深夜、男はかつて家族で食事を囲った食卓に一人座って缶チューハイを飲んでいる。その丸まった背中は寂しげで、白髪の交じった頭髪は社会の荒波に呑まれながら必死に家族を養ってきた苦労の蓄積とその家族を喪失したストレスによるものだった。
食卓の上には既に空になった缶が2つ程並んでいた。アルミ缶特有の金属光沢を帯びた銀の表面の上に大きく檸檬の絵柄が描かれたそれは、缶チューハイにしてはアルコール度数が高い。酒の味を楽しむことより手っ取り早く酔うことを目的としている男にとってはそっちの方が都合が良かった。口に付けているのはもう三本目だ。
コクッコクッ
と、喉を鳴らして酒を胃袋に流し込んでいく。アルコールは当に血流を巡っている。身体は微かに揺れていて、顔は風呂上がりのように赤らんでいて、据わった瞳はリビングの白いソファをじっと見つめている。瞳に映るのはソファに座る妻の幻想。大らかで優しくて静かに笑う、仕事ばかりの自分に嫌みの一つも言わない献身的な女性だった。無愛想な自分を支えてくれる自分にはもったいないほどの素敵な女性だった。彼女との夫婦生活はおよそ理想と呼べるもので、この先も続いていくと信じて疑わなかった。
だが、死んだ。
男を置いて先に逝ってしまった。
この世にはもういない。
何度も自覚した現実であってもその度に変わることの無い膨大な悲しみが胸に去来する。
男の目から自然と涙が零れてかさついた肌を滑り落ちていく。胸が悲しさでいっぱいになって留めておけなくなって涙が溢れて溢れて止まらなくなる。男は飲みかけの缶を空き缶の隣に置くと、食卓の上に顔を伏せて身体を震わせた。
「ああっ……うあぁっ……あああああっっ……!」
中年男性の獣じみた泣き声がリビングに響き渡る。男を慰めてくれる存在はおらず、男はひたすらに悲しみに暮れる。
だが、やがてゆっくりと顔を上げた。その顔には先ほどまでの悲しみは一切残っていなかった。代わりに顕現しているのは“怒り”であった。
涙で真っ赤に充血した瞳でリビングの虚無の空間を睨み付け、赤黒い歯茎を剥き出しにし、奥歯をギリギリと噛み締める。憤怒の表情を浮かべる男にはどうやら明確に“敵”の姿が見えているようであった。
「お前のせいだあああぁぁぁっっ!!」
男は額に青筋を浮かべて叫ぶと握り拳を食卓に力強く叩きつけて勢いよく立ち上がり、我慢ならないとばかりに大股でドスドスと足音を立てながら廊下に向かって歩き始めた。
向かう先は決まっていた。
息子の部屋であった。
廊下に出て真っ直ぐ進んで玄関に近い左奥の部屋。男はその閉められた扉をノックもせずに開けて、真っ暗な部屋に遠慮無く踏み入ると、ベッドで仰向けに眠る高校二年生の息子を見下ろした。廊下から部屋に差し込んでくる光に照らされて浮かび上がるその顔には、おおよそ親が子に向ける慈愛の類いは一切感じられず、かっぴらいた瞳には底無しの憎悪が宿っていた。
男はベッドを軋ませて息子の身体に馬乗りになった。部屋に広がる暗闇よりも更に濃い男の大きな影が息子の上半身を呑み込む。
息子は悪夢でも見ているのか、表情を歪めてうなされていた。男は狙いを定めるように息子の頭を見下ろすと、拳を作った右腕を背後に引き絞り、そして勢いよく振り下ろした。
家族で行ったキャンプの風景を青年は夢に見ていた。当時中学三年生だった青年は父に誘われ母と供に父の運転する車に乗って、県内の山奥のキャンプ場に訪れていた。
家族仲は良かった。両親は仲が良すぎるくらいだった。だから今回のキャンプもきっと楽しい思い出になると、青年はそう信じていた。
キャンプ場に着いたらまずは家族で協力してテントの設営をした。広い草原には他に数個のテントが散在しているだけで、周りの目を気にせずにのんびりとキャンプを楽しめそうだった。
