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その日の現場は新宿の外れにある八階建ての雑居ビルだった。
一階から三階までが学習塾、四階より上が事務所と歯科医院。極々普通のビルである。年間五十人もの自殺者は出てないし、立ち入れば必ず呪い殺されると言ったこともない。三年前に警備員の中年男性が首を括ったが、それは借金が理由によるものだ。心霊云々とは特に関係ない。
「鈴木さん、四階の給湯室の床がなんか変色してるんすけど。擦っても落ちないンすよね」
晃がモップを片手に階段を降りてきた。
「変色というと?」
「茶色っぽいシミっていうか。拭いても取れないんすよ」
「それは多分、漏れた水分が長期間放置されてワックスの下に染み込んだ跡ですね。表面を拭いても無駄です。一度その箇所だけ部分剥離をかけないと取れません。今日は予定にないので、報告書に書いておきましょう」
よしおはそう言いながら手元のスマートフォンに現場メモを打ち込んだ。
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作業はおおむね予定通りに進んだ。
時刻は午後十時半を回っている。三人は一階のエントランスに機材を集め、片付けにかかっていた。よしおがポリッシャーのコードを八の字に巻き、晃がバケツの汚水を流しに捨て、真衣がモップの先を洗う。
「お疲れさまでした。今日もきれいになりましたね」
真衣が額の汗を拭いながら言った。
高野真衣は相変わらず明るい。深夜帯のシフトに好んで手を挙げる若い女というのはそう多くないが、彼女の場合はアイドルの追っかけに金が要るという切実な事情がある。推しが生きている限り金は幾らあっても足りないそうだ。
「ええ、お疲れさまでした。今日はゆっくり休んでください」
よしおはそう応じてから、ふと手を止めた。
真衣がこちらをじっと見ていたからだ。
「……どうかしましたか?」
「いえ、その……鈴木さん、なんかここ最近、ちょっと元気ないかなって」
よしおは瞬きをした。
「そうですか?」
「あ、すみません、変なこと言って。なんとなくなんですけど」
なんとなく、と真衣は言う。
だがこの女のなんとなくは、当てにならないようでいて時々おそろしく当たる。真衣は「見える」体質であり、よしおの周囲にまとわりつく不可視の何かを漠然と感じ取れるのだ。
よしおは曖昧に微笑んで、なんでもないですよ、と答えた。
無論なんでもないわけではなかった。
ここ最近のよしおには悩みがあるのだ。
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「鈴木さん、このあと時間あります?」
機材を会社のハイエースに積み終えた頃、晃が言い出した。
「時間というと?」
「カラオケでも行きません? 俺、明日休みなんすよ。久しぶりに喉鳴らしたいなって」
灰田晃という男は「ロゼッタ」というバンドでベースを弾き、時々歌も歌う。だからカラオケ──というわけではない。晃は晃なりに、よしおが少し落ち込んでいる事に気づいていた。
──鈴木さん、友達とかいなさそうだしな。何か悩んでいるんなら話くらいは。
そんなノリでカラオケに誘ったのである。勿論カラオケを嫌う人種が決して少なくない事は分かっているが、幸いよしおがそこそこ音楽も嗜むことを晃は知っていた。
「カラオケですか……」
「あ、いや、苦手とかならいいんすけど……」
「苦手ではないですが……」
よしおは適当な理由をつけて断ろうとした。翌日はよしおも休みなのだが、割と真面目な面もあるこの男は寄り道を好まない。まっすぐ帰宅して風呂に入り、ハッピーエンドの映画を一本観て眠る。次の日が休みだろうが休みじゃなかろうが関係ないのだ。
「私はパスでーす。今日これから推しの生配信があるので、ダッシュで帰ります!」
真衣が片手を立てて謝るポーズをとった。
「配信、何時からですか?」
「十一時です! もう急がないと!」
ではお気をつけて、とよしおが言い終わるより早く、真衣は駅の方へ駆けていった。
残ったのは晃とよしおの二人である。
よしおは、やはり断ろうと口を開きかけた。
しかし言葉が喉の手前でつかえる。
ここ最近、よしおの胸の底には形にならない澱のようなものが溜まっていた。先日、よしおは「先生」と呼ばれる男に会った。愛について語る教団の長だ。鳥飼真人というその男に、よしおはどこかで期待していたのかもしれない。愛を生業にしている人間ならば、何か本物を一片くらいは握っているのではないか、と。
だが蓋を開けてみれば、中身は空洞だった。
受け売りの言葉を上っ面で並べるだけの、よしおと同じく愛を知らない男。しかも探そうともしていない男。それが分かった瞬間、よしおの精神に失望の毒が回ってしまった。
勝手に期待して、勝手に失望する──それはまさによしおそのものなのだが、よしおは自身の矛盾を無意識の内に無視している。そして救えない事に、そんな矛盾を抱えている事で不快感を味わっている。
まさに愚者!
