ハチドリが鍵を渡すまで   作:しゃくなげ

1 / 4
ハチドリが鍵を渡すまで

 鉄錆の臭い、全身の痛み。

 激情はなく、絶望もなく。

 ぼんやりと、天を仰いだ。

 

 月星が見えない夜空は、どこまでも続いている。

 覗き込んでいると、そのまま落ちてしまいそう。

 身体がどんどん冷えていくのは、失血のせいだ。

 歪んでいく視界に、薄れていく景色に理解する。

 

 これは、私の記憶ではないのだ、と。

 

 

 人類最後のマスターは、鍛錬を厭うことはない。

 黙々と、淡々と、与えられる課題をこなし続ける。

 文句の一つも口にせず、不平を漏らすこともない。

 ただ、少しズレている。

 致命的なズレが、彼には存在する。

「四番、八番……ああ、これから七番に繋がるのか」

 踏み込み、打ち、掴み、捻る。そのまま一拍も置かず、重心を崩すと同時に対象を持ち上げ、身体を捻って真下へ落とす。

 一連の流れは一呼吸すら挟まない、身体に染み付いた動きであった。

「ケイローンのパンクラチオン、わかりやすくて良いね。時代が時代だからかな、とても実戦的だ」

 敵性個体の消滅を確認しながら、静かな感嘆の声をあげる。

 そんなマスターの様子を見ながら、ひとりのサーヴァントは不愉快そうに眉を寄せていた。

「マスター、サーヴァント戦ではもっと後方に。いくら礼装や援護があるといっても、アナタはただの人間です、よ」

「差し出がましいようですが、トラロックさんの言葉には私も同意します。特異点の修正はマスターである先輩が要なのですから、戦いは私たちに任せていただけると……」

 指摘をするのは、トラロックにマシュ・キリエライト。

 前者は不満をぶつけるように、後者は意見を伝えるように。

 己と契約したサーヴァントを見やる黒い目は、どこかぼやりとしている。

「わかっているよ、対人用の技術でどうにもできない時は任せてるだろう。教わったことを試したかった、それだけさ」

 優等生のようでいて、どこかズレている。

 その一方で、彼は言葉通りに引き際というものを見定めて動いている。連携が取れていないわけでは、ないのだ。

「確かに、ケイローンさんの教室は、わかりやすくてためになると思います。私も、通ってみるべきでしょうか」

「素手の格闘術がシールダーのクラスに役立つなら、悪くないんじゃないか」

 マシュにはまだ、彼の異質が見えていない。

 にこやかな笑みを浮かべて、懐いた犬のように意見を口にするほどには、先輩というものを無条件に慕っている。

「そういう話ではないと思いますけれど、ね」

 だから、というのも妙な話ではあるが、彼の手綱を引くのは専らトラロックの役割であった。

「連携は取れているだろう、問題ないと思うよ。ヒト型なら、今の三手で始末できる。多くても、四手だ」

 不思議そうに、彼は言う。

 悪びれることもないその表情が苛立つのは、なぜだろう。

 自分の奥歯を噛む音を聞きながら、トラロックは膨れ上がりそうになる感情を押し殺す。

 この男は、こういうものだ。言って聞かせるのも面倒臭い、キツい仕事はしたくない。

 そうやって、自分に言い聞かせる。いつものように、日課のように。

「呆れた人です、ね。アナタが強くなる必要など、ないというのに」

 いつもと変わらない言葉への、返答は。

「そうでもないさ、理由も必要もあるんだよ」

 いつもと変わらない、淡々としたものだった。

 