テントの設営が終わると、釣りをしようという流れになった。キャンプ場の近くに川が流れていて、利用者は場所によって川遊びや釣りをして良いことになっていた。
青年はわくわくした。釣りが好きだったからだ。だから車に忘れた釣り道具を取りに行った父を待たずに、日焼け止めを塗っていた母よりも先に、逸る気持ちを抑えきれずに青年は一足先に川へと向かった。そこそこ高さのある川岸の岩場から川を覗き込む。流れる水は澄んでいて透明な水面は太陽の光を反射しキラキラと輝いて見えた。
青年は期待を胸に膨らませた。こんなにも綺麗な川なら魚も沢山泳いでいるに違いない。
そう思った青年は、釣りスポットのある上流まで川岸を歩いて行きながら、ちらちらと視線を川に落として獲物を探した。
……そんなことをするべきでは無かった。
足場は苔むした岩場なのだから、しっかりと足下に注意を向けるべきだった。
だが青年はそれを怠った。
結果、青年は片足を滑らせる。
「あっ」と気付いたときには遅かった。踏み込んだ左足は角度の付いた岩肌を斜めにずり落ちて、体重の置き所を見失った身体はバランスを崩し、約3mの高さから川に向かって放り出された。
突然に身体を包む嫌な浮遊感。血の気が引く。遠ざかる岸上。時間がゆっくりになる。
そして、身体を襲う強烈な衝撃。
泡に包まれた水中で、青年は大量の水を飲み込む。焦燥の中、足を下に伸ばすが頼りの地面が無い。深い。足が付かない。岸上から覗いたときは透明な水面の下に丸石の重なり合った水底が見えていたのに、実際はずっと深かった。
苦しい。苦しい。青年は死の恐怖に怯えながら酸素を求めて水上に顔を出そうともがく。瞬間、腰の上に巻き付けていたウェスト型のライフジャケットが起動して視力検査で使われるランドルト環によく似た形の黄色い浮輪が急速に膨らんだが、身体とは反対向きに展開してしまい、青年の身体はうつ伏せの向きのまま腰を基点に急浮上してしまう。ここで焦らず腰に手を伸ばして浮輪を両脇に回せば仰向けの姿勢になって浮かび上がることも出来たが、青年は極度のパニック状態でそこまで頭が回らなかった。青年はとにかく水に付いた顔を何度も上げて死に物狂いで呼吸をした。
このタイミングで異変に気付いた母が駆け付けた。川岸に立って溺れる青年を見つけ母の顔は青ざめる。
「い、今助けるからね!」
上擦った声は母の気が動転していることを如実に表していた。
混乱は人から冷静な判断力を奪う。だからきっとそれは、子を助けたいという母の本能に従った行動だったのだろう。母は救命具を何も身につけていない状態で岸壁から川へと躊躇無く飛び込んだ。
水を含んだ衣服の重さに身体の自由を奪われ、流れの速い水流に翻弄されながらも、母は何とか青年のもとへと泳いでいった。だが酸素不足により意識の混濁が起こり始めていた青年にはもはや流木と人間の区別は付かず、青年は藁にも縋る思いで幸運にも近くに流れてきたそれを、つまり母の頭を、掴んだ。青年の体重が母の頭に加わる。
「やめてっ! りょーちゃんっ! 離してっ!」
母の必死の懇願も息子に届くことは無い。
ただ呼吸をするのに必死で、母の頭を己の手で水面に沈めていることなど全く気付いていない。青年がようやく手を離したのは母の頭が浮輪としての役目を果たさなくなったからであり、母は水面に背だけを浮かべる水死体に成り果てていた。
遠くで男の叫び声を聞いた気がして青年はちらりと遠い岸壁に目を遣った。水に濡れた視界は不明瞭で輪郭を明確に映してはくれないが、恐らくは父だと微かに残っていた意識で思った。
母さんはどこだろう?
