夏の日差しが地平より顔を出し、上がった気温によってやや汗ばんで目が覚めた。
相変わらず彼女はピッタリと寄り添って眠っていて、冬と違い少し隙間は空いているものの、温かく湿った体温が克明に伝わってくる。
彼女の身長や体重は立ち上がった大型の犬と同程度であり、膝に乗ったり脇腹に寄り添ってくる行動もまさに犬そのものだ。
だから彼女と過ごすのは大型犬と過ごす感覚に近い。
しばらくして彼女が目が覚めると、着替えの手伝いを要求される。
「それじゃあよろしくね」
「はいはい、お嬢様」
本当に昨日に言っていた通りこれを日常とするらしい。
部屋着に着せ替えるために彼女のパジャマを脱がすのであるが、特にボタンを一つづつ開いていく際のもどかしさには倒錯感が溢れている。
その薄い胸元を開いた瞬間には"ほぅ"と、緊張を感じさせる、俺のものではない熱い吐息が聞こえた。
互いに素知らぬ顔をして作業を続け、髪を梳かして指示通りに編み込みを作り、最後に髪留めを付ければ朝の身支度は完了する。
「これでいいか?」
「いいえ。一つ、重大な見落としがある」
そう言って、彼女は自らの唇を指先で叩く。
俺はその顎を取って上を向かせ、軽くハグするように唇同士を絡ませた。
「んっ。……ふふっ、よくできました」
いつもの子供のようなあどけない笑みではなく、むしろ子供を諭す妖艶で落ち着いた笑み。
女性教師を思わせる大人びた言い草であり、そのギャップには少しばかり見惚れる。
衝動に抗わず自主的に復習を行ったが、それは彼女にとって予想外だったらしい。
その妖艶な仮面はあっさりと剥がれてしまった。
朝食を食べ終えてからは、彼女を背後から抱きしめた状態で仕事を始める。
椅子に座った両膝の間に彼女の腰を挟み、顔一つ分座高の低いその頭に顎を乗せる形だ。
「なあこれ、どうにかならないか?」
「あら、能力を使いたいのではなくて?」
必要性に基づいてこの体勢となっているのであるが、不満がないではない。
俺の仕事は、一言でいえば、知識の輸入に落ち着いている。
つまりはこちらの世界と照らし合わせて、元世界の様々な論文や書籍を、謎の古文書を参考にしたという建前でテイワットに適した形に翻訳すること。
ただし基本的にそれは、混乱を避けるため、テイワット既存の体系をベースとしてその延長線上にある技術を発表する態であるが。
具体的な分野としては主に建築や機械工学、いわゆる妙論派と呼ばれる学派の学会に論文を提出している。
また社会学に関する論文もテイワットへの応用が効くために、一部ではあるが因論派にも関わりを持つこととなった。
彼女の視界を塞がぬよう上方に投影した小さめの空中ディスプレイに文字を打ち込み、彼女の腹に腕を回してネット接続を確立してから検索システムを動かす。
「ほらっ、もっと抱きしめてちょうだい。きっと通信にノイズが乗ってしまうわ」
「デジタル通信だから多少のノイズは構わないけどな」
彼女は手作業で文章を書くことを好んでいるので、手を繋いでは彼女の仕事の邪魔となる。
なのでこうして抱きしめ、以前の接触通信の要領で能力を制御してもらっているのであるが、……非常にやわっこくて意識に"雑音"が乗りやすい。
尤も、眼下に見える長い耳がやや赤色に染まっていることから、雑音に悩まされているのは俺だけではないようだ。
「この人の建築設計に関する論文だけど、こっちのタイプの耐震構造を使えば強度が増すし安上がりじゃないか?」
「ええ、そうね。でももう実際に建築を開始しているみたいだから、今からだと間に合わないかも」
カーヴェという妙論派が、頭を疑うような大規模な建築を個人で予定していて、またそれを研究成果の実証として発表していた。
だが現代建築技術と照らし合わせれば、そこに幾つかの無駄を見つけることができる。
テイワットの科学技術は文明が破壊されたかのようにあべこべで、現代を遥かに凌ぐものがあれば、当たり前のものが無かったりする。
そのためにこうして、二つの世界を比較すれば"穴"が見つかることが多い。
「まあそれは仕方ないな。ついでに建築環境工学も参考に幾つか改善案を加えて送っておくか」
「彼も災難ね。きっと発注済みの資材を前に泣くことになる」
そう零してナヒーダは小さく祈りを捧げた。
「この論文はあなたの好みではないかしら」
彼女は一つの紙束をこちらへ寄越した。
「ん、ありがとう。……"計算符号の決定問題への応用"、なんで知論派がチューリングマシンについて語ってるんだよ」