 人の住まう都市はみな、焼き尽くされて消え失せた。

 星の全てが焼け落ちた、民など一人も残りはしない。

 なぜ自分が召喚されたのか、トラロックにはわからない。

 ただ、わかることが一つある。

 己を喚んだ神官は、都市が都市として在るために不可欠なものだった。失われたはずの民を取り戻す、最後の要石だった。

 だから、彼を死なせてはならない。要石を崩してはならない。

 ████████にとって、それはとても大切なことだ。

 守られることもなく消えてしまった都市は、そこに住まう数多の民は、要石が失われてしまっては取り戻せない。トラロックにとっての人理の修復は、そういうものであった。

 酷く苛立つのも、そのせいだ。

 要石は敵を見て、自ら討とうと前に出る。己が命の重要さを、一つも感じていないように。

「オセロメーでもあるまいに、人間が戦おうなんて愚かしいことです……ね」

 かつてと今では、あまりに違う。

 都市のあり方も人々のあり方も、なにもかもが違っている。アステカの頃とはまるで別物のように、穏やかな時代になったのだ。

 心臓を供物に捧げることも、毎日のように戦さ場に向かうことも、笑いながら死ぬこともない。個人が戦士であろうとする時代など、とっくに忘れ去られている。

 平穏の時代において、彼は異質だった。

 不要なはずの闘争に向けて、不要なほどの鍛錬を重ねる。不平不満を口にすることはなく、だからといって楽しんでいる様子もない。

 そういう意味では、戦乱の世であっても、彼は異質だったかもしれない。

「……オセロメーに失礼です、ね。目的もなく戦うのは、戦士とは言えない。あんな戦い方をして、怪我をしたらどうするというのか」

 むすくれ、トラロックはひとりつぶやく。

 神官と認めた要石を、とにかく、否定してこき下ろしたい。そういう欲求が、ぐるぐると頭の中で渦を巻いている。彼を肯定してはいけないと、直感めいたものが告げているのだ。

 民が増え、住まい、営むことで、都市は初めて都市になる。そのための、要石。彼を死なせてはならないのに、勝手に前に出てばかり。

 だから苛立つのだと己の考えをまとめたところで、部屋の扉が滑らかな動作音と共に開く。見れば、要石がそこにいる。トラロックの眉が、ほんの少しだけ寄せられる。

「いたのか」

「いますが。不満でもあります、か」

「いや、特には。食堂にいるのかと」

 やり取りは短くて、関係は曖昧。

 部屋に立ち入ることを拒まれはせず、好きに振る舞うことを許可されている。恐らく、きっと、拒む理由がないというだけで。

「不敬なやつ」

「なにがさ、いつも食堂にいる時間だ」

 要石は、感情の機微に疎い。言葉を受け取っても、大抵は解釈を間違える。

 それがまた、トラロックにとっては不満だった。自分への興味が薄い、感動も薄い、諸々の反応がことごとく、どこをとっても淡白で気に入らない。

「そういうことではありませんが、アナタにはわからないでしょう、ね」

 修正した特異点は、既に五つ。

 だというのに、いまだに関係は変わらない。

 彼と我の間の溝は、いつまで経っても深くて暗いものにみえた。

 

