カッコいい女に愛されるシチュ   作:もぐら王国

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フィフティーマナティー


妻に愛される

居間の壁に背を持たれかけて脚を伸ばした姿勢で座り、その私を椅子代わりに4才の愛娘が座る。娘が見つめるのは、私が娘を抱くように両腕を伸ばして宙に支え広げている絵本である。内容としては臆病な勇者が魔王を退治する旅の過程を描いたもので、いま開いている頁にも魔王城の番犬を務める三つ首の狼の絵とそれに挑もうと勇気を奮わせる勇者の様子を描写した文章が書かれている。娘はまだ流暢に文章を読むことが出来ない。可笑しい事には娘はその自分の未熟さが一丁前に気に食わないようで私に読んで欲しいとしょっちゅうせがんでくる。勿論我が家のお姫様の要望に応えるのは吝かでは無い。だから喜んで拝命して代わりに読んでやる。

「――――。」

頁の最後まで文章を読み終えれば描かれていた三つ首の狼が紙面から飛び出し、居間の空間を大型犬のように縦横無尽に駆け回り始めた。この現象は絵本に施された魔法の効果に依るものである。頁に書かれた文章は詠唱文の役割も持っていて口に出して最後まで読まれることで魔法が発動し、絵が自由に動き出すという原理。但し、もしも竜などが実物サイズで現れようものならば家の天井を突き抜けて読者は竜の下半身しか拝めないというつまらない状況にも為りかねないので、絵は大抵人間にとって都合の良いサイズ感で飛び出すし、実物に干渉することも出来ない。それでも動物好きな娘の興味を引くのには十分で、娘は私の膝上から降りると三つ首の狼を追いかけて家の中を楽しげに駆け回り始めた。一頁毎にこの有様だから絵本は遅々として読み進まない。だが、幻の命を吹き込まれたワンコと戯れる娘を眺めるのはこの上ない幸せであるから、そんなのは当然構わない。

“こんっこんっ”

微笑ましい足音に混じって玄関扉が軽くノックされる音を聞いた。私は絵本を脇に置いて立ち上がり玄関へと向かう。扉を開けると立っていたのは、白いロングスカートを履いて赤い毛糸のセーターを着たおばさまであった。

 

「こんにちは」

「どうもぉ。突然御免ねぇ」

「いえいえ」

 

面識はある。このおばさまは我が家の隣に店を構え雑貨屋をしているミスト婦人である。印象的なのは長い白髪を結ったお団子頭で、肩口に髪先が触れる程度の短さで髪を切り揃えている私とは大分違う。

 

「元気ぃ?」

「ええ、元気です」

 

目尻に皺を寄せて愛想の良い笑顔を向けながら物腰柔らかく喋るのは普段から店番として多くのお客さんと接しているからだろう。店には、度々訪れたことがある。お店の棚にはマグカップやスプーンと言った可愛い雑貨が並んでいてそこそこに繁盛している。だがもしもお客さんに“このお店の一番の目玉は何か”と尋ねたならばきっと“噂話”と答える者が一定数いる事だろう。ミスト婦人は大の噂好きなのである。それ故に婦人は暇さえ有ればお客さんに話しかけ、餌を集めるハムスターのように噂話をせっせと集め、またお返しとばかりに新たな噂を嬉嬉として提供している。その結果、お隣の雑貨屋が噂好きの集まる胡散臭い集会場の一面を帯びているのは、少々奇妙で可笑しな事実と言える。

そんなミスト婦人は最近手作り食品に嵌まっていて、ご近所だからと、パンやピクルスといった自信作を親切にも度々分けてくれる。今日もミスト婦人の片手には何かを包んだ黄色い布が提げられていた。

 

「これねえ。ジャム瓶なの。苺と蜜柑。美味しく出来たらお裾分けしようと思ってねぇ。受け取ってくれる?」

「勿論です。いつもありがとうございます。娘も喜びます」

「そーお? それは良かったわぁ」

 

