◆
椎名という男がいる。
巫祓千手の幹部でありながら霊力はない。祓いの技術もない。刀も杖も大幣も扱えない。
この男が握っているのは赤ペンと電卓と省庁間の連絡網だけであり、一般的に霊能組織の幹部と聞いて想像する姿とはおよそ乖離している。ただ、ある種の嗅覚だけが獣の域に達している。
・
・
・
多摩のA市にある巫祓千手本部の二階。椎名の執務机の上に調査部から回ってきた報告書が一通載っていた。
宗教法人「真心の泉」に関する定期調査報告書(第三回)。
椎名は赤ペンのキャップを外した。
報告書の要旨はこうだ。
真心の泉。設立八年。届出上の代表者は鳥飼真人(トリカイマサト)。信者数は公称約二千四百名。教義の根幹は「愛は行為である」とのこと。
典型的なセックス・カルトである。
こういうのは全国見回せば別に珍しくもなんともない。
問題は金だ。
教団の収入源は入会金・月会費・セミナー参加費・書籍販売に加え「感謝の供物」と称する信者からの献金。調査部の推計では供物の年間総額は一億四千万円から一億八千万円。信者数二千四百名に対して一人あたり年間六万円から七万五千円を納めている計算になる。宗教法人としてはやや高額だが飛び抜けて異常な数字ではない。この数字だけを見れば真心の泉は「よくある小規模新興宗教」の範疇に収まる。
だが三回目の定期調査で調査員が漸く尻尾の先を掴んだ。教団名義で取得された不動産が二件。いずれも都内西部の雑居ビルだが、取得時の売買に介在した不動産法人の登記情報を辿ると、三層下に一つの名前に行き着いた。
巧妙に隠蔽しているが、その企業は霊的指定暴力団・野獣組(ノケモノグミ)のフロント企業である。
椎名は小さくため息をついた。
◆
霊力を有する人間の大半は真面目だ。悪霊を祓い、怪異を鎮め、呪いを解く。血を流し、骨を折り、時に命を失ってそれを為す。祓い手の殉職率は直接対峙型に限れば林業従事者の三百倍を超える。それでいて余り報われない仕事なのだ。
しかし世の中には必ず反対側の人間がいる。
霊力を持ちながら他者を守るのではなく、他者から奪うことを選んだ者達。
霊能力を組織的に犯罪へ転用し、金と権力を貪る反社会的勢力──それが霊的指定暴力団だ。通常の指定暴力団との決定的な違いは一点のみ。犯罪の道具が拳銃やナイフではなく、呪いと悪霊であるという事だ。
手口は多岐にわたるが、最も悪質かつ収益性の高いものを三つ挙げよう。
一つ目。悪霊地上げ。
ターゲットの不動産に意図的に悪霊を送り込む。方法は様々で、墓地の土を持ち込む者もいれば呪物を建材に紛れさせる者もいる。左道密教の修行者が護摩壇を焚いて逆修法を行い、怨念を凝縮した依り代を天井裏に仕込むケースもある。
住民は怪異に怯え、精神を病み、退去する。悪霊地上げの物件では住人の平均退去期間は約三ヶ月。通常の悪質地上げが半年から一年を要することを考えれば、恐るべき効率だ。
空いた不動産を安値で取得し、転売して利鞘を抜く。バブル期には東京都内だけで年間推定二十件。一件あたりの利鞘は三千万円から一億円とされ、当時の国土庁は事故物件の異常な増加に首を傾げていたが原因の特定には至らなかった。
二つ目。呪殺。
まあ文字通りである。
三つ目。霊的詐欺。
カルト教団をフロントとして運営し、信者から組織的に集金する。教団の看板は宗教法人だが実態は集金装置であり、教祖もまた裏社会から送り込まれた操り人形に過ぎないケースがある。教団が集めた金は何層もの法人を経由して、最終的に暴力団の口座へ流れ込む。
通常の警察がこれらの犯罪を取り締まることは事実上不可能だ。
霊力を検出する科学的手段がない。
物証は残らず、死因は病死と区別がつかない。