 旅路の最中、要石を守るのはサーヴァントに課せられた使命だ。

 肉体を持つデミ・サーヴァントでは叶わない不眠不休の番人を、トラロックはどんな時でも買って出る。

 獣も人も眠りに落ちる真夜中に、要石の寝顔を眺めるのがいつしか日課になっていた。

「戦士でもないくせに、ね」

 昨日も、今日も、彼は前に出続ける。

 鍛えた肉体を試すように、磨いた技を試すように。日々の戦いにおける姿は、まるで自分自身の性能を確かめているようにみえる。

「そんなになるまで戦い続けて、守りたいものでもあるのですか」

 問いかけに、答えは欲していない。

 トラロックは、自分の中で渦巻く感情の落としどころを探しているだけだ。

「激情もない、意志もない、怒りも悲しみもまるでみえない。アナタの戦いは、戦士のそれではない。守りたいものがあるようにも、思えない」

 語りかける声は、静かなもの。夜の森に溶けていく、焚き火の音よりもなお、小さい声。

「人生は」

 だから、返事があるとは思わずにいたせいで、思わぬ言葉にトラロックの肩が跳ねた。

「……起きていたのです、か。いえ、起こしてしまいました、ね」

 寝起きに特有の曖昧な声。要石の瞳は、いつものようにぼやりとしていた。

「僕の人生は、敗北から始まった。……おまえは、知ってるんじゃないか」

 ぎゅうと、内臓を掴まれたように胸が苦しくなる。

 見透かされていた悪事をわざわざ指摘されたかのようなこの感覚は、たぶんきっと、羞恥心だ。

「まあ、どっちでもいいさ。僕は、それを塗り潰したい。強くならないと、前に進めないところにいるんだ」

 要石の視線は、天を仰ぐように移動する。

 今日は星が見えると、誰にでもなくつぶやきながら。

 そうでない空を見ただろうと言外に指摘されているような気になって、トラロックは視線を逸らす。

「寝直すよ、嫌な夢を見ないように」

 要石は寝返りを打つと背中を向けて、それきり何も言わなかった。

 

 強くなりたいとは、違う。

 強くならなければ、前へと進めなくなった。

 いつかの夜に聞かされた、要石の抱えるなにか。

 ████████は今も、夢を見た。

 断片的で空虚な夢を、要石の過去を見た。

 寝覚めは酷く不愉快なもの。鉄錆の臭いと焼けるような痛み。なにより、そこにあるはずの心の揺らぎを一つも感じられないことが、無性に腹立たしい。

 自室を抜け出し廊下を歩み、扉を開けて、その奥へ。

 暗い闇の中にある、要石の姿を求めて。

「起きています、ね」

 トラロックは、呼びかける。

 返事があると、確信を抱きながら。

「今さっき、起きた」

 扉が閉じる音と共に、曖昧ではない声がトラロックに向けられた。

「なぜ来たか、わかるでしょう」

 シーツの擦れる音を立て、要石は身体を起こす。

 黒い瞳が闇の中で、トラロックを見つめていた。

「見たのかい」

「見ました」

「文句を言いに?」

「違います、よ」

 会話はそこで途絶える。

 沈黙は気まずくはないが、トラロックにはいささか不愉快なものだった。

 要石は、踏み込むことを拒んでいるようにはみえない。ただ、手を差し伸べようともしていない。

「……違います、ね。もう、アナタは話していました」

「……話が見えない」

「気にしないように。……寝覚めは、悪くありませんか」

「どう、だろうね。おまえが見ているのは、なんとなくわかった」

 不思議と、悪い気はしない。

 そんな自分の心境に、トラロックは眉を寄せる。

 機嫌を良くしてどうすると、自らを戒めるように。

「……敗北というのは、あれです、か」

「そうだ、僕の一番古い記憶さ。……水をもらえるかな」

 求められるままに、トラロックはグラスを運ぶ。

 冷えた水を飲み干して、要石は一息をついた。

「おまえの言う戦士は、そういう過去を持たないのかな」

「いいえ、オセロメーとて常勝不敗の戦士というわけではありません。敗北する戦士も、敗北したことのある戦士も、います」

 要石は、なにも言わない。

 暗闇の中に身を置いて、トラロックの言葉に耳を傾けている。

「ただ、彼らには、戦士としての心がある。守るためでも、奪うためでも。興奮であったり、恐怖であったり……愛、も……きっと、あるのでしょう、ね」

「僕には、そういうものが見えない。それが、おまえを苛立たせるのか」

「……そうかもしれません、ね」

 トラロックにすら、確信は持てなかった。

 あの夜までは、要石が戦士ではないことを異質に感じられた。

 今はもっと、別のなにか。戦士ではない身の上で、必死になる理由がみえたから、余計に。力を求める理由に納得してしまうから、心がざわついている。

 対象がない怒りは、時間の経過を経てもなお、渦巻いている。

 トラロックはその感情を御しきれず、困ったようにため息を漏らした。

「……違う、いいえ、違います、ね。私は、どうして。その理由がわからないのが、最近の悩みです。だから、違います……アナタが悪いわけでは、ない。アナタに苛立っては、いないのですから」

