったでしょう? それがたとえ数百数千年だとしても、こうして眠っている限り、あなたは命を保つって」
「……出してくれたりは」
「嫌よ」
「だろうな」
要するにここは、牢獄のようなものなのだろう。
首輪で駄目だから、籠に入れた、と。
「これであなたは、わたくしと永遠に一緒よ」
その目は俺を見ているようで、焦点が合っていないから見てはいない。
相容れないことが分かっているので、恐らく意図的に俺の心境、俺の表情から目をそらしている。
他人を知り尊重することを好む彼女が、拉致監禁という行動を取ってしまった、その原因は俺だ。
ましてや、それが完全に俺の非によるものであれば、心が痛まないはずなどない。
少し考えこんでいる間に移動したらしく、気づけば彼女の顔が目前にあった。
そして、唇を奪われる。
飛び掛かるかのように両腕を首に回した彼女は、貪るように唇へと吸い付いた。
隙間なく、余すことなく。唇のすべてを味わうとでも言うかの如く、隅々までを唇で食む。
「ふふっ。クレーと触れ合った唇は、こうしてわたくしで上書きしてあげる!」
子供のように嬉しそうな声で、しかし目線の合わない顔で彼女は言った。
「……現実世界でしないと意味がないだろ」
「いいえ、大丈夫よ。現実でもしているもの」
どうやら現実世界の俺の唇もまた、彼女によって好き放題されているようだ。
「あら、もう見つかってしまったみたいね。アンバーってば本当に優秀なのだから。ちょっと出かけてくるから、いい子に待っているのよ?」
現実と夢の両方で同時にキスはできても、同時に対話することはできないらしい。
そのおかげで少し、頭を回す余地が生まれた。
だが打開案など浮かぶ訳もなく。
……ふと一瞬、ハープを奏でる音色が聞こえる。
周りを見渡すが何もない。
しばしの後に、彼女が戻ってくる。
アンバーが現実の俺たちを見つけたらしいので、きっと安全な場所まで体を運んだのだろう。
だがそれは、もう彼女を止める物事が無くなったということでもあった。
夢の世界なので、ナヒーダはなんでも生み出せる。
「ここはわたくしの世界だから、何でもできるわ」
真っ白で何もない空間が、彼女が腕を振るだけで書き換えられていく。
スメール、璃月、モンド。見渡せば周囲には、今までに見たことのあるような建物が、無秩序に聳え立っていた。
「あなたの記憶を読ませてくれれば、あなたの故郷だって再現してみせる」
「それはやめておく」
「……そう。でも、時間は無限にあるのだもの。楽しみは取っておかなくてはね」
嬉しそうに彼女は笑う。
本当に宣言通り、閉じられた世界で暮らすつもりらしい。
「もしかして、読み聞かせのことを気にしてるのかしら? 大丈夫、あなたの能力は一部、ここでも使えるようにしてあるの。だからあなたの生活はなにも変わらない」
ナヒーダは俺の両頬へ手を伸ばす。
「あなたはわたくしだけを見ていればいいの」
焦点の合わない、スズランのような笑顔でそう言った。
「……ごめんな。俺のせいだ」
彼女を抱きしめる。
小さな腕が、"絶対に逃さない"とばかりに、俺を強く抱き返した。