疑問に思ったとき、青年は川の流れを切り裂くように高くせり出していた岩に頭を思い切り打ち付け、視界が真っ白になった。
側頭部を襲った鈍い痛みで青年は目を覚ました。目の前には馬乗りになって自分を睨み降ろす父の顔があって握り込められている右手の拳を見て、自分は頭を殴られたのだと自覚した。父は左腕を伸ばして青年の髪を雑草のように掴み上げ強引に頭を浮かすと、自身の顔を間近に近づけた。
「お前のせいだああっ! お前のせいだあああっ! お前のせいだああああっ!」
鬼の形相で怒鳴りつける。
青年は髪の毛を引っ張られる持続的な痛みに耐えながらも無表情だった。ただ父の開いた口から漂う強烈なアルコール臭を感じ取って“またか”と思った。父は普段は穏やかな性格なのだが、妻を亡くしてからと言うもの、酒を飲むと人が変わったように豹変して、息子である青年に当たり散らすようになっていた。日常では表に出すことの無い心に溜め込んだ憎悪。それは溺れた青年が救助に来た母を巻き込んで溺死させたことに端を発する。妻を殺した犯人として父は未だに息子を恨んでいるのである。
「分かってんのかよおっ! 何でっ! お前がっ! 助かってんだよっ! くそおっ!!」
父は青年の頭を、枕に叩きつけては浮かせて叩きつけては浮かせてを繰り返す。脳漿が激しく揺さぶられて気持ち悪さに襲われる。だが青年は無抵抗のまま身を任せている。
「くそっ! 何とか言えよおっ! くそおっ!!」
父はそう言い放って青年の頭を一際強く枕に打ち付けると、今度は右手の平で目一杯頬を引っぱたいた。
「おいっ! 聞いてんのかよっ! おいっ! 死ねよっっ! おおいっ!」
父は両手で繰り返し青年の両頬を力任せに引っぱたく。頬を襲う痛みは焼けるようであるが、これはまだマシな方だった。以前には耳を力一杯叩かれて鼓膜が破けて出血した。アバラを殴られてヒビが入ったこともあった。鍋で沸騰させた湯を掛けられて火傷したこともある。暴力の程度は父のその日の気分次第だ。そして今の青年は何度も平手打ちを喰らわされている。
痛みへの反応で目に涙が溜まるが青年は為されるがままである。
罰なのだと、いつも思っていた。母の命をこの手で奪った自分のような罪人は痛めつけられて然るべきだ、と。
「謝れよっ! 助かってすみませんっって! 生きててごめんなさいって!! 言えよっ!!」
真っ赤に腫れ上がった頬を相変わらず引っぱたきながら、物言わぬ青年に苛ついた様子で父は怒鳴りつける。
青年は叩かれながらも無感情に言葉を発する。
「助かってっ、すみません。生きっ、ててっ、ごめんなさいっ」
謝罪をさせたのは父であったが何かが癪に障ったらしい。
「うるせえんだよっ!!」
とキレて青年の鳩尾に右手の拳をめり込ませた。目を見開いた青年は唾液を吐き散らし、口を開けたまま一時的な呼吸困難に陥った。その苦しみは溺れたときの恐怖を呼び起こし、青年の顔は真っ青になった。
父も息子のその顔には見覚えがあったことだろう。たまたま浅瀬に打ち上がって救われたときの息子の顔。その一方では顔を沈めたまま流されていく妻の死体。
逆ならばどれほど良かったことだろう。
父の胸中で悲しみが膨れ上がりそれが怒りに変わる。
「お前がぁっ!! お前が死ねば良かったんだぁっ!!」
言い放った父は枕の隣に転がっていた、そこそこの重量の四角いプラスチック製の置き時計を手に取った。それを右手に掴んで振り下ろすために高々と天井に掲げる。青年は戦慄した。
もしも大の大人が全力でそれを振り下ろし、角で人の頭部を殴りつけた場合、只では済まない。当たり所が悪かったら、何度も殴られたら、死ぬかも知れない。
青年は死を恐れた。
いや、苦しんで死ぬのが怖かった。
死にたいとは常々思うけれど、根が臆病だから、苦しんで死ぬのは嫌だった。
だから、
「ああああぁぁぁぁぁっっっ!!!」
と叫んで父が時計が振り下ろしてきたとき、青年は苦しむ身体に鞭打って瞬時に身を翻し時計を避け、全力で父の身体を突き飛ばしてベッドから跳ね起き、玄関に向かって脱兎の如く走った。廊下に出たときに直ぐ後ろで甲高いベルの音が一瞬鳴って直後に硬い物同士がぶつかる甲高い音がして何かの部品がバラバラに鳴る音が聞こえた。恐らく父の投げた時計が壁に跳ね返り板張りの床に落ちて壊れたのだろう。振り返って確認する余裕は無い。
青年は靴を履いてそのまま外へと逃げ出した。
寝静まった街に静かに雪が降っている。
青年は黒いコンクリの地面に変わって真っ白な絨毯の広がる、人の気配の無い路地の新雪をスニーカーで踏みしめながら歩いていた。
