リビングのモコモコしたカーペットの上に腹這いになって顎の下にクッションを視線の先にスマホを置いて、流行のドラマを退屈そうに見ている女性は青年の同居人にして恋人である。
彼女の容姿は目を引く。
背中の肩甲骨辺りにさらりと垂れる白銀の頭髪は神秘的で、肌は雪のように色白で、緋色の瞳は宝石を思わせる。どこか浮世離れした雰囲気を持つ彼女は事実、人間ではない。
ヴァンパイアである。
青年が彼女に初めて出会ったのは大学の研究室で、彼女は後輩だった。青年は最初は彼女には北欧の血が流れているのだろうと思っていたが、付き合い始めてそもそも種族が違うのだと知った。驚いた。が、それだけだった。
肉も野菜も必要ない。必要なのは人間の血のみ。
それ以外は、夜更かしが得意である事以外は、さして普通の人間と変わらないため、印刷会社に就職した青年と彼女の同棲は無事に実現している。
仕事があるので吸血は出勤前と帰宅後の一日二回と決めている。さっきも青年は自らの首を差し出し、彼女に首に手を回されてかぷりと噛みつかれることで、晩ご飯としての血を提供した。噛みつかれることによる痛みは一瞬で、それよりも自らの血が彼女の命の源になる事実に興奮を密かに感じている自分は変態なのだろうか、というのが最近の青年の細やかな悩みである。
今は、青年は机の上にパソコンを開いて明日のミーティングで使う資料の最終確認を行っているところだった。ふと思い出したことがあって青年は彼女に顔を向け、名前を呼んだ。
「ミツキ」
これは偽名。彼女の本名は難しすぎて青年には発音すら出来ない。
「……ん?」
「再来週、二泊三日で沖縄に社員旅行行くから」
「ん……」
彼女はスマホを見つめたまま、口を開くのも億劫とばかりに喉奥を鳴らして短い返事を返した。素っ気ない塩対応であるが、別に機嫌が悪いという訳ではなく、これが彼女の平常運転である。青年も慣れている。
丁度資料の確認も終わったのでパソコンの電源を落とし画面を閉じ、“さて寝るか”と思って立ち上がりかけたとき、
「それって女いんの?」
彼女が不意に尋ねてきた。
見ると、いつの間にか身体を起こしていた彼女は後ろ手を床について気怠げに背中を反らした姿勢になっており、髪を重力に従って垂らしながら顔は青年の方に向けていて、赤い瞳と目が合った。
彼女の方から青年の出した話題に関心を向けてくるのは珍しいことだった。青年は意外に思いながら素直に答える。
「そりゃ社員旅行だし当然」
「じゃ、私もいく」
「へ?」
「ついてく」
彼女は何でも無いことのように言う。
「いやいやいや。無理だって。社員旅行だから」
「は? じゃあ何? アタシに二日間絶食しろっての? そっちの方があり得ないんだけど」
彼女は目を細めて不機嫌そうに言った。
だが青年としてはその言葉に反論せざるを得ない。
彼女は青年と出会うまではそこら辺の一般人を襲って吸血していた筈なのである。吸血する際には彼女のさじ加減で牙を通して麻酔成分がたっぷり注入されることで本人は吸血されていた間の記憶をまるっと忘れてしまい彼女の存在を思い出すこともないし、彼女もそうしてうまく人間社会で生きていた筈なのである。
つまり青年が不在であろうと、彼女は食事に困ることは無い。
「別に絶食しろなんて言ってないよ。適当にそこら辺の人から血貰えばいいじゃん」
しかしこの言葉は、どうやら彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。
彼女は眉間に皺を寄せて人形のように整った顔を邪悪に歪め、
「はぁ?」
とドスの効いた声を漏らし、臨戦態勢とばかりに立ち上がって大股で青年の座る机にドスドスと近づき、向かいの椅子に勢いよく座った。
彼女は火薬庫だ。一度着火すると莫大なエネルギーが爆発する。こうなった彼女を止める術は無い。
彼女は顔を強張らせた青年に顔を近づけて言葉の銃弾を浴びせる。
「あのさぁ、お前の血吸っておいて今更そんなの無理に決まってんじゃん。ていうか好みの男の血の味が美味すぎるってアタシの舌に教え込んだのお前だから。今だって朝晩二回とか正直少なすぎるし、お前が仕事で夜遅くに帰ってくるの待つのしんどすぎていつもキレそうだし、お前の血吸ったら頭ん中まじ幸せで絶頂もんでお前の血じゃないともう身体が受け付けなくなってんだけど。ちゃんと責任とれよアタシ専用のドリンクバーがっ」