不動産の因果関係は法人を三層四層と挟んで断ち切られている。この種の犯罪は通常の司法が届かない暗渠を流れているのだ。
この暗渠を管轄するのが巫祓千手である。
巫祓千手の業務が悪霊の祓いと怪異の鎮めだけだと思っている者は多いが、実態はもう少し広い。霊能力を悪用した犯罪行為の捜査と取り締まりもまた巫祓千手の任務に含まれている。
総務省消防庁霊的災害対策課の指揮系統の下で、警察庁及び公安調査庁と連携しながら霊的犯罪の証拠を収集し組織の壊滅を図る。
椎名のような事務方幹部が省庁間調整を担い、現場の祓い手とは別系統で捜査情報を管理する。座主が悪霊対処の最高指揮官であるならば、椎名は霊的犯罪対処の司令塔と呼んでよい。
さて、構成員の話をしよう。
霊的指定暴力団の構成員は通常の暴力団と大きく異なる。
共通点は金の為に動く一点のみであり、組織文化は別物だ。最大の特徴は血筋や国籍や出自を問わない点にある。
使える人間なら誰でも雇うと言う事だ。
例えば左道密教の修行者が構成員に含まれている事も少なくない。真言宗の正統から逸脱した、呪詛を専門とする者達だ。
例えば中国系の呪術師もいる。符籙派の道士が蠱毒の術を用いて商売敵を排除する。
近年は東南アジア系の術師も流入しているとの報告がある。
そして元祓い手がいる。巫祓千手やフリーランスの祓い手から離反し、裏稼業に転じた者達だ。彼らは巫祓千手の捜査手法と組織構造を熟知しているだけに最も厄介な相手である。
野獣組はこの霊的指定暴力団の中で、現在の日本において最も危険とされる組織だ。
椎名の手元にある資料によれば構成員数は推定五十名から七十名。拠点は関東一円に散在。主たる収益源は悪霊地上げ、呪殺請負、及びフロント企業を経由した各種詐欺。
・
・
・
椎名は報告書に赤ペンで三箇所だけ印をつけた。
不動産法人の登記情報。資金の流路の推定図。そして鳥飼真人の名前。
受話器を取り、内線をかける。
「調査二課。真心の泉の件、人員を二名追加しろ。次は四半期ではなく月次で上げろ」
◆
ところでよしおだが。
同じ週の日曜日。よしおは自宅アパートの床の上で胡座をかいて映画を観ていた。
「アバウト・タイム」。リチャード・カーティス監督。内容はタイムトラベル能力を持つ青年が、人生のやり直しを通じて本当の愛や「1日1日の大切さ」に気づく、心温まるヒューマン・ラブストーリーといったところか。
まあ陳腐だ。
陳腐だが名作である。
いや、名作は大抵陳腐なのだ──それだけその設定が人々から愛されているという事だから。
とはいえ、これで三回目の鑑賞である。流石にそこまで擦り倒すと、陳腐どころかチンチン陳腐になってしまうがよしおは意に介さない。
よしおはこの映画が好きなのだ。
何度観ても泣ける場面が変わる。前回は結婚式のスピーチで泣いた。今回は息子が父とピンポンをする場面で目が湿った。
──こういう事なんだろうな、きっと
誰に問うているわけでもない独白だ。
一頻り浸っているよしおだが、そんな空気に水を差すようにスマートフォンが振動した。
LINの通知である。
画面に表示された名前は「茜崎 陽」。
巫祓千手の西の姫巫女である。火之迦具土神の系譜に連なる巫祓千手の特記戦力であり、かつてよしおに鼻の骨と右腕を折られた後に和解し、隠し鬼の決戦では共闘した相手だ。
隠し鬼の一件の後にLINEを交換している。
と言っても頻繁にやりとりする間柄ではなく、直近のメッセージは二ヶ月前の「あけましておめでとうございます」「おめでとうございます」で止まっていた。
「鈴木さん、お久しぶり。あの時のお礼をきちんとさせていただきたいだけど、お時間いただけないかしら」