私はミスト婦人からジャムを詰めた瓶が入っているのだろう布の包みを両手で受け取る。ミスト婦人の作るジャムはどれも酸味と甘味のバランスが絶妙で一級品と言える。娘と旦那も“美味しい!”と口にしていて婦人お手製ジャムは我が家では評判なのである。そんな素敵な贈り物をしてくれたミスト婦人は手ぶらになってしまったわけだが、直ぐに別れの言葉を口にすることは無く、黙って私の目を意味深に見つめていた。私もまた婦人の目を見つめ返して言葉を待ち、次いで婦人の背後に見える通りの石畳の道の上を一台の馬車が通っていく姿をさりげなく視線で追って更に言葉を待ち、ここに来てどうやら言葉を待っていたのは婦人の方らしいとようやく気付き、ならばと熱い期待にお応えして口を開いた。

 

「どうかされましたか?」

「いやね? これは単なる噂だから本当は言うべきでは無いのかも知れないけれど……でもねぇ。やっぱり貴方の耳には入れておいた方が良いと思うのよね……」

 

何やら言いにくそうに口をまごつかせるミスト婦人を見て、ちょっとした未来予知に成功した事を私は内心喜んだ。ミスト婦人が我が家にお裾分けをしてくださる際は大抵もう一つ“おまけ”として噂話をしていくので、今回もするだろうかと密かに予測をしていたのだ。魔物の誕生の起源を考えるくらいに意味の無いこの予想はどうやら当たりそうで無駄に嬉しい。ただ気になるのはミスト婦人が丁寧に断りを入れている点である。こういう時は大抵、下世話な噂話が続く。それを口にする姿が下品に思われたくないのか、婦人はいつも前もって理由を説明する。私は噂話に特別感心は無い。しかし人並みに興味はあるので礼儀正しくミスト婦人に尋ねる。

 

「どういうことですか?」

「その……とっても言いにくいことなんだけど……」

「はい」

「少し前からねぇ、アスラさんが夜の酒場に遊びに来て、あちこちで女の人と一緒にお酒を飲んで楽しそうにしてる姿を見たっていう噂が立ってるのよ」

「……?」

 

意表を突かれて私は間抜けにもぽかんと口を開ける。アスラとは旦那の名である。しかし旦那はここ三週間は家を空けているのでこの街に居る訳が無い。だがアスラと名の付く者は旦那以外この街には居ない。ならば噂のアスラは旦那と言う事になる。妙である。旦那は現在ギルドから要請を受けて街から遠い東の森の中に位置するリーザル村を襲うオークの群れの討伐に向かっていると聞く。雄しか生まれぬオークは発情を迎えるこの時期になると人間の村を襲って女性を攫い巣穴へと持ち帰り悍ましくも繁殖に利用するのである。旦那は恐らくこの鬼畜な豚頭の魔物を狩るのに精を出している筈であり、女と呑むために酒場に行くとは一言も聞いていない。そもそもの話として旦那は酷く子煩悩である。今から将来が思いやられるほどに娘を溺愛している旦那は依頼を果たしてギルドへの報告を終えるや否や真っ直ぐ家へと帰ってきて四六時中娘といちゃつくのを常にしている。その見事な腑抜けっぷりを見る限り他の女に構っている暇は全く無さそうなのだが……。

 

「でもねぇ。これはあくまで噂だから。事実では無いかも知れないし。真に受けない方が良いわよ」

「ええ。理解しています。興味深い話をありがとうございます」

「いいえぇ。それじゃあ私はこれで失礼するわね。またねぇ」

「はい。また」

「あ、今度は瓶詰めしたピクルス持ってくるからねぇ」

「楽しみにしています」

「それじゃあねぇ」

 

