猛烈な違和感に叩き起こされる。
ヌメヌメとした何か。
それが口に侵入して生き物のように動き回る。
目を開けば彼女の顔がそこにあり、軽い身体は仰向けの俺に覆いかぶさって懸命に、小さな舌を差し込んでいた。
喉に溜まった二人分の唾液を飲み込んでから舌を絡め返せば、水を得たかのようにその動きが吹き上がる。
ツーっと涎を伸ばしながら口が離れ。
しばし呼吸を整えてから、彼女は語り始めた。
「……あの時の事を夢に見たの」
両手で自らの小さな体を抱きしめ、顔を俯かせて身を震わせる。
「またあなたが盗られてしまうのではないかと。あなたを失ってしまうのではないかと思うと、怖くて寝ていられない」
窓の外の空はだいぶ明るくなっているが、夏の夜明けというものはかなり早い。
その小さな身体を抱き寄せて、温かさを伝えるように優しく撫ぜつつ、まだ眠く覚め切ってない頭を動かし、どう彼女に答えればいいかと思考を回す。
あれこれと掛ける言葉を口に出そうとしては言い出せずにいる内に、口火を切ったのは彼女だった。
「……わたくしのこと嫌いになっていない?」
「嫌いになんてなるわけない。きみは俺のテイワットでの唯一の家族だし、女性としても可愛らしい性格をしている」
「でもわたくしは怒ってばかりな気がする。このままではダメだと分かっているのだけれど、変えられない」
自嘲的な様子で、腕の中で強く衣服にしがみ付いてくる。
彼女は人間的な触れ合いを求める部類だし、ただ否定するよりかは、感謝を交えた方が安心感を得れるだろうか。
「むしろ怒ってくれて嬉しいよ。俺はだらしない部類だと自覚しているから、きみが叱ってくれるお陰で人として成長できる」
「……それはわたくしが役に立てているということ?」
「ああ。きみはとても俺を支えてくれている。いつもありがとう」
彼女の小さな手に、その上から手を添えた。
態々怒ってくれることを含め、感謝しているのは紛れもない事実ではある。
だがこの場において最も重要なのは『心を一人にしない』とでも言うべき共感性であり、そのためには無難な様子見の言葉ではなく、今一歩踏み込んだ言葉が必要だろう。
「ただ、一つ知っておいて欲しい。前にも言ったように、そして今も、俺はきみを失うんじゃないかと怖いんだ」
「……あなたも同じ苦しみを抱えているの?」
感情とは、精神的な苦しみを取り扱う社会的知性であり、苦痛を乗り越えて人間的生活を送る上で重要な仕組みだ。
だが彼女は感性豊かである割に自分自身の心には無頓着であり、差異と程度はあれども俺もまたその傾向を持つため、俺たちは感情を自覚するために互いを必要としている。
それはまるで、互いの心が、この繋いだ手の上に乗っているようなものだった。
「俺もきみが居なくなるんじゃないかと苦しんでいる。俺にとってきみはとても大切で、こうして手を繋いでいるだけでも心が安らぐほど」
「………」
「だから当然、それを失うことは何時だって怖いし、こう感じているのが俺だけではないかと寂しさに襲われたりもする。俺にはきみが必要なんだよ」
いくら自身に無頓着といえど、彼女は聡いので、自信や確信が持てないだけである程度の心の方向性は理解している。
だからこちらが心を開示して寄り添えば、あとは自力で彼女なりの答えを見つけてくれるはずだ。
それは俺のような、後付けで偽物の感受性ではない。
「……そう。そうなのね」
彼女は納得した様子を見せた。
「あなたも苦しんでいると思ったら、少し心が楽になった」
字面は少し悪いものの、気持ちの共有によって気持ちが楽になった様子で、彼女は言葉を続ける。
「いつもあなたは小さな幸せも一緒に笑ってくれる。だから好きよ」
ここで幸せの共有を口に出したのは、遠回しに、苦しみも共有していきたいという意図だろうか。
「俺も、きみが何気ない日常に幸せを見いだしてくれるのが好きだ。そしてそんなきみともっと心を通わせたいから、きみの幸せは共に喜ぶし、きみが抱えた苦しみは一緒に苦しむよ」
彼女は本心をあまり語らない性格だし、これを機にもっと語らせた方がよかったのではないか。
むしろ無理に語らせずそっとしておくべきではないか。
この言葉で良いだろうか、彼女の思いを汲めているだろうか。
様々な不安があるし、実際に至らない点も多い。
だが、この場においては一応の及第点を得られたようで、彼女は雫のような喜びを浮かべた。
どちらからともなく顔を近づけ、唇を交わし、つぷりと入ってきた小さな舌先を優しく迎える。
呼吸をするかのようにゆっくりと舌を絡め続ける内に、徐々に意識を手放して、気づけば二度寝していた。
時刻は昼頃、二人で大幅に寝坊したので遅い朝食を準備していると、窓の外から見えたのか、そこへアンバーが飯をたかりに来る。
「冷えたパスタを食べるなんて有り得ない! あんたには常識ってものがないの!」