失敗したと思った。
今日は休日で高校が休みでバイトも無くて一度も外に出ていなかったので朝から雪が降っていることをすっかり失念していた。だから咄嗟の事とは言え長靴では無くスニーカーを履いて外に出るという過ちを犯し、底の浅い靴で積もった雪の上を歩くという愚行を強行している青年は、当然の報いとして、スニーカーの前半分にある通気性確保の為に網目状に小さく開けられた穴からの靴内部への雪の侵入を許し、濡れた足先の感覚が無くなるほどの冷えを経験していた。おまけにトレーナーにスウェットパンツという完全に部屋着の格好のまま外に出てきたから冷気が身体を突き刺して先ほどから震えが止まらない。
だが父に怯えるよりはずっとマシだ。
青年は雪の続く路地を歩いていく。遠くにパトカーのサイレンを聞いた。雪で白バイは走らないけれどパトカーは律儀に深夜パトロールをしているので、人目を避けた道を通らなければ為らないというのは深夜の家出を繰り返す中で青年が覚えた術だった。
静かな道。
雪に音を奪われている。
静寂。
ふと。
青年は両手で自分の首を軽く絞めた。
冷たい手先で生温かい首を圧迫した。
端から見ると、まるで意思を宿した両手に反逆されてるかのようだ。
癖だった。
これをすると、当然息苦しさを感じて、加減を間違えたら死にそうで、自分の命を自分が握っている事を実感できて、安心できるのだ。あるいは折角の殺される機会だというのに父から逃げ出した臆病な自分を、頸動脈を圧迫される息苦しさで独りでに罰した気になって少しだけ気が楽になるのだ。
そうして意気地無しな自殺志願者が自作自演に夢中になりながら橙色の光を放つ街灯の下を通りかかった時、突然肩を叩かれた。
青年が驚いて横を振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。
「君、大丈夫?」
僅かに首を傾けて、女性にしては低めな声でそう尋ねてきた彼女は、暗めの茶色に染めた頭髪の前髪を眉の少し下辺りでぱっつんと横に切り揃え、それ以外は顎のラインに合わせて切り揃えたいわゆるショートボブの髪型をした女性で、黒い眼鏡がとてもよく似合っていた。
「あ、はい。大丈夫です」
青年は動揺していることが悟られないように返事をしながら、ゆっくりと首から手を下ろし、彼女の格好を盗み見た。暖かそうな黒いダウンジャケット、片手には酒の缶が入ったレジ袋。この路地に入る手前の通りにはコンビニが立地している。恐らくコンビニからの帰り道の途中で目撃されたのだろう。
警官じゃ無いことに青年は安堵した。それで、軽く会釈をしてその場を足早に立ち去ろうとしたのだが、
「ちょっと待った」
先回りした彼女に静止させられる。
「君、全然大丈夫に見えないから。上着も着ないで身体ブルブル震わせてるし、しかも顔は殴られたみたいにパンパンに腫れてるし、おまけに自分で自分の首絞めてたし。第一どう見ても未成年だし」
「友達と喧嘩してこれから家に帰るところです」
「ふーん。どうして喧嘩したの?」
「え……?」
青年は思わず言葉を詰まらせた。咄嗟に思いついた理由だったからそこまで考えてはいなかったのだ。ともあれ平常時ならば彼女の深掘りに対して幾らでもそれっぽい言葉を返せた筈だが、生憎不意を突かれたこの一瞬においては、良い返しが何も思いつかなかった。なので「失礼します」と言って強引に横を通り過ぎた。
すると、背後から声がした。
「ウチにおいでよ、家出少年」
その言葉に、青年は思わず立ち止まってしまう。
それは自分が言葉通り“家出少年”である事を看破された驚きと、その魅力的な提案の放つ引力に引っ張られて、である。
未成年の青年には勿論行き場は無い。カラオケもファミレスもネカフェも、軒並み未成年を理由に入店を断られてしまう。よって、青年の当初の計画では街に点在する深夜営業のコンビニに順々に立ち寄って一店舗につき大体20分ほどの滞在を繰り返すことで寒さを凌ぎ、夜が明けるまでの時間を潰そうと考えていた。だがそれだって移動の負担はあるし、寒いし、立ちっぱなしで疲労するし、一度訪れたコンビニに再度訪れたときは店員に何か言及されるのでは無いかという根拠の無い緊張に付き纏われることになる。それらの事情を加味すると家に上げて貰う方が、ずっと楽だ。
動きを止めた青年の背中から陥落間近である事を感じ取ったのであろう彼女は、再び青年の正面にひょっこり現れて、言った。
「ほら、あのマンション」
彼女がしなやかな指で指し示した方向には確かに、赤茶色のマンションが建っていた。
