霧の峠   作:chukuasama

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第七章 引きこもり

 冬休みが終わり、三学期を迎えた。昨夜も深夜遅くまで勉強していたオレは、寝坊してしまい、母さんに学校まで送ってもらう羽目になった。なんとか、チャイムが鳴る数十秒前に教室に駆け込むことができたが、席に着くなり眠気が襲ってきた。

 チャイムが鳴ったが、なかなか先生が教室にやってこないので、少しだけ眠ることにした。だが、それがいけなかった。後ろの席の久松が起こそうとしてくれていたようだが、なかなか起きられず、教室に入ってきた先生に見つかってしまった。

「では、出席を取るぞ。おい、北山!」

 先生に襟を強く掴まれて起こされた。オレは覚めきっていない状態で、

「あっ、すみません……」

 と返事をしつつ、口の周囲に着いた涎を袖で軽く拭った。

 二年生になってからほぼ毎朝補習が実施されるようになった。配られたプリントを解いたあとに教科担任が解説するといった形のものだ。それが終わって、一時間目が始まるまでは、二十分程時間がある。久松や他の奴らと談笑したり、トイレに行ったりなどして時間を潰すことが多い。しかし、授業で別の教室に移動しなければならないときは、あまりのんびりしていられない。

 早朝補習が終わったあと、自席でウトウトしていると、久松が心配そうに声を掛けてきた。

「北山、大丈夫か?」 

 久松はオレに何かを二、三粒手渡した。

「これ、食べるか? 眠気が覚めるよ」

 どうやら、眠気覚ましにミント菓子をくれたようだ。

「ああ、ありがとう……」

 口の中にそれを放り込み、バリバリと噛み砕いた。大きく息を吸うと、刺激的な香りと爽快感が口の中に広がった。ぼんやりとした頭が少しだけ覚醒したような気がした。その後、トイレへ行って顔を洗い、鏡をみると目の下に隈ができていた。

「ひでえ頭だなあ……」

 寝坊して寝癖を直す間もなく家を出てきたので、ギャグマンガによくある、実験に失敗した博士みたいな髪型になっている。だが、以前のように悲観的な考えが浮かんでくることは無かった。

 以前は、暇さえあればくだらないことを考えて感傷に浸っていた。将来を悲観したり、どうすれば楽に死ねるだろうかと自殺の方法を色々考えたりなどしていた。だが、家出をしたあとの一件がひと段落した後、くだらないことに悩み続けるのが馬鹿馬鹿しくなった。家出騒動以降、毎日夜遅くまで勉強するようになったが、意外と苦痛ではなかった。

 自室でラジオを聞きながら勉強するのだが、ある日、面白い番組があるのを発見し、それを聞くのが楽しみになった。前日の夜もラジオを聞きながら勉強していて、そのまま勉強机に突っ伏して眠りに落ちてしまったのだ。その結果、いつも乗る時間帯の電車に乗り遅れ遅刻してしまった。

「フッ、オレって結構単純だな……」

 今までの自分のことを思い起こし、一人寂しく笑った。

 広げたハンカチで手や顔を拭きながら腕時計を見ると、授業開始三分前だった。

「げっ、もうこんな時間かよ……」

 オレは、大慌てで教室へと戻ったのだった。 

 数日後、たまたま学校近くの本屋で面白い本を見つけた。その本には、面倒くさがりなオレでも続けられそうな勉強法がいくつか載っていた。値段が少しばかり高かったが、その場で購入を決めたのだった。流石に勉強法を変えないと身が持たないと思い始めていたので、渡りに船だった。

