創作ぐだのため、藤丸立香とは別人。
不機嫌と上機嫌が入り混じるというのは、きっとこういうことだ。
言葉にするでもなく、テノチティトランはひとり思う。
季節ごとに、なにかと頭がおポンチになるのがカルデアである。
理由はまったく知らないが、とにかく、つまり、世界というのはそういうものらしい。そして、誰も彼ものIQが低下する季節の中でも群を抜いているのが、いつぞや経験したバレンタインデーともう一つ。
夏だ。
「おっき……いえ、刑部姫が水着になり、ネロ皇帝も水着あり。トラマカスキ、これは私たちも負けてはいられません。言うまでもありませんが、デキる都市はレジャー施設にも抜かりなし。テノチえんの開園準備は着々と進行しています、よ」
現代風の衣装に身を包み、テノチティトランは不敵に笑う。
特異点現地の書庫で、要石と二人きり。ほかのサーヴァントがお祭り気分で遊んでいる最中、要石は調べものに勤しんでいた。
正しくは、調べものを命じられていた、というべきか。
「ウィツィロポチトリ、現実逃避はやめよう。ちなみに読み進めているけれど、主人公の感情があまりよくわからない。これはたぶん、僕にはまだ早い」
頭を抱えながら、要石は読み解こうとしていた小説を閉じる。どうして、なぜ、こうなったのか。それにはまた、頭の痛くなる理由がある。
「アシスタントなど、トラマカスキにさせるべきではないと思いますけれど、ね。誰も彼も、アナタのことを便利屋だと思っています」
不満そうに、テノチティトランはわかりやすくむすくれる。特異点解消のためとはいえ、自分の神官が、ほかの女が命じた通りに動くのが気に入らない。それが、彼女が不機嫌である理由だ。
「漫画を描くのは、前にもやったから別にいい。指示通りに描くだけだから、楽だ。けど、正直これは難しい。僕の苦手な分野だ」
「私も、あまり得意ではありません。そもそも私は、都市ですので」
ジャンヌ・オルタは、とにかく漫画を売れといった。今のエリアを抜けるために、どうしても必要なことだそうだ。相変わらずのでたらめな展開になぜだかスカサハ・スカディが応じ、紆余曲折を経て現在に至る。
現在に至り、そして、テノチティトランは怒っていた。
「そもそも、あの女は不敬でしょう。恋愛観なんて、私とアナタであれば生きた標本もよいところだと自負しています。それをなんですか、あの女。『アンタはまず、恋愛という概念を正しく理解しろ』だなどと……ああもう! 思い出すだけで、頭がナウイ・キアウィトルになる!」
ジャンヌ・オルタとのやり取りが、いまだに忘れられない。
憤怒の形相ではないが、自慢の神官をコケにされたようで我慢ならない。苛立ちをごまかすように、テノチティトランはパタパタとつま先で床を打つ。
「悔しくはある。ただ、こういう古典を読んでも理解できないのは、事実だ。取捨選択の判断ができないなら、ネームを削るのは難しいだろ」
どこか諦めた様子の要石は、寝不足のせいか目元が暗い。痛ましいと思いつつ、テノチティトランは胸の奥で自分たちの状況を楽しんでもいた。
ほかのサーヴァントに邪魔されることなく、二人きりで行動ができる。
浮かれきった連中の只中にあっての現状は、テノチティトランが上機嫌になる十分な理由だ。少なくとも、調べものが終わるまでは要石を独占できる。
「トラマカスキ、せっかくですから、別方面からの切り口も試してみません、か。具体的にはこう、映画鑑賞なども効果的だと思います、よ」
世間一般では、デートと呼ぶのだとしても。
恋愛という概念を理解するためだという大義名分がある。
「映画、なるほど。そういうのもあるのか」
「はい、文章だけでは見えないものもあります。加えて言うなら、神と神官が寄り添って座るというのは、儀式としても重要な意味がありますから、ね」
露骨な誘いであったが、要石には拒む理由もない。
「じゃあ、試してみよう。どこに行けばいいかは」
