鈴木よしお地獄道   作:埴輪庭

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幕間「鳥飼真人」

 ◆

 

 二〇二五年十月の第二日曜日。東京都八王子市、北野地区の市民ホール。

 

 客席二百、通路補助椅子四十。信者達が肩を寄せ合い、壇上を見上げている。ステージにはパイプ椅子が一脚と、マイクスタンドが一本だけ。余計な装飾はない。装飾を削ぎ落とせば削ぎ落とすほど神秘が増すというのは宗教施設設計に於ける常識である。 

 

 なにやらザワついた雰囲気の中、一人の中年男が壇上に立っていた。

 

 身長百七十センチほど。灰色のスーツにノーネクタイ。頭頂部の髪の量は平均をやや下回るが、前頭部と側頭部は辛うじて残っている。目は二重で大きめ、鼻筋はまずまず通っている。頭部さえ見なければまずまずのイケメンと言っていいだろう。

 

 男が口を開く。

 

 声は低く、耳に心地よい。

 

「愛とは行為なのです──すなわち、セックス」

 

 客席の一人、二十代半ばの女が両手で口を覆った。肩が震えている。泣いているらしい。隣の五十代の夫婦が互いに手を握り直した。最前列に座っていた老婆がハンカチを取り出した。

 

「頭で考えるものではない。体で、呼吸で、肌で覚えるもの。愛とは……生きることそのものなのです。決して汚らわしい行為でも恥ずべき行為でもない。あなた方は皆、愛し、愛される権利がある!」

 

 壇上でしゃらくさい事を抜かしている男の名は鳥飼真人。

 

 宗教法人「真心の泉」の代表者。信者からは「先生」と呼ばれる。

 

 さて、この男は一体何者なのか。

 

 ◆

 

 鳥飼真人は一九七三年、千葉県八千代市に生まれた。

 

 父は地元の信用金庫に勤める平社員。母は専業主婦。兄弟姉妹なし。家は郊外の建て売り住宅で、四LDK、ローン三十五年。ごく平凡な中流の家庭であり、特筆すべき事は何もない。

 

 強いて言えば、母が真人を溺愛したことくらいだろうか。

 

 真人は幼少期から顔立ちが整っていた。幼稚園でも小学校でも女の子から絵を貰ったり手紙を渡されたりしていた。父はそれを笑って見守り、母はそれを自慢話にした。

 

 成績は中の中。運動神経は並。特技は特になし。

 

 中学から高校にかけて、真人は自分の中に小さな不満が育ち始めているのに気づいた。

 

 ──俺はもう少し、特別な何かがあってもいいはずなんじゃないか? 

 

 根拠はない。

 

 根拠はないのだが、それでもそう感じた。

 

 鳥飼の中で「何かを成し遂げるべき人間」として自分は生まれたはずなのに、誰もそれに気づいていない──そういう種類の焦燥があった。

 

 これは誰もが多かれ少なかれ持っている焦燥だが、鳥飼の場合は他人よりそれがずっと強かった。

 

 ◆

 

 県内の私立大学、経済学部。卒業には五年を要した。理由は単位の取り忘れである。勉強が嫌いなわけではないが、集中が続かないのだ。講義に出席していても、窓の外の景色を眺めたり、隣の女子学生の髪型を観察したりしているうちに、気づけば九十分が過ぎている。

 

 大手企業への就職活動は早々に失敗した。

 

 面接官の前では話が上手いのに、筆記試験の出来が芳しくない。三十社受けて内定はゼロ。最終的に千葉市内にある中堅の損害保険代理店に、縁故で拾ってもらう形で入社した。

 

 営業職である。

 

 鳥飼は営業の現場で自分の才能に初めて気づいた。

 

 客の話をひたすら聞き、頷き、時折短い相槌を差し挟む。それだけで初対面の客が心を開いていく。成績そのものは並だが、解約率が極めて低かった。顧客満足度調査で毎年上位に入った。

 

 入社二年目、鳥飼は支店長室に呼ばれた。

 

「君には営業の才能がある」

 

 支店長は言った。鳥飼は頷いた。

 

 三年目の夏、鳥飼は会社を辞めた。

 

 理由は退屈だったからである。

 

 ◆

 

 以後の職業遍歴は長い。

 

 例えばリフォーム営業。三ヶ月で辞めた。理由は現場作業服が似合わないからだ。

 

 例えば自動車ディーラー。半年で辞めた。理由はノルマが厳しかったからだ。

 

 例えば浄水器の訪問販売。一年続いた。鳥飼にとっては長続きした方である。訪問先で玄関先の主婦と話し込む時間は、彼の才能に最も適していた。ただし歩合制で収入が不安定だったため、やはり辞めた。

 

 例えば健康食品のマルチレベルマーケティング。半年で抜けた。配下を作ることに罪悪感を覚えたためではない。配下が作れなかったからだ。

 

 例えば投資セミナーの集客、例えば中古車輸出の仲介、例えば民泊の運営代行。

 

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 ・

 ・

 

