『渦』 97ページ
僕はもう諦めようかと思っている。何をどう足掻いても結末は変わらない。ましてや介入するたびに酷くなる一方だ。なら、どうして僕はこの力を手に入れたのだろう。
わからない。今も悲惨な現実を前にしているが何もわからない。
僕はこの力の使い道と目的を次第に見失い始めていた。
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あの戦いから一週間弱が経った。本来ならば七月十三日の時点で六月十四日辺りに戻っているはずではあるが須美の眼前に据えられたカレンダーは七月である事を須美に示している。
なぜ戻れないのか。ひとえに言って仕舞えば須美にその意思がないからだ。須美は自分の力に関しての推測を既に立てていた。恐らく、銀を助けようとする意思がある限りその力はタイムリミットの限界までは使用する事が可能であると。ただ、その意思を失ってしまった場合は発動する事なく、今の世界がどんどんと確立されていくと言うことも。
(取り返しがつかなくなる前にはどうにかしないと)
須美は暗い部屋の中で布団に包まり、廃人のような様相を呈していてもまだどうにかしなければ。と言う気持ちだけはあった。その気持ちすらも日に日に消えていってしまっているのだが。
鷲尾須美という存在は言うなれば蝋燭と言えた。今は風にさらされても火は辛うじて灯っているが、時が来ればそのまま跡形もなく消え去ってしまうかもしれない。
「でも、やっぱり私には無理よ…」
須美はこの先のことを考えるのですら嫌になり、布団を顔より上に引き上げて全身を覆う。
今の自分の現状を鑑みるに、園子の存在がいかに大きかったかを実感させられた。銀が亡くなった後も園子がいたからまだ須美は自分の気持ちを整理させる事ができた。その精神的支柱を失った須美がこうなるのも当然の事と言える。
出きったと思った涙がまた頬をつたってシーツに落ち、シミを作る。部屋には須美の啜り泣く声だけが響いていたのだった。
園子さえいればまだ自分は再起できるかもしれない。やっぱりあと少しだけ頑張ってみよう。泣きながら須美はこんな絶望的な状況から早く逃げだしたい。そう、強く願った。
いつの間にか泣いている間に寝てしまったらしい。須美が目を覚ますと身体は気怠く、目の周りもヒリヒリとして痛い。そんな事も今の須美には全て邪魔で仕方がなかった。いっそ、このまま全部神経を壊してしまおうか。そんな野蛮なことを頭の中に思い浮かべる程だ。
身体を起こし、カレンダーを遠巻きに見る。どうにもこの行動が癖になってしまったらしい。須美はそんな自分を鼻で笑った。そして自分が取った選択もあまりの滑稽さに呆れる。
「はあ……。また戻ったのね」
結局、須美は諦めきれずにまた6月へと戻ってきたのだった。しかし、これまでと違うことが一つだけあった。
須美が戻ってきたのは本来戻ると予想された6月14日より先の一週間後。6月21日だった。
須美は制服に着替え、実質一週間ぶりに姿見の前に立つ。
側から見れば須美は初めてこの6月21日を過ごすように見えているかもしれない。だが、須美からしてみれば実に五回目。おまけに四回目での敗北があまりにも酷く精神状態も不安定と来た。ここまで最悪なコンディションは他になかろう。
須美は姿見に映る自分の姿を見て、何度目かわからない乾いた笑みを浮かべる。自分がこんな表情を浮かべる日が来ようとは生まれてこの方思いもよらなかった。
今の自分を見て銀と園子はなんと言うのだろうか。彼女達からみれば突如としておかしくなっているわけで、違和感は凄そうだ。
自分のことなのに他人事のように感じながら須美は身支度を整える。いつもは長く艶のある自慢の長髪を丁寧に纏めるのだが、今はそんな気にもならず適当に俗に言うところのポニテールというやつにして、須美は部屋を出た。
