演劇部部長に言伝を頼まれた裏方担当の青年は先輩を探して大学の敷地内を歩いて行く。今は8月で夏真っ盛りのからりと晴れた天候であるけれど、この大学はキャンパスの周囲を森で囲まれているから景色は涼やかな緑が多く体感温度は幾らか下がっているような都合の良い錯覚を与える。とは言え、視界に映る人影はまばらだ。モラトリアムという名の怠惰を謳歌するのが本分な大学生はわざわざ夏休みに大学にやってくることは無く、居るのはもうすぐ公演が控えていて練習に勤しむ演劇部員と今の内からやらねば間に合わないし何ならもう手遅れであるかもしれない、という焦燥に駆られて卒論の研究に勤しむ一部の4年生達である。
今は稽古と稽古の合間の休憩時間で、青年には先輩のいる場所の見当が付いていた。喫煙所。研究棟の裏の凹んだL字型になっている空間には灰皿とベンチが設置されて喫煙者の憩いの場となっており、高名な教授から不精な大学生まで皆空間を同じくする小さき人種のるつぼな光景を青年もよく見ていた。喫煙者である先輩もきっとそこにいることだろう。そう推測した青年はできる限り道の端の木陰を踏みながら歩いて行き、喫煙所を覗いた。
先輩が居た。
独りベンチの背中にもたれて長い足を組んで煙草を吹かす女性。センターで分けられた前髪と襟足を長く取った後ろ髪のウルフカットは外側が黒色、内側が黄色の二色で、誰にでもフランクに接する彼女によく似合っている。今は煙を吐きながら遠くの木々を見つめるその横顔はどこか気怠げで、先輩もこの暑さを鬱陶しく思うのかと、当たり前のことに無性に嬉しくなるし、首回りが弛んでダブッとしている黒シャツを着ているせいで露わになっている首元が色っぽくて、大変良くない。
横目でチラリと見て青年の存在に気付いた先輩は煙草を口元から離し、顔を青年に向けて緩やかに口角を上げて「どしたぁ?」と明るく問いかけた。
「あ、上石先輩が電車の遅延でこっちに来るのが遅れるそうで、15分くらい休憩伸びるそうです」
「ほーん」
先輩は煙草を持っていた左手を曲げて腕時計を見る。
「……ってことは再開は十一時か」
「そうなります」
「ん。りょうかーい」
間延びした声で先輩は返事を返すと、再び視線を木々に戻して煙草を吸い始めた。
上石先輩は今回の劇の主要人物の一人で、彼がいないと彼女も練習が出来ない。だから先輩は上石先輩が来るまで暫し待機である。
こうして部長からの伝言を伝えるという役目を青年はあっさりと果たした。立ち去るのが自然だろう、だが、青年はこの場を立ち去ることはせず、むしろ先輩の隣にちょっとの距離を取って浅く座った。顔は前を向きながら視線は先輩の横顔に釘付けになっている。その視線には熱がある。彼女がしなやかな指に挟んだ煙草を口に近づけて、そっと咥えて、静かに吸って、ゆっくりと離して、目を僅かに細めて、瑞々しい赤い唇から灰色の煙を吐いて……その一つ一つの動作を固唾を呑んで見ている。
好きなのである、先輩が。
だから彼女の仕草から目が離せないでいる。休憩時間の変更を伝えるのだって、スマホのメッセージアプリを使えば済むにも関わらずわざわざ直接言いに来たのは稽古場以外でも彼女に会いたかったらだ。それくらい青年は先輩が好きである。
きっかけは新歓公演だった。四月に、講義棟の三百人は収容できそうな広々した講堂のステージの上で演劇部は新入生を歓迎するための劇を披露し、その際に彼女は王位継承権を賭けて争う三兄弟の内の一人、第二王子を演じたのだが、その凜々しさに心臓を射貫かれ優雅さに虜になり終始彼女の演技に魅入った。