そんな愚者であるところのよしおの本能は発散を求めている。その希求が普段なら採らない選択肢を彼に取らせた。
──気分転換、というやつになるだろうか。
よしおはそう考えた。
「……いいですよ。余り長時間は無理ですが」
「マジっすか! 珍しいっすね、鈴木さんが付き合ってくれるの」
晃は素直に喜んだ。
◆
二人が入ったのは駅前のカラオケチェーンであった。
平日深夜の入室料は三十分あたり一人百九十円。フリードリンク付き。深夜帯は学生と仕事帰りの人間で埋まる時間帯だが、火曜の夜ということもあってか店内はさほど混んでいなかった。通された部屋は四人用のボックスで、二人で使うには些か広い。
「鈴木さん、一曲目いってみます?」
晃はそう言ってデンモクをよしおに差し出した。この辺、特に意図はない。何となく聞いてみただけだ。よしおが渋るようなら自分がブチ上がる曲を入れるかくらいのノリである。しかしよしおは無言で端末を受け取った。
そして検索画面を操作する。指の動きに迷いがない。
「あ、もう決まってるんすね。なんすか?」
よしおは答えず、曲を予約した。
モニターに次曲の表示が出る。
宮里洋二「雪の花」──
「……みやざと、ようじ?」
晃が首をかしげた。聞き覚えはあるが、はっきりとは分からない。
宮里洋二というのは、ある世代以上には絶大な知名度を誇るシンガーソングライターである。元はロックバンドのフロントマンであったが、四十を過ぎてからソロでの活動に軸足を移した。その歌唱は独特で、喉を絞るような、あるいは何かを吐き出すような、聴く者の胸ぐらを掴んで揺さぶる類の情念を持つ。若い頃の荒々しさを残したまま、年輪だけが凄みを増したような声。「雪の花」は近年の代表曲で、失った人を冬の景色に重ねて歌い上げる、まあ平たく言えば相当に湿っぽい曲だ。
少なくともカラオケの一曲目に入れる曲ではない。
晃はイントロを聴いただけで雪の花がどういう曲かを理解した。恋、それも失恋系の悪く言えばじめじめした感じの曲だろう──その推察は当たっている。
ただ、決して暗いだけの曲ではなく、よくよく歌詞を読めばむしろ前へ進んでいこう的なポジティブめいた意味も込められている曲ではあるのだが。
──もしかしたら鈴木さん、失恋したのかな?
そんな想いと共に、晃はよしおの歌い出しを待った。
そして──。
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降る雪映る 私の
溶け逝き 還らぬ 日々を数え
地に染む涙──
「うっ……!?」
晃の背筋に何かが走り、呻きをあげる。
上手いかどうかで言えば普通である。普通だが、妙に心を動かされる。感動したとか切ないとか、そういう
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よしおの脳裏を一枚の風景が過ぎっていた。
台所。朝の光。トーストの焼ける匂い。
礼子がバターナイフを手に、食パンの焦げた角を器用に削っていた。よしおは自分でパンを焼きたがるくせに、いつもトーストを焦がすのだ。礼子はそれを咎めもせず、苦笑いを浮かべながら焦げを削っている。コーヒーは二杯分。よしおのぶんだけ砂糖がふたつ──
生きている、そこに在る──何の変哲もない日々! それこそが幸せのカタチなのだと理解できず、喪ってから始めてその大切さに気付き日々を嘆く虚しさたるや!
大切なモノを取り戻したいといっても、自分が何を喪ったのか、なぜ喪ったのかを理解できなければ再びそれを喪う事は分かっている。だからこそ
──今更引き返せるものか。
そんな自棄めいた想いに自分でも気づいているのに、心が言う事を聞いてくれない。
この道の果てにはもしかしたら何もないのではないか。自分はあるいはただただ虚無に向かって進んでいるだけにすぎないのではないか。
そんな恐怖や不安はあれども、体が言う事を聞いてくれない。
──ならばいっそ、逝きつく所まで。
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霊力の出力は一般的に感情に直結している。怒れば昂り、悲しめば沈み、殺意を抱けば殺傷力を持つ。通常であればよしおの霊力は厳重に内側に押し留められているのだが、よしおが無自覚に感情の蓋を開けてしまった場合、話が違ってくる。
歌という行為は、よしおにとって数少ない打算の介在しない蛇口であった。
よしおの情念が霊力に変換され始める。ドロついた、粘着質の、叩きつけるような未練の残滓。それが声帯を震わせる音波に乗り、マイクを通じてスピーカーから増幅され、四人用のカラオケボックスの薄い壁を透過して周囲に広がっていく。
一般的なカラオケボックスでは往々にして音漏れが発生する。流石に建物に外へ漏れ出ることはないが、部屋の外を歩いていると歌っている声が聴こえる事はままある。こちらが曲を流していなければ、隣室の歌が聴こえたりもする。だからといって別に営業に難があるわけでもない。その程度のしょっぱい遮音性能の壁でもカラオケ屋は成り立つ、が。