 渦巻いている怒りの理由は、明日のように見通せないままだった。

 

 会話は、さほど多くない。

 ただ、聞けば答え、聞かれれば答える。そのくらいの関係性はできていた。

 だからこそ、もどかしいとトラロックは思う。

 焚き火を囲む合間でも、食事をする時間でも、鍛錬の最中でも。

 要石が視界にあるだけで、胸の内がささくれ立つような感覚すらあった。

 結局のところ、サーヴァントであっても未知というのは気持ちが悪い。

 要石がわからないから、要石を知らないから、苛立つのだ。

 トラロックはそう結論づけて、対話を試みることにした。

 時間の隙間を縫うように、要石の人となりを知ろうと言葉を交わす。

 いつしか、それが二人の日課となっていた。

「マスター」

「十五分なら」

 まだるっこしいやり取りは、不要だから端折られる。

 何度も夜を越え、朝を迎えた間柄だ。短くとも、会話は通じた。

 鍛錬前のわずかな時間。礼装に身を包む要石は、準備の手を止める。曖昧なように見えて、その目はトラロックを真っ直ぐに見つめていた。

「アナタの故郷は、どんなところでした、か?」

 思えば、それを聞いたことはない。

 ████████にとって、その質問は、重い。

 生まれ育った故郷、土地。それこそ都市のことを聞くのは、緊張する。

 辛い過去があっても、故郷は美しく、良いものだった。

 そういう言葉を期待する反面で、複雑な気持ちもある。

 自分を褒めていないのに、別の都市を褒められるのは、複雑だった。

 だから、

「わからない」

 そんな言葉を聞かされるとは、夢にも思わなかったから、

「は?」

 トラロックの思考は、完全に、止まってしまっていた。

「だから、わからない。僕は█████████」

 要石の言葉は聞き取れても、心というものが理解を拒む。

 要石は異質であると、今一度、はっきりと突きつけられたようだった。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉が上手く見つからない。

 おかしいと、████████は思う。

 それは違うと思う心が、口から少しずつこぼれていく。

「そんなこと、あっていいはずが、ありません。だって、アナタ、それでは、全て終わっても、アナタの帰る場所は」

「そうだ。僕には、そういう場所はない」

 ぷつんと、理性の糸が切れる。

 およそ、予想はできていたのに。今までの対話から、察していたのに。

 どこかで冷静な自分の言葉を聞きながら、トラロックは感情を爆発させた。

「ああ、もう、あったまきた! なんですそれ、なんなんです、か! 戦士でないのはいい、今はそういう時代ではない、わかります。戦士でないのに、アナタは、これだけ戦っておきながら、帰る場所がないのですか!」