あの時とは無論、隠し鬼の一件だろう。
よしおは返信を打った。
「お気になさらず。あの件はすでに決着済みです」
大体、巫祓千手からは治療費ふくめて報酬を受け取っている。陽自身からもこれまでの無礼やら助力への感謝やら、そういった諸々の言葉も受け取っている。要するに、礼とかこつけた何らかの依頼だろうとよしおは看破している。
だが三分後。
「そういうわけにはいかないわ。命の恩だし」
「あれは共闘の結果であり恩義ではありません。お気になさらず」
しかし陽はしつこかった。
「どうしてもお礼がしたいの。私はお礼が得意なのよ」
精神の均衡を欠いているかの様なプッシュにらちが明かないと見たよしおは観念した。
「……僕は珈琲に目がないのです。どうしてもというなら、とびきりの珈琲を御馳走してもらいたいですね」
「任せなさい」
彼女は良い営業になりそうだな、とおもいつつ、よしおは手帳を取り出し予定の日に赤丸をつけた。
そして──。
◆
三日後、東京・丸の内。
場所は大帝国ホテル。
一階ラウンジの天井高は六メートル。大理石の柱が等間隔に並び奥のグランドピアノからショパンのノクターンが流れている。窓際の席に先客が一人。茶色の髪を後ろで緩く纏めた少女が紅茶のメニューを眺めていた。
茜崎陽だった。
制服ではない。白いブラウスにネイビーのフレアスカート、膝に薄手のカーディガンを畳んで載せている。
隠し鬼の一件の時と同じ取り合わせだ。THE・お嬢様といった風情である。
場所を決めたのは陽だ。
鈴木よしおが「とびきりの珈琲」と言った以上、中途半端な選択は茜崎家の名折れだ。と言えば格好がつくが実際のところ陽は珈琲の味の違いが分からない人間であり「高い珈琲を出すホテル」でインターネット検索をかけて、一番上に出てきた場所を選んだだけだ。
検索ワードは「東京 珈琲 最高級 ホテル」。
・
・
・
「お待たせしました」
よしおが現れた。灰色のジャケットに白いシャツ、ネクタイはしていない。そこそこ高いスーツだ。証券マン時代の財産である。
「いいえ、今さっき来た所よ。座ってちょうだい」
よしおが席に着いた。メニューを開く。
「スペシャルティブレンドを一つ」
「私は……アールグレイを」
ややあって白い磁器のカップが運ばれてきた。
よしおはカップを持ち上げて、香りを吸い込む。
鼻腔に広がるのは深煎りの苦味の奥に潜むチョコレートの甘さ、そして微かに柑橘の酸。ちなみにチョコ入りのコーヒーではない。コーヒーの世界では、豆の風味を表現する言葉として「チョコレートのような」という表現をよく使うのだ。
一口飲むと──。
舌の上で転がすように含んだ。酸味と苦味の均衡。飲み下した後に鼻へ抜ける余韻にカカオの残響がある。無論カカオなぞ入っていないのだが、大帝国ホテルで出すような伝統的なブレンドは、しっかりとしたコクと心地よい苦みがあり、それがカカオの風味として感じられる事がままある。
「……美味しいですね。流石は大帝国ホテル」
「そう、良かったわ……。それで、最近どうされてるの?」
陽がやや不器用に切り出した。
紅茶のカップを両手で包みながら努めて日常的な口調を作っている。
「最近ですか」
「ええ」
「愛を探求しています」
「そ、そうなのね……愛はいいわよね……うん……。ええと……お仕事は? まだビルメンテナンスの……」
「はい。先月は光沢度七十三を出しました」
「……こ、光沢度?」
「床の綺麗さを数値化したものです。七十三はかなり高い数字ですよ」
「へえ……すごいのね……」
戦況は陽が明らかに劣勢である。
──彼はキャンプが好きだって調べがあったから勉強してきたのに……