ミスト婦人はそう言い残し、身を翻し、通りをゆったり歩いて行った。玄関扉を閉めた私は居間に戻り背の低い卓袱台の上で布を解いて中から出てきた二つの瓶をとりあえず並べる。窓から差し込む陽の光を浴びて透明な瓶を彩る赤い苺ジャムと橙色の蜜柑ジャム。隣にやってきて「ミストおばさんの、じゃむぅ~!」と嬉しそうに目を輝かせる娘の柔らかな小麦色の髪の毛を撫でながら、頭の中では全く別のことを考えている。無論、噂について。火の無いところに煙は立たないという。私は「はあっ」と娘に聞こえないように小さなため息を吐き、面倒に思いながらも噂の真相を調べてみる事に決めた。

 

 

私はベッドの上で娘と共に横になっている。さっきまで、自分が子供の頃に祖母から伝え聞いた妖精の童話を夜のお供として娘にも話していたのだが、娘は途中で睡魔に負けてしまったようで、今はぐっすりと眠っている。娘は寝付きが良くて夜眠ると次の日の朝まで起きることは無い。外出するなら今が望ましい。私は娘のもっちりした肌の天使のように愛らしくあどけない寝顔を暫し眺めて満足した後、起こさないように慎重に布団から抜け出し、黒い外套を羽織って、夜の街へと繰り出した。向かう先はギルド本部の横の通りである通称『酒場通り』である。この通りには酒場が何店も軒を連ね、行商人や職人といった仕事終わりの者達で夜ごと賑わっている。噂が真実ならば旦那もどこかに居ることだろう――とは言っても、噂のアスラが本人だとは正直信じていない。勿論、三週間もの間家にも帰らず女と酒に溺れていた、などという事実が発覚したならば心底腹立たしいことではあるが、やはりあの旦那に限ってそんな目先の欲に溺れるとは正直考えにくい。だから今こうして酒場に足を向けているのも、噂の出所に対する興味だけで、それ以上の意味など有りはしない。

手当たり次第に酒場を訪れていく。大抵店内は丸テーブルが散在していて、それを囲むように座る客は麦酒や葡萄酒の入ったグラスを煽り上機嫌に顔を赤くしていて、更に店の隅では演奏隊が笛を吹いて弦を弾いて太鼓を叩いて陽気なリズムを響かせているから、店内は笑い声と音楽でどこも実に賑わっている。私は丸テーブルの間をすり抜けながら辺りを見渡して件の人物を探しつつ、カウンター席へと座り、手間賃とばかりに葡萄酒を一杯頼んでから店主に噂について尋ねる。この行為を何度か繰り返す。

次の事が分かった。

アスラと思われる人物は複数の酒場で目撃されていた。

いつも寄ってきた女を隣に侍らせて楽しそうにしていた。

支払いの際には自分が街の英雄であることを理由に随分と安く、もしくはタダにしてもらっていた。

これらの証言を聞いて私は噂の人物が本人では無いという確信を強める。特に三番目の事項が疑わしい。

確かにアスラは英雄である。彼は相当に腕の立つ剣士で、この街に来るまでは各地で用心棒をしながら気ままに旅をしていたらしい。そしてこの街に訪れた際はたまたま黒龍が街を襲撃していたときで、彼はたった一人で見事に討伐して見せた。だから私も含め街の人々からすれば英雄には違いない。しかしそれ程の実力者である彼の元には、高額な報酬金の約束された高難易度の魔物の討伐依頼が引っ切りなしに舞い込んできて、彼はそれらを次々に達成してしまうので、正直、我が家の貯蓄は貴族も目を見張るほどに膨れ上がっている。つまり酒場で支払いに躊躇するほどの金欠とは縁遠いのである。更に彼はあんまり気前の良い気質をしているので、お酒を飲んで気持ちよくなったならば、一緒に呑んでいた女の子のみならず周りのお客さんの分まで奢りかねない。よって噂の人物は旦那本人では無いと断言できる。しかしともすれば、誰かが旦那のフリをして旦那の名声を利用して甘い汁を吸っている、という新たな疑惑が浮かび上がる事になる。つまりどこかの碌でなしが、本来であれば旦那が享受する筈の街の人々からの好意を騙し取っているわけで、これは気持ちの良いものではない。犯人を捕まえなければならない。私は気持ちを新たにする。