「論理学の応用として、計算機械を利用しようとしているみたいね」
言語学を主軸とする知論派が発行したその論文に書かれていたのは、いわゆるコンピュータに関する草案だ。
物事を論理式で表しその答えを計算によって探るという言語や符号学的なアプローチではあるが、アルゴリズムの発展を考えれば行き着く先は同じだろう。
「"あらゆる問題を計算により解けるかもしれない"、か。何とも希望に溢れたことだが、停止性問題への言及がないな。送りつけてやろう」
現代では、少なくとも一部の問題は解けないと数学的に証明されている。
「っ!?」
「どうした?」
突如、彼女は遠くを見るように振り向いた。
目線を追ってみるが、部屋の壁しか見当たらない。
「……なんだか良くないものが来たみたい」
「良くないもの? やばいのか?」
「まだ分からない」
見ている方向はモンドの正門だから、正面から何かが入り込んだのだろうか。
とはいえ急いで対処しようという様子でもないし、案外関わり合いにならずに済むかもしれない。
昼食を挟んでの午後からは図書館での仕事へ向かうが、今日は少し仕事内容が異なる。
リサさんはジンさんの要請で資料を集めていて、俺たちもその手伝いをすることになった。
どうやらその内容は、ナヒーダの気づいた"良くないもの"に関係しているらしい。
「二人が焼死。十五人が負傷。しかし生物だけが燃えて非生物はほぼ無傷ねえ」
現場見分を読む限り高温の炎で焼かれたことに間違いがないのに、その炎は周囲のものを大して傷つけなかった。
元素反応等のテイワットの法則を加味しても、明らかに異様である。
「………」
ナヒーダは何やら真剣な表情で資料を見つめながら考え込んでいるが、その思考内容は今回の事件への対処方法に関してだろう。
どうやらこれは彼女の分野の物事であるようなので、その類の知識を全く持たぬ俺にできるのは思慮を邪魔しないことだけだ。
そうしてある程度の資料を集めて日が暮れた頃合いには、ジンさんが様子を見に来た。
ジンさんは少し疲れた様子であり、それを見たリサさんの提案により、皆の休憩を兼ねてカフェへと向かう。
図書館から出てカフェのテラス席でお茶会をしながら、リサさんは現在の調査状況を説明した。
そこへ突如"バサリ"という音が響き、目を向ければ、アンバーと、彼女に抱えられて緑髪の子供が空から降ってくる。
「よっと。……しまった!」
彼女が偶然この場所に着地したのはただの偶然であるようだ。
ジンさんを目にした途端に、何やら失敗を悟った様子で取り繕おうとアワアワしだした。
「アンバー、君はガイアと共に調査をしていたはずだが?」
「まあいいじゃない。わたくし達も資料をまとめつつ休憩しているところだったのだし」
ジンさんは予定を破ったアンバーを咎め、それをリサさんが窘める。
ふと隣へ視線を向ければ、ナヒーダは紅茶を片手にジッとその子供を観察していた。
アンバーは俺より顔一つ分ほど低いが、緑頭の子供はアンバーより顔一つ分ほど身長が低い。
俺よりもナヒーダが頭二つ分低いことを考えれば、目測する限り緑髪はナヒーダと同じ程度の身長だ。
しかし、ただ背丈が近いという程度で彼女がここまで注目するはずもない。
「はぁ……、仕方ない。我々はもうそろそろ図書館へ戻るが、その子はどうする?」
ジンさんはアンバーのサボり疑惑を問い詰めるよりも、仕事の続きに取り掛かることにしたらしい。
だが、今まで大人しく黙っていた緑髪の子供が、ジンさんへ向けて叫んだ。
「連れてけ! 探し物がそこにあるかもしれない、あたしも一緒に行く!」
ジンさんは全身包帯だらけのその子供を見て、感染症への対処に思い悩む。
「本に消毒液は使えないが……。リサ、いいか?」
「そうね。そろそろ曝書作業をしようかと思っていたの。手伝ってくれるわよね?」
「ああ、喜んで」
「どうぞ、おかけになって」
図書館へ戻ると、まずは騎士団組であるジンさん、リサさん、アンバーの三人が中心となって報告会を始めた。
とは言ってもジンさんとリサさんは茶を飲みながら重要な資料に関する話を済ませているので、これは主にアンバーへの説明が主だ。
「……私たちの調査結果は以上だ。次に、君が調べた情報を共有してほしい」
「えっ!?」
アンバーは驚きの声を上げる。
資料の説明を聞いている最中も妙に行儀良く椅子に座っていたことからして、あれは碌に調査が進んでないのだろう。
放っておいても話が進まなそうなので俺は少し口を挟むことにする。
「迷子を助けてたんだろ? なら調査が進んでなくても仕方ないと思うが」