 鳥飼が三十歳になった時点で、履歴書に並ぶ職歴は九行に及んでいた。

 

 本人はそれを「経験の幅」と解釈していた。

 

 いずれこの経験がモノを言う機会がやってくるのではないかと思っていた。

 

 まあ、そんな(ヤワ)な事を考えている者は大抵ワナビで終わるのだが。

 

 とはいえ何者かになりたい男が何者にもなれないまま三十を超えるのは、統計上そう珍しい事ではない。それでも多くの者は妥協に妥協を重ね四十代を迎え、五十代で諦め、六十代で「まあ自分の人生も悪くなかった」と自らを慰めて死ぬのだ。

 

 ただし鳥飼には他の「何者でもない男」にはない特殊能力があった。

 

 やけに女に好かれるのだ。

 

 ◆

 

 まあ好かれるといっても派手なモテ方ではない。

 

 鳥飼は合コンで断トツに人気になるタイプではなく、目立つ女優やアイドル的美人を口説き落とすタイプでもない。

 

 気がつくと、女が傍にいる──そういう類のモテ方だ。

 

 二十代から三十代前半にかけて、常時三人から五人の女性と並行関係を持っていた事を考えると、これは中々のスケコマシ野郎と言える。

 

 女たちの特徴は共通していた。満たされない思いを抱いていたという一点である。とはいえ、人はみな何か心に希求するものがある。だからこういった想いは別に珍しいものではない。しかし、鳥飼に股と心を開いた女たちはその想いが人よりやや、いや、大分強かった。

 

 憚りなく書けば、女たちは重度のメンヘラだったと言う事だ。

 

 それはまあともかくとして、そんな鳥飼も三十五歳の頃に結婚した。無論、この男の事である。愛だのなんだのという理由から結ばれたわけではない。相手は二つ年下の元同僚。取り立てて美人ではないが、安定した事務職に就いており、うだつのあがらない鳥飼を経済的に支える覚悟のある女だった。そう、要は金である。

 

 結婚生活は三年続き、三十八歳の時に離婚した。

 

 理由は鳥飼が同時並行で三人の女と関係を持っていたことが、妻の雇った興信所によって立証されたからである。

 

 慰謝料を払い、家を出た。

 

 認知しなかった子供が二人だか三人だかいる可能性があったが、鳥飼は正確な数を把握していない。

 

 ◆

 

 離婚後の鳥飼は酒を飲む量が増え、女と寝る頻度が増え、仕事を変える間隔が短くなった。

 

 それまで半年は続いていた職場が三ヶ月で持たなくなり、三ヶ月が一ヶ月になり、一ヶ月が二週間になった。

 

 四十歳の誕生日、鳥飼は新宿のバーで一人で飲んでいた。

 

 隣に座った見知らぬ中年男が「人生は四十からだよ」と言った。

 

 鳥飼はその言葉を真に受けた。

 

 ◆

 

 翌週、鳥飼はタイ行きの航空券を買った。

 

 目的地はチェンマイ。滞在先は瞑想リトリート施設。期間は十日間。自分探しの旅、というやつである。

 

 一九七〇年代のヒッピー文化に起源を持つ観念であるが、もう今日びこんな世の中をナメ腐った事を言っている者はいないだろう。ちなみに自分探しの旅の特徴は旅そのものが目的であり、結果は問われないという点にある。

 

 タイ、ラオス、インド、バリ島──四十歳から四十六歳までの六年間で、鳥飼は合計で十一回の海外リトリートに参加し、のべ二百三十日をアジアの各所で過ごした。総額にして四百万円を超える自己投資である。ちなみに資金源はいうまでもない──女だ。

 

 で、四百万円で何が得られたか。

 

 ほぼ何も得られなかった。

 

 帰国のたびに「自分は変わった」と感じるのだが、その感覚は成田空港からのリムジンバスの車中で既に薄まり始め、自宅に着く頃には完全に蒸発している。翌週には以前と同じ生活に戻っている。

 

 六年間、鳥飼は蒸発する自己変革を十一回繰り返した。

 

 四十六歳の夏、鳥飼はタイのチェンマイ郊外のリトリート施設にいた。

 

 結果的に、これが人生最後の自分探しの旅となった。

 

 ◆

 

 施設はチェンマイ市街地から車で一時間半の山間にあった。

 

 敷地は五ヘクタール。瞑想ホール、宿泊棟、食堂、ヨガスタジオ、菜園。スタッフはタイ人五名とオーストラリア人二名。参加者はその時期、欧米人が十二名と日本人が四名だった。

 

 鳥飼は宿泊棟の二号室を割り当てられた。

 

 プログラムは朝五時の瞑想から始まり、午前中はヨガ、午後は共同作業、夜は講話。スケジュールとしてはよくある構成である。

 

 二日目の夜、鳥飼は講話の後、眠れずに施設の外に出た。

 

 山の空気は冷たく、星は東京では絶対に見ることのない濃度で空に散らばっていた。標高八百メートルの山腹から見上げる北タイの夜空は、大袈裟ではなく天球儀そのものである。

 