『酒場通り』の終点で噴水広間と合流する曲がり角の隅にまだ訪れていない酒場を私は見つけた。入口扉の前に立つ。扉の隙間から店内のランプの橙色の明かりと喧騒が漏れ出ている。それより関心を引いたのは入口扉の横に置かれた植木鉢で、珍しいことにマンドレイクが植えられていた。髪の毛のように緑の葉を茂らせ、人型の赤い根っこの上半身を土から覗かせ、植木鉢の曲線を描く縁に両手を添えて、こちらをじっと見上げている。店主の趣味なのかもしれない。

私はマンドレイクに軽く挨拶をしてから扉を開けた。店内は他の酒場同様に丸テーブルがあちこち置かれ酔っ払いで賑わっていて、私はその間を縫うように歩き進んで横長のカウンター席に座り、スキンヘッドに顎髭を生やした強面の店主に麦酒を頼みながら「アスラは来たことがありますか」とついでに訊いた。今日だけで何回も繰り返した手順である。「あるよ」この返答も聞き慣れた。「いつ来ましたか」この質問に店主は言葉を返さず、代わりに店内の一角を指さした。私は“おや”と目を見開き、指の指し示す方向を振り返る。壁際の丸テーブル、そこにアスラと容姿がそっくりな男と見知らぬ町娘三人が肉料理の並んだテーブルを囲んで楽しげに談笑していた。ここに来て私はついに犯人の尻尾を捕らえたらしい。私は店主に礼を言って立ち上がり、カウンターにお金を置いて、つかつかとそのテーブルに歩み寄る。男は近づいてくる私の姿に気付くと、相当に驚いたようで、ぎょっと目を見開き、弾かれたように立ち上がり、脱兎の如く店内を駆け抜け、あっという間に店の外へと出て行ってしまった。そして遅れて聞こえた耳をつんざくような悲鳴。男の後を追って店を出た私は石畳の上に転がる憐れな男の姿を見る。男はマンドレイクの伸ばした細くて丈夫な根によって手足を拘束され、体勢を崩され、両手は頭上に縛り上げられていた。“なるほど”と私は植木鉢を見下ろす。この植物はつまり無銭飲食の客が逃げぬよう監視の役割を担っていたのである。人間よりもずっと小さな生き物であるというのに、とっても優秀だ。

真面目な根菜の監視員の仕事ぶりに感謝しながら私は地面の上でのた打つ男に近づき両脚で胴を跨いで仁王立ちで見下ろした。男は唇を引き結び緊張した面持ちで私を見上げる。その姿――獅子の鬣のように乱雑に跳ね回る小麦色の髪、全体的に彫りの深い顔立ち、野性的な濃いめの眉の陰で輝く青い瞳、切り立つ峰のような鼻に口周りに生える雄々しい髭。見れば見るほど旦那にそっくりで私は呑気に感心してしまう。大柄で布服を押し上げる筋骨隆々な体型までも一緒と来れば、まるで分身のように思える。しかしこうして対峙したことによって私は同時に確信も得る。やはりコイツは偽物だと。この男からは、旦那が平常纏う内側から溢れる自信に縁取られた圧のある存在感というものが微塵も感じられないのである。旦那が熊だとすればこの男は兎が相応しい。つまり明らかな別人である。

 

「どうして逃げたの?」

「そ、それはだな! やはり、い、家にも帰らず酒場に入り浸っている事を知られたら、お前に怒られるだろうと思ってだな……」

 

男はどもりながらも訳を説明する。どうやら旦那が

家を空けていることは知っているらしい。追求してみる。

 

「ギルドの依頼は無事に終わったの?」

「ああ、もちろんだ」

「今回はどこだったっけ?」

「あ、え、えーっと……に、西の方の……いや北だったか……?」

「何を討伐してきたの?」

「すぅ、それはぁ……ハーピィ……とか……ケルベロス……とか」

 