 帰りの電車の中で詳しく読んでみると、これが結構面白くて、時間が経つのも結構早かった。

 気がつくと車内には誰もおらず、電車は東京方面へ折り返す準備を始めていたところだった。

「お客さん、ここで降りるんだろ? 早く降りてくれなきゃ、出発できないよ」

 車掌が苛立った様子で声を掛けてきたので、オレは謝りながら急いで降りた。

 運転士が東京側、車掌が反対側の乗務員室にそれぞれ移動し、行き先表示幕がクルクルと回って転換した。

 車掌が笛を吹いてドアを閉めると、オレンジ色の電車は速やかに走り去った。 

 電車が走り去るのをぼんやりと見送った後、改札を抜けて駅前駐輪場に向かった。

 本を買った日以降、乱れがちだった生活習慣を改め、勉強法を変えたおかげもあってか、成績が面白いぐらいに上がった。

 ただ、その上がり方が急激だったためか、オレがテスト中にカンニングしているという、根も葉もない噂が流れた。一部の者から陰湿な嫌がらせを受けたり、噂を真に受けた先生に疑いの目を向けられたりと散々な目に遭った。大した取柄も無いオレが、急に成績を上げたとなれば、疑われても仕方が無いのかもしれない。 だが、それだけの理由でなぜこんな嫌な目に遭わねばならないのだろうか。あまりの理不尽さに憤り、精神的にも追い込まれたオレは数日間、学校へは行かず、自宅に引き篭もった。

 そんなある日の夕方、なんと自宅に久松が訪ねてきた。誰にも会いたくない気分だったオレは、彼がオレの部屋に入って来るのを拒んだ。  

「何だよ。人がせっかく心配して、見舞いに来てやったというのに」

 彼は、ドアの向こうからオレに呼びかけてくる。 

「うっせえな、放っておいてくれよ。どうせ、オレは誰にも信用されて無いんだよ!」

 オレがそう怒鳴ると、久松は黙り込んでしまった。

 しばらくすると、久松はおそるおそる部屋に入ってきた。

「ねえ、いい話を持ってきたんだけど。どうか聞いてくれないかな?」

 彼は、そういうと床にリュックサックを置き、中から一冊の本を取り出した。

 表紙には電車の写真が載っていて、

『交通公社の時刻表 冬の臨時列車ご案内』

 と書かれている。

「時刻表が一体どうしたんだ? つまらない話なら帰ってくれ」

 今は、久松のマニアックな話など、聞きたくも無い。

「まあまあ、そんなこと言わないで聞いてくれよ」

 彼は苦笑しながら、時刻表を開いた。

「卒業旅行のことなんだけど、どこへ行きたい?」

 なんだ、そんな話か。

「なぜ今、その話をするんだ? いくらなんでも気が早すぎるだろ」

 オレはイライラしながらも行き先を考えたが、結局思いつかなかった。

「まあ、今はそんな気分じゃないよね?」

 彼なりにオレを励まそうとしてくれているのだろうが、はっきり言って鬱陶しい。

「分かっているのなら、最初からそんな話をするな」

 彼と話をするのが面倒になってきたので、ベッドに寝転んだ。

「ごめん、北山。それじゃあ、帰るね」

 久松は、残念そうに時刻表をリュックサックに入れる。  

 リュックサックをさっと背負うと、オレを指差した。

「明日は絶対に学校に来てね。先生も心配しているよ」

 彼はそう言うと、部屋から出て行った。

 翌朝、母さんは部屋に入ってきて、オレを叩き起こした。

「隆、今日こそ学校に行きなさいっ!」

 掛け布団が奪われたかと思うと、竹刀で思いっきり頭を叩かれた。

「何すんだよ、痛いじゃねえか!」

 オレは、あまりの痛さと腹立たしさで絶叫した。

「まったく、いつまで部屋に引き篭もっているつもり?」

 母さんはそう言うなり、オレをベッドから引きずり出した。

 その後も色々あったが、三年生の夏頃には、皆色々と忙しくなって噂をするのも面倒になったのか、カンニング疑惑も消滅した。そして、受験も無事に乗り切り、オレと久松は、それぞれの志望の大学に合格することができた。 

 卒業式の数日後、オレと久松は旅に出た。一日目は、朝早くに奥多摩を出発し、途中駅で隣町に住む久松と合流。拝島駅で八高線のディーゼルカーに乗り換え、八王子駅を目指す。 八王子駅からは、中央本線・飯田線の急行こまがねに乗り換えて、飯田線の天竜峡駅を目指す。天竜峡駅からは普通列車に乗り換えて城西駅で下車。渡らずの鉄橋を訪ねた後、水窪駅へ移動して駅近くの旅館で宿泊。