次は新入部員を含めた飲み会の場だった。青年はたまたま先輩の隣の席だったのだが、先輩は青年が緊張しているのを察して気さくに話しかけてくれて、完全に出来上がった4年の海野先輩が社会倫理を忘れてまだ未成年である青年の前に酒の入ったグラスを置いて「君は真面目そうだから少しくらい不良の方が良い」という謎理論の元に飲酒を勧めてきた際は、隣で見ていた彼女がさりげなく自分の頼んでいたウーロン茶とグラスを取り替えて代わりに飲んでくれた。そんなスマートな気遣いも出来る先輩に青年はすっかり惚れてしまった。それからというもの青年は、過去に同じ講義を取っていた先輩に試験範囲を教えてもらったり、大した用事も無く部室に訪れたり、先輩が居ると知った飲み会には積極的に参加(飲まないが)したりして、何とか先輩との接点を作ることに努めてきた。特に、帰り道の電車が一緒で最寄り駅が、自分と先輩とで駅三つ分しか違わないと知ったときは神様の存在を初めて信じた。
そうして今ではこのような健気な努力の甲斐あって他の部員よりも間違いなく距離を縮められている自信はあるものの、甲斐甲斐しい努力虚しくお付き合いにまでは漕ぎ着けていないのが実状であった。
これは偏に青年がヘタレだからに他ならない。
少しでもそのような男女の雰囲気になると奥手な青年はつい一歩身を引いてしまうのである。現状においても、ベンチに座る先輩と青年との間に形成されている微妙な距離は青年の情けなさの証左と言える。この距離を最前線に据えている限り先輩の攻略は難しいというのが青年の冷静な判断であり、これ以上の接近は難しいというのが青年のヘタレな判断なのであった。
だが。先輩には、そのような躊躇は存在しない。青年からじっと視線を向けられていることに気付いていた彼女はすっと座る位置を横にずらして青年との距離を詰めに掛かった。近づくと、青年は何故か同じ分だけ逃げるので、彼女は更に距離を詰め、気付けば青年はベンチの手すりのある端っこに追いやられてしまった。遠慮の無い押しにたじろいで狼狽える青年に、先輩は右手をズボンのポケットに突っ込んでピアニッシモの箱を取り出して、差し出した。
「吸う?」
「あ、いえ。俺、未成年なので」
「あーそうだっけ。誕生日まだだったのかぁ」
「はい、1月です」
「1月のいつ?」
「21日です」
「おっけぇ。覚えとく」
先輩はにこりと笑った。青年は先輩に予期せず誕生日を覚えて貰う機会が訪れて内心喜んだ。
それから会話は無く、二人の間には沈黙が広がった。その沈黙は青年にとって非常に騒がしい沈黙だった。心臓の鼓動が五月蠅くて堪らない。長いベンチの端っこで身体が密着していて、お互い薄着だから腕が剥き出しで、触れ合わないまでも相手の肌とか体温とか存在を至近距離に感じてそれもまたドキドキを加速させる。暑い。気温か緊張か体温かどれのせいか分からない。時々吹く風が心地良い。
青年は口を引き結んで正面を向いたまま懲りずに煙草を吸う彼女の方を横目で見てしまう。額から汗が垂れて滑らかな頬の曲線を伝って滑り落ちて顎に到達し、膨らんだ雫が鎖骨の窪みに落ちる。それがどうしようも無く艶めかしくて。無意識に目で追っている。
「ずっと見てるね」
突然の指摘で青年は一瞬で我に返った。恐る恐る表情を伺えば先輩は犯行現場を押さえたかのようにニヤニヤと笑みを浮かべて青年を見つめていて、青年の心を後悔の念がみるみると埋め尽くす。
やらかした。失敗した。こんな近くでまじまじ見るなんてキモすぎる。
青年は自らの行いを悔いた。後悔先に立たずと言うけれど、相手を引かせるなどというのは想いを成就させるには最も程遠い行為だ。顔を青白くして自らを呪う青年に先輩は、大して気にした素振りも見せずに問いかける。
「煙草気になるんだ?」
「え、あ、はい。そうです」
後悔に忙しい青年はほとんど反射的に答えていて、何に対しての肯定だったか本人も理解していない。
「どんな味するか知りたい?」
「はい」
「じゃあ教えてあげるよ」
「……え?」
それは一瞬のことだった。
