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よしおの怪我は驚異的な速度で治り、火傷のあとも全く残らなかったため、すぐに職場復帰を果たした。
とはいえ数日間入院したために仕事も休んだのだが、不思議と職場からの追及はなかった。これは巫祓千手の手まわしなのだろうなとよしおは考えている。
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今日はよしお、晃、そして高野 真衣の三人でいつも通り現場を回っていた。
午前中に“特殊な現場”が二件。
休憩を挟んで、“普通の現場”が一件。
この特殊な現場はそれぞれ異なる“清掃ルール”がある。
例えば必ず下から上へ清掃を進めていかなければいけない現場や、指定の順番でエレベーターで移動しなければいけない現場、帰り際に特定のお供えものをしなければいけない現場などだ。
また、場所によっては特別な道具が必要な場合もある。そういう場合はあらかじめ指定されたものを用意しておかなければならないのだ。
更に、そういう現場の作業者には一定以上の、いわゆる霊感が無くてはならないとされている
これは言ってしまえばカーペットなどの掃除用具であるコロコロと同じ理屈だった。ある程度の吸着力(霊感)があることで初めて良くないモノを除去できる。
今回は特に変わったところのない一般的なビルだったが、それでも決められた手順通りに進めていく必要がある。
よしおたちはまず一階から始めていった。
今回の清掃場所はビルの二階なので階段を使う事になる。
そしてビルの二階、エレベーター前の踊り場。
よしおたちを呼び止める声があった。
それは一人の中年男性の声だった。
男性は大柄な体躯をしており、スーツを着ていた。年齢は50代後半くらいだろうか? あまり清潔感はなく、髪の毛には白髪が目立つ。
男は笑顔を浮かべながら近づいてくると、丁寧に頭を下げた。
しかしよしお達3人はそれに応じる事なく、無視をした。
なぜならその声に応じると、憑き纏われるからだ。
──今日の仕事内容を教えてください
──私は仕事がしたいんです
──いくらでも残業をします
──私はまだまだ働けますよ
男性は3人が無視して作業を続けているにも関わらず、ひたすら声をかけ続けている。
ぱちん、ぱちん
踊り場の蛍光灯が明滅する。
真衣がちらっとよしおを見ると、よしおは作業の手を止める事なく踊り場に置かれている物…マットだとかを除け始めていた。
「高野さん、それじゃあ洗剤を撒いてもらっていいですか」
よしおの声には些かも動揺の色はなく、そのあまりの平静さが晃や真衣を冷静にさせる。
ばち、ばち、ばちんっ
踊り場の蛍光灯はその明滅の激しさを強め、そればかりか何か唸り声のようなものまで聞こえてくる。
晃も真衣も、顔色は良くない。
だが一言も話す事はなかった。
なぜなら、何か話してしまえば“認識”されてしまうからである。
それは2人にも分かってはいたが、しかし理解は出来ても心がどんどん落ち込んでいく。
指の先は冷たくなり、足先は痺れ、呼吸がしづらくなり…
ぱぁん、という柏手(かしわで)の音がそれらを吹き払った。
よしおだ。
真衣はどことなく不本意しているよしおが、両の掌を合わせているのを見た。
柏手は基本的には神社に住まう神さまとの交信の作法…「二礼二拍手一礼」が有名だが、魔除けの作法でもある。
自身の生気…エネルギーを空間へ放出し、簡単に言えば縄張りの宣言をするのだ。
だが、それなら妖しい場では柏手を打ってればそれでいいのかというと、そういうわけでもない。
縄張りの宣言をするというのは多分に攻撃的な宣言であり、場合によってはその場に巣食う良くないモノを刺激することにもなりかねない。
更には生気に刺激されてより多くの良くないモノを惹き寄せてしまう事すらある。
ゆえに総務省消防庁霊的災害対策課では、陰を帯びたモノが良くないモノへと変わってしまう前に、それらを吹き払うという目的での使用が推奨されている。
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よしおの放った柏手は隔意と拒絶、不信と利己のオーラに満ちており、その場に蓄積しつつあった陰の気を吹き飛ばし、晃と真衣の精神からも陰を祓い、そしてそれを凌駕する不安感で上塗りした。