 二日目は、久松の父親が勤める横川運転所周辺を散策したり、写真を撮るなどした後、長野県内の温泉旅館で宿泊。

 三日目は、朝早くに旅館を出て、特急あさまで大宮駅を目指す。大宮駅で川越線に乗り換えて、あとは八高線経由で奥多摩に帰るだけとなる。旅程はあまり事細かく決めてしまうと面白くないので、ざっとこんな感じになった。

 前日の夕方、彼の自宅に電話を掛けて、翌日のことを話し合った。そして翌朝、まだ空が暗い時間帯に起き出して荷造りをして自宅を出た。

 始発列車はあまり人が乗っておらず、殆ど貸し切り状態だったが、途中駅で久松と合流してからは、徐々に乗客が増え始めた。八王子駅に到着する頃には、恐ろしいぐらいに車内が混み合った。

「すみません、降りるので退いてくれませんか?」

 俺達二人は、周りの乗客に何度も謝りながら、なんとか列車を降りることができた。四番ホームに移動してしばらく待っていると、遠くのほうから警笛の音が聞こえてきた。

「間もなく、四番線に急行こまがね一号天竜峡行きが参ります。白線の内側に下がってお待ちください」

 やがて、ダークグリーン地にオレンジ色の帯を巻いた急行形電車が姿を現した。所定の位置に静かに停車し、ドアが開くと何人かの乗客が降りてきた。反対側のホームには丁度、オレンジ色の快速電車が停車しており、駅員が乗客達を車内に押し込んでいるのが窓越しに見えた。

「間もなく発車致します、駆け込み乗車はおやめください!」

 車掌は笛を吹いたあとにドアを閉め、すし詰め状態の電車は走り去った。

 そんな光景を眺めていると、こちらのホームの発車ベルも鳴った。列車の発車を知らせる放送の後、車掌の笛の音が聞こえ、ドアが静かに閉まった。軽くガタンと揺れたのち、急行こまがねはゆっくりと走り出した。

「この電車は、急行こまがね一号天竜峡行きです。次は大月、大月に停まります。」

 八王子駅から天竜峡駅までは、約五時間の道程である。途中、小仏トンネルや笹子トンネル、大日影トンネルなどいくつかの峠越えをするが、このあたりは大雨による運転規制がかかりやすい。また、小仏トンネルの断面が小さいため、屋根やパンタグラフの高さを抑えた設計の電車でなければ通過できない。

 甲府駅以西は、最大勾配千分の二十五の上り坂が連続する。小淵沢駅を過ぎると長野県に入る。この辺りは標高が九百メートルを越えていて、夏でも比較的涼しい高原地帯だ。富士見駅からは下りに転じ、二駅通過した後、茅野駅、上諏訪駅、下諏訪駅、岡谷駅の順に停車する。

 岡谷駅を出ると、飯田線との分岐駅である辰野駅に三分間停車。全十一両のうち、前七両を切り離す。切り離された前七両は、大糸線南小谷駅まで乗り入れる急行アルプス一号となる。残りの後ろ四両は、急行こまがねとして飯田線に入り、終点の天竜峡駅へと向かう。

 昼食は車内で取ることにしたが、途中駅で駅弁を買う時間は無い。そこで、事前に予約しておいた駅弁を八王子駅の改札内コンコース売店で受け取る形にした。買ったのは「鳥めし」で、ひとつ八百円程だった。

 五時間ずっと何もせずにボックスシートに座っているのは苦痛なので、久松とトランプをしたり、景色を眺めたりなどして時間を潰した。




この章に登場する列車のダイヤは、時刻表マニアの人が作っているサイトに掲載されていた、1983年当時の時刻表を参考にしました(2015年7月18日現在、参考にしたホームページは消滅しています。サイト名やURLは公表しませんのであしからず)。
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