「もちろん、把握しています、よ」
提案を当然のように受け入れられるのが、心地いい。自分を優先されたことに対する満面の笑みが、テノチティトランの愛らしい顔を彩る。
読みかけの本を閉じると、要石は律儀に元の棚へと戻しに向かう。ただそれだけの時間でさえも惜しいというように、テノチティトランは要石の袖を引いて早く行こうと訴える。
インクと紙の匂いに別れを告げるように、要石は一度だけ、先ほどの本棚を振り返る。それも、一瞬のこと。すぐに前へ向き直ると、二人は足並みをそろえるように外へと向かって歩き出した。
二人きりの外出は、今回が初めてというわけではない。特異点を調査するおりに、なにかと理由をつけてテノチティトランは外出することを好んだ。
邪魔者の多いカルデアではゆっくりと休息も取れないだろうと、気を利かせたつもりなのだ。
もちろんやっかみも買うが、当の本人はどこ吹く風でいる。自分の神官を独占するのは当然の権利なのだと、テノチティトランはそう考えている。
「記者の心境が大事だったのかな。なんとなくだけれど、そこはわかる。王女は、最初から未知のもの、未知の世界に興味を惹かれていた」
歩調は緩やかで、声も静か。戦士の顔ではない要石を堪能するため、テノチティトランは相槌を打つ合間にも彼へと視線を注ぎ続ける。
要石の胸元では首から下げたハチドリの鍵が揺れていて、見るたびにえも言われぬ気分になる。ちらちらと盗み見ながら満足そうに口角を上げて、テノチティトランはまたわざとらしくせき払いをした。
「トラマカスキ、今はそれよりも重要なことがあります、よ。自らが仕える神の手が、留守になっています。神を敬い、もてなすとは?」
「敬うは、仲良くイチャイチャと。もてなすは、優しくベタベタと」
「そうです。もっと積極的に、敬いもてなしてください、ね」
「悪かった。相変わらず、こういうのは上手くないな」
「構いません、私と一緒にいれば学べます、よ。それよりも買い食いをしましょう、トラマカスキ。レジャー施設の視察は、いずれ開演するテノチえんの参考になります。質の良い食事は、民の満足につながります」
腕を絡めて身を寄せながら、テノチティトランは要石を引き回す。恋人同士のデートを、存分に堪能するように。
割って入る邪魔者も、要石に話しかける誰かもいない。
雑踏の喧騒は、すぐそこにあるのにまったくの別世界だ。周囲の存在は要石たちに意識を向けることはない。ここには、自分と要石の二人だけ。
満足感に口元を綻ばせながら、テノチティトランが思い起こすのはやはり。
「あの女、やはり節穴です、ね」
「どうかしたか?」
不思議そうに視線を向けてくる要石にも、テノチティトランは首を振って、
「なんでもありません、よ」
短く告げるだけだった。
要石の食事風景は、テノチティトランにとって退屈なものだった。
どんな料理を口にしても、機械的に咀嚼して、機械的に飲み込むばかり。要石にとって、食事は楽しむものではなく、栄養素を身体に取り込むためのものらしかった。
テノチティトランには、それが面白くない。
あまり変化することのない要石の表情の中でも、特に退屈に感じるものだ。
加えて言うなら、要石の話題と言えば、
「上手く、想像ができない」
「……ああ、スカディの」
要石の言わんとすることは、理解できる。人間と巨人、異種間の恋愛という異質なものを感じ取るのは、彼にはまだ難しい。
特異点解消のために必要なことではあるが、いささか真面目に取り組みすぎている。はちみつ入りのレモネードを味わいながら、テノチティトランは不安そうに自分の神官へと視線を向ける。
「疲れませんか、トラマカスキ。不慣れなことを続けるのも、考えもの。根を詰めるのもほどほどに、です」
「無理はしないさ」
「……普段よりも真剣です、ね」
「そうかな」
「……そうだと思います、よ」
要石へと向けられるテノチティトランの視線には、あからさまな不機嫌と、多少の不安が宿っている。