残念ながら、東のリーザル村にてオークの群れを討伐したという正確な回答は得られなかった。しかしこの男が動揺して目を泳がせている様を見るのはなかなか愉快である。旦那のここまで情けない表情を見れるのはそこそこに貴重だ。

 

「貴方、“アスラ”じゃないでしょ?」

「はっ何を言う! 俺は正真正銘“アスラ”だ! 街を救った英雄だ! この姿が何よりの証明だ!」

「そうかしら」

「なんて悲しいことだ……お前は久々に会った旦那の顔を忘れたと言うのか……」

「まさか。覚えてるわよ」

「分かった! もういい! それよりもだ! 俺は今、食い逃げと間違われて拘束されてしまっている。お前から店主に勘違いだと説明してくれないか?」

「あの人は私の事を呼ぶときは名前で呼ぶのよ」

「……?」

「“お前”じゃなくて“フレン”。詰めが甘かったわね」

「っっ!?」

 

男は如何にも墓穴を掘ったとばかりにみるみる顔を青くする。この辺りで良いだろう。私は男を苛めるのにすっかり満足して周囲を見渡す。私達から一定の距離を取って観衆がぐるりと取り囲んでいた。逃げ出した酒場の店主や客のみならず、他の酒場で飲んでいた筈の客達も集まっている。どうやら街の有名人である男とその妻が何やら言い合いをしているという騒ぎを聞きつけて、酒の肴にしていたらしい。大変結構なことだ。だが見世物はそろそろ終わりだ。私は最後に男に尋ねる。

 

「信じて欲しかったら私の質問に答えてみて」

「な、なんだ」

「旦那が仕事を終えて久しぶりに家に帰ってきたら絶対する事が三つあります。それは何?」

「はあ? そんなの分かるわけ……いや、そうだな。うん、稼ぎを見せることだな。お金は大事だからな」

「はい。さようなら」

 

正直この答えは私にとっては恥ずかしくもあるので知られていないで良かった。私は再び辺りを見渡す。

「みなさーん。この人は“アスラ”の偽物でーす。本物より声が少し高いし、有るべき筈の傷も見当たらないし、妻である私の質問にも答えられませんでしたー。この人は街の英雄“アスラ”のフリをした全くの別人でーす」

 

夜の酒場通りにそのように判決の声を響かせてから、私は帰路を歩き出す。最初の二つの事項はまあ、出鱈目ではある。だが、大事なのはあの男が本物では無いことを観衆に信じて貰うことであり、多少の嘘は神も見逃してくれるだろう。私は石畳を歩きながら、ふと後ろを振り返る。丁度男が屈強な店主の手によって盥に入った薬品入りの液体を全身に浴びせかけられた所で、濡れた男の全身からもくもくと白い霧が発生し、それが晴れると、旦那とは似ても似つかない細身の男が姿を現した。私は家路を急いだ。

 

翌日の夕方前。娘は居間の床の上に騎士や姫や馬や魔物の人形を並べて遊んでいて、台所に立つ私は夕食のパイを作るべく木板の上に置いたパイ生地を麺棒を用いてまあるく伸ばすことに奮闘していた。

がちゃり。突然に玄関扉の開く音がする。私は反射的に振り返り、立ち上がった娘が「パパー!」と歓喜の声を上げながら玄関方向へ駆け出したのを確認する。とすれば次に聞こえるのは

 

「たっだいまぁエリ~ネちゃぁ~ん!!」

 

――やっぱり。男の甲高い猫なで声。予想通り過ぎて私は思わず苦笑する。無論、無事に旦那が帰ってきた事に安堵したからという理由も否定はしないでおく。私はパイ作りを一旦中断して久々の旦那の顔を拝みに玄関へ向かった。旦那がくるくる回っていた。両脇を太い両手に支えられて小さな身体を宙に浮かせられた娘も旦那を中心にくるくる一緒に回っているから、きっと興奮して飛び込んできた娘を受け止めた勢いのままご機嫌に回っていたのだろう。呆れた視線を送る私に気付くと旦那は、動きを止めて娘を降ろし、私に微笑んだ。

