鈴木よしお地獄道   作:埴輪庭

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鈴木よしおとホスト君

 ◆

 

 2022年7月22日、西野 瞳は駅のホームから身を躍らせ、通過しようとする電車に衝突して死亡した。

 遺書も何もない突然の自殺だった。

 下記はここ最近の彼女のSNSの書き込みである。

 

 にしみるひとみる@hi103ooo

 

 2022年2月19日

 少しバイト増やそうかな( ˘⊖˘)

 

 2022年2月22日

 こうきがいいバイト紹介してくれるっていうから話しきいてみたけど(꒪ཀ꒪)うぇー!でも、お店に通えなくなるのは寂しいな。

 

 2022年2月27日

 今のバイトだけだと少しきつい。話だけきいてみよかな

 

 2022年3月6日

 気分悪い

 

 2022月3月7日

 肌荒れ。ストレス。

 

 2022年3月14日

 初めてお店の人呼んじゃった。

 

 2022年3月26日

 中に出された。死にたい

 

 2022年3月27日

 死にたいよ、でももう少しで目標まで溜まる。頑張る。

 

 2022年3月29日

 生誕祭までにぎりぎりでお金作れてよかった!(ꈍ﹃ ꈍ)

 これからお店いく!

 久々に自然にわらえそ(*❛⊰❛)♪♪

 こうきがランカーに入れたら…どうしよう、笑いがとまらんっ

 

 2022年3月30日

 来月も続くんだね。でも頑張るからね。

 

 2022年5月3日

 食欲がない。変な斑点もでてる。コンシーラーで消せばいいのかな

 

 2022年7月1日

 お店にいけなくなっちゃった

 

 2022年7月16日

 よかった、こうきは元気そう

 

 2022年7月22日

 そうなんだね

 

 ◆

 

 西野 瞳は何の変哲もない女子大生だ。

 

 少し垂れ目で、笑うとえくぼの出来る可愛らしい顔立ちをしているが、特筆すべき点はない。

 髪の色は栗色で、いつもポニーテールにしている。

 育ちが良いといっていいのか、良い意味でも悪い意味でも擦れていなかった。

 

 人並みに悩みはあるが、何も深刻なものではなく、バイト先のお局社員とやや関係がよくない事がここ最近の悩みだろうか。

 

 しかし、それを酒田美穂に相談してしまったのが運の尽きであった。

 

 ◆

 

 2022年1月16日

 

「そっかぁ…しんどいよね…あ!そうだ、じゃあさ、気分転換してみない?ホストクラブ行った事ある?え?んーん、全然怖くないよ、昔はそういう事もあったかもしれないけれど、いまは規制?っていうのかな、よくわかんないケド。そういうのが厳しくなったみたいで、むしろお客さんを大事に大事に扱うような店が増えてるんだよー!それにお金も初回は3000円だよ!2時間ね、しかも吞み放題!」

 

 友人の酒田美穂のその言葉に、瞳は心がぐらっと揺らいでしまった。

 

 ――3000円かぁ

 

 かっこいい人がお姫様扱いしてくれて、2時間で3000円というのは…ひょっとして物凄くお得なんじゃないだろうか?

 

 それはひょっとしなくても物凄くお得であるには間違いないのだが、その時の瞳には高いもの、安いものには相応の理由があるのだという事を字面では分かっていても、実感としてはさっぱり理解出来ていなかった。

 

 酒田美穂にした所で、瞳がまさか“あんな事”になるとは思ってもいなかった。

 彼女は友人が少し元気ない事を心配して、少しぱーっとやろうと誘ったに過ぎないのだ。

 

 ホストといえば料金が心配になるが、初回なら話は別だから問題ないだろうと思ったのだ。

 

 ◆

 

 2022年1月20日

 

 高崎 弘毅はT都の某所で一人暮らしをしているホストである。

 

 務めている店は都内でもそれなりに有名店で、弘毅はそこの新入りとして去年の10月頃入店した。

 

