「はい、あーん」
「……」
俺たちは今、スメールシティのスラサタンナ聖処と呼ばれる場所でお茶会をしていた。
彼女と出会ったあの場所だ。
「ふふっ、それはわたくしが手作りしたの。美味しいかしら? ええ、嬉しいわ!」
用意されたのは二つの椅子と、小さなハイテーブル。
ナヒーダは俺の反応など気にせず、楽しそうに独り言を言い続けている。
……お人形遊びの人形は、きっとこのような気分なのだろう。
彼女はケーキを差し出したが、こちらが口を開くことすら確認せずに押し付けたので、フォークから外れ落ちていく。
だが幸いにも、口に入ることなく落ちたその料理は、地面へ触れるとそのまま消えていった。
「運動は心身の健康に必要よね。だから、食べた後は運動をしましょう」
そう言い出した彼女が腕を振ると、周囲の景色が書き換わる。
彼女の服装は、先ほど身に着けていた神さまとしての正装から、動きやすい短パンとシャツに変わっていた。
髪型もサイドポニーから普通のポニーテールとなっていて、白に緑の混じったその髪が背後に垂れる。
「ほら、走りましょ! 手を繋いでいてあげる!」
彼女は俺の手を取り走り出した。
俺は足を動かさない棒立ちのままに、彼女の隣を駆け抜ける。
「……なあ」
「嫌」
呼びかけの時点で拒絶された。
彼女は少なくとも、俺がどのように思い、どのようなことを言おうとしているか、を理解はしている。
「分かっているはずだ。こんなことをしていても、意味はないって」
「次は何をして遊びましょうか? そうね、おままごとがいいわ」
また周囲の景色が書き換わり、今度は俺たちが借りている部屋が再現される。
「ナヒーダ」
「あら。どうしたのかしら、あなた?」
部屋着代わりのいつもの大きなTシャツに、エプロンを付けた姿。
髪は結ばずに腰の下の辺りまでストレートに垂らしているが、彼女は少し癖毛なので所々にうねりがある。
「ふふっ。あなたったら、夜まで待てないのかしら? でもいいわよ、あなたの好きに……」
「ナヒーダ」
彼女の言葉を遮って名前を呼んだ。
「……お口が満足できないみたいね。じゃあ、わたくしが塞いであげる」
ままごとを邪魔された彼女は、不機嫌な声色を隠そうともしないまま、ちゅっちゅと唇を吸ってくる。
わざと大きく立てられるその音は、淫靡でありながら幼稚なものだった。
「ねえパパ、この子にもキスをしてあげて?」
キスを終えると、気づけば彼女は赤ん坊の人形を腕に抱いていた。
大事そうに抱えるそれが、俺たちの子供であるらしい。
「……気が狂った振りをしていると、その内に本当に気が狂ってしまうぞ?」
「パパは忙しいみたい。代わりにママがキスしてあげるわね」
彼女は人形の頬に口づけをしようとする。
その姿に心からの狂気を感じた。
「ナヒーダ!」
「……何かしら。わたくしはそろそろ、この子に乳をあげないといけないのだけれど」
彼女は俺の方を向いた。
しかしその瞳は、意図的に俺の姿を映さないようにしている。
「……きみは、俺よりもその子を優先するのか?」
「いいえ、あなたが一番大切よ。ごめんなさい、不快にさせてしまったかしら?」
彼女はそんなものなど無かったかのように、腕に抱いていた赤子を消した。
あれほど可愛がる振りをしていたにも関わらずだ。
「いや……」
「大丈夫、安心して? これはあなたの為の胸なの。好きに吸ってちょうだい」
彼女は自らの服を捲り上げて、俺の顔をそこへ押し付ける。
「ナヒーダ、流石にそろそろ本気で怒るぞ?」
「……」
彼女は抱えていた俺の頭を放し、服を元に戻して佇まいを直した。
そして感情の抜け落ちた無表情で、目を合わせぬよう軽く俯く。
「きみの行いは、きみの心を無視している」
彼女は"夢の中で生活する"と言っておきながら、俺のことを直視できず、独り善がりなおままごとに終始している。
それは俺の心よりも、むしろ彼女自身の心を軽視し、砕いてしまうものだった。
できる限り優しい声色を心掛けて、説得の糸口を探る。
「君は夢に関するスペシャリストだろ? ならば仮想空間で、そのような脈絡の壊れた言動をする危険性を理解しているはずだ」
「ええそうね。わたくしの行いは、夢と現実の境界を壊して、二度と元に戻れなくなるような部類のものだわ」
「なら何故……」
「怖いのよ!! あなたに捨てられるのが怖いと何度も言ったじゃない!!」
俯いて、自らの肩を抱きながら、白く長い髪を振り回すようにして彼女は叫んだ。
「ナヒーダ、俺は……」
「嫌! 聞きたくない!」
そう述べるやいなや、溶けるように彼女の姿は掻き消えた。
どこか別の空間へと移動したらしい。
それに伴って世界が崩れ、真っ白へと戻っていく。
「………」
今日もまたしばらく、この何もない空間に一人っきりであるようだ。
大事な物が砕けていく様を、ただ見守るしかない。
その場に座り込むと、何かが指の間を滑り落ちていくような無力感に襲われた。
「……きみが壊れてしまっては意味がないだろ……」
その独り言も、彼女には届かなかった。
何もない世界に一人きりにされる心的過労。
そして、ジリジリと形の見えぬタイムリミットが迫っている焦り。
それらが思考を犯していく。
思っていた以上にこの真っ白な空間に放置されるというのは、きついものだった。
眠気を感じないので眠ることすらできない。
……もう、押し倒してしまおうか。