 面食らった要石の表情を見て、形のない怒りがまた込み上げる。

 誰にも話していないのだと理解して、今度こそ歯止めが効かなかった。

「いいですか、アナタのやってきたことは、アナタを産んだものは、今の時代で戦士の器を作っている。理由は知りません、聞きません、知りたくもない」

「トラロック」

「戦士は、帰らなくてはならない。戦場から、故郷へ、都市へ、安らげる場所へ。私は、アナタが、そういうものを取り返すために、守るために戦っていたと思っていた」

 だから、見ないふりをした。会話の端々から感じる異質から、目を背けた。

 これ以上は、踏み込んでいい領域ではないから。

 触れて欲しくない場所は、誰にだってあるものだから。

 そう思っていたからこそ、胸を掻きむしりたくなった。

「だというのに、なんで、どうして、ないの! 追放されたものが、戦士として戦ったのに、アナタを誰も迎え入れないのですか!」

 戦士に守られることなく消えてしまった、アステカの都市。世界で最も美しいと自負している水上都市、テノチティトラン。

 戦士の帰りを待つ場所にとって、守るために戦いながら、帰りを受け入れられない戦士などあっていいはずがない。

「トラロック」

 二度目の呼びかけは、静かな声。

 濡れた頬へと触れる指は、ぎこちなくも優しかった。

「いいえ、違う、違います。私は、違う。トラロックでは、ないのです、よ」

 特異点を修正し、人理を修復して、要石は何処へ行くのか。

 それが見えてしまった今だからこそ、隠す理由はなくなった。

「トラロック神にウィツィロポチトリ神、二柱を祀るアステカの都。なにより、戦い抜いた戦士が帰る安住の場所。──伝えましょう、我が名をアナタに。我が真名は、テノチティトラン。私のマスター、故郷を持たぬ戦士、私だけのトラマカスキ」

 触れて、見つめて、言の葉を紡ぐ。

「もはや、なぜとは聞きません。これはただ、私のわがままです。アナタを戦士として認める一方で、私は、アナタの状況を許せない。戦い続けた戦士のアナタに、帰る場所が、故郷がないなど、あってほしくない」

 真名を明かし、テノチティトランは要石を瞳に宿す。それから一拍の間をおいて、ゆるく呼吸を挟んだあと、

「私は、アナタが帰る場所になりたいと思っています、──」

 慈しむように、初めて、その名を口にした。

 

 

 氷解するのが一瞬なら、育むにはどれだけかかるだろう。

 その答えは知らなくとも、今までのような苛立ちはない。

 すべてを知ったわけではないけれども、つながりはある。

 だから、それでまったくいいのだと、素直に思えるのだ。

 それはそれとて、テノチティトランは不機嫌な顔でいた。

「なぜ呼び出されたか、わかります、ね」

 要石をじとりと見上げて、わざとらしいため息を漏らす。

 己が戦士を見る目は、今までとは少しだけ変わっている。

 理由の見えない苛立ちではなく、理由の見える苛立ちに。

 つまりは、相変わらず自ら戦いを選ぶ姿に、怒っていた。

「アナタが帰る場所は、どこです、か」

 あの日を境に距離感が変わったと、本人たちも思っている。

 カルデアの中でも、何人かには冷やかされるほどに近くなった。

「……テノチティトラン」

「聞こえません、よ」

 要石の声は、普段の態度が鳴りをひそめたように小さい。

 彼も彼で、これから自分が怒られるとわかっているのだ。

 つまり、これは、要石ができる精一杯の抵抗なのである。

「テノチティトラン」

「それなら、前に出過ぎない。帰る場所があるというのに、どうしてアナタは、まったく。……何度目ですか、このやり取り」

「十を超えてから、数えてない」

 形の良い眉を寄せて、テノチティトランがじとりと睨む。

「……反省はしてる、つもり」

「しているなら、繰り返しませんよ、ね?」

 言い訳を封じられて、それきり要石は押し黙った。

 ぐうの音も出ないとばかりに、無言。表情の変化こそ乏しいものの、彼が参っていると、テノチティトランだけは見抜いている。最近は、そういうものが見えるようになってきた。

「毎回、言っていますが。私は、アナタを責めたいわけではありません、よ。……怪我をされては、困ります。傷付かれるのは、嫌です。民を守るのは、都市の喜びなのですから、ね」