 顔立ちは整っている。

 身長も180センチ近くあり、体つきもしなやかな筋肉がついていて均整が取れていた。

 髪の色は赤みを帯びた茶色で、耳にはピアスをつけており、その風貌からしていかにもチャラい男という印象を受ける。

 だが彼はこう見えてもいいところのボンボンだった。

 

 高崎家というのはこういっては何だが所謂成金一家であった。父親は一代にして会社を急成長させたやり手の社長だ。

 

 母親は居ない。

 弘毅は父親がどこぞの顔だけは整っている水商売の女に充分な金を払って産ませたのだが、金で買われた事がやはり弘毅への愛情の欠損に繋がったのであろう、やがて弘毅を虐待しはじめ、それを知った父親から離縁され追い出された。

 

 弘毅は歪んだ。

 当たり前である。

 母親から虐待されて、まっすぐ正常に育つわけがない。

 

 そんな弘毅を父親は不良品と見做し、結果として親としての愛情を注ぐ事を放棄した。

 

 このような家庭に育った弘毅は父の背中を追うようになる。

 なぜなら父親と同じような人間になれば愛情を注いでもらえると思ったからだ

 

 父親のように一人前の、強い、冷酷な男になるのだと。

 成り上がるのだ、と。

 その為には女に多数の男の中から選ばれるような存在にならなければいけない、それが正しいかそうでないかはともかく、弘毅はそう考えた。

 

 そこで選んだ職がホストであった。

 そしてある時出会った女が西野 瞳であった。

 

 ◆

 

「瞳さんっていうんだ?女優みたいな名前だね。でも名前だけじゃないよなぁ、品があるもん。俺なんかでも話してて分かるって相当だよ」

 

「…なんだか今日は疲れてるみたいだね、話を聞くのが俺の仕事…といいたいけど、仕事とは関係なしに何か力になれないかな。力になれなくても愚痴るだけでも大分違うとおもうよ」

 

「ああ。この傷?昔、ちょっとね。母親からつけられたんだ。わ、そんな顔しないでよ。こういう仕事をしてる奴なんて1つや2つ、そういう過去があったりするもんだよ。俺ももう慣れた…けど、たまに辛くなる事もあるんだ。…え?話を聞いてくれる?嬉しいな、お礼に帰りに何かご馳走させてよ、いいからいいから!普段お店にきてくれてるんだからさ」

 

 弘毅は楽しかった。

 自分のうわっつらの言葉で感情をふらふらと揺らし、急速に好意を募らせていく馬鹿な女の反応を見ているのが。

 

 それと同時に大いに自尊心を満たす事も出来た。

 弘毅は両親から“要らないモノ”扱いをされてきた。

 ゆえに、自身を必要としている瞳の反応は彼にとって心地よいものだった。

 

 弘毅は瞳と急速に関係を深め、ものの2ヶ月やそこらで瞳の心を完全に掌握してしまった。

 

 瞳は弘毅の言うがままにボトルを入れるようになり、使う金の額が跳ね上がっていく。

 貯金を使い込み、消費者金融にも手を出し…

 最終的に体を売るようになるまではさほど時間が掛からなかった。

 

 それでも瞳は弘毅に尽くしてきたのだ。

 なぜなら弘毅が言ったからだ。

 ランカーになったら店をやめる、と。

 そしてカタギの仕事をして、瞳の両親に挨拶にしにいきたいと。

 

 瞳は文字通り、全身全霊でそれに応えた。

 体を売り、心を切り売りし、方々から借金をした。

 花の命は短いという。

 しかし瞳は花より遥かに早い速度で消耗していった。

 骨ばって肌の色艶を失った女でも、若ければ抱きたいという男は居る。

 

 しかし女としての“色”を失った瞳を、弘毅は切り捨てた。それでも瞳は店に通い詰め、やがて出禁となった。

 

 ◆

 