気付けば青年は彼女に唇を奪われていた。青年がその事を自覚したとき彼女は既に顔を離していて、唇同士が触れ合った感覚だけが微かに残っていた。
訪れた束の間の静寂で事態を把握した青年は困惑と同時に顔を徐々に赤く染め上げて、同じく薄らと頬を赤くした先輩がそれでも余裕そうな笑みと共に再度青年に問いかける。
「どうだった?」
「あ、あの今のって、キス」
「そうだね。で、煙草の味は分かった?」
「い、いや。味とかは分からなかったです、一瞬だったので……」
「ほお~“一瞬だから分からなかった”か。君もなかなか大胆だねぇ~」
“何が”と問い返すことは出来なかった。青年が口を開きかけた時に彼女は既に二度目の襲撃を図っていて、再度青年は唇を奪われていた。しかも今度は温かくて柔らかな舌を口内に割り入れてきて青年の舌に絡みつかせ、うっとりと目を細めた彼女は青年を見つめながら舌を蠢かせ、ベロの熱でベロを溶かそうとするかのようにじっくりと嬲ってきた。それは甘美なる快感で混乱を軽く凌駕した。触れ合う舌は頭をふわふわと気持ちよくさせて、幸福で思考が真っ白に溶けた。全身の力が抜けて失禁するかと思った。
数秒か数分か。
彼女がはしたなく舌を垂らしながら顔を離した時、青年は腑抜けた身体を背もたれに預けて顔を蕩けさせて、もっとはしたない顔をしていた。
乱れた息を整えながら舌なめずりをした彼女が得意げに尋ねる。
「美味しかった?」
青年にはもう何も分からない。その質問の意図が“煙草の味”についてなのか“キスの味”についてなのか。確かなのは青年の脳が許容量を超えた刺激でパンク寸前という事だけである。
それで阿呆みたいに呆けていると、
「おーい白崎。工具箱どこに置いたー?」
と青年同様に裏方担当である3年の宮坂先輩の大きな声が講義棟の通りの方から迫ってきた。誰も居ないから建物に反射して声がよく響く。青年はその声を聞いて弾かれたように意識を覚醒させた。
この場を見られるのは色々不味い。主に先輩がっ。
そう思った青年はすぐさま立ち上がり、先輩を一瞥することも無く急いで声のする方向へと駆けていった。
喫煙所に一人残された彼女は吸いかけの煙草の火を消して捨てると、緊張で冷たくなった両手を額に当てて顔の熱を冷ましながら肘を置いた膝の上に項垂れた。
「うわー……やらかしたぁ……」
彼女の嘆きは喫煙所の淀んだ空気に溶けて消える。本来はこんな筈では無かったのだ。前々から自分に気があることがバレバレな可愛い後輩と良い感じに二人っきりになれたので、ちょっと煽って、とっとと告白させて、さくっと関係を進展させようと思ったのだ。それなのにまさか、煽った自分が興奮して暴走してしまうとは……。
「絶対痴女だと思われた……どうしようこれぇ……」
いくら嘆いたところでやった行為は消えない。彼女はこれからのプランを考える。
後輩君を手放す、というのは論外だ。今更彼抜きの日常など考えられない。彼と仲良くなるために今まで大した用事も無く部室に行ったり、つまらない先輩との好きでも無い飲み会に彼目当てで参加してきたのだ、諦めるのはあり得ない。
だけど現状において私の印象は非常に良くない。突然発情して襲ってくるやべー女だと思われてるに違いない。もう今まで努めて演じてきた後輩君好みの先輩像だと予測される、頼りになる優しいカッコいい先輩だと思ってもらうのは不可能だ。
だとすれば。軌道修正が無理ならば。行くとこまで行くしかない。
後輩君を理由を付けて家に呼び込んでそのまま流れでしっぽりやって、先に身体の方を落とす他ない。そうすれば後輩君はタイプだとか嗜好だとか難しいこと考える余裕なんてなくなって本能で私を求めるようになって、好みの女性像も私という人間に塗り替えることが出来るはず。
「ふふふふっ。いいよ。やってやるよ。上等だよ。ふはははははっっ」
拗らせた大学生の不気味な笑い声が喫煙所に響き渡っていた。