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翌週の定例集会。
グリーフ・シェアリングが終わり、お茶の時間が始まった頃合いである。
よしおはいつもの様にパイプ椅子に腰掛け、紙コップの麦茶を啜っていた。隣には「茜山」こと茜崎陽が座っている。陽は表向きは「愛に傷ついた哀れな新入会員」という設定だ。設定というか、よしおが勝手に作り上げたカバーストーリーなのだが。
さて、よしおの周囲には今日
比較的若めの女から中年女まで、彼女らはよしおの話を聞きたがり、よしおの近くに座りたがり、よしおに微笑みかけたがった。
これは別段珍しい光景ではない。
入信十三週目を迎えた鈴木よしおは、今やこの集会所における一種のカリスマであった。彼の言葉には不思議な重みがあり、人を惹きつける何かがあったのだ。
そして女性信者の中には、もう少し踏み込んだ関係を望む者もいた。
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美奈子──二十八歳、母の介護で心身共に疲れ果て、しかしよしおの言葉に救われた女である。以前、堂島という大男がよしおに暴力を振るおうとした時、よしおから堂島を守った事もある勇気のある女だ。あのまま堂島が無礼を働き続ければ、間違いなく堂島は良くて半殺しにされていた。
そんな彼女の頬は僅かに紅潮していた。
「鈴木さん」
「はい」
「あの……もしよろしければ、なのですが」
美奈子は声を落とした。周囲に聞かれたくないのだろう。
「私と、その……愛を、確かめ合いませんか」
隣に座っていた陽の耳がぴくりと動いた。
愛を確かめ合う──それが何を意味するのか、陽には分からなかった。だが女の頬の染まり方と声の震え方を見れば、おおよその見当はつく。
──この人、鈴木さんを誘ってる? え、なんで? いきなりこんな場所で……
陽は横目でよしおを見る。
よしおは穏やかな表情を崩さずに答えた。
「美奈子さん──あなたはもう、あなたなりの愛の形を既にお持ちなのですね」
「え、と……はい……」
「それは素晴らしい事です」
よしおは首肯した。まずは肯定から。コミュの基本である。キチガイかキチガイではないかで言えば今のよしおは間違いなくキチガイなのだが、キチガイではなかった頃学んだ事はしっかりとよしおの血肉になっている。
「しかし僕はまだ愛の輪郭すら分からないのです。エーリッヒ・フロムは愛を『技術』と定義しました。習得可能なものであると。しかし僕に言わせればそれは愛の一側面に過ぎない。愛とは技術であると同時に状態であり、さらに言えば関係性の中で立ち現れる現象でもある。プラトンは『饗宴』において愛を欠如から生じる渇望として描きましたが、これもまた一面的です。愛は欠如から生じるのか、それとも充足から溢れ出るのか。僕にはまだ分からない」
美奈子は目を見開いていた。
よしおは続けた。
「僕が求めているのは愛の実践ではなく、愛の理解なのです。実践は理解の後に来るべきものだと僕は考えています。理解なき実践は、それが如何に情熱的であっても、砂上の楼閣に過ぎない」
「……鈴木さんはそこまで深く考えていらっしゃるのね……」
「いえ、まだ何も分かっていないのです」
「私、軽く考えていたのかもしれない……愛って、もっと複雑で、もっと大切なものなのね……」
美奈子は感極まった様子で頷き、そして満足げに去っていった。尊敬の眼差しを残して。
陽はよしおの言動を訝しんだ。
言っている事は筋が通っているような気がするが、何かが決定的にずれているような気がするのだ。
ふと、陽は数年前に調伏した人語を解する魔の事を思いだした。人の声を真似、言葉を真似、かどわかし、血肉を貪るよくある魔である。まあ恐ろしいっちゃ恐ろしいのだが、人に仇為す為に何段階かの手順を踏まないといけないあたり、気が狂った人間の通り魔とかのほうがよほど危険でおっかない。
──鈴木さんは……
陽はよしおがブッチ切れた所を思い出し、ほんの一瞬、人と魔の境目、何を以てその存在を人とするのか、あるいは魔とするのかが分からなくなった。
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これは毎週の光景であった。