現状の狂った寸劇よりはマシになるのではないか。
それに少なくとも、愛欲に浸っていた方が、こうして無理に正気を保っているよりは楽なはずだ。
まあ、そうしたところでその後の展開が好転するとも思えないから、実行はしないが。
だが予想が付かないだけで、最後の博打としてはありなのかもしれない。
放っておいても壊れてしまうなら、自らの手で壊してしまう可能性を許容してでも、変化に賭けるしかないだろう。
体感では、随分と時間が経過した頃。
風が吹くかのように世界が書き換わる。
どうやらこれは、スメールの街並みであるようだ。
「あら、こんなところに居たのね。駄目よ、わたくしから離れてしまっては」
彼女がやってきた。
その小さな唇を奪い取る。
食事というものを自己存在の維持に必要な物資と定義するならば、今の俺にとっては、これこそが食事であった。
「はぁ、んっ……! 嬉しい! もっと、もっとわたくしを求めて?」
相変わらず意図的に焦点をずらした眼差しで、俺の姿、俺の心境を目に入れないまま彼女は喜ぶ。
だが今はもう、そんなことはどうでも良かった。
夢を制御する術を持たぬ俺には、文字通りの意味で彼女の存在が全てだ。
五感で感じるもの、人として生活するための食事や住居、それらの全部が彼女次第で決まってしまう。
そういった意味でここは正しく、罪を償わせるための牢獄であった。
彼女を失うことへの恐怖は、彼女が大切だからだけではなく、もはや単純な生理的欲求に起因するのかもしれない。
……俺はもう、ある種のパプロフの犬なのだろう。
彼女の温もりを得ることだけが、この何もない世界において、唯一の楽しみだった。
長いキスを終えて息を整える間に、ふと思った疑問を投げかける。
「ひとつ疑念がある。なぜ、今まで夢の世界へ誘わなかったんだ」
「目覚められないからよ」
意味を理解したくなかった。
デメリットがあることは推定していたが、遥かに重い代償だった。
「あなたの能力は夢を介して実行されるけれども、そのために必要なリソースは、わたくしが制御を握っていても消費されるの」
いつも通りの冷静な声色で言葉を続ける。
「だからあなたをここへ誘うというのは、夢を見せながら、別の夢を見せるようなものになる。同時に二つの夢を見せるには、夢以外の部分を圧迫するしかない」
要するに、俺の能力と彼女の能力は相性が悪いらしい。
「結果としてあなたの脳には負荷がかかり、睡眠としての作用が消失する。故に、眠気が取れずにいつまでも眠り続けてしまう」
「……それは、そのまま死んでしまうのではないか?」
「いいえ。負荷はわたくしが調整するもの」
幸いなことに、もう二度と目覚めないという意味ではなく、眠りについても眠気が解消されないという意味合いが大きいようだ。
とはいえ結局は、自力で目覚めることのできない昏睡状態であることに変わりはない。
「ところで、そろそろ読み聞かせの時間よ? はい、あなたの端末」
彼女は見慣れたスマホ端末を取り出すかのように創り出し、俺に渡した。
何時ものようにネットワークは通じていて、操作をすれば小説のサイトを呼び出せる。
「……じゃあ、"眠れる森の美女"にしようか」
彼女とのキスでこの世界から起きることができれば、どれほど簡単でいいことか。そんな思いで選んだ。
もっともその場合、口づけをするのは俺で、起きるのも俺であるのだろうが。
朗読をしている間は、彼女は静かになる。
焦点の合わない夢見心地の表情だが、きちんと耳はこちらへ傾けていて、まるで先の狂気が嘘だったかのように可愛らしかった。
読み聞かせを終えると、自室を呼び出し、そのソファで彼女と抱き合って過ごす。
「ふふっ、クレーったら。わたくしたちがお似合いの夫婦だなんて。あら、あなたもそう思うの?」
こうした触れ合いの時間ですらままごとを止めないのは、気狂いのフリをすることで俺にまじめな話をさせないよう、牽制しているのだろう。
それはまさに、怒られることを恐れた子供が、あれやこれやと無駄話をして本題に入らせまいとする姿だった。
そして現状を見つめなおして、一つの忠告を思い出す。
「……鍾離さんに言われた通りだったな」
今の彼女は、まさに彼が危惧していた通りの状態だ。
過度な依存で関係自体を壊すような、本末転倒を起こしている。
この言葉を聞いて、彼女はフリーズ状態へと入った。
『考えないと何を指しているか分からない』、しかし『考えれば意味を理解してしまう』。
そんな言葉は、中途半端に思考を止めている現状の彼女には良く効いた。
だがこれは、彼女の精神が最も嫌っているものでもある。
何故なら、気狂いのフリという仮面を被ってでも守ろうとした部分に、直接的に突き刺さる訳であるから。
「……あなたはもう、外の世界など気にしなくていいの」
まるで悪い子供を叱るかのように、だが幽霊のごとく俯いたまま、両手を頬に当てて俺の顔を抑え込む。
「おうちの外に興味がある悪いワンちゃんには、躾と首輪が必要かしら?」
剥き出しの心を攻撃された彼女は、どうやら防衛本能として反撃を選んだらしい。
だがそれは自傷方向へ向かってしまうよりは、……以前のように自殺未遂をされるよりは、絶対にマシだった。
これが先の言葉を送り込み、変化を促す対価だというのならば、甘んじて受けるしかない。
「好きにしてくれ」
俺の許可を受けて小さな口が首筋へ伸びる。
トラウマにより、身体が震えた。