晃は、真衣は思う。
誰しもがいつかは自分を裏切るのではないかと。
表面的に親しくはできていても、本当に助けを必要としている時には背を向けて去っていくのではないかと。
唐突に彼らの心を陰鬱にさせているのは、よしおのオーラを浴びたからだ。
よしおは常に軽度の鬱状態にあり、それが生気にも滲んでしまっている。
もちろん柏手を打って一時的に祓わなければ晃と真衣はより深刻な霊的汚染を受け、体調は酷く悪化していただろう。
ともあれ晃と真衣はそんなよしおの色に一時的に染め上げられ、表情を暗くしていた。
先ほどのように手足が痺れ息苦しくなる状態よりはマシだが、それでも心は重苦しく、どことなく諦念めいたもので心が埋め尽くされていく。
「……休憩しましょうか。1時間ほど早いですが。降りましょう」
よしおが声をかけ、二人の腕をつかんでエレベーターへと連れていく。
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なお、あの場でよしおが根本原因を祓うという選択肢はなかった。
あのビルが霊的に健全な状態になれば、周辺からより悪性のモノが流れ込むからだ。
何でもかんでも祓えばいいというものではなく、そのあたりはフクザツなのだ。
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昼の休憩はよしおの作業車内で取ることが多い。晃も真衣も自前の弁当を用意している。ちなみによしおは帝城岩井という高級スーパーマーケットで購入した670円のサンドイッチだ。
「昼食を済ませたら、残りの作業をやります。…まあ多分、変なものはでないでしょう。そしてその後はNTビルのエントランスの日常清掃で今日は終わりです。知っての通り普通の現場です。30分もかからないとおもうので」
よしおがいうと、車の後部座席で晃と真衣が返事をする。
「それにしても車、でかいっすよね。一応マイエースなんですよね?」
晃が言うと、真衣も同意した。
「内装も立派だし。高級車なんですか?」
よしおは曖昧に頷いた。
よしおの作業車である『マイエースプラチナムラウンジ』は作業車の利便性と高級車の快適性を金に糸目をつけずに追及しており、最新の運転支援システムや先進の安全装備が搭載され、プレミアムな素材や緻密なデザインがふんだんに使用されている。
その価格は新車で1200万円といった所だ。
この価格帯の車は紛れもなく高級車と言っていいだろう。
(鈴木のおっさんはすごい稼ぎがありそうだもんなァ)
そう思う晃だが、これは正しい。
ただ、なんだったら前職以上に稼いでいるよしおだが、命の危険と天秤にかけても相応かと言われれば疑問ではある。
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「灰田君ってミューチューブとか観ます?私最近、気になってるチャンネルがあって」
真衣が晃に話しかけると、晃は頷いた。
「観るよ、音楽関係ばっかりだけど。あ、それと暴露系とか。ソレソレが結構好き」
ミューチューブは大手動画配信サイトであり、ソレソレとは暴露系というジャンルで一世を風靡する人気配信者で、チャンネル登録者数は200万人を超える。主に若年層を中心に人気を集めている。
「ソレソレさんは私も好きかも。でもメインはオカルト系が多いかな。心霊スポット巡りとか…」
変わってるな、と晃は思った。
心霊スポットなんてわざわざ動画をみなくても、仕事にいけばいくらでも行けるではないか。
「なんでわざわざ、と思うかもしれないんですけど…」
真衣は苦笑しながら続けた。
「昔からそういうの、好きだったんですよね。最近はもっと好きになっちゃいました。…でも、本当に危ないオカルトとかは…嫌ですけど…」
ああー、と晃は答える。
「ホラーが人気なのって、安心感を味わえるからっていうもんなぁ」
安心感というのは麻薬的な作用を持つ。
ストレスや不安が軽減され、心が安らかになる。そういう意味で、ホラーは安心感を味わう上ではうってつけだ。