 2022年7月1日

 

「8位になれたよ、ありがとう。美紀」

 

 営業終了後、瞳がいつものようにせめて遠くから見ようと待っていたとき、弘毅が瞳ではない女性に甘い言葉を囁いている所を瞳は聞いてしまった。

 

 それはホスト遊びをする女性ならある意味で割り切らなくてはいけないことだったが、瞳には割り切る事ができなかった。

 

 瞳は仲睦まじく腕を組んでホテル街へ去っていく二人の背を黙って見つめていた。

 

 その頬には一筋の透明な液体がつたっていた。

 

 ◆

 

 2022年7月30日

 

 廃ビルの一室。

 度重なる心霊現象に悩まされた高崎 弘毅は実家のツテを利用して、1人の凄腕霊能者を雇った。

 というのも、身辺に異常が発生したからだ。

 その異常というのは、いわゆる心霊現象である。

 

 メイクの為に鏡をみていたら、肩口に痩せこけた女が…瞳が不気味な笑みを浮かべながらこちらを見ていたり。

 

 電車待ちをしていたら、線路のほうに足首を引っ張られたり。

 

 それらの現象は一体どういう意図で起こされているのかをじっくり考えれば、恐怖よりもどちらかといえば憐れみが浮かぶのだが、当然弘毅にはその様な余裕はなかった。

 

 弘毅が雇った霊能者は界隈ではかなりの凄腕で、その男が言うには出来るだけ陰気がたまりやすく、人目が少ない場所がいい…というので、除霊の場所はとある夜、とある廃ビルの一室で行われる事になった。

 

 ちなみに他の霊能者からは軒並み断わられた。

 弘毅に向けて、“そんなものを連れてくるな”と怒鳴りつけた者すらも居た。

 

 依頼を受けてくれたのが件の中年男性だった、という話である。

 

 問題はその中年男性が、廃ビルの一室に入るなり弘毅を拘束し、何か呟いたかと思うと、これまで弘毅をおびえさせてきた“奴”を呼び出した事だ。

 

 ◆

 

 

「な、なんで俺を…」

 

 震えながら口を開く弘毅の前に、スーツ姿の1人の中年男性が立っている。中年男性は静かに見下ろしながら答えた。

 

「大丈夫、大丈夫です。彼女は弘毅君を愛しているだけなんです。愛しているからずっと一緒に居たいんです。死が2人を別つまで、どころの話じゃない。例え死んでも彼女は弘毅君と居たいんだ。確かに僕は弘毅君から除霊を頼まれました。でも、ねえ。僕には愛を妨げる事は出来ませんよ。僕はここにきた途端に彼女が近くにいることを知った。感じた。同時に、彼女に何が起きたのかも。弘毅君は彼女に酷い事をした。その…その…その、愛を…愛を…ッ!」

 

 殺意に濁った中年男性の眼が弘毅を見据える。

 中年男性の手がぶるぶると震えている。

 怒りを押さえつけているのだ。

 突如男性を襲う発狂の波!

 ともすれば、中年男性は弘毅を挽き肉にしたくて仕方が無かった。

 

 だが中年男性が我慢できずに弘毅の首を千切ってしまおうと手を伸ばすと、その腕に黒い靄に覆われた手がそっと置かれた。それはまるでやめてくれと制止しているようで。

 

「すみません、瞳さん。もう落ち着きました。…そう、弘毅君は彼女の愛情を利用した…利用するだけ利用して、そして最後は捨てたんです。瞳さんも弘毅君を妄信してしまったという負い目はあります。親子でも夫婦でも恋人同士でも親友同士でも、人は条件さえ揃えばどれほど想いあっていようが相手を裏切ってしまうものだと言うのに。愚かです。しかし愚か者にしか愛は貫けないのでしょう。…僕は見たいんです。愛の逝く先を。瞳さんは僕に愛の1つの形を見せてくれると約束してくれました。だから僕は弘毅君との依頼を破棄するのです」