それではダメなのだ。
何がダメって、とにかくダメなのであった。
よしおの歌が二番に入った瞬間、異変は隣室で起きた。
二〇七号室。
大学のゼミ仲間と思しき四人組が、三十分前からテンション高く盛り上がっていた。ラップ調のメドレーを五曲連続で回していた若者たちが──不意に全員黙った。
デンモクを握っていた男子学生が手を止めた。
「……なんか、息苦しいわ」
「え、お前も?」
「なんだろ、急に……」
息苦しさ、というのとも少し違う。みぞおちの奥のほうを誰かの手で鷲掴みにされているような、漠然とした圧迫感。四人とも心当たりがない。昼に食べた学食のカツカレーを疑い、あるいは換気を疑い、とりあえず一旦休憩しようかという話になった。
むろん原因はカツカレーでも換気でもなかった。壁一枚隔てた二〇六号室で、三十代の清掃員が元妻への未練を霊力に変換しながら宮里洋二を熱唱しているのだが、そんなことは彼らの知るところではない。知らなくて正解である。知ったところでどうしようもない。
雪の花よ 降るなら降れ
この胸の底まで 白く埋めてくれ
愛していた ただ愛していた
それだけが嘘じゃなかったと
叫ばせてくれ
よしおはサビに入っていた。
宮里洋二という男の凄さは、サビで声量を上げるのではなく、むしろ絞り込むところにある。叫びたい言葉を叫ばずに、喉の奥で押し潰すようにして吐き出す。その窒息しそうな歌い方が、聴く者の胸に直接手を突っ込んでくるような錯覚を起こすのだ。
よしおの歌唱は本家のそれを忠実に再現していた。声を張り上げることなく、しかし圧だけが異様に重い。穏やかな顔から煮詰めた何かが滲み出てくるようなあの温度差である。
二〇五号室。
同時刻、反対側の個室では二十七歳の会社員の女が一人でカラオケをしていた。
先週、三年付き合った彼氏に振られたのだ。理由は「君とこのまま付き合っていても未来が見えない」という、何か漫画やら小説やらでありそうなしょうもない定型文であった。泣くだけ泣いて、日曜に布団の中で一通り死にたくなって、月曜にはもう前を向こうと決めた。そして火曜の夜にヒトカラで好きな曲を歌って気分を切り替えよう、というのが今夜の趣旨であった。
彼女は先ほどまで元気よく声を張り上げていた。
それが急に、涙が止まらなくなったのである。
歌っている途中で、唐突に、脈絡なく、胸の底から正体不明の喪失感がせり上がってきたのだ。先週さんざん泣いて吐き出したはずの感情が、もう終わったはずの悲しみが、倍の濃度で蘇ってくる。マイクを持ったまま嗚咽が漏れ、歌詞が見えなくなり、最終的にモニターの前でうずくまった。
──死にたい。すぐ、今すぐ死にたい。
なぜ急にこうなったのか、彼女には見当もつかない。強いて言えば壁の向こうから微かに聞こえる男の歌声がやけに胸に刺さるような気がしたが、それが原因だとは思わなかった。壁越しに聞こえるカラオケごときで人が泣くわけがない。
まあ、普通はそうだ。歌に乗っているのが純粋な音だけならば。
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ところで晃だが、
灰田晃、二十三歳。ベーシスト。彼女いない歴イコール年齢。恋愛経験は皆無である。皆無であるにもかかわらず、今この瞬間、晃の胸には恋人に去られたような喪失感が渦巻いていた。
存在しない彼女に振られた気分、と言えばいいのだろうか。まだ出会ってすらいない誰かを、もう永遠に失ったような。そんな馬鹿げた悲しみが胸を占拠している。
精神的影響は甚大だ。
落ち込むとかそういう生易しいレベルではなく、キチガイめいた焦燥というか周囲のモノ全てをぶち壊し、ぶち犯し、ぶち殺して道連れにしてやりたいほどの悲嘆、悲憤が沸き起こってくる。
ガシャンだとかバリンだとか、そんな音が響いてきた。何かが壊れる音だろうか。手元からも聞こえてくるし、外からも聞こえてくるような気がする。
──ああ、この音は。
俺の心が壊れる音だ──そんな事を思い、晃は気を喪った。
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本日未明、東京都新宿区内のカラオケチェーン店「オケオケ館」歌舞伎町二丁目店にて器物損壊事件が発生した。警視庁新宿署によると、午後十一時頃、同店二階フロアの複数の個室において、テーブルのガラス天板やモニター画面が突然破損する事案が相次いだという。当時フロアには六組の利用客がおり、うち二名が過呼吸の症状を訴え救急搬送されたが、いずれも軽症。破損は二〇四号室から二〇八号室にかけての五部屋で確認されており、同署は防犯カメラの映像を精査するも外部からの侵入や利用客による故意の破壊行為は認められず、現時点で原因は特定されていない。同店の店長は「開業して八年になるが、こんなことは初めて。正直わけが分からない」と困惑した様子で語った。なお、事件発生時に二〇六号室を利用していた男性二名は既に退店しており、同署は参考人として話を聞きたいとしている。