正直青年の意思はもはや彼女の提案を受ける方向へと大きく傾いていた。しかし僅かに残っていたなけなしの抵抗心が、青年の口から言葉を引き出させた。
「未成年を家に上げることは同意の上でも誘拐罪に問われますよ」
「ボロボロの家出少年を見なかったことにするのは
僕の良心が咎めるんだよねぇ」
そうして法律が個人的信仰に敗北する希有な瞬間を目の当たりにした青年は、彼女の背に従って彼女の家を訪れることになった。歩いている間青年は、彼女が第一人称を「僕」とする珍しい女性なのだと感慨も無く思ったりした。
やがて彼女とエレベーターに乗って4階まで上がり、廊下を進んで奥から二番目の玄関扉の前で立ち止まり、彼女の後に続く形で玄関扉を潜った。
玄関から短く伸びている廊下は両腕を僅かに広げられる程度の横幅で「ちょいと待ってね」と言った彼女はレジ袋を壁際の床上に置いて長靴を脱いで上がり框に上り、廊下の途中にある壁に埋め込まれている棚を開けて白いタオルを取り出し、土間に立つ青年に手渡した。
「これ使って足拭いて良いから。それと濡れた靴下は僕に渡して。乾くかは知らないけど一応干しとく」
テキパキと言われた言葉は指示に近くて、青年は変に遠慮すること無く素直に従えた。そのまま彼女の後に従って短い廊下を進んで薄暗いリビングへと辿り着く。彼女が天井の円いライトからつり下がっている紐を下に引くと部屋が一気に明るくなった。
中央に丸テーブル、奥にキッチン、壁際にベッド。小さな部屋に纏まったとてもシンプルな居住空間だった。このとき丸テーブルの上に乗った白いボウル皿に大量の黄色い錠剤が盛られているのも青年はさりげなく見ている。何も言わなかったが。
彼女は何気ない動作でその皿の上に雑誌を被せ端に寄せると、ダウンジャケットを脱いで隅に置かれたクローゼットのハンガーに掛けながら「適当に座っててー」と青年に言った。丸テーブルの前に座った青年は、上着を脱いだ彼女が、上下お揃いの紺色のゆったりとしたルームウェア姿になったの見て、“本当に深夜のちょっとした買い物でコンビニに立ち寄ったんだろうな”と取り留めの無いことを思った。エアコンの暖房が付けっぱなしだった事にも納得が出来た。
台所に立った彼女に「コーヒーとココアどっちが良い?」と訊かれたので青年が「苦いのは苦手で」と答えるとコップに注がれた程良い熱さのココアを自分の分と一緒に持ってきてくれた。
彼女も丸テーブルの向かいに座って、二人でココアを啜る。頬を叩かれたときに出来た口内の切り傷は沁みるけれど、喉を通る甘みのある熱い液体は芯まで冷え切った青年の身体をじんわりと温めてくれた。
暫く。
二人の間に広がるのは静寂。
彼女は、特に口を開くことをしなかった。青年はそれに疑問を持たずにはいられなかった。
両頬を真っ赤に腫らして深夜の寒空の下を部屋着で首を絞めながら彷徨いているような如何にも訳ありな未成年の自分を保護しておいて何も尋ねないと言うことがあるだろうか。てっきり根掘り葉掘り聞かれて憐れなガキを助ける自らの善人っぷりに酔い痴れる為の自慰道具として消費されるものと思っていたのに。それを家に上げて貰う“対価”として支払う位の心づもりはあったのに。
どことなく居心地の悪い青年は自ら尋ねた。
「何も訊かないんですか?」
コップから口を離して息を吐いた彼女は、眼鏡の奥の瞳をチラリと青年に向けて僅かに口端を上げて言った。
「訊いてほしいなら訊くよん」
落ち着いた声色は青年の警戒心を宥めるように穏やかに響いた。
彼女はどうやら、無理に人の心に踏み込むことはしない他人との距離感を大切にする人、らしかった。今の青年には有り難かった。
青年は、若干肩の力を抜いて部屋を何気なく見渡した。視界に入るのは、漫画の詰まった本棚、青年も見たことあるようなアニメのキャラのフィギアを取り巻きに携えて台の上に乗る小さめのテレビ、ケーブルの伸びた黒い四角い据え置き型ゲーム機。それと床から天井までの高さがある足場が三階建ての猫用の白いケージだった。
だが、肝心の猫が見当たらない。一番高い位置の足場に置かれているテントみたいな形の家の中に居るのだろうかと視線で探ってみたが、どうも暗闇だけで毛むくじゃらの主は留守のようだった。
「死んじゃったんだよねー」
彼女が言った。
青年が前を向くと彼女は先ほどまでの青年と同じようにケージに顔を向けていた。
「拾った子でさ。焦げ茶のサビ猫で懐っこくて、可愛かったな~」
彼女は柔らかな微笑を浮かべて語る。
「そこそこ一緒に暮らしたんだけどね。持病があって、少し前に死んじゃった」
「それは、悲しいですね」
「うん。悲しい」