なんといったって、観客は“自分自身が決して危ない目には遭わない”事が理解できているのだから。
「あ、そうそう、気になるチャンネルってなに?」
晃が聞くと、真衣は待ってましたといわんばかりにスマホの画面を見せた。
「なになに…PNL?」
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PNLは心霊専門のMYU TUBEチャンネルで、日本各地の心霊スポットや都市伝説を取材し、視聴者に独自の視点で紹介している。
構成メンバーは以下の通り。
タクヤ(男性):PNLのリーダーであり、心霊現象に精通している。彼は元々テレビ番組の心霊リポーターであり、その経験を活かしてチャンネルを運営している。
ユウキ(男性):テクニカルサポートを担当し、機材のセットアップや映像編集を行っている。彼は映像制作会社で働いていたが、心霊現象に興味を持ちPNLに参加した。
ミサキ(女性):霊感が強く、スピリチュアルな視点から心霊現象を解説する役割を担当している。彼女は幼少期から特殊な能力を持っており、その力を使ってチームに貢献している。
PNLチャンネルでは、彼らの個性やスキルを活かしながら、視聴者に驚きや興味を提供する心霊コンテンツを展開しており、彼らの情熱と探求心が伝わる動画は多くのファンに支持されている。
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動画内でタクヤ、ユウキ、ミサキの三人は、次回の動画企画について話し合っていた。彼らは楽しそうに談笑しながら、企画の詳細をブレストしている。その時、タクヤが仲間たちに新しいアイデアを提案した。
「次の企画はどうだろう?『謎のメッセージ!国道40号線で何が待っているのか?』っていうテーマで、実際に国道40号線を取材しようよ」
ユウキは興味津々で、彼の眼鏡がキラリと光った。「それ、面白そうだね!ついでに北海道観光もしたい!」
ミサキも笑顔で同意した。「ちょっと怖いけど、視聴者の皆さんにリアルな感想や現場の雰囲気を伝えられる企画だと思うよ。あ、北海道観光も忘れずにね!」
どれだけ観光したいんだよ、とタクヤは呆れ顔を見せるが、タクヤもタクヤでまんざらでもなさそうだ。
三人はさらに話し合いを深め、国道40号線での撮影に向けてアイデアを出し合った。彼らはその場で企画のスケジュールや取材場所を決め、次回の動画がどんなものになるのか、期待に胸を膨らませながら話し合いを続けていた。
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「国道40号線…って?」
晃が真衣に尋ねると、真衣は少し表情を改めて晃に説明をした。
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えっとね、Flitterでね、国土交通省北海道開発局のアカウントが誤投稿したんですよね。
それがこれ…
『国道40号ばばばばばえおうぃおい~べべべべべべべべべえべえええべえべべべえ(42.42km)で通行止を実施しています』
これなんですけど…灰田君はパソコンさわったりします?
普通はローマ字入力じゃないですか、パソコンの文字入力って。
それをかな入力にかえて、この変な文字の羅列を打ちなおすと……
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──こちこちこちこちこちいらてにらに こいこいこいこいこいこいこいこいこいいこいいいいこいいこいこいこいい
「こちらに、こい?」
晃の言葉に、真衣は頷いて答えた。
「なんか気味悪いですよね。しかも、この投稿がされた時、現地だと通行止めなんてされてなかったそうです。サーバ更新の際のエラーだってあとから訂正されたけれど、こんな薄気味悪いエラー、なんていうか…」
何かの手が加わったとしか思えない、と晃は思った。
「えーと、この…PNLの人たちはいつその国道40号線に取材にいくの?」
晃の質問に、真衣は答えた。
「先週です。それ以降、何の更新もありません。三人のフリッター投稿も止まっちゃってます」
行方不明ってこと?と晃が聞くと、真衣は静かに頷いた。