 言って、テノチティトランはそうと触れる。

 戦士に、神官に、無事でいてと言外に伝えるように。

「……次はもっと、気をつける。心配させて、悪かった」

 手のひらに頬を寄せて懐く姿は、誰も知らない要石の一面。

 まつ毛を伏せて、視覚ではなく触覚で。

 五感のすべてで求められているようで、心地良い。

「そうです、私のトラマカスキ。息災であってください、ね」

「トラロック」

 まぶたを開き、要石が呼びかける。

 真名を知った後でも、彼は頑なにその名を呼んだ。

「なんですか」

 とはいえ、テノチティトランは咎めない。

 真名で呼ぶ時は、要石はきちんと呼ぶ。

 今はそういう時ではないと、彼が判断しているだけだ。

「不思議だ、とても。おまえの声が、心地良い」

 手と手が重なり、頬から耳に熱が沸くのを感じる。

 悔しいと、冗談めかしてテノチティトランがつぶやく。

 声色は柔らかく、優しい。いっそ、喜んでいるかのように。

「叱れなくなります、ね。アナタ、意外と狡い男です、よ」

 くすりと、小さな笑い。

 狡い男でも、まあいいか。たった一人の民を見上げ、都市は思う。

 少なくとも、安堵している。

 要石の安息の地であると感じられるのが、嬉しかった。

 