任務のためとはいえ、自分以外のサーヴァントの言葉を聞かれるのは気に入らない。そして同時に、要石がどこかへ移住してしまうのではないかという思いが湧き上がって、ひどく不安になる。
「……ジャンヌ・オルタの言葉だからですか。それとも、スカサハ・スカディを助けるため?」
自分だけのはず。要石の故郷は、自分以外にあり得ない。
自信を持って胸を張るには、テノチティトランが都市の化身として成立してから日が浅すぎた。不安のせいで霊核が脈動するなど、今のカタチになるまでは知ることすらなかった。
ヒトのカタチを成したからこそ見える世界も、ヒトのカタチを成したからこそ感じるものもある。
見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わって。五感というものを用いて知るほど、人の世は刺激に満ちあふれていた。それこそ、もっと楽しめる都市に移住してしまうのも、仕方がないと感じてしまうほどに。
「トラマカスキ、私のトラマカスキ。私の、ただひとりの住人」
グラスの表面を、水滴が流れて落ちていく。要石は不思議そうに、テノチティトランを見つめている。どうしたと、静かな声で問いかけながら。
意識の外にあったはずの喧騒が、いやにうるさく感じる。それよりもやかましいのは、今のカタチになってから得た心臓だった。
身体の奥で脈を打ち、締め付けられるような痛みを感じる、かつては持ち得なかった器官。早鐘のような鼓動を感じて、テノチティトランの表情が切なさにゆがむ。
「恐ろしいと、感じています。私以外のことに、真剣になるアナタの顔が。二人でいるのは楽しくても、いいえ、楽しいからこそ不安になる。愛しいからこそ、恐ろしくなる。信頼をしているはずなのに、わからなくなる」
遠くに行ってしまうのではないか、離れて行ってしまうのではないか。思いばかりが先に出て、言葉を上手くまとめられない。頭を抱えてうつむくテノチティトランに、要石の指が触れる。
そうと、ゆっくり。ガラス細工を扱うように、どこか恐々と触れている。黒い髪に指を通して、くしけずるように触れている。
びくりと肩が跳ねたのは、一瞬のこと。撫でる手つきの心地よさに、テノチティトランはまつ毛を伏せてため息を漏らす。それからおずおずと、すがるように要石の腕へ細い指先を絡ませた。
「こっちも、上手くやれてないな。すまない、テノチティトラン。今の僕では、説明ができない」
どういう意味だろうと考えつつも、要石の声色にテノチティトランは安堵を覚えている。先ほどまでの、映画や小説の分析をしていた声とは、まるで別物だった。それだけで、ざわついていた心が落ち着いていく。
「今の状況だと、心配するなとしか言えない。……ああ、相変わらずへたくそだな、僕は。正直、自分でも嫌になる」
なにより、名を呼ばれた。今の姿にも関わらず、不安をぶつければすぐに名前を呼んで応えてくれた。だから、安心してしまってもいいと、思い通りに御せない心が勝手に落ち着き始めている。
「……狡い男です、ね」
頬を手のひらにすり寄せて、懐いた猫のように甘えながら、テノチティトランは要石をじっと見上げる。
「本当に、とても狡い、です。そんな言葉で、うやむやにできるなんて」
「そういうつもりは、ないけれど」
「野暮」
察しが悪い要石へと投げかける言葉は、いつの間にか普段通りに戻っている。ただ、いつもと少しだけ違うのは、要石がテノチティトランを見つめる視線だった。
「……どうかしました、か」
「ああ、いや。少しだけ、わかったような気がして。そういうものなのかもしれないって、感じたと表現したらいいのかな。……もどかしいな、上手く説明ができない」
黒い瞳を瞬かせ、テノチティトランが眉を寄せる。要石もまた、言葉を組み立てることに苦戦しているようで、やがてお手上げとばかりに首を振った。
「けれど、おまえのおかげだ。助かった、ありがとう」