 

「ただいま」

 

私も微笑み返す。

 

「おかえり」

 

この時こそ私が最も強く神に感謝の念を抱く瞬間と言える。魔物の討伐は安全とは言い難い。もしも私と娘を残して先に死のうものなら墓を暴いて死体をぶん殴る所存である。流石に死体を殴るのは私でも良心が咎める。だから、絶対に死なないで欲しい。

旦那は金属光沢のある胴鎧の上に若草色のマントを纏って革製の長ズボンという、家を出た時と同じ装いをしていた。どこかに目立って破れた箇所も見当たらない。怪我はしていないのだろう。

妻からの点検が終わったと見るや否や旦那はしゃがんで娘と視線の高さを合わせ、そのむさ苦しい髭面を破顔させる。「エリーネ、ただいま」そう言ってぷくぷくの頬にキスをする。すると娘も“うひひ”と笑って「パパ、お帰り」とざらつく頬にキスを返す。すると旦那は愛しの娘からのキスに嬉しくなってまたキスを返す。すると大好きな父親を喜ばせるために娘はまたキスをする。そうして完成するのが“ちゅっちゅ、ちゅっちゅ”の半永久機関――これこそが、昨晩偽物に尋ねた、旦那が仕事を終えて久しぶりに家に帰ってきたら絶対する事の内の一つである。旦那は私が止めるまで飽きもせず娘にキスをし続けるのである。しかし放っておくと二人は疲労でやがて死んでしまうかもしれないので、私は冷酷に止める。

 

「もう流石に良いでしょ」

 

旦那は自慢げにニヤけて私に顔を向ける。

 

「フレンも羨ましいんだろう?」

「言ってないわよ」

 

旦那は娘に視線を戻す。

 

「ママもやってほしいって」

「だから言ってない」

「やるー!」

 

意気込んだ娘を抱き上げた旦那は私の真ん前に立つ。そうして二人して顔を近づけてきて、左頬にかさついた唇が、右頬に柔らかな唇が触れる。顔を離したとき、任務を達成した旦那と娘はよく似た笑みを浮かべる。

 

「嬉しそうだな」

「はいはい」

「ママ、にやにやしてる~」

 

別にそんなことはない。

 

 

 

旦那は居間に入ると“家に帰ってきたら絶対する事”の二つ目をすぐに実行する。娘へのプレゼントである。娘もそれを知っているから旦那を期待した眼差しで見上げている。これについて旦那は、長い間家を空けて寂しがらせた事に対する謝罪だといつも口にするが、それは全く建前で、単に娘を甘やかしたいだけだろうと私は疑わざるを得ない。旦那は娘に甘い。甘すぎて溶けて頻繁に威厳を無くす。娘を前にした旦那を他人が見たら良く似た別の熊だと勘違いすることだろう。残念ながら元英雄である。そんな旦那の娘への貢ぎ物は色々。人形やらお菓子やら今まで数多くの贈り物が娘に贈られてきた。さて、今回は何なのか。

 

「はい、これどうぞ」

「ありがとう、パパ!」

「どういたしまして」

 

一体どこに持っていたのか鎧の裏にでも隠し持っていたのか、旦那は娘に一本の笛を手渡した。それは手を広げた大人の親指から小指までの距離より少し長いくらいのもので、穴は七つ、表面には美しい木目の波紋が浮かび上がり、穴の間を縫うようにして走る二本の赤い曲線が蛇のように絡み合って見事な装飾を施していた。

 

「これなにぃ?」

「竜笛さ」

「りゅうぶえ?」

「そう。ずっと北の山奥に暮らす“ダアル”という民族が竜と交流するために使う楽器だ」

「へえ~っ」

 