「トラロック」

「なんですか」

「その格好の時は、ウィツィロポチトリと呼ぶべきかな」

「どちらでも構いません、よ」

 やり取りは、静かで、他愛のないもの。

 当世風の衣装を着て、テノチティトランは上機嫌に振る舞っている。

 食堂でのランチの時間、座るのはいつだって、要石の隣の席だ。

「仲睦まじいのは結構だがね、マスター。風紀だとか節度だとか、そういう諸々を指摘されても私は助けられないぞ」

 通りすがりの弓兵の言葉も、テノチティトランには届かない。

 むしろ、より身体を擦り寄せて、密着してみせるほどだった。

「これで良いのです、よ。マスターは、私を故郷と定めました。安住の地から離れては、戦士の心に癒しが訪れませんから、ね」

「まあ、風紀も乱していないし、節度も守っているはず」

 加えて、要石もまた、それを異常と認識していない。

 身を寄せ合う程度であれば問題ないだろうと言ってのける。

 テノチティトランが上機嫌であることは、もはや言うまでもない。歯止めなど最初から存在しないかのように、鼻歌までうたう始末であった。

「そうです、これが、神官のあるべき姿。きちんと神を敬い、丁重にもてなしている。マスターとサーヴァントの素晴らしい関係性、です」

 要石はそんな空気の中で、皿に並ぶ料理を機械的に口へと運ぶ。

 どこまでも淡々としたその様相に、弓兵が肩をすくめる仕草をみせた。

「これも時代の移り変わり、か。とはいえ、存外に一途だから、まあ、君なら大丈夫だろう。目移りするようなタイプだと、屍山血河も待ったなしだがね」

「そうかな」

「そうだとも。同時進行は男の夢だが、現実には高い壁がある」

「エミヤ。不必要な知識を、私の神官に植え付けないように」

「おっと、これは失礼。馬に蹴られる前に、退散しよう」

 むすくれるテノチティトランの横顔を、要石は見つめている。

 どこか不思議そうな顔で、それでいて、興味深そうに。

「なんです、か」

 問いかけに、要石は答えない。

 いつもであれば返答はすぐだのに、今日はやたらと時間を要した。

 待たされるほどに不機嫌が増していくようで、テノチティトランは靴のつま先を忙しなく上下させ始める。

「なんですかと、聞きました、よ」

「ああ、そうだ、ごめん。……なんだろう、不思議だった」

 むうと、言葉にならない声でテノチティトランはうなる。

 サングラスの向こう側へ、不満そうな視線を向けて。

「ずっとおまえしか見ていないのに、心配になるんだなと」

 不意打ちに、動きが止まることになるなど思いもせずに。

「は、え、いえ、あの、……ね?」

 今度は自分が言葉を見つけられず、テノチティトランはうろたえる。

 要石は気にしたそぶりも見せず、デザートの果実ゼリーを咀嚼する。

 食事をいつも通りに終えて、一拍。

 いまだ顔を赤らめている都市を見つめて。

「帰る場所も、眠る場所も、一つだけだ。テノチティトラン、おまえだけだ」

 あろうことか、要石は食堂で、大勢の前で真名を呼んだ。

 儀式における心臓のように、真名は丁重に扱われている。

 その名で呼ばれることの意味は、テノチティトランが誰よりも知っている。

「だから、不安になるんだと、少し驚いた。次はもっと、気をつける」

 精神的なキャパシティを、とっくの昔に超えている。

 今日の要石は、なぜだかとても、甘い。

 嬉しい反面で気恥ずかしくて、思考がまったくまとまらない。

「あの、はい、あの」

 最初に、顔を見られなくなって、うつむいた。

 次に、周囲の喧騒が聞こえなくて、心音がうるさいと気づいた。

 最後に、なんだかとにかく叫びそうになって、堪える。

「……気をつけて、ください、ね」

 そうやって、どうにかこうにか口にしたのが、それだ。

「そのつもりだよ」

 なんてこともないように、要石は言ってのける。

 時間は一秒ごとに流れていって、止められない。

 食事の次は、鍛錬の時間。今の今まで、忘れていた。

「待って、待って、トラマカスキ」

 理性で抑えることなどできず、二人の時の呼び名さえこぼれ出て。

 大勢に見送られ、立ち上がった彼の背後を、必死になって追いかけた。

 

 

 心というものは、一度でも近付くと、途端に離れ難くなる。

 むしろ、離れ難いだけであればまだマシだ。

 うつろうものだとわかっていても、どうしたって気に入らない。よそ見をされることに関しては、特に許せなくなる。

 故に。この時期、この季節、この祭事。バレンタインデーなる一大イベントにおいて、テノチティトランは殊更に神経を尖らせていた。

 偉大なるテスカトリポカの言葉によれば、どれだけ重たい贈りものでも受け取られる唯一の機会、恋愛ごとに関しては万事が成功する勝機だという。

「──なるほど。西洋の祭りらしい短絡さ、です。理解しました」

 思わず飛びつきそうになる心を押さえ込んだだけで、表彰ものであった。

「私はアステカの心臓、荘厳であっても慎ましい都市の化身。そんな風潮には染まりません」

 情報の精度は勝敗を分けるもの。行動の速さは勝敗を分けるもの。

 ほかのサーヴァントを出し抜き、自分一人が勝者となる。

 そもそも要石は自分の神官として、神殿への永住が確定している。永住権も与えたし、新居も近々与えるつもりだ。それを、姫だか妖怪だかわからないような輩に掠め取られるわけにはいかない。

「とにかく、私は私として、自然体で過ごします、ね」

 ツンと澄ました、冷静で冷酷なクールビューティー。

 テノチティトランが自負する仮面の綻びを眺めながら、テスカトリポカは笑うのだ。不敵に、楽しげに、あるいは何かを期待するように。

 結局のところ、どういった形であれど、彼我の差があり勝者と敗者が生まれるならば、それは立派な戦争である。

 戦の神が、戦地へ向かう者を祝福しないはずがない。

 それがたとえ、アステカの大都市であったとしても、だ。

「……まあ、上手くやれよハチドリ。ここからの巻き返しには、とにかく目を惹くような、強いカードが必要だぞ」 

 時は、二月十三日、二十二時五十分。

 バレンタインデー開始まで、あと一時間ちょっとのことであった。

 