 

 よしおが軽く横を向く。

 そこには暗い影が佇んでいた。

 

 ――コウキ、コウキ

 

 ゴボゴボという音、そして悲しみを多分に含んだ囁きがその場に響き渡る。

 

 おいふざけるな、お前は死んだんじゃねえのかよ。お前は勝手に店に通いつめて、それで勝手に俺に惚れて。それで勝手に掛けで吞んで!払えないっていうんでソープを紹介してやったのは俺だぞ、俺のお陰で借金を返せるようになったんだろうが。ソープで働かなくてもいいって言ったよな。なのにお前が勝手に勘違いしたんじゃないのかよ。

 

 そんな想いが弘毅の脳裏を過ぎる。

 

「や、やめろ!!!そいつを、俺に近づけるなァーーッ!!!お、お、おっさん!テメェ!俺にこんな事をしてタダで済むと思ってるのかよ!!」

 

 弘毅が恐怖で喚き散す。

 その時、視線の先に2人の男女が立っている事に気付いた。

 

「おい!あんたら!!誰でもいいけどこいつらを止めろ!!殺される!!!」

 

 弘毅は中年男性を指差して叫んだ。

 

 男性は鋭い眉毛と通った鼻筋が印象的な顔つきをしており、瞳は深い黒色を帯び、意思が強そうな眼差しをしていた。スーツの上からでも筋肉質な体型だと分かる。

 いかにも只者ではない、そんな雰囲気だ。

 

 其れも当然だろう。

 この男性の名前は宍戸琢磨。

 日本の霊能力者界隈でも大組織に分類される一大退魔組織、『巫祓千手』の構成員である。

 組織のベテランであり、新入りの教育も担っている。

 

『巫祓千手』は、日本において古くから伝わる巫術を基に退魔活動を行っている。主に怨霊や悪霊に憑かれた人々を救済することを目的としており、また、それらの霊的存在が人々に害を及ぼすのを防ぐため、活発に除霊活動を行っている。活動は全国規模に渡り、各地に支部を持っている。支部は地域の特性に応じて、独自の退魔方法を編み出しており、時には協力して大規模な除霊作戦を行うこともある。

 

 女性は繊細な顔立ちと薄紅の唇が特徴的で、髪は黒髪でロングヘアーをなびかせている。顔周りの雰囲気は上品で、優雅さを感じさせるが、瞳は鋭い黒色で、何かを探るような視線を放っている。

 手足は華奢で、整ったスタイルと締まったウエストから、柔らかな曲線美が伺える。

 

 彼女の名は烏丸明日香。

 琢磨と同様に『巫祓千手』の構成員で、組織の新入りだ。

 ベテランの琢磨と最近バディを組んでおり、成長いちじるしい。

 

 そんな2人は無表情で弘毅の切羽詰った様子を見つめていた。だがその無表情の裏で2人の思考は目まぐるしく回転していた。2人はたまたま通りかかった廃ビルから、怖気をもよおす妖気…陰気が漂っている事に気付いてこの場にやってきたのだ。

 

『巫祓千手』という組織は市井の霊的守護も組織の理念として掲げている。無報酬というわけではなく、こういった場合では国から報酬がだされるのだ。

 

 やがて男の方が中年男性に向けて声をかけた。

 だがその声色は諦念に満ちており、多分に投げやりなモノが混じっている。

 

「なあ、貴方は鈴木だろう?鈴木よしお。噂は聞いているぜ。落ち着いてくれ。貴方が怒るのも分かる。俺達も“そういう仕事”なんだ。『巫祓千手』は聞いたことあるんじゃないのか?だからそこの悪霊がそいつを呪い殺そうとする理由だってなんと無く分かるよ。感じるんだ…。そいつは殺されて当然な事をしたんだろうな。でも仕事は仕事なんだ。街の者達に害を齎す悪霊を祓うのが俺たちの仕事さ。これを邪魔をするなら俺達も“対処”をしなければいけなくなる」

