石でできた橋を幾つか越えていくと、ついに璃月の出口であり、モンドへの入り口である石門と呼ばれる場所へと辿り着く。
ここは岩壁の隙間を川が浸食したような地形であり、到底人間が通れる場所ではない。
なので大きな遊歩道が架けられていて、さらにその路上には幾つかの商店まで建ち並んでいた。
俺たちはそこで茶と軽食を夕飯として頂くと、ついでにこの先やこの周辺についての情報を集める。
曰く、アカツキワイナリーでは小売りをしてないだとか、この付近では幽霊が出るだとか。
食後は、遊歩道の小さな突き当り部分で野宿の準備を始めた。
このすぐ崖の上にある無妄の丘と呼ばれる場所では幽霊がでるらしい。
たしかに『ヒルチャールのお兄さんが~』と歌う声が遠く崖の上から聞こえた気がする。
なので、今日は祈りを捧げ終わったナヒーダに、即興で怪談話をしてみることにする。
コノウラミハラサデオクベキカ。
「……知ってるか? こういう場所では真っ白な腕が現れるんだ」
「嘘よ」
すぐさま嫌そうな表情をする。夜の海を嫌った時もそうだが、ナヒーダは好奇心が旺盛なわりにホラーが苦手であるのかもしれない。
「嘘? 本当にそうだろうか? ……そいつは気が付かないうちに背後から手を伸ばしてきて、でも振り向くと即座に消えてしまう。ほら、今も伸びてきているぞ?」
「嘘よ。嘘だから見ないわ」
彼女はソワソワしつつ、まるで背後に耳を澄ませるかのように、その小さな背筋を伸ばして目を閉じる。
「普段はいいんだ。人というのは無意識的に周囲を確認しているものだから、そいつは自然と消える。でも何かに集中しているときは注意しなければならない。スーッと、音もなく腕が伸びてきて、それがついに背中に触れてしまうと」
「死んでしまうのでしょ? わたくしはその手の話の知識も持っているもの。話の展開に予想がつくわ」
「いや、死ねないんだ。ただ真っ暗な空間へ連れ去られる。音も何もしないし、物に触れても触覚がない世界だ」
「えっ?」
「人間の意識はフィードバックによって形作られる。だけどそれが消えるとどうなるか分かるか? 自分が立っているか寝ているか、目を閉じてるか開いているかも分からなくなるんだよ。
そして自分を認識できなくなると、次第に自己の存在が信じられなくなる。こうやって『今、怪談を聞いている自分』すら認識できなくなって、最後には……」
「いや! やめてちょうだい!」
両手で耳を塞いでうずくまった。
「わかったわかった。俺が悪かった。さあ寝ようか」
「……寝られるものなら、と思ったでしょ?」
「一瞬よぎったけど、流石に酷いと思って口にしなかった」
少し涙目で、拗ねるかのように睨みつけてくる彼女は、それでも何時ものように腕に潜り込んでくる。
しかし今日は、ナヒーダは腕の中でくるりと反転し背を向けて、俺の腕をシートベルトのようにしっかりと巻きつけた。
「これなら背後から腕が伸びてきても大丈夫でしょう? もしその話が本当なら、犠牲になるのはあなたよ!」
「はいはい。これで安心な」
思わず、少し笑ってしまった。
抱き寄せるように、少し腕に力を入れなおす。
モンドに近いからか、水場が近いからか、ここは少し肌寒い。
「ねぇ。怪談話をするのはもうこれで最後にしましょ。……あなただって理解できないものは怖いんじゃないかしら?」
「うーん。むしろ、決して理解できないものを理解しようとするのが面白いんじゃないかな」
「わたくしにはちょっと分からないわ」
「簡単に言うなれば、理解した"結果"ではなく、理解する"過程"を楽しむというか」
「でも、結果が無いのなら、その"過程"は過程足りえないのではないかしら」
「そこは知識を得たい人と、知識を楽しみたい人の違いじゃないか? 実を結ばなかった研究だって、先行研究としては役立つだろ」
「……納得できそうで、納得できない」
そうこぼすと彼女はマフラーを巻き直すがごとく、人の腕を引っ張った。
俺はそれに答え、もう少しだけ強く抱いてやる。
夢を見る。
ノイズが走る。
翌日、石門を越え、モンドへ入った。
そこは水と緑に溢れた豊かな地であり、見事な滝が歓迎の声を上げるが如くその轟音を響かせている。
そして道なりに歩き通せば、夕方前にはアカツキワイナリーへと辿り着いた。
石門で聞いた話だと、中央に見える立派なワイナリーでは酒等の小売りをしていない。
もし買い物をしたい場合は、ワイナリーすぐ手前で左に曲がり、その先にある酔漢峡で無数に建ち並ぶ露店から買うようアドバイスされた。
看板前でブドウ畑とともに記念撮影をすると、アカツキワイナリー北側、酔漢峡入口にある宿屋へ向かう。
昨日の店主曰く、この宿屋の食事と酒が美味しいからおすすめらしい。