言うまでもなく真心の泉はセックス・カルトである。「愛の交歓」と呼ばれる性的な儀式が教義の中核にあり、信者同士が肉体関係を結ぶ事は奨励されている。むしろ推奨されていると言ってよい。
しかし鈴木よしおはこの十三週間、一度たりとも「愛の交歓」に参加していなかった。
誘いがなかったわけではない。むしろ多すぎた。
美奈子だけではない。四十代の経理担当だった女。三十代の離婚経験者。二十代のフリーター。彼女らは皆、よしおに声をかけた。「愛を確かめ合いませんか」と。「魂の交感に参加しませんか」と。
よしおは全てを断った。
断り方は常に同じだった。愛について語るのだ。フロム、プラトン、アリストテレス、キルケゴール、有島武郎、トルストイ。古今東西の哲学者と文学者の名前を引き合いに出し、愛の定義について滔々と述べる。そして最後に「僕にはまだ分からない」と締める。
誘った女性は例外なく感動した。
この人は本気で愛について考えている。自分たちは愛を軽く考えていたのかもしれない。愛とはもっと深く、もっと複雑で、もっと崇高なものなのだ──と。
結果としてよしおへの尊敬は深まり、よしおの影響力は増大した。
ちなみによしおがこの教団の「愛」が何かを知っているのかという向きもあるが、当然知らない。よしおが愛の交歓を断るのは、他人の中ですでに出来上がっている愛を押し付けられたくないからだ。
よしおは独力で──自分の力で愛とは何かという答えを見出したいと思っているのだ。
要するに自己中心的な理由から断っているのであった。
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「茜山さん、大丈夫?」
谷川が陽に声をかけた。二十四歳の配送業アルバイト。口にフィルターがない男だ。
「あ、ええ、大丈夫よ」
「なんか難しい顔してたから。鈴木さんの話、分かんなかったっすか?」
「いえ、その……ちょっと考え事を」
美奈子が陽の隣に座った。先ほどまで頬を染めていた女だが、今はすっかり落ち着いた様子だ。
「茜山さん、初めての集会はどうだった?」
「あ、はい。皆さん優しくて……」
「辛かったわよね。色々と」
美奈子の目が同情に満ちている。
陽は内心で唸った。
「色々」というのは、よしおが作り上げたカバーストーリーの事だ。事故で恋人が死に、カウンセラーに襲われ、コー横広場で売春をしていた──という、あんまりにあんまりな設定。
「ここなら大丈夫よ。鈴木さんもいるし」
「そ、そうね……」
「鈴木さんに出会えてよかったっすね!」
谷川が無邪気に言った。
──なんだかちょっと、空気が変ね。
陽はよしおを見ながら思う。
確かにこの建物内には全体的に余り良くない空気──霊気が淀んでいるようだ。この組織の「性質」についてもおおよその察しもついた。
──危ないわねココ。この場にいるだけで、耐性がない人は
無論、陽は問題ない。彼女は単なるイキった小娘ではなく、高い霊力を有する巫女なのだから。耐性ならマシマシである。しかしそういった分かった事を差し引いてもなお、この空間よりもよしおの方が危ういように思えてならないのだ。
なぜなら──。
──ああ、もう。
陽は首を振る。
隠し鬼の一件以来、陽はよしおのことを考える時間が増えていることを強く自覚していた。
霊能の世界では女が強い霊力を持ちやすいとされている。茜崎の家は代々巫女を輩出する名門であり、陽もまた幼い頃から「民草を護る守護者」としての自覚を植え付けられてきた。男がどうとか女がどうとか、そういった色のある話とは無縁だったし、むしろそんなものに現を抜かす同世代の少女たちを内心で見下していた節すらある。自分は特別なのだ、と。守護者としての傲慢が陽の中には確かに存在していた。
しかし隠し鬼という恐るべき魔には、陽一人では到底敵わなかった。
座主も認める西の巫女が、火之迦具土神の系譜に連なる炎の力が、あの白く薄汚れた化け物の前では紙屑同然だったのだ。陽の炎は喰われ、陽の誇りは砕かれ、あと一歩で陽の命も奪われる所だった。
そこに現れたのがよしおだった。陽が守るべき「弱者」の側にいるはずの男。そんな男が隠し鬼に真っ向から立ち向かい、自らの血肉を以て化け物の根源を腐らせ、打倒してしまったのだ。
己の裡から湧いてくるこの感覚──甘酸っぱいような、疼く様な
しかし陽はこの時、第三の答えがある事に気づかなかった。
あるいはそれを、努めて無視したのかもしれないが。