北山君が風呂から出てくるのを部屋で待っていた僕は、突然の停電に驚いた。他の部屋からも停電に驚く声が聞こえてくる。
「もう、一体何なんだよ? 早く復旧してくれないかなあ……」
ブツブツ文句を言いながら、手探りでカバンの中に入れてある懐中電灯を探した。
「あっ、あった」
何とか懐中電灯を見つけたが、スイッチを入れても全くつかなかった。
「くそっ、電池切れかよ」
一応、交換用の単一形乾電池も何本か用意していたので、手探りで電池をカバンから取り出し、交換を試みた。だが、暗闇でうまくいく筈もなく、面倒になったので断念した。
しばらく待っていると、いきなり雷鳴が轟いた。咄嗟に耳を塞いで目を閉じ、その場にうずくまった。気が付くと、なぜか周囲は明るくなっており、知らぬ間に靴も履いている。しかも結構暑かったので、思わず長袖の上着を脱いだ。
「あれっ、ここどこ?」
訳が分からなくなった僕は、しばらく周囲をキョロキョロと見渡すしかなかった。どうやら、自分はどこかの駅のホームにいるようだ。しかも、二本のレールの間には、ギザギザのレールが敷設されている。駅全体の様子を見て、自分が持っている写真集のことを思い出した。
写真集には、アプト式の電気機関車がレンガ造りの橋を渡る様子や熊ノ平駅で上下の列車が行き違いをする様子、電気機関車の運転士が熊ノ平駅の駅員からタブレットという金属製の錘が入ったタブレットキャリアという鞄を受け取る様子などが写真に収められている。
「あっ、もしかして、ここは熊ノ平駅か?」
どうやらここは、昔の熊ノ平信号所のようだ。信越線横川~軽井沢間がアプト式鉄道だった時代は、熊ノ平駅と呼ばれていた。
「もしかして、タイムスリップしたというのか?」
夢であってほしいと頬を叩いてみたが、どうやら現実のようだ。
呆然と立ち尽くしていると、駅員が声を掛けてきた。
「おい、あんた。大丈夫か?」
駅員の話によれば、朝一番でこの駅に出勤してきた彼が、始発列車のために準備に取り掛かっていると、いきなり雷がホームの隅に落ちたらしい。驚いた彼は、すぐさま雷が落ちたところへ駆けつけた。そこで、その場に座り込んできょろきょろとあたりを見渡している僕を見つけたそうだ。
僕は、信じてもらえるか分からないが、ここに来るまでの経緯を説明した。
「う~ん、何とも不思議な話だな。まあ、とりあえず中に入ってくれ」
駅員は頭をしきりに傾げていたが、僕を駅員室に入れてくれた。
室内には、オイナリサンの愛称で呼ばれる二つの赤い箱や様々な道具が置かれていた。二つの赤い箱の正式名称は、タブレット閉塞機と言うもので、かつては日本中で使われていた信号機関連の装置である。中には、タブレットという円形の金属製のおもりがいくつか入っていて、まずは専用の電話で隣の駅と連絡を取る。そのあと、双方の駅員がタブレット閉塞機のボタンをタイミングよく押してベルを鳴らさないと、中のタブレットが取り出せない仕組みになっている。取り出されたタブレットは、タブレットキャリアという専用のカバンに入れて、隣の駅から来た列車に渡される。列車が隣の駅を出発する時に使用したタブレットもこの際に回収する。こうして新たなタブレットを渡された列車は、駅構内の信号が青に変わり次第、次の駅に向けて出発するのだ。もしここで、新しいタブレットを使用しないで出発しようとすると、列車に備え付けられている非常ブレーキが作動するので、単線区間での列車同士の衝突を防ぐことができる。
「うわあ、本物のタブレット閉塞機だ!」
実物を目にするのは初めてだったので、僕は思わず見とれてしまった。
「なあ、その前に立たれると邪魔なんだけどな」
駅員は困ったように腕を組んで、僕の傍に立っている。しかも、タブレット閉塞機のベルがリンリンと鳴っている。
「あっ、すみません…」
僕が慌ててその場を空けると、駅員はタブレット閉塞機のボタンを押し、専用電話機の受話器を取った。
「はい、×××列車、閉塞承知」
駅員は列車に割り振られている番号を復唱し、また何度かボタンを押して、タブレットを取り出した。しばらくその光景を眺めていたが、自分が何も持っていないことをふと思い出し、先程まで居たところへ戻ってみた。
なんと、自分の荷物が周囲に散乱していた。訳が分からなかったが、すばやく荷物をまとめて待合室の中へ運び込んだ。待合室のベンチに座って一息ついていると、こげ茶色の電気機関車が数両の古ぼけた客車を牽引してホームに入ってきた。
「おい、あんた。この列車に乗れ。これを逃すと、だいぶ待たないといけなくなるぞ」
駅員が待合室に入ってきて、横川駅方面の列車に乗るよう言ってきた。切符を買おうと財布の中を見たが、なぜかお金がすべて無くなっていた。まったく意味が分からない。
「すみません、お金を持っていないんですけど……」
どうしようもないので、正直に打ち明けた。
「チェッ、仕方がない奴だな……。金をやるからさっさと乗れ」
駅員は僕に幾らかのお金を渡してくれた。
「えっ、良いんですか?」
僕が戸惑っていると駅員は、
「チッ、そんなことはどうでも良いんだよ、さっさと乗りな」
と、苛立ちながら僕を客車に押し込んだ。車内はほとんど乗客がおらず、ガラガラだった。
しばらくすると、列車はゆっくりと走り出した。
「お仕事中お邪魔してすみませんでした」
窓を開けて、ホームに立っている駅員に声を掛けた。
「ああ、気をつけてな」
駅員は、運転手から受け取ったタブレットキャリアを振って、僕を見送ってくれた。
間もなく列車は煉瓦造りのトンネルへと入っていき、熊ノ平駅は見えなくなった。
本文中にもある通り、信越線横川~軽井沢駅間は、明治時代の開業から昭和38(1963)年にEF63形電気機関車が登場するまでの約70年間、アプト式鉄道という特殊な方法で峠越えをしていました。久松がタイムスリップした場所は、昭和20年代後半~昭和30年代初頭の熊ノ平駅(後に熊ノ平信号場となる場所)という設定です。