彼女は緩やかに口角を上げた表情のまま、じっと空っぽのケージを見ていた。その瞳にはきっと生きていた頃の愛猫の姿が映っているのだろう。
想像を巡らせる青年の頭の片隅では一方で、先ほど目にした白いボウル皿に入った錠剤が思い起こされていた。原因は明らかで、彼女の口にした“死んじゃった”の単語が、死を連想させるそのイメージを短期記憶から引っ張ってきたのだ。
折角忘れていたのに、気になると口にせずにはいられなかった。
「薬」
「え?」
彼女が驚いたように振り返る。
「いっぱい飲むんですか?」
青年の視線は丸テーブルの端に雑誌を蓋にして置かれていた白いボウル皿に向けられていたから、彼女も何について訊かれているのか直ぐに察した。
「あー、うん。体調が悪くてね」
歯切れの悪い回答は青年に確信を与える。
「目的はオーバードーズ、ですよね」
彼女は目を丸くした。
「自分もやろうとしたことがあったので……あれって、瓶に入ったままだと自分が飲まなきゃいけない200錠の錠剤の実感がイマイチ持てなくて、一旦皿に移してどんだけあるのか確認したくなりますよね」
「マジか……君って名探偵?」
「たまたまです」
青年は無感情に答えた。
それは、いつだったか。母を溺れさせた罪悪感に耐えられなくなって薬の過剰摂取、つまりオーバードーズでの自殺を試みたことがあった。だがネットで調べていく内に、死亡率が実はそこまで高くないこと、痙攣や呼吸困難などの症状に加え深刻な臓器障害のリスクがあること、などを知って、結局実行する直前に尻込みしてしまっていた。
それは彼女もどうやら同じだったらしい。
彼女は情けなさそうに言った。
「いやぁ、僕としたことがビビっちゃってさ。だからお酒飲んで酔っぱらっちゃえば勢いでイケるかなって。そう思ったんだよねぇ」
その決まりの悪い表情は自死に臆した自分を恥じてのものだと青年は直ぐに見当が付いた。臆病な青年は何度も自殺の方法を模索し躊躇し、彼女と似た感情を何度も味わっていた。
「そうですか」
それっきり。
青年は丸テーブルに視線を落としたまま特に何も言わなかった。
彼女も何も言わなかった。
沈黙。
彼女が、破る。
「理由とか訊かないの?」
顔を上げた青年は用意していた返しをする。
「訊いてほしければ訊きます」
それは先ほど彼女に言われた言葉であり、彼女は「ふっ」と愉快そうに笑うと、言った。
「是非とも訊いてほしい」
「分かりました。お姉さんはどうしてオーバードーズをしようとしたのですか?」
彼女は嬉嬉として朗朗と語り出した。
「僕の職業はいわゆる事務職って奴でさ、勤めた会社の事務員も少なかったら、資料作ったり電話対応したり見積書出したり……まー仕事が多かったんだよね。で、まずいってなっちゃって。誰かに助けて貰おうにも、上司は凄くヤバい人だったし、斯く言う僕も女のくせに自分のことを“僕”って呼ぶ痛いヤバい奴だと思われてたから同僚からは避けられていて、仕事は増える一方だった。まあ、これについては仕事が出来ない僕が悪いし、僕が自分のことを頑なに“僕”って呼んでることが良くないんだけどね」
彼女は哀しげに笑う。
青年は下手に口を挟むことはせずに黙っている。
彼女が話を続ける。
「それでも仕事は辞めたくなかった。これで辞めたら何か色々負けた気がするって思って。でも自分の心の中では辞めたい欲の方が強かったから、自分の為に頑張っても駄目だって思って、そんなときにニャン太。あ、野良猫ね。その子を偶然拾って、この子のために頑張って働こう薬代稼ごう養おうって思ってギリ堪えてたんだけど、ニャン太死んじゃったからさ。そんときに僕の心も折れちゃった」
その言葉には虚しい響きがあった。
「ある日、会社に行こうとしたら涙が出て行けなくなって代わりに病院行ったら鬱病ですって言われてさ。そっから休業して、このザマよ」
その瞳は何かを諦めていた。
「どう、ダサいっしょ?」
それは、ひどく自虐的な問いかけだった。
まるで罵られるのを望んでいるかのようなマゾヒスティックな笑みだった。
青年は、彼女の求める罵声を与える気にはなれなかった。
「ダサくないですよ」
勿論嘘を言う気にもなれなかったので、思ったことを素直に口にすることにした。
「周りに白い目で見られてもお姉さんが自分のことを“僕”って呼ぶのは、自分が大事にしている事を譲らないのは、カッコいい事だと思います。それに俺は、回転寿司屋でバイトしてるんですけど、シフト一緒になったらすげー嫌な奴とかいるので、業種はまあ違いますけど、人間関係が悪いと働くのはかなり大変だろうなと思います。だからお姉さんを別にダサいとか思わないです」