なのでそこで部屋を取り、少し早めの夕食とする。
すると、ナヒーダがここのワインを飲んでみたいと言い出した。
なんでもお酒というもの、正確に言えば酔うという行為に興味があると。
自由の国であるモンドの法律がどうかは知らないが、見た目的に難しいんじゃないだろうか。
小難しい例え話で愚図り飲酒を試みるナヒーダを説得し、今ではなく、後で部屋で飲むことにした。
食後にワインを一本購入し、ジョッキを二つ借りて部屋へ向かう。
部屋につくとナヒーダがすぐにテーブルと椅子を整え、晩酌の準備を終えた。
「ポカポカして気持ちがいいわ……」
ジョッキ一杯、大体ハーフボトル一本分を飲み干す頃には、椅子に座ったままウトウトするナヒーダがいた。
椅子から崩れ落ちそうなので、膝下に腕を入れ、抱え上げてベッドに運ぶ。
「わたくしを撫でなさい」
神様らしい偉そうな態度でそう命令を出す。
頭を撫で、背中を撫で。最後に顎を撫でてやると、彼女は満足したのか、ムフーと鼻息を吐いた。
犬猫のような可愛らしさがある。
「わたくし知っているの」
彼女は不穏な言葉を吐くと、俺のシャツ上部のボタンを外して胸元を開く。
「ちょっ、ナヒーダ?」
「親しい人にはこうするのよね」
首筋から胸元に掛けて、全力で吸い付いてきた。
「ちょ、痛いっ! 痛いっ! お前はヒルか何かか!」
思わずお前呼びしてしまうほど驚いた。
彼女の細い手足は下手に力を掛けると折れてしまいそうだ。
さらには絡みつかれているせいで姿勢的にも力が籠められず、うまく引き剥がせない。
しばらく格闘したが、痛みに慣れてきた頃には諦めて、されるがままとなった。
翌日朝、開かれた胸元の寒さで目が覚めた。
自らの胸元をみれば、内出血が至るところにできている。
当然それはナヒーダの口と同じくらいの大きさだ。
実行犯に目をやれば、とても気持ちよさそうに熟睡している。
腕の中で丸くなっている彼女は、まだ昨日の余韻に浸っているかの如く、口元を楽し気に緩ませていた。
しばらく待ったが目覚めない。
……手持ち無沙汰なので、ナヒーダの特徴的な耳を触ってみる。
指が触れた瞬間、ピクリと耳が動く。
人間のものとは違って耳介筋が退化しておらず、犬や猫と同様に、耳を自在に動かせるらしい。
そのままその長い耳の内側に指を這わせ、スルスルと擦るようにマッサージする。
彼女の耳は柔らかく、歩く際にはフヨフヨと上下に揺れる様子が見て取れる。
しかし実際に触ってみると耳の中心には、軟骨よりやや柔らかい程度の硬さを持つ芯が通っていることが分かる。
クニクニと揉むようにして指先で確認すれば、この軟骨に似た組織は耳の先端付近まで入っていて、それにより左右にピンと耳を張ることができるようだ。
「あの、もういいかしら?」
「駄目」
彼女の背から肩に手を回し、逃げられないように抱き締めて抑えこむ。
逃げられないことを悟った彼女は、長く吐くかのように息を荒げ、強くしがみ付いてくる。
「あっ!」
耳の先端に触れると彼女は喉から声を漏らした。
確認のために耳の付け根をくすぐるように擦ると、今度は鼻声であり、『んっ』と押し殺した音が出る。
だが耳の先端付近を同様に触れると、先程と同様に、押し殺せず喉からの声が漏れる。
最後にピンっと指で弾くと悲鳴が聞こえた。
顔どころか耳まで真っ赤に染めて睨みつけてくるナヒーダ。
「待て。まずは話を聞け」
「……聞きましょう。どのような言い訳が聞けるのか、今から楽しみね」
彼女はニッコリと笑顔を浮かべる。
「付け根側は押し殺した鼻声だが、先端側は押し殺せず声が漏れていた。つまり先端は付け根側よりも感度がいい」
「何の話を始めたのかしら!」
「そのことから察するに、きみの耳は周囲空間を把握するための感覚器官なのではないだろうか。猫のヒゲと同じだな」
「わたくしはそのようなことが聞きたいのではなくて」
「……ところで、これを見てくれ。昨晩の記憶はおあり?」
胸元をめくり、彼女に付けられた内出血痕を見せつけた。
真っ赤に染まっていた顔が、瞬時に青くなる。
「わっ、わたくしに聞かないでちょうだい!」
バフンという音とともに、枕を顔に押し付けられて視界が消えた。
丁度いい大きさの布をスカーフ代わりに巻いて首元を隠し、宿を出発する。
「あんな酷いことをされたんだもの。わたくしは謝らないわ」
「それは悪かった。すまない」
「……そこで謝られると困ってしまうのだけれど」
「流石に、悪ふざけが過ぎた。だからすまないと思っているよ」
「わたくしもごめんなさい。まさかあんなことをしてしまうだなんて……」
「今後お酒を飲むときはほどほどにしないとな」
そして俺たちは酔漢峡へと足を進めた。