「……暴論だ」
彼女の勢いに気圧された青年は顔を逸らして嘆く。確かに彼女に血をあげるようになってからというもの彼女が他の人間の血を吸わなくなったとは思っていたが、まさかそんな事情があったとは思いもしなかった。
「つか帰ってくるの遅すぎだから。もっと早く帰ってこいよ社畜」
「出来るだけ努力はしてるんだけど残業終わらなくて……」
「うるせえんだよこっちはいつも待ちくたびれてるんだよ馬鹿。まじ働き過ぎ。もっとマシな会社に転職しろ阿呆」
彼女の美しい容姿のみを知っている者は恐らく想像も出来ないであろう荒々しい口調。罵詈雑言。しかし言ってることはあながち間違いでもない。
なまじそこそこ大きな印刷会社の企画課に務めているばかりに、多数の取引先から次から次へと仕事がやってきて長時間労働が常態化しており、青年は疲れがちである。あまりにヘロヘロだと彼女は“死なれたら嫌だから”と言って青年を気遣って、彼女にとっては何よりも大事な筈の吸血行為を頑なに辞する事すらある。青年はそのたびに申し訳ない気持ちになる。
同業者の知り合いの話を聞くと、“小さな会社だから仕事が少なめで基本定時退社だよ”なんて信じられない言葉が飛び出すくらいだから、青年の頭の片隅には常に転職の文字が浮かんでいる。ただ、お給料の事や会社の勤務年数がまだ浅いことを考えるとなかなかその選択も取りにくい。
「とにかく、家を空けている二日は我慢してね」
「いや絶対無理。意地でも付いていくから」
「社員じゃ無い人を連れてくのは無理なんだって」
「ああもうじゃあ分かった。蝙蝠になって付いていく。それならいいでしょ」
彼女にとってはかなり譲歩した提案だったようで少々投げやりにそう言った。
「まあそれなら……」
青年は言葉を返す。
彼女は確かに蝙蝠に変身することが出来た。ヴァンパイアならば誰でも出来る芸当だと言う。そうして彼らは飛行して長距離の移動を可能とする。
しかしいくら蝙蝠だと言っても、沖縄までは流石に距離があるから途中で諦めて帰るかもしれない。それならそれで構わないと青年は思っていたが、まさか当日飛行機の裏にこっそりしがみ付いて沖縄に辿り着くという忍者もびっくりの荒業を敢行するとは流石に青年も思っていなかった。
それは別の話。
「蝙蝠になって、それで一日中監視するから」
「監視って、別に悪いことしないけど」
「お前がしなくても女の方がするかもしれないだろうが」
「へ?」
目を逸らして小声で呟かれた彼女の言葉を残念ながら青年は聞き逃している。
「何でもねーよ。吸血するためにアタシの方でお前と二人きりになれる隙を探すって言ったんだよ」
「わざわざ監視なんてしなくても抜け出せそうなら俺の方から何かしら合図を送るけど」
「お前は鈍いから壁を挟んだ向こう側に人がいても気付けないだろ」
「普通の人間は気付けないよ……」
「言っておくけどお前に吸血してる所を誰かに見られるのとかアタシ絶対嫌だから。それなら死んだ方がマシ」
「それは勿論。ヴァンパイアが実在するってばれたら大騒ぎになるからね」
「……」
彼女が青年の首に腕を回してうなじ辺りに歯を立てて吸血している時に、そのあまりの幸福感で目尻が下がって瞳が潤んで頬がつり上がって顔が紅潮して女の子が誰にも見せては駄目なくらいの見事なトロ顔が出来上がってる事など青年は全く気がついていない。
んんっ、と彼女が咳払い。
真剣な目。
「とにかく、絶対付いていくから」
声高な宣言。
こう言うときの彼女は強情で意地でも折れないと知っているから青年の方が折れるしかない。
「……分かった。そこまで言うなら付いて来て良いよ」
「当然」
「でも向こうにはワシとかハブとかいるらしいから気をつけて」
「んなもん敵じゃないし。お前こそドラ猫に気をつけろよ」
「猫……?」
青年の頭に一瞬疑問符が浮かび、“まあ暖かいから猫は沢山いるか”と見当違いな納得をした。
(ったく、油断しやがって……)
彼女は密かに闘志を燃やしていた。