外は須美の心境とは裏腹に快晴で、そろそろ梅雨明けを迎えるのではないかと推測できた。空気も澄んでいてここまで気持ちがいい日も少ないのではないかとすら思える。そんな天気ですら、須美は自分を馬鹿にしているのではないかと言う気分になった。そんなことを考えてしまう自分も馬鹿馬鹿しく思えてきてしまい、須美はまた自分で八方塞がりな状況を作り出す。
一体、この憂鬱な気分はいつまで自分を苦しめるのだろうか。学校に向かうための一本道に差し掛かった時、須美の視界の遠くにイネスとその近くに隣接する駅が飛び込んできた。
「……このままどこか遠くに行こうかしら」
学校の近くにまで来てそんな発想が脳裏にチラついた。真面目な須美は普段であれば学校を無断欠席すると言う愚行は犯さない。けれども今はそれを許容できてしまった。しかもそれを名案だと思ってしまうのだから尚更だ。
須美は財布を取り出して中身を確認する。値段的にも普通に遠くに行けてしまう金額がそこにはあった。須美は財布をしまうと学校に向かう方向とは逆に歩みを進める。
どこに行こう。県庁所在地の玉藻市にまで向かうのも一興だ。跡地ではあるがお城もある。他にも庭園などもあるから心を落ち着かせるにはもってこいかもしれない。
須美は足を進めながら学校を休むと言う背徳感と冒険に出かけるようなワクワク感でこれまで重かった足取りは不思議と軽くなった。
駅に入り、改札前の切符売り場で行き先を選ぶ。神樹館の制服を着た須美を訝しげに見る人も少なからずいたが気に留めることはない。寧ろ自分に向けられる視線は過去の行いを責められているような気がして、気にするのをやめていたと言うのが正しいかもしれない。
須美は路線図を見上げているととある地名が目に飛び込んだ。
「讃州市……」
思えば須美の記憶にある香川の最大進出領域は丸亀城までだった。これも何かの縁だと思い、須美は即座に讃州市行きの切符を購入した。
須美は善の自分と悪の自分が葛藤を始める前に切符を改札に通し、ホームに躍り出る。一分と待たずに飛び込んできた電車に乗り、須美の逃避行は幕を開けたのだった。
走り出した電車は加速と減速、停車を繰り返しながら人々を目的地へと送り届けていく。車窓は須美に様々な景色を見せてくれた。人が織りなす街並み。生い茂った緑の山。広大な田畑。光が反射し、燦然と輝く海。その光景は須美の擦り切れた心を僅かではあるが安らかなものへと変えた。
讃州市まであと少しでたどり着く。そんな矢先、制服のポケットに入れていたスマホが震えた。着信を知らせる合図に思わず須美は顔を顰める。画面には三ノ輪銀と乃木園子二人からのメッセージが表示されていた。
『わっしー、今日は学校お休み?』
『クラスのみんな騒いでるぞ。あの鷲尾さんが!?って』
特に二人とも悪意のかけらなど一つもないと言うことを須美は頭では理解していた。しかし、頭だけで理解したところで心の方はそれに追い付いてはくれない。
須美はそのメッセージに返信するどころか既読すら付けず、元々の位置にスマホを戻した。そして再び車窓へと目を向ける。
あぁ…。今は友達より景色の方がいいや。
口に出したら取り返しのつかない事になりそうで、須美は心の中でボソッと呟いたのだった。
電車が讃州市の駅につき、須美は電車から降りて改札を出る。眼前に広がる光景を見て須美は眉を顰めた。
「思っていた以上に何もない…と言うのは失礼だけど」
一応、駅からの直線数百メートル先を行けば商店街の通りに出るみたいだが直近ではそんな雰囲気はない。
「でものんびりとした場所ね」
人が忙しなく動いていると言う印象も受けず、ここで生活している人は心底心が穏やかになってしまうだろうと言う感じがした。
木々が瀬戸内海から流れ込んでくる穏やかな風に心地よさそうに揺れている。須美の雑に纏められた髪も風に揺れた。須美は思わず真上を見上げる。一面青空の中、寂しそうに一つの雲が空にたたずみ、須美を見下ろしていた。
「一緒に行く?」
親近感を持ち、須美は雲に問いかける。もちろん答えなんて返ってくるわけもない。それでも、ふふっ。と須美はここに来て初めて穏やかな笑みが自分の口の端に宿ったのがわかった。
人知れず、須美の短いようで長い逃避行は幕を開けたのだった。