「はぁ!? 調査もきちんとやってたんだから!」
だが彼女は反発して啖呵を切った。
「では、きみの調査結果を教えてくれ」
「……うぅ……」
少し天然が入っているために不審な様子に気づいていないジンさんが率直に成果を求め、答えられない赤ウサ耳は机に突っ伏して手元の資料を捲る。
「……あっ! わかったかも! この子をしばらくお願い!」
アンバーは何かに気づいた様子で、緑頭を預けて走り去った。
そのテーブルへと近づいたリサさんが、一つの資料を拾い上げる。
それは襲撃された馬車の中から回収された、焼け残りの文章。
「あの子はこれを見て飛び出してたのね」
「邪眼……? なぜファデュイがこのような資料を……」
そして彼女ら曰く、ディルックという名のモンド人がその資料と関係するとのことだ。
資料を見て議論を交わすジンさんとリサさんを尻目に、ナヒーダは残された緑髪の子供へと近づいていった。
「名前は何というの?」
「私に近づくな! お前も感染するぞ!」
「わたくしは大丈夫。安心してちょうだい」
まあ実際、草神である彼女なら病には強いのだろう。
ナヒーダはそいつの手を取り、野良猫に話しかけるかのようにそっと言葉を紡ぐ。
「お名前を教えてくれると嬉しいのだけれど」
「……お前に教えるような名は無い」
「そう……」
「なんだよお前、気持ち悪いな!」
子供は彼女の手を振り払って本棚の向こうへと消えた。
「……逃げられてしまったわ。わたくしって気持ち悪いかしら?」
「見た目と中身が一致していないから、違和感を覚えるやつが居ても不思議ではないだろうな。俺はきみのそういう部分が好きなんだけど」
『ありがとう』と、儚く微笑む。
「それで、あいつは何者なんだ?」
「彼女は恐らくスメールの民よ。……悪いものを身に宿しているけれど、決してその人柄まで悪いとは限らない。だから、誤解しないであげて」
「ああ。気を付ける」
見た目がボーイッシュで言葉遣いも荒いから男子かと思っていたが、実は女子だったらしい。
「しかし、もしそいつが事件の原因だとすると、既に二人の死者を出していることになる。野放しでいいのか?」
「………」
彼女は黙り込んだ。
件の緑頭は、あの年齢で変なものを取り込んだ上に、感染症まで持っている。
それは恐らく複雑な事情によるものであり、一言で善悪を語れるようなものではないのだろう。
「まあ、きみが良いなら俺もいいよ。俺は人柄的にも裁く側よりは裁かれる側だろうから、罪に甘い分には助かるし」
「いいえ。あなたの罪はわたくしがきちんと裁く」
こちらを見ないままに迷いのない声色で断言された。
だがまあ、スメール人に拒絶されて気落ちしている、というような様子でないのは一安心だ。
「……それで、もう夜も遅くなってきたけど、これからどうする?」
「わたくしはもう少し彼女に付き合いたい」
「念のために監視するということか?」
小さな顎はこくりと頷く。
図書館で仕事を続けて夜分遅く、ジンさんと一緒に資料を運んで戻ってくると、緑頭がテーブルで寝入っている。
「しーっ。ちょうど眠ったところなの」
リサさんが俺たちに向けて口前で一本指をした。
「毛布を取ってくるわね」
ナヒーダはそう言って小さな足でトテトテと走っていく。
残ったリサさんとジンさんは、まだまだ小さな緑髪を、見守るように見つめながら会話をする。
「ようやく落ち着けたみたい。この子は警戒心がとっても強い子なのね」
「恐らく長いこと放浪生活をしてきたんだろう。……モンドでの滞在が少しでも安らぎとなってくれたらいいのだが」
そう零したジンさんは、神の目と呼ばれるアクセサリーをテーブルの上へと置く。
それが突如、光でできた綿毛を飛ばし始めた。
「……これは!?」
その光景にジンさんは驚きを示す。
「おまたせ。持ってきたわ」
だがナヒーダの姿が見えるや否や、その綿毛は幻だったかのように消え失せた。
「あら、どうしたのかしら?」
「神の目とやらから、光る綿毛が現れたんだ」
「……神の目が……」
俺の説明を聞いたナヒーダは、興味深そうにそのアクセサリーを眺める。
神である彼女ならば何か心当たりがあるのだろうか。
「私はアンバーを追いかける。リサ、ディルックの件は頼んだぞ」
「ええ。任された」
ジンさんは先の光景を何かのシグナルと考えたようで、騎士団員としての装備を整えて出立していった。
俺たちはそのまま図書館に留まり、夜通しでリサさんの手伝いをして、その後に仮眠を取る。