改札を抜けると、温泉独特の香りが辺りにたちこめていた。旅情を感じつつ辺りを見渡し、洋子を探した。なんと彼女は、改札を出てすぐのところで、オレを待ってくれていた。
「お待たせ、寒くなかったか?」
寒い中、こんなところでオレを待っていてくれたとは、何とも申し訳ない。
「いいえ、お気遣いなく。あなたを待っている間、この界隈を散策できて良かったわ」
彼女はにっこりと微笑みながら、すっかり冷え切った手でそっとオレの手を握った。
「手がとても冷たいじゃないか。カイロぐらい持っておけよ」
オレは、たまたまポケットの中に入っていた、まだ温かいカイロを渡した。
「すみません、北山さん」
彼女は、申し訳なさそうに、カイロで手を温める。
「なあに、別に気にすることないさ。予備はいくらでも持っている」
いつものオレなら、こんなことをさらりと言うなど、全くできやしない。
自分で言うのも何だが、今日のオレは何かおかしい。
「さてと、結構冷え込んできたから、移動しようか」
今日はとても疲れた。ゆっくりと温泉に入って、旅の疲れを癒したいものだ。
「そうですね。ああ、寒い、寒い……」
寒さ対策は万全なはずだが、それでもガタガタと震えが来るぐらい寒い。
これが、甲信越地方特有の寒さというものだろうか。
「ちょっと待ってくれ、携帯でタクシーを呼ぶから。」
あらかじめ、調べておいたタクシー会社の番号をダイヤルしようとするも、寒さで手がんで思うように動かない。
「大丈夫ですか、北山さん?」
彼女は、カイロで温まった手で、オレの手をやさしく握ってくれた。
「す、すまない…」
気持ちはありがたいのだが、通行人の視線が気になって仕方がない。
彼女も少し恥ずかしがっているようだ。
数分後、ようやく悴んでいた手が動くようになり、携帯のボタンを押せた。
「もしもし、○○タクシーですか? 長野電鉄の湯田中駅前に来てほしいのですが…。あっ、はい、はい。それじゃあ、お願いします」
電話を切って、数分もたたないうちに、タクシーがやって来た。
ドアが開き、運転手はオレ達に声をかけた。
「お客さん、どちらに行かれますか?」
オレは、ガタガタと寒さに震えながら、
「○○旅館までお願いします……」
と伝えた。
「○○旅館ですね、分かりました」
運転手はそういうと、ゆっくりと車を発進させた。駅前の少し狭い通りを抜け、大通りへと抜けると、少しスピードをあげた。窓の外を見れば、通りに面して多くの宿泊施設が建ち並んでいるのがわかる。さすがは、長野県有数の温泉街だ。タクシーは、温泉街のメインストリートを走り、やがて目的地の旅館に着いた。
事前に調べた情報によると、○○旅館は全国的に有名な旅館で、この温泉街の中で、比較的大規模な旅館らしい。オレは思わず、建物の立派さに見とれてしまった。
運賃の支払いを終えた洋子に肩を叩かれて、我に返ったオレは、運賃を支払い、彼女に促されるようにタクシーを降りた。フロントで荷物を預けた後、オレは部屋へ、洋子は六階の大浴場へと向かった。
テレビを見ながら、ベッドの上でくつろいでいると、携帯がけたたましく鳴った。
「はい、もしもし」
電話の相手は、同僚の中村だった。
「ああ、中村か。暇を持て余して、ゴロゴロしているんじゃねえか?」
彼もオレと同じく、出勤日数を減らせと命じられたのだ。
独身のオレと違って、妻の居る身であるから、余計に気の毒だ。
「うるせえな、そんな訳ねえよ。たまには、掃除や洗濯ぐらいやっているさ」
こうやって、互いに冗談を言い合えるのも彼とだけだ。
「そうか、元気でなによりだ」
その後会話は弾み、気が付けば一時間程経っていた。
「ああ、もうそろそろ、風呂に入りたいから、電話を切るぜ。じゃあな」
これ以上、彼と話していたら、旅に出ていることを言ってしまいそうだ。
彼の置かれている状況を考えれば、言わない方がいいかもしれない。
「ああ。お前と話せて、楽しかった。おやすみ、北山」
電話が切れ、断続的な電子音を聞きながら、しばらく余韻に浸った。
「さてと、風呂に入るとするか…」
携帯の画面を閉じて机の上に置き、テレビを消した。
ルームキーやタオル、着替え等を手にしたオレは、大浴場へと向かった。
「いい湯だな、アハハン~♪」
湯に浸かりながら、昭和歌謡を口ずさんだ。自分の他に数人いるぐらいだったが、自分の歌声が思いの外大きく反響して、恥ずかしかった。あまりにも気持ちよくて、このまま寝てしまいそうだったが、腹が減っているので、のぼせてしまう前に出ることにした。男湯をあとにし、ロビーラウンジへと向かった。
マッサージチェアでしばらくくつろいでいると、近くに置かれたテレビから、時報の音が聞こえてきた。壁に掛けられた時計を見ると、針は十時を指していた。
もうこんな時間かと思いながら、マッサージチェアを止めて立ち上がると腹がグゥと大きな音を立てた。
五階のレストランで、遅めの夕食を済ませたオレは、満ち足りたいい気分で自室に戻った。このときのオレは、翌日あんな事件が起こるなんて、まったく思いもしなかったのだった。
相変わらずの駄文ですが、次回もお楽しみに。