 

 そう言って男は腰に差した刀に手をかける。

 それを見ていた女の方は無言のまま懐から拳銃を取り出した。どちらも本物であり、銃刀法違反などという法律は存在しない闇の世界の住人なのだ。

 

 鈴木と呼ばれた男性…鈴木よしおは眼前の男女の携える得物を見ても些かも動揺していなかった。

 

「社会的制裁ってあるじゃないですか。社会的制裁を受けたから許されるべきって風潮はさすがにまだありませんが、それが1つの区切りとなっている事は事実です」

 

 突然奇矯な事を言い出したよしおに琢磨は警戒の度合いをあげる。傍らを見る限り、明日香は怪訝そうな表情は浮かべてるものの警戒まではしていない。

 

(馬鹿が!この男を今の状態だけで判断してやがるな。新入りだから仕方ないとはいえ、俺達が今生きるか死ぬかの瀬戸際だと感じないようなら、この女も遅かれ早かれ悪霊に殺されて死ぬだろうな)

 

 ◆

 

 バキバキと、何か硬いモノが砕ける男が聞こえる。

 それはよしおの犬歯が砕ける音であった。

 よしおは先ほどから体を震わせていたが、その震えは語りを進めていく内に激しくなっていく。

 

「…礼子と信二も、その社会的制裁をうけました。年収二千万を超えていたエリート証券マンがいまや四百万を超えるかどうかといったところです。しかしざまぁみろとも思えないのです。僕は、あの2人の首を引き千切りたいほどに憎んでいる」

 

 口調は冷静だ。

 しかしよしおの口の端からは血が滴っていた。

 

「しかし、同時に“あの頃”へ戻りたいと思う気持ちもあるんです。憎しみと思慕が同居しています。全身全霊で憎めたら、或いは何もかも許して仕舞えたらどれほど楽でしょう。中途半端なんです、僕という人間は。思えば礼子は、僕のそんな部分を厭ったのかもしれない。男らしくない、とね」

 

 よしおの眼輪筋…瞼の周辺の筋肉がピクピクと痙攣していた。

 

「ねえ、ちょっと。貴方さっきから何を話してい…」

 

 明日香がよしおの話を遮った。

 琢磨はあわてて明日香を制止しようとしたが、既に遅かった。

 

「俺の話を聞けえええェェェエエエエエッ!!!!」

 

 天ぷら油火災というものがある。

 火の入った天ぷら油に水を注ぐと高温となった油が水と接し、水が気体へと変化し、油を弾き飛ばすのだ。

 弾き飛ばされた油は炎上しながら爆発的に吹き出す。

 決して交じり合わない水と油に熱を加えた結果が水蒸気爆発という悲劇を生み出す。

 

 よしおの精神世界でもまさにそれと同じ事が起こっていた。

 自身を裏切った二人への憎しみと、捨てきれない思慕が無理矢理に混ぜ合わされ、そこに感情の昂ぶりという火を加える事で大爆発を起こす。

 

「さっきから何を話してるって言ったんですか。僕はずっと話してきたのに。話したいと…このままでは良くない事になる。そう思って話をしようと言ってきた。でも礼子は“大丈夫、少し疲れてるだけよ”と。そういった。気付いた時は遅かった。全部遅かった。俺は僕は俺は俺は馬鹿だった…。…必要な事は!!!」

 

 よしおの感情に灯った炎が激しく燃え盛る赤い灼炎から、静かに立ち昇る蒼炎に温度を変じた。

 これは比喩ではない。

 現実に室温がどんどん上がっていっている。

 

 よしおの霊力が部屋中に拡散され、それが彼の感情に引きずられるようにして熱を帯びていっている。

 

 室温は既に30度を超え、32度、34度…38度、40度と上昇を続けていた。

 

 明日香のちょっとした一言が引き金となって、過去のトラウマが想起されてしまったのだ。

 