「なら食うなよ」
ナヒーダがわりとゴマベースの味付けを好むので、夏なのもあり冷製のゴマだれパスタにしてみた。
パスタを胡麻油で和えてしっかり目に下味の塩を振り、茹で肉と野菜と胡麻を乗せ、稲妻産の醤油を使ったゴマだれを掛けて黒胡椒を効かせたシンプルなもの。
冷蔵庫さえあるなら前日に作り置きできて便利なのだが、モンドには冷たいパスタを食べる文化が無いらしく、"奇妙な料理"に対してこうして赤兎耳から小言を言われている。
「おいひくないほはいっへなひ!」
「食いながら喋るなって」
口からだらんとパスタを垂らしながら喋るその滑稽な姿は流石に、女子であるとは思えない。
静かかつ上品に、楽しそうな笑顔で食べるナヒーダと見比べれば猶更だった。
そして仕事へ向かうアンバーを見送って午後から図書館へと向かえば、今はもう数日でバドルドー祭が始まるという頃合い。
リサさんの呼び寄せた専門家と、思いがけない人物が到着していた。
「やあ。元気そうで良かったよ」
「ティナリ! 久しぶりだな」
「久しぶりね。層岩巨淵で別れた以来」
来客は二人の男性であり、その片割れは久々に会うレンジャーだ。
「ついでだから彼にも手紙を出しておいたの」
リサさんには、お茶会を通してナヒーダが俺たちの旅路を語っている。
なのでティナリと面識があることを知っていて気を利かせてくれたらしい。
続いてもう一人の、見知らぬ男性が自己紹介をする。
「俺はセノ。今回の件の専門家として派遣された」
厳格で気難しそうな、少し関わり辛い雰囲気の人物だ。
「気楽にセノと呼んでくれ。準備はいいか? はい、せーのっ!」
「……?」
突然のことで、意図を理解できなかった。
「……はい、せーの!」
「ふふっ、セノ!」
もう一度繰り返した彼の言葉に、ナヒーダが返答を渡す。
どうやらこれは彼なりのジョークであるようだ。
初対面でいきなりこの振りをされて返せる人物はそうそう居ないと思うし、ティナリも同意見なようで自らの頭を押さえている。
何はともあれ、彼は厳格な雰囲気に反してノリがよいということだけは理解した。
これから話し合うのに幾つか追加の資料が必要だと言われたので、俺は歓談するリサさん達から一人離れて、それらを取ってから戻ってくる。
すると、その途中でセノが待ち構えていた。
「ひとつ聞きたい。……彼女は何者だ?」
専門家だけあって、既にナヒーダが只人ではないことを見抜いたらしい。
なので俺は彼女について説明することにする。
「彼女は大根の妖精だ。見ろ、あの髪の色合いにその名残がある」
「なんと! そのようなものが居るとはな」
「ああ。なんでも大根が妖精になるのに要する期間は優に100年を越えるらしい。そうそう出会えるものではない」
「ふっ、そのような幸運に出会えるとは。人生とは珍奇なものだ」
時間稼ぎのための冗談のつもりだったが、元より本気で追及するつもりはなかったのか、彼は納得した様子を見せた。
俺たちの姿は歓談場から視界に収めることができるため、助け舟を出してくれたのだろう。
リサさんがセノを呼んだので彼は去り、それと入れ替わりにナヒーダがやってくる。
「ふぅん。わたくし、大根の妖精だったのね」
「そして俺は花の騎士という訳だな」
大根にも花は咲く。
「……花の騎士は冗談で付ける称号ではないのだけど」
「でも恥ずかしさは似たようなものなんだが」
「………」
彼女は苦い顔をしながら思案を続ける。
どうやら本当に、騎士を冗談扱いされるのは嫌であるらしい。
「……悪かったよ。そんなに大事に思っているとは考えていなかった」
「ええ、あなたが悪い。だから覚悟をしていてね?」
彼女は有言実行するので、きっと突拍子もない罰則を科す。
そういえば資料を運んでいる途中だった。
そのことを思い出し、リサさんの元へと向かおうとしたところで、すぐさま呼び止められる。
「……ちょっと待ちなさい。首元のリボンが崩れてしまった。だから直してちょうだい」
仕方なく近くの本棚へ荷物を置いて、前かがみになって彼女の胸元に手を伸ばす。
すると、伸び上がるようにして唇を奪われた。
「……これが罰か?」
完全に不意を突かれたので、一瞬だけ心臓が飛び出るかと思った。
「いいえ、まだ足りない。だから、後で続きをしてね」
後ろ手を組んで可愛らしく微笑むがその笑みには何か凄みが感じられる。
彼女は大いに、根に持つタイプだった。
専門家の彼によって解読された資料によれば、コレイの身には魔神の残滓が注入されていると判明する。
だがそれは強く刺激でもしない限りは即座に対処すべきものでもないとのことで、少し様子見しつつ数日後に処置を施す方針が決定された。
そうして夜遅くまでティナリとセノを含めたメンバーで情報共有と軽い討論をした後、セノ発案で親睦を深めるためにカードゲームをやろうという話になった。