 ベンチが一つ、敷地の端にあった。そこに先客がいた。

 

 女だ。

 

 ◆

 

 日本人である。

 

 黒髪を肩の下あたりで切り揃えている。体の線は細い。しかし細いだけではなく、骨の作りに強度がある。格闘技でも長くやってきたような線だ。年齢は鳥飼より一回りほど下、と鳥飼は当たりをつけた。

 

 女は鳥飼を見てわずかに頷いた。鳥飼は隣に座った。

 

 一時間ほど、二人は何も喋らなかった。

 

 星を見ていた。

 

 一時間が過ぎた頃、鳥飼は話しかけた。日本人ですよねと尋ねた。女は頷いた。名前を訊いた。女は「ユキ」と答えた。それ以上は答えなかった。出身、職業、滞在目的、いずれの質問にも女は黙っていた。ただ、質問を無視しているのではなく、答える必要を感じていないという、そういう黙り方だった。

 

 三日目の夜、二人はまた同じベンチで会った。

 

 四日目の夜も、また会った。

 

 三日目も四日目も、ほとんど会話はなかった。ただ二人で星を眺めていた。

 

 女の横顔は笑っていない時でもどこか微笑んでいるように見えた。目の色が少し明るくて、それが薄い月明かりの中でも分かった。

 

 美人ではあった。

 

 しかし、美人の女はいくらでも抱いてきたのだ、鳥飼は。

 

 気になるのは顔の造作ではない。

 

 別の何かだった。

 

 五日目の夜、鳥飼は女に「あなたは何をしに来たんですか」と訊いた。

 

 女は少し間を置いてから答えた。

 

「同じものを探しに来たんだと思うわ」

 

「同じもの?」

 

「あなたと同じものよ」

 

 鳥飼は少し笑った。

 

「僕が何を探しているか分かるんですか」

 

 女も少し笑った。

 

「あなたが分かっていないのに、私に分かるわけがないでしょう。分からないものを探してるの、私もあなたも」

 

 なにやら煙に巻くような、要領を得ない返事であった。まあこういう胡乱な事をいう輩は大抵は詐欺師か山師である。

 

 その辺は鳥飼にも分かっている。なにせ鳥飼も似たようなものなのだから。

 

 ──だがしかし。

 

 それでもなお、鳥飼はこの言葉に奇妙な親しみを覚えた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 七日目の夜、女は言った。

 

「あなたはもっと大きい事が出来る男よ」

 

 この男にとってそれは何百回も聞いた言葉だ。

 

 ヨイショはいくらでも受けてきたのだ。営業時代の顧客から、浮気相手の女達から、バーで知り合った年配の男達から。

 

「君には才能がある」

 

「あんたは大物になるよ」

 

「あなたみたいな人、他にいない」──そういう言葉は一生分浴びてきた。

 

 鳥飼はそれらの言葉を、いつも上手く受け流してきた。

 

 笑って、軽く頷いて、話題を変える。それが鳥飼の作法だった。

 

 しかしこの女の言葉は受け流せなかった。

 

 ──この女の言う通りかもしれない

 

 そんな風に思ってしまった。

 

 ──この女は自分と同じだ。

 

 何が同じなのかは分からない。分からないが、同じだ。これはまあ随分とトンチキな話であるが、生きていれば()()()()()()を覚える事はままある。

 

 まあ、そんな感覚を信じた者は大半が碌な目に遭っていないのだが。

 

 そしてその日の夜、鳥飼はユキと名乗る女を五回抱いた。

 

 ◆

 

 帰国から三日後、ユキから連絡があった。

 

 東京で再会した。場所は銀座の個室居酒屋。ユキは日本では洋装を着ており、チェンマイで見た時とは別人のように都会的な女に変貌していた。

 

 ユキは単刀直入に提案した。

 

 教団を作れ、と。

 

 愛についての教団でいい。教義は自分が設計する。資金は自分が用意する。不動産も、法務処理も、集客ノウハウも、人脈も、全部自分が揃える。あなたは「先生」として登壇し、愛について語るだけでいい。

 

 条件は三つ。

 

 一つ、教義の設計には口を出さないこと。

 一つ、資金管理には一切関与しないこと。

 一つ、自分の指示には必ず従うこと。

 

 鳥飼は考えなかった。

 

 いや、考えるふりすらしなかった。

 

 翌週、鳥飼は司法書士事務所で書類にサインした。

 

 宗教法人「真心の泉」が設立されたのは二〇一九年十月である。

 

 設立時の信者数は四名。そこから鳥飼が「先生」として登壇する集会が月一回のペースで開かれるようになり、半年で信者は三十名を超えた。

 

 一年で百五十名。

 

 二年で六百名。

 

 三年で千二百名。

 

 六年後の現在、信者は約二千四百名。

 

 年間収入は表に出ているだけで億単位。

 

 宗教法人代表者、鳥飼真人。

 

 鳥飼が生まれて初めて「肩書き」を手に入れた瞬間であった。

 

 五十を過ぎてようやく、鳥飼は何者かになったのだ──中身は何者でもないままに。

 

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