青年が真っ直ぐな視線を向けながら口にした言葉に彼女は意表を突かれたように目を真ん丸にして、それから緩やかに口角を上げた。
「君、良い奴じゃん」
青年は無愛想な表情で視線を逸らした。
彼女は気が変わったようで白いボウル皿をゴミ箱の上でひっくり返して薬を全部捨てた。
それから朝が来るまで青年は彼女の本棚にあった漫画を借りて読むことにした。彼女も、どうせ夜は眠れないからと言って、コントローラーを握ってテレビ画面でゲームをやっていた。
しかし実際に朝日が昇ったとき、青年は床に伏して眠っていた。目を覚ますと身体に毛布が掛けられていて、彼女はやっぱりゲームをしていた。
「すみません」
「いやいや。気にしないで良いよ」
彼女はテレビ画面を見つめながら言った。
「帰ります。ありがとうございました」
「あいよ」
小気味よい返答。
青年は立ち上がって彼女の背を向け玄関の方へと歩いて行った。
てっきりこれが彼女との別れだと思ったが、まだ濡れた靴下を履いてまだ濡れた靴を履いているとき、彼女が玄関までやって来た。土間に立って彼女を見る。
「もう殴られないようにね」
「はい。お邪魔しました」
青年は会釈をして身体の向きを変えて玄関のノブに手を掛けた。そうして玄関の扉を僅かに押し開けた。
その時、
「あっ」
背後から声がした。
勿論玄関に立つ彼女の声だ。
何かあっただろうかと思って青年が振り返ると、何故か彼女も驚いた顔をしていた。どうやら無意識に呼び止めたらしかった。
「……何ですか?」
「あ、うん。またおいでよ。どうせ夜は眠れないから大体起きてるし」
そう言った彼女はどこか不思議そうな表情をしていて自分でも自分が何故そんなことを言っているのか分かっていない様子だった。彼女の表情に気を取られて変な間が一瞬生まれたので青年は脳内でちょっと時を遡り、彼女の言葉への返答を返す。
「有り難いですけどもう来ないと思います。そもそもマンションのエントランスは鍵が無ければ通れないですから」
「ああ、そうだね」
彼女はそう言って靴箱の上にあった鍵を手に取って青年のズボンのポケットに突っ込んだ。
「それ合鍵だから。あげる」
何でも無いことのように彼女が言った。
「え、あの」
「まあいいじゃん」
「いや。え?」
「うん」
青年が困惑するのをよそに彼女は一人納得したように頷き、手をしっ、しっと払うジェスチャーと共に「ほれ行った行ったぁ」と促したので、青年はつい外へと出てしまった。
玄関の扉が閉まって青年が一人マンションの廊下に立ち尽くしたとき、ポケットに手を突っ込んで確かに鍵の手触りを感じた。
大事な合鍵をこんな他人に渡すなんてどうかしてる。と、青年は思った。
だが同時に、この合鍵を渡されたことをどこか喜んでいる自分もいた。
それから実際に青年は何度も彼女の家を訪れることになる。それは決まって深夜で青年はいつも這々の体だった。
部屋に訪れると大抵明かりが点いていて、彼女は日常的に夜は眠れない日々を送っているようだった。ただ時にはぐっすりと眠れていることもあって、そういうときは静かに部屋を後にした。
彼女の調子が良いときは一緒にゲームをしたりして夜明けを待った。調子が悪いときは、彼女はベッドに伏したまま微動だにせず、ただ”話しかけられるのは困るけど、人の気配はあった方が何か良い”らしいので、青年は静かに漫画を読んだりして時間を潰した。
冬が過ぎて春になる。
その日は、涼しい風が頬を撫でる穏やかな宵だった。青年はいつものように父から逃げ出して彼女の部屋を訪れた。廊下を進んでリビングに踏み入ると、
「お、来たねえ~」
と丸テーブルの前に座った彼女が首だけ後ろに傾けて青年を出迎えた。その表情はふにゃけていて、丸テーブルの上には水色や桃色と言った色鮮やかな缶チューハイが数個並んでおり、彼女が珍しく酒を飲んでいたのだと知る。
彼女が手招きをするので、青年は誘われるがまま彼女の隣に座った。
「初めて見ました、お姉さんが酔っている所」
「今日は久々に調子が良かったから偶には良いかなーって思ってね」
特に面白いことは起きていない筈だが彼女の頬は緩みっぱなしで何だか嬉しそうだった。上機嫌になる酔い方もあるのかと青年は感心した。
「君も飲んで良いよ~?」
悪戯っぽいニヤニヤとした笑みと共に放たれたその言葉が彼女のちょっとした冗談であることは青年にも分かっていた。
だが、青年は“酔っ払う”という状態に興味があった。普段大人しい父が怪物の如く豹変するアルコールとはどのようなものなのか、気にはなっていた。