陽は内心で表情をしかめる。そう、まるで無策だったわけではないのだ。趣味の下調べくらいは当然している。しかし今日はどうにも、キャンプのキの字も出てこない。
「陽さんはお変わりありませんか」
「私は……まあ色々と。座主からの指示で東北の案件に行ったりとか」
「お忙しいんですね」
「ま、まあね。忙しいと言えば忙しいわ。でも鈴木さんに比べたら……」
「僕は暇ですよ。平日は清掃、休日は映画を観て珈琲を飲んで、あとは愛について考える。それだけです」
「……それだけ?」
「それだけです」
◆
「ところで鈴木さん、何か新しい趣味とかは?」
陽は話題を変えようとした。愛の探求と光沢度のどちらも会話の広がりが見込めない。
「趣味と言えるかどうか分かりませんが……最近、ある宗教団体に入信しまして」
陽の紅茶が気管に入った。
「ッ……しゅ、宗教!?」
「はい。真心の泉という団体です」
「真心の……」
「素晴らしい場所ですよ。愛について体系的に学ぶことができます。入会金は五千円で月会費は三千円で、これは喫茶店のコーヒー四杯分ですから費用対効果は申し分ありません」
「……」
「皆さん良い方ばかりです。仲間もできました」
「仲間……」
「ええ。愛を求めている仲間達です」
陽は数秒黙った。
「……鈴木さん、その……変な宗教じゃないわよね?」
「変ではありません。健全な団体です」
「でも宗教って……お金をたくさん取られたり、変な儀式があったりするんじゃ……」
「月会費三千円ですよ。立ち食い蕎麦四杯分です」
「そ、そういう問題じゃなくて……」
「セミナーでは参加者が自分の経験を語り合います。お茶の時間もあって、皆で麦茶を飲みながら話をするんです。穏やかな場所ですよ」
よしおの目は澄んでいた。邪気がない。打算がない。
陽はよしおの強さを知っている。この男が怪しげな宗教に洗脳される事態は常識的に考えて有り得ない──と、陽は考えている。巫祓千手が二十年間手を焼いた隠し鬼を潰した男だ。カルトの洗脳術ごときで折れる精神ではないだろう。
──まあ、彼が変な宗教に騙されるとは思えないけど
そう自分に言い聞かせた。
だが腹の底に残る小さな引っかかりは消えなかった。
陽は紅茶を一口飲んで気持ちを切り替える。
「……まあ、鈴木さんが楽しそうなら良かったわ」
「ありがとうございます。ところで陽さん、この珈琲は本当に素晴らしい。もう一杯いただいてもいいですか」
「え……あ、いいわよ。ど、どうぞ」
ちなみに大帝国ホテルのコーヒーは二千六百円もするが、お代わりは自由である。
この素晴らしい空間でいくらでも最高の珈琲が飲める事を考えれば、むしろ安いといってもいいのかもしれない。
◆
二時間後。
よしおと陽は大帝国ホテルのロビーで別れた。
「ごちそうさまでした。良い珈琲でした」
「いいえ。……また連絡するわね」
「ええ。楽しみにしています」
よしおが穏やかに微笑んで踵を返した。
陽はその背中を見送った。総じてみれば、実に穏やかなお茶会だ。
「ひとまず……一歩進んだって思っていいのかしら」
ぽつりとつぶやくが、他ならぬ陽自身がまだまだ踏み込みが足りないと感じていた。
・
・
・
帰りの電車の中。
よしおは窓の外を流れる景色を眺めていた。
今日は良い一日だった。珈琲は美味しかった。陽は元気そうだった。話は噛み合わなかったが不快ではなかった。
明日は木曜日だ。教団のセミナーがある。
──仲間に会えるのが楽しみだ
よしおはそう思った。
真心の泉は良い場所だ。あそこには愛を求めている人間がいる。自分と同じ砂漠を歩いている仲間達がいる。
真心の泉。
その名前が同じ週の月曜日に、巫祓千手本部の椎名の机の上にも載っていた事をよしおは知らない。