しかし彼が強くおススメする七聖召喚というカードゲームは二人対戦であるので、今回は普通にトランプを使ってゲームをする。
「2のペアだ。これで僕の勝ちだね。君たちは足を引っ張りあうばかりだから……」
二枚の手札を場に出して残り一枚となったティナリが、勝利宣言をした。
なので俺は手札を切る。
「ジョーカーペア。からの4革命。3は既に出てて返せないから俺のターンで2」
「……またそうやって足を引っ張る」
「わたくしは10捨てね」
「7渡しだ、受け取れ。まだ勝負は終わってないぞ」
「ああもう、君たちは!」
敢えてパスで手札を温存していた俺が、狙っていたコンボを諦めてまでジョーカーで妨害し、さらにセノが7の特殊効果でカードを渡してティナリの手札を増やす。
見事な足の引っ張りあいだった。
最終的にその勝利は文字通りの女神様が持っていった。
「ふふっ、わたくしの勝ちね。……もう夜が明けたけど、まだ続けるの?」
何回も対局を繰り返す内に余は更けていて、ついにはもう日が昇り始める。
「当たり前だ。カードで敗者の地位に甘んじる訳にはいかない」
「僕も負けっぱなしは嫌かな」
「最後は勝って終わりたい」
セノ、ティナリ、そして俺。負けず嫌い三人の言葉だ。
だがそこへ部外者の声が投げかけられる。
「あなたたち、まさか夜通しやってたのかしら? 呆れた」
仮眠室から出てきたリサさんが、眠る前と変わらない光景に辟易な態度を見せていた。
その言葉で我に返ったティナリが場をまとめる。
「昼まで仮眠してから、もう一度集まろう。ついのめり込んで、僕まで馬鹿になってしまったよ」
「馬鹿をするというのも楽しかったわ」
ナヒーダは徹夜で遊べて満足げな様子だ。
「仕方ない。ティナリは不戦敗としてこの三人で真の決着を……」
「馬鹿、君も寝るんだよ!」
ゲームを続けようとしたセノは、ティナリに連れていかれた。
仮眠後はリサさんを含めた5人で打ち合わせを行い、話し合いが終わると、セノは対象を監視すると言って去っていく。
ジョークのインパクトで印象が和らいでいたが、やはり見た目通りの厳格な面も持っていたようだ。
そして彼が抜けてちょうどいいので、ティナリに対して俺たちの事情を説明することにした。
彼女の置かれていた状況、俺と彼女の出会い。
逃避行の途中でティナリと遭遇し、こうしてモンドまで旅してしばらく定住している、と。
「……きみが。いや、あなたが草神様だったとは」
「ナヒーダで良いわ。むしろ、あまり神だということは広めないでほしいの。今の平穏な生活に神という肩書は不要でしょ?」
「それは……。分かりました、ナヒーダさん」
ティナリは神の身分を明かした彼女に対してどう接するか迷ったようだが、緘口の重要性からそれを受け入れたらしい。
なお彼に詳細を話した理由は、信頼している相手だというのもあるが、主にはスメール内での情勢を必要に応じて伝えてもらうためだ。
ナヒーダは遠くの情報を得る手段を持つとは言えども、コレイの件を含めて手の届かない場所が多々ある。
「ところで、その、一つ質問があるのですが」
「あら、なにかしら?」
「どうして彼の上に座っておいでなのでしょうか?」
さきほどからナヒーダは俺の膝の上に座っていて、俺はそのお腹に両腕を回している。
突っ込まれるだろうなと思いつつもそれを彼女が気にしないなら良いかと放置していたが、やはり突っ込まれた。
「彼はわたくしの大切な騎士だもの」
「それは……どういう……」
「端的に言えば、俺と彼女は男女の関係にある」
「……ちょっとまって。色々と衝撃的過ぎて情報を受け止めきれない」
動物として警戒モードに入ったのか、彼は頭上の耳を左右へと向けて開き、額を抑えて考え込む。
その様子が面白かったらしく、口を挟まず見守っていたリサさんが紅茶を片手に『あらあら』と声を漏らした。
「それで、重要な話なのだけど。セノ。彼の行動は、アーカーシャを通して教令院に監視されている」
その言葉にティナリは驚きを見せ、リサさんは納得を示す。
「もっとも、それは間接的な監視だし、細かい物事まで読まれる訳ではない。けれど念のためにわたくしのことは彼に秘密にしていてね」
「それって僕は大丈夫なのでしょうか?」
「監視はジュニャーナガルバの日に缶詰知識を通して入力される情報を元に行われるの。正確に言えば、その収集されたデータに戻づいた行動予測を監視している。だからガンダルヴァー村に居るあなた自身は監視を逃れているわ」
「えぇ……。教令院がそんなことまでしているだなんて、知りたくもなかったよ……」
今日一日で何度目か分からないほどにティナリはまた頭を押さえる。
彼は様子見がてらバカンスとしてここへ来たらしいが、しかし生憎にも、心配性の彼にその目的は果たせそうにない。
膝の上に柔らかい重さを感じながら、そんな様子を俺は同情的に見守った。