勿論成年は未成年だ。だがそれを咎める者はこの場には居ないし、健康を気にして自分を大事にするという殊勝な心がけを青年は持たない。
だから青年は思いきって、青リンゴの描かれた黄緑色のラベルデザインの缶に手を伸ばし、プルタブを開け、一思いに煽った。
「うわ。本当に飲んじゃった……」
目を丸くした彼女を横目に、青年を缶を傾けてコクコクと喉を鳴らした。
味はリンゴジュースそのもので、どんどん飲むことが出来た。そしてとうとう一本丸ごと飲み終えてしまった。
「大丈夫?」
流石に彼女も心配そうに声を掛けた。
「平気です」
青年は落ち着いた声色で言葉を返した。
だが、平静を保てたのは少しの間だけだった。
青年はどうやらアルコールに弱い体質だったらしい。変化は直ぐに訪れた。
身体はぽかぽかと熱を持ち無性に高揚感に包まれ視界が揺らいだ。地震かと思ったが揺れているのは自分の身体だった。
これが“酔う”という感覚なのかと青年は纏まらない思考で納得する。
「ふわふわするんですね。酒って」
「顔あっか。完全に酔ってんじゃん」
「お姉さんと一緒ですね」
「うん、そうだね」
青年は何だか良い気分だった。モノを考える力は明らかに鈍っているけれども代わりに心地の良い感覚に包まれていた。
気付けば青年の口は言葉を吐き出し始めた。
「俺、人殺しなんですよ」
喋るつもりなど毛頭無かった筈なのに。
勝手に口が動いて、自分の事を若干呂律の怪しい口調で語っていく。
キャンプのことも、自分の心情も、父のことも。何もかも。
喋っている間も頭の隅っこでは己の客観視に努める自意識がいてそいつは“勝手に口が喋っているだけだから自分は無関係です”と謎の主張を行い、言葉が恥ずかしげも無く自分という人間を明かしていくのを看過していた。
全部を話し終わったとき、彼女は両手を広げて青年を優しく抱きしめた。
「なんで抱きしめるんですか?」
「抱きしめたくなったから」
「なんで抱きしめたくなったんですか?」
「君を慰めたくなったから」
彼女は青年の耳元でそう言って、青年の頭を撫で始めた。
「よしよし。君は可哀想だね。辛いね」
頭を撫でられている筈なのに心を撫でられている気がしてムズムズする。
青年は彼女の華奢な肩に顎を預けたまま反論する。
「そんなの求めてないです」
「いいや、君は同情を求めてる。僕には分かる」
「なんで」
彼女は青年から身体を離して、誠実さを示すように真っ直ぐな瞳で青年を見つめると、言った。
「僕も一緒だからさ」
悲壮感のある笑みと共に呟かれたその言葉。
疑う気にはなれなかった。
さっきから当に気付いていたのだ。
心が安らぎを感じていることに。
「よく恥ずかしげも無くそういうこと言えますね」
「僕の病んだ心はとっくに羞恥心をサ終したからね」
「一緒ならお姉さんも慰めてあげないと公平じゃ無いですよね」
「分かってんじゃん」
言い訳がましいことを言って今度は青年から彼女を抱きしめた。彼女を抱きしめると落ち着くからというのは流石に言えない。青年は彼女の柔らかな髪の毛を撫でる。
「よしよし。お姉さんは悪くないですよ。社会が全部悪いですよ」
「んふふふ~。そうだよねぇ。僕って可哀想だよね~」
「はい、可哀想です。とっても」
すると彼女も青年の頭を撫でる。
「君は何も悪くないよ。生きてて偉いね。頑張ってるね」
「……ありがとうございます」
それから二人は暫くの間、お互いの身体を抱きしめ合って撫で合って交互に傷を舐め合っていた。
やがて彼女は“大人の慰め方を教えてあげるよ”と耳元で囁いて青年の唇に自分の唇を重ねた。青年も為されるがままに受け入れて、二人は気付けば裸でベッドの上で交わっていて、青年に跨がった彼女が腰を振っていた。
切なげな表情で喘いでいる彼女に余裕の無い青年は懇願する。
「首を、絞めてください」
彼女は妖艶な笑みを浮かべて青年の首を両手で絞める。
勢いを増す血流。
鼓動を早める心拍。
死が迫る苦しみ。
青年は涙を流しながら笑う。
彼女に命を握られることは、こんなにも甘美だ。
やがて高校を卒業した青年は家を離れ、九州の大学へと進学した。学費や生活費は全て貯金とバイト代で賄っている。父の手を煩わせる気は微塵も無い。
彼女とは、一切連絡を取っていなかった。
電話番号も知らないしメッセージアプリでの繋がりも無かった。お互いに、お互いの人生の邂逅が一瞬であるからこそ価値を持つと知っていたからだ。
だから彼女を追う事の出来る痕跡は何も無い。
だが確かに彼女は青年の人生に爪痕を残した。
もしも望めるのならば、首を絞めてくれる恋人が良い。
青年の心は依然、歪んでいる。