 夫婦の関係に危機感を感じたから会話の席を持とうとしたのに、それが全く聞き入れられない…明らかに礼子が何かに悩んでいる事は分かっていたのに、“本当に何かしんどいことがあるならあちらから相談してくれるだろう”などと考えた自身への怒りが、無差別の霊的熱殺兵器としてその場の全員を焼き殺そうとしている。

 

 よしおは既に過去と現実の区別がついていない。

 霊的干渉が強い空間内では人は己の負の面が表層に浮かびやすくなるのだが、これがよしおには覿面に作用してしまうのだ。

 

 彼が除霊の際にちょっとした事で発狂してしまうのは、これが大きな原因だった。

 

 明日香が恐慌をきたし、よしおに銃撃を加える。

 彼女にはよしおが同じ人間だとはとても思えなかったのだ。

 琢磨から以前に業界の厄物、鈴木よしおについては説明されてはいたが、話で聞くのと実際に接するのとでは余りにも大きすぎる違いだった。

 

(悪霊退散!!)

 

 明日香は銃使いで銃弾に祝福し、退魔の力を持たせる事が出来る。ゆえに悪霊の類であっても銃は通用する。

 ちなみに当たり前の話だが、悪霊でもなんでもない人に撃ったなら、銃弾は肉体を損傷を与えてしまうだろう。

 その辺は通常の銃と同じだ。

 

 だが…。

 よしおの肉体を引き裂こうとした銃弾はしかし、宙空で消え去ってしまった。

 

 空中で溶解したのだ。

 その時琢磨と明日香は見た。

 

 よしおが無秩序に振りまいていた狂気が、指向性を帯びた敵意に変わり、見る間に害意へと変じていくのを。

 

 よしおの膨大な霊力が周辺へ拡散し、それが彼の精神世界を焼く猛火の温度を可能な限り伝導したとしたら、半径800メートル以内の大気は90度超の高熱に熱されるだろう。

 

 ◆

 

「ひ、必要な事とは何だ!!教えてくれ!!」

 

 琢磨が叫んだ。

 途端に室温の上昇が停止する。

 狂気も敵意も害意も消失した。

 よしおのような精神不安定な者は突如として暴れたり、突如として落ち着いたりする。

 

 丸い、漆黒のビー玉のような瞳でよしおが琢磨を見て、やがて口を開いた。

 

「…必要な事は…寄り添う事だったんです。話の席を持とう…そういうしゃちほこばった事ではなく、もっと傍にいる時間を増やすべきだった…。会話とは、何も言葉で交わすもののみを意味する訳じゃないんです。心と心で、体と体で交わす会話もある。僕はそれに気付かなかったのです…」

 

 だから、とよしおは続けた。

 その視線は瞳の怨霊と弘毅に向けられていた。

 

「僕は彼女を、瞳さんを尊敬しているんです。僕より若いのに、言葉無き愛に気付けた彼女の事を」

 

 琢磨は“俺達を敵に回す事になるぞ”と言おうとしたが、その言葉は喉から出てこなかった。

 なぜならそんな事を言ったとしても無駄である事は明白だったし、琢磨自身としても彼の振る舞いには思う所があったからだ。優れた霊能者は霊的存在と感応し、その身に起きた事を察知したりする事も出来る。

 

 感得した情景によれば悪霊…瞳は随分な目にあってきたようだ、と琢磨はうんざりする気持ちを隠しきれずによしおに聞いた。

 

「彼女は、彼以外には興味がないというんだな?」

 

 琢磨の問いかけによしおは頷いた。

 よしおの反応を吟味し、琢磨は再び口を開いた。

 

「彼女がもし彼以外に手を掛けた場合には…」

 

 ――許せ゛な゛ァ゛ァ゛ァ゛イ゛!!!