しげしげと手元の笛を見つめる娘をよそに、私は目を見張る。噂には聞いたことがあったが、実物は初めて見た。

竜は、魔物とは一線を画す存在で、神に最も近い生物とされている。その神秘性は実に魅力的で吟遊詩人の語り草にはいつも引っ張りだこで、だからその竜と交流を持つ“ダアル”なる民族も人々の憧れが生み出した架空の民族とばかり思っていたのだが――興味を持って笛を見つめる私の視線に気付いたのか、旦那が口を開く。

 

「村でたまたま出会った行商人が売っていてなぁ」

「これは“ダアル”の竜笛だって?」

「その通り。これは“ダアル”の竜笛だと声高々に爺さんが言っていた」

「自信満々に?」

「曲がった腰を反り返らせる程に」

「じゃあ、本物ね」

「ああ、本物だ」

 

微かに笑みを浮かべあっての短い会話を通じて私達夫婦は一つの秘密協定を結んだ。それは娘が手にした“ダアルの竜笛”を“ダアルの竜笛”として扱うという約束である。娘の笑顔のために締結された決まりであり如何なる理由があろうと破ってはならない。噂も信じれば真実となる。それがもたらした幸福も真実に違いない。

娘がおずおずと笛を咥え、息を吹き込む。

 

びょおおおおおぉぉぉぉ

 

鷹のそれとはまた違う、凜と深みのある響き。竜の鳴き声を模したと呼ばれるその音は確かにどこか頭を垂れたくなるような荘厳さを纏っている気配がした。

 

「やったあ! ふけた! ふけたよパパ!」

「うん。上手だ」

「りゅう、くるかな?」

「どうだろうな。“ダアル”は見事な曲を吹いて竜を呼ぶらしい。だからエリーネも、もっと上手に吹けるようになれば竜が来てくれるかもな」

「ほんとに!?」

「ああ」

「じゃあ、わたし、もっとれんしゅうするっ!」

 

まだ見ぬ竜との邂逅に期待を膨らませた娘は目を輝かせて張り切る。私はこれから暫くは娘の奏でる音で家が賑やかになるのだろうと思って笑った。

 

 

それから時間が経って夜になる。娘はあれから散々笛を吹き鳴らし夕飯を食べて旦那と遊んで疲れて果て、今はすっかり眠っている。私も夫婦の寝室のベッドの上で旦那と並んで横になっている。旦那と身体を反対側に向けているのに大した意味は無い。身体を横にしないと寝られない性質なだけである。

暗い静寂が部屋を満たしている。不意に。布擦れの音が隣から聞こえて、背後から逞しい腕に抱きしめられる。耳元で吐かれた微かな吐息から雄の情欲を感じ取る。

 

「……なあ」

「なあに?」

「駄目か?」

「疲れてるんじゃないの?」

「それとこれは別だ」

「なによそれ」

 

私は自分の口角が緩んでいるのを自覚している。

 

「……今したいんだ」

 

つまりこれが“家に帰ってきたら絶対する事”の三つ目と言うことである――性交。旦那は魔物の討伐という命の危険が伴う依頼の帰りなどはすっかり身体が昂ぶってしまって眠れないのだという。命の危機に瀕した身体の欲求に従って子孫を残そうと奮闘する旦那のその健気さは安全が完全に約束されたベッドの上ではどこか滑稽で可愛らしい。無論、拒絶する気は毛頭無い。

私は身体を翻し返事の代わりに、その唇にキスをする。唇を離せば互いに吐息が触れ合う距離。旦那が熱の籠もった視線で私を見つめてくる。私も見つめ返す。優しい目。皺のある肌。触れ合う鼻。本物が偽物の記憶を呼び起こす。そうか、この人は昨日まで“アスラ”を名乗る自分の偽物がいた事など全く知らないんだなあ。私はふとそう思って、何だか可笑しくて笑ってしまった。

 

「何か変なことでもあったか?」

「いいや」

 

私はそう言って旦那の分厚い身体に抱きついた。心地よい体温の温もりと嗅ぎ慣れた臭いとあらゆる事から守ってくれると信じられる圧倒的な抱擁感。

やはり本物(旦那)は良いものだ。

そう思った。

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