 日課の花壇の水やりをしていたと、テノチティトランはいう。

 花壇どころか花すら見えない、ストームボーダーの廊下で。

 神官に恥をかかせるわけにはいかないと、テノチティトランはいう。

 遊ぶことしか考えていない、観光都市のシミュレーターの只中で。神を敬いもてなせと、存分に甘え倒しながら。

「仲良くイチャイチャと、優しくベタベタと」

「そう、仲良くイチャイチャと、優しくベタベタと。神官にとって、神への敬いともてなしは不可欠なスキルです、よ」

 季節ごとに、頭がおポンチになるのがカルデアである。

 その中でも、このバレンタインデーは群を抜いている。

 誰も彼もが浮き足立って、あちらこちらで甘い匂いがたちのぼる。

 その異様な熱気の中において、テノチティトランは、別格だ。

 日付変更直後の襲撃、シミュレータへの拉致監禁、神事祭事の気配は見えず腕を組んでの観光三昧。道中で買いものもしたし、軽食も食べた。体感時間でしかないが、かれこれ、半日ほどはここにいる気がしてならない。

 それを指摘する隙さえ見えないのだから、振り回される他にないのだ。

 とは、いえ。

「トラマカスキ、楽しいです、ね」

 テノチティトランが見せる心からの笑顔には、不快感はない。

 要石も、なんだかんだと、振り回されることを受け入れている。

 自分の纏っている空気とは、相容れない甘さだとしても。

「──ああ、そうだね」

 彼女の言葉を肯定するのは、悪いことではないと思えた。

 二人並んで、熱気に包まれた街並みを歩く。

 その意味を理解しているテノチティトランは、慈しむように要石を呼んだ。

 平和な時代に、戦士の器として育てられたモノ。

 帰る場所を持たず、研がれた牙を持て余していたモノ。

「……きっと、アナタにとっては、非日常なのでしょう、ね」

 それが、こうして歩いている。

 戦場を駆ける戦士の歩調ではなく、故郷を歩む民の足取りで。

 シミュレータが作り出す光景は、重要ではない。

 要石にとっての故郷とは、つまりは、かたわらに誰がいるのか、だ。

 少なくとも、テノチティトランはそう定めている。

 自分が故郷になるのだから、二人でいる時間は、それが何処であろうとも、要石の故郷なのだ。

「だから、私はアナタの奉納を認めます、トラマカスキ。平穏に慣れぬ、ひとりきりのオセロメー。アナタにとって新鮮な、この時間は……神への供物として、相応しいものがありました」

 手を引きながら、テノチティトランは笑う。

 嬉しそうに、楽しそうに、外見相応の少女のように。

 街並みを抜けて、広野へ。

 喧騒から離れて、静寂へ。

 二人きりの場所へ要石を誘うように、テノチティトランは歩みを進める。

 太陽が沈み、夜の帳が下りる場所へ。

 満天の星空が見渡せる、誰の邪魔も入らぬ場所へ。

「神である私から、アナタへの贈りものを。捧げられた非日常に釣り合う、相応しい重さを持たせた、つもり、です」

 いつの季節も、イベントというものは厄介で。日常を知らない要石にとっては、想像の範疇を越えたことしか起こらない。

 ただ、与えられたその鍵は。

 ハチドリを模した鍵の重さは。

「──ああ」

 手のひらに収まる銀色は、心地の良い冷たさがある。

 あるべき場所にあるような、収まりの良い重さがある。

「……言うまでも、ありませんが。それは『月の湖』の、秘密の部屋。私の心臓部を開ける鍵」

 そこに立ち入ることが叶うのは、私とアナタの二人だけ。

 誰の邪魔も入らない、誰に知られることもない。

 囁くようなテノチティトランの声は、甘く、静かで、艶やか。

 胸板に触れる細い指、擦り寄せられる白い頬。

 要石の指は、それを壊してしまわないよう、触れる。

 ガラス細工を扱うような手つきは、滅多に見せない恐れがある。

 それがとても嬉しくて、それがあまりに心地良くて、テノチティトランは誰にも見せない、二人きりの笑みを浮かべた。

「……ね?」

 要石に呼びかける声は、しっとりと濡れている。

「いつでも私の奥に来てくれて、いいんです、よ?」

 背を抱き寄せて、唇を重ねて、そこから先は野暮なこと。

 要石が自室へ戻ったのは、二月十五日であったとだけ、記録されている。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。