 

 瞳の怨霊、弘毅、琢磨、明日香の全員が肩をびくりとさせた。よしおが絶叫したのだ。咆哮にはよしおの霊力が多分に込められおり、耳にした者達は皆、胸をかきむしりたいほどの悲しみと怒りの混合感情に苛まされた。

 弘毅などは目をぐりんとひっくり返し、爪を噛みながら涙を流していた。発狂寸前だ。

 

「そんなのは、そんなのは許せない…愛がない、そんなのは…そんなのは愛じゃないよ…なんでそんな事が思える?口に出せる…?」

 

 よしおはさめざめと泣いていた。

 よしおは期待していたのだ、瞳の決断に。

 

 襤褸切れの雑巾の様な扱いをされてなお弘毅への愛を貫き通すにせよ、復讐の念に駆られて弘毅へ罰を与えるにせよ、その行動は純粋な想いからなる尊い何かの結晶である。

 よしおはそれが見たいし、触れたいのだ。

 そうする事で、常に胸を焼くあの日の残り火が消えてくれるかもしれない。

 

 だというのに、琢磨の発言はその純粋な何かに下痢便をぶちまけるが如きものであった。

 それはよしおを激怒させはしなかったが、かわりに深い悲しみを与えた。

 

 琢磨はこれまで様々な“現場”を経験してきたが、よしおの傍にいるだけで頭がおかしくなってしまいそうだった。

 明日香の様子を窺うと呼吸が荒い。

 過呼吸寸前だった。

 

 潮時だな、と琢磨は思う。

 

「……彼は、俺達が駆けつけた時には既に怨霊にとり殺されていた。件の怨霊は彼を殺す事で満足し、去っていった。どこへ行ったのか、俺達にはわからない。或いは、彼女は彼を殺害する事で満足し、成仏してしまったのかもしれない…そうだな、烏丸」

 

 琢磨が言うと、明日香は頷く。

 

「は、はい…そうです…それでいいです、もう…もうここから出ましょう…」

 

 随分と憔悴しているようだ、と琢磨は明日香を気遣いながらその場から去って行った。

 

(クソ!今日はもうあがるか。ケチがついた。アレは厄物だ)

 

 琢磨はよしおを嫌っている。

 よしおは同業者から見てもいささかタチが悪い。

 

 ◆

 

「さぁ、邪魔者は去りました。瞳さん、弘毅くん。見せてください。愛が何かを。僕に教えてください」

 

 よしおの言葉に瞳はにっこりと微笑んだ。その笑みを目にしただけで常人なら正気を失い、廃人と化すほどの邪悪な微笑みだ。

 

 見る間ににょろにょろと瞳の首と手足が伸び、口から泡を吹き失神している弘毅に巻きついていく。

 

 ――コウキ、コウキ

 

 ――愛してるよ

 

 ――ずっと愛してる、いつまでも、いつまでも

 

 よしおは瞳がコウキの何かを吸い取っていく所をじっと見つめていた。それは命か、寿命か、精気か。

 

(存在だ)

 

 よしおはそう考えた。

 そう、瞳はコウキから何もかもを吸い取っている。

 

 ――コウキ、ずっと、一緒に

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 目の前には瞳の姿も弘毅の姿もない。

 ただ、茶色く変色した干乾びた猿の赤ん坊のようなモノが落ちていた。

 

 よしおはそれを革靴で踏みにじり、粉々にしていきながら独りごちた。

 

「…人は人である限り、世間で言われているような愛の在り方を実践なんて出来ません。愛とは無償の奉仕?無理な話です、どれ程に愛していようと所詮は他人でしかないのだから。でも他人で無くなれば?つまり、愛している相手が自身そのものとなってしまえば?それは愛の1つの完成形と言っていいのではないでしょうか…」

 

 よしおは軽く手を合わせ、廃ビルを去っていった。

 報酬はない。

 なぜなら依頼主が居なくなったからだ。

 

 しかしよしおは金よりも遥かに尊いモノを得た…のかもしれない。

 

 


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