要石は狡いと、何度だってテノチティトランは感じる。
そんな風に真っ直ぐに告げられて、食い下がれるはずもないというのに。この状況での返事など、最初から決まりきっているというのに。
テノチティトランにできることなど、
「本当に、狡い男、です」
不満を口にするくらいしか、残されていなかった。
作業場と表現するべきか、それとも修羅場と呼ぶべきか。
二人が戻るころには、部屋はすっかりと荒れ果てて地獄のごとき有様であった。散乱した資料や書き損じ。エナジードリンクなり栄養ドリンクなり、サーヴァントにはおよそ不要であろう嗜好品の残骸ども。どこから片付けるべきか頭を抱えるほど、しっちゃかめっちゃかになっている。
いの一番に、仮眠室として使用していた隣室の扉を蹴破る勢いで顔を見せたのは、ジャンヌ・オルタだ。射殺すような視線に、テノチティトランは要石の前に立ちはだかって壁となる。
「大丈夫、問題ない」
要石はそんな彼女を制して、ジャンヌ・オルタへと顔を向ける。
「まとまった?」
「恐らく」
「いいわ、聞かせなさい。削れる部分は、まだまだたっぷり残ってるから。ホント、信じられないくらい残ってるから」
要石とジャンヌ・オルタのやり取りに、テノチティトランが疎外感を覚えてしまうのは仕方のないことだ。二人の間へ、無理やり割って入れるような雰囲気ではない。
せめてとばかり、テノチティトランは向こうから見えないよう、要石の服の裾を指で引く。広い背中に隠れるように、ひたいをそっと触れさせた。
わずかな沈黙は、ひどく重たい。
言葉をまとめている最中なのだと、テノチティトランには普段の要石とのやり取りから理解ができる。ただ、彼がなにを伝えようとしているのかは知れない。胸の内まではわからないから、やはりどうしても、不安になる。
だから、要石が不意に振り返った時は、身体を跳ねさせてしまうほどおどろいた。ぼやりとした黒い瞳は、やはりなにを考えているのか読み取れない。
要石が、ジャンヌ・オルタへと向き直る。いかないでと伝えるように、テノチティトランの指は服の裾を弱く引いていた。
「重要なのは、理解してほしいかどうかだ。しようとするのは、自分のことだからできる。正しく理解できていなくても、行動しているから一応の納得はできる。してもらうのは、できない。できないから、求める。その感情が芽生えているかいないか、そこが重要だと僕は考える」
語られる内容は、途中に思考の間を挟みつつも、最後まで途切れることはなかった。いつも端的に話す要石とは別人のように饒舌で、テノチティトランは黙ってそれを聞いているほかにない。
ジャンヌ・オルタは黙って腕組みをしたまま聞き入っていたが、やがて不敵な笑みを口元に浮かべて肩をすくめる仕草をみせた。
「そう、そうね、確かに。どうでも良ければ理解なんて求めないわね、悪くないじゃない。いいわ、アンタはその観点で見なさい。やるべきことは秒ごとに嫌というほど増えていくの、残念なことに作業は一つも減っていないわ、ただの一つもね!」
あと五分だけ仮眠するからと、ジャンヌ・オルタは部屋へと引っ込んでいく。騒がしく感じていた室内は、途端に静寂へと逆戻りだ。
「……あの、トラマカスキ」
居ても立っても居られずに、テノチティトランは要石を呼ぶ。今のやり取りのどこか一部が、あるいは全部が、自分と関係のあることに感じた。なにか大切なことを言っていたのだと、感覚的に理解している。ただ、それをどうやって伝えたらいいのかがわからない。
「まだ上手くない説明だったけれど、おまえを見ていて、わかった気がした。おまえの気持ちを、上手く理解してやれなくて、すまない」
差し出された手が、頭を撫でてくれる。その感触が心地よくて、鼻の奥にしびれのような痛みを感じた。愛しさと情けなさが入り混じって、視界が勝手に涙でにじむ。
泣き顔を見られたくなくて、テノチティトランは要石の胸に顔を埋める。背中を抱き締めてくる腕は、温かくて、安心するものだった。
