「次は、伊那大島、伊那大島です。」
いつの間にか眠っていたオレ達は、電車が飯島駅を発車した辺りで目を覚ました。オレは大きなあくびをしたあと、久松に尋ねた。
「天竜峡まであとどのくらいだ?」
彼は、腕時計と睨めっこしながら答えた。
「うーん、あと一時間ぐらいかな……」
時刻表を見ないですぐに答えられるのは流石だ。彼は、普段から時刻表を持ち歩いていて、暇さえあれば読んでいる。過去の時刻表もいくつか持っていて、最新刊が出ればすぐに購入するそうだ。過去の列車のダイヤと比較し、色々と考察するのが楽しいらしい。それにしても、彼の記憶力の高さは異常だ。
「ああ、ありがとう。それにしても、お前の頭の良さは羨ましいなあ……」
オレがそう言うと、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。
突然、久松の腹がグウと鳴った。
「あっ、そうだ。弁当を食べなきゃ」
彼の一言をきっかけに、オレの腹もグウと鳴った。
「あはは、それもそうだな」
オレは、自分の隣に置いていた駅弁を取り、そのうち一つを彼に渡した。フタを取ると、鳥めしの美味しそうな香りがした。
鳥めしを食べながら地図を見て、今夜の宿をどうするか話し合った。その結果、渡らずの鉄橋を撮影後に水窪駅まで戻り、駅周辺の宿に宿泊すると決めた。
電車は市田駅に停車した後、元善光寺駅を通過。その後、またいくつかの駅を通過し、飯田駅、伊奈八幡駅の順に停車。終点の天竜峡駅に近づくと、スピードを落とし始めた。
「間もなく、終点天竜峡、天竜峡です。降り口は……」
電車はゆっくりと駅に入線し、定刻に停車した。オレ達は、それぞれの荷物を持って、駅のホームに降り立った。だが、人影は疎らだ。どうやら、オレ達以外の乗客の大半は、途中の駅で降りたようだ。車掌に訊けば、駅周辺には川下りの船の乗り場や温泉などがあるらしい。そのため、行楽シーズンなら、観光客がたくさん来るそうだ。
「やれやれ、やっと着いたぜ……」
いくら急行電車のシートと言っても、長時間座っていれば誰でも疲れる。
ここからは、普通列車に乗り換え、目的地の城西駅を目指す。 城西駅までは、一時間二十分程の道程だ。
「お疲れ、あともう少しだよ」
久松がオレを労ってくれるのはありがたい。だが、彼の屈託のない笑顔を見ていると、何だか申し訳なく感じる。こんな辺鄙なところに来るぐらいなら、著名な観光地を効率よく巡った方が良かったかもしれない。
「ああ、オレってほんとに計画性のない奴だよな……」
オレが己の融通の悪さに自己嫌悪していると、彼はポンとオレの肩に手を置いた。
「今更、そんな事言ったって仕方ないだろ。たまには、こんな旅も良いもんだよ」
オレはそう言われて、ある日の放課後のことを思い出した。放課後誰も居なくなった教室で、彼と二人きりで色々と話した。
特に記憶に残っているのが、彼が父親の仕事について話してくれたことだった。
彼の父親は、横川運転所に勤務しており、めったに家には帰ってこない。そのため、彼が父親に会えるのは、正月休みの数日ぐらい。しかし、彼はそんな父親を憎むどころか、むしろその仕事に憧れを持っているらしい。
彼の話を聞いて、碓氷峠に行きたいと言い出したのはオレだった。彼は、オレの提案を嫌な顔一つせず、聞いてくれた。そして、卒業旅行の大まかな日程が決まったのだった。
「ああ、この旅を決めたのはオレの方だったな。ありがとう、久松」
オレがそう言うと、彼は照れくさそうに顔を背けた。
しばらくすると、オレ達が乗ってきた電車は扉を閉め、隣のホームへと移動を始めた。彼がその様子をカメラで撮る横で、オレはホームに掲げられた時刻表を確認する。
「ああ、もうすぐ来るな」
どうやら、次に乗る豊橋行きの電車は、数分後に来るようだ。急行形電車が隣のホームへの移動を終えると、久松は満足そうに頷いてファインダーから目を離した。
「なあ、そのカメラはお前のか?」
彼が手にしているカメラは、国内の有名なメーカーのロゴが書かれており、いかにも値段が高そうなものだ。
「ああ、これはお父さんが買ってくれたんだ。十万ぐらいしたよ」
彼は嬉しそうにカメラを見せてくれた。
「じゅ、十万!?」
オレが持っているカメラは、父さんのもので、安物のオンボロだ。
「一眼レフのカメラだから、十万はまだ安いほうだよ」
オレは、久松のその言葉に思わず卒倒しそうになった。何とか気持ちを落ち着けたオレは、速やかにカバンに入れるよう促すのを忘れなかった。
そんなやり取りをしているうちに、豊橋行きの電車がホームに入ってきた。水色に白の帯を巻いた真新しい電車だった。
「ああ、飯田線に新しく入った電車だね」
久松はその電車を見て、そう呟いた。
「あれ、鶴見線と同じような電車が走っているんじゃなかったのか?」
彼に詳しく話を聞けば、夏までには飯田線内の旧型国電全てが新型車両に置き換えられるそうだ。 でも、今ならまだ旧型国電に乗れるらしいから、非常に楽しみだ。
旧型国電に乗ったのは鶴見線の時以来だが、あの独特の乗り心地は忘れられない。
内装の木材のニスの匂いや白熱電球の柔らかな明かりは、特に印象に残っている。グワーンとモーターの唸る音は何度聞いてもいい音だった。また、運転席のブレーキ操作は少し特殊なもので、見ていて面白かった。運転士がしきりにブレーキハンドルを左右に動かして、所定の位置にぴたりと停車させていた。
「また旧型国電に乗れるといいね」
「ああ、そうだな」
オレと久松は、以前のことを思い出しながら、真新しい電車に乗り込んだ。ドアが閉まると、電車はスムーズな加速で天竜峡駅を離れた。
「次は、千代、千代です。」
車掌がそう言い終わってすぐに長いトンネルに入った。
インターネットや本で調べると、1980年代初頭までは、飯田線にも「旧型国電」や「流電」と呼ばれる戦前生まれの電車が走っていたそうですが、1983年のダイヤ改正で119系と呼ばれる新たな電車が登場すると、次々と姿を消して行きました