「……ごめん、なさい」
つぶやくように、ささやくように。
かすれた声で、テノチティトランはどうにかこうにか言葉を絞り出す。最初に選んだのが謝罪だったのは、後ろめたさがあるせいだと、自分自身でも理解していた。
「いいさ」
「……アナタが、私に理解を求めていないから、ですか」
ぐずぐずと鼻を鳴らして、ようやくテノチティトランは視線をあげる。頬を拭う指が優しいせいで、不安になって問いかけてしまう。
「そう見えるのかな。だとしたら、気をつける」
「私も、あまり上手くないようです、ね。頭に、血が昇っていました」
「そのおかげで、考えをまとめられた。おまえがどうして不機嫌なのか、きちんと考えられた」
テノチティトランは、思う。
自分の抱いている感情が、果たして、本当にそうなのか。答えはきっと、今日この瞬間までは、否だったろう。
彼を神官と認めたのも、彼を愛しいと感じるのも、全ては彼が要石だから。
サーヴァントとして召喚されて、都市は初めて生を得た。生を得てから感じたことは、もう一度、今度こそ住民を守りたいという願いだった。
住民であり、神官であり、ひいては人理修復、都市復興の要となる存在。そういうものを愛おしいと、大切なのだと考えないはずがない。都市にとっての正義、都市にとっての秩序、都市にとってのかけがえのない存在。だからこそ愛おしい、そういう存在は、愛おしい。
そういう存在であれば、誰であっても愛おしいのだ。
マスターであれば、人理修復の礎となれば、都市復興の要石になり得るならば。自分はきっと、この男でなくとも、同じように愛情を注いだのだろう。
「勝手、でした。私の愛は、神の視点の愛でした。それが、とても恥ずかしい、とても切なくなる。アナタを手放したくないと、所有することばかり考えていたのです。アナタがアナタでなかったとしても、同じことを考えていたくせに……ね」
すがるものがほしくて、テノチティトランの指は要石の服を握る。離れぬように、放さぬように、震えそうになる手を隠しながら。
「……トラマカスキ、私の、私だけのトラマカスキ。私は、アナタを愛したい。神の視点の愛ではない、人の愛を宿したい。私を、アナタに知ってほしい。それと同じくらい、アナタから、アナタを知ってほしいと思われたい」
見つめるままに紡ぐ言葉は、頭の中を吐き出すばかりで上手く伝わるかもわからない。それでも、そうしてしまう。自分の気持ちを理解してほしいのだと、要石が言ったように、彼に強く求めている。
「だから、私はアナタを理解したい。そのためにも、どうか、教えてほしいのです。……私のなにが、アナタにとって、特別だったのです、か。アナタが愛してくれていると、確かに感じる。けれど、私はアナタに、なにも……」
「おまえは僕に、これをくれた」
テノチティトランの言葉をさえぎり、要石は首からかけた鍵をそうと持ちあげる。彼でなくても与えたであろう、神の視点の贈りもの。だとしても、要石の言葉には揺らぐことのない感情がある。
「敗者だった僕が、初めて特別なものになれた。神の視点の愛だったとしても、僕にとっては、おまえが特別になるには十分すぎる理由だよ」
要石の言葉を最後まで聞く余裕は、もう、テノチティトランには残されていなかった。
膨れ上がる感情に任せて、ただただ全身で抱き締めて、涙も拭わずに身を寄せる。そのあとは、誰が見ていようとも構わずに、思う存分に泣いた。
喉が枯れてしまうまでひとしきり泣き喚いて、まとまらない感情をぶつけて、赤くなった鼻をすすりながら。
「トラマカスキ、私の、愛しいトラマカスキ」
泣き疲れて眠りに落ちる寸前に、テノチティトランはようやく見つけた言葉を、大切そうに口にする。
「アナタに召喚されて、私は、とても幸せです、よ」
目元が腫れてしまっているのに、テノチティトランの寝顔はどこまでも穏やかで、安らかなものだった。