懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
男の巨躯が、軋み声を上げていた。
もう、ぼろぼろだった。
彼自身が把握しているだけでも、片手の指では数えられないほどの骨が折れている。鼻はひしゃげ、鼻孔に血が溜まり、上手に呼吸が出来ない。
全身が、熱い。もはや、苦痛を苦痛として認識することができない。果たして自分は痛いのか、疲れているのか、病んでいるのか、分からなかった。
激しい倦怠感は、彼の瞳から意志を奪い、この場で横になることを強く要求する。さぁ、もう十分だ。ここで倒れても、誰も俺を非難しない。もう、自分を許して上げてもいいじゃないか。
ヴォルフガングは、それが悪魔の囁きだと知っていた。悪魔は、人に優しい。そして天使は、神は人に厳しいのだ。彼はそれを知っていたから、悪魔の囁き声から、必死で耳を塞ぎ続けた。
敵の前で倒れた獣に、生きる術はない。それは、死ぬべき時だ。
だから、まずは立つ。一も二もなく、まずは立つことだ。
次に、息をする。これを忘れれば、動くことが出来なくなる。だから、必死に息を整える。
最後に、睨みつけろ。手は動かなくても、足が動かなくても、睨みつけろ。目で殺せ。何を?敵の魂を。
そうして、ヴォルフガングはそこに立っていた。ボロ雑巾のようになった己の体で立ちながら、呼吸をし、目の前の少女を睨みつけた。
ウォルフィーナは、そんな彼を、泣き笑いのような表情で、ずっと見つめていた。
『ヴォルフ。貴方、凄いわ』
それは、どこまでも純粋な、感嘆の呟きだった。
何をもって純粋とするか、そんなことはどうでもいい。意識の埒外だ。とにかく、一切の不純物の混じらない、単純な感嘆の念。少女の呟きには、それしか含まれていなかった。
『ああ、知ってるさ』
男は、そう答えた。
男は、自分が普通の人間ではないことを知っていた。街中を歩けば、必ず奇異の視線で眺められる。視線を合わせようとすれば、必ず避けられる。道は、まるで預言者が開いた海の底のように、彼のために開けられた。
彼の行くところに、誰もいなかった。それは偏に、彼自身の巨体のためだ。彼は、その恵まれすぎた体が故に、人ではなかった。人であることを拒絶され続けた。
だから、人でないが故に迫害を受け続けた少女の気持ちが、痛いほどに分かった。
『でも、そろそろ、じゃないかしら』
少女は呟いた。
心底残念そうな、口惜しそうな響きだった。
真っ赤に染まった自分の拳と、目の前の巨漢を交互に眺めて、未練たらたらの溜息を吐き出した。
『もうそろそろ、おしまいにしないと』
『ああ、同感だ』
男は頷いた。
確かに、そろそろいい時間だ。子供は家に帰り、お母さんの作ってくれたシチューを楽しみにしながら、泥だらけの体を洗い流す、そういう時間だ。
俺は、帰らなければならない。ここに倒れ、今にもくたばりそうな仲間達をかついで、こいつらをこいつらの家に届けなければ。アレクセイやクルツには、年頃の、生意気盛りの子供がいたはずだ。ラドクリフとマクドネルには、新婚ほやほやの奥さんと、生まれたばかりの子供達がいた。まだ乳臭さの抜けないグラントの母親は、心配しながら我が子が無事に帰ることを神に祈っているのだろう。無事ってところはもう駄目だが、せめて生きて帰してやらないと申し訳が立たない。
何に?
この、巨体に、だ。
このまま俺が一人で逃げ帰れば、俺はでくの坊扱いされる。それは全くの事実だから、別に俺は構わない。でも、俺の体が馬鹿にされるのだけは、どうしても許せない。そんなことになったら、俺が俺でいた意味がなくなる。そんなの、申し訳がないじゃあないか。
だから、男は、最後まで戦わなければならなかった。
『貴方だけ、逃がしてあげてもいいわ』
少女は、恥ずかしげに俯いた。
『ほんとは駄目なんだけど、貴方がどうしてもって言うなら、考えてあげる』
『おい、それじゃあ俺に逃げてくれって言ってるように聞こえるぜ』
『そうよ。いけない?』
男は、唖然とした。
少女の言葉に、ではない。少女の、薄く涙の張った瞳の美しさ、その黒の深さに、心を奪われた。
『ねぇ、ヴォルフ。私は貴方を殺したくないわ。でも、貴方は倒れてくれないでしょう?』
男は、無言で頷いた。
『ほら、ね?なら、私、貴方を殺しちゃう。そしたら、もう喧嘩も出来ない。そんなの、つまらない』
『他の連中は?俺と一緒に見逃してくれるのか?』
ヴォルフガングは、言葉の途中で眉を顰めた。息を吐き出したときに、折れた肋骨がずきりと痛んだのだ。
そんな彼を痛ましそうに眺めながら、ウォルフィーナは首を横に振った。
『駄目。それは出来ないの』
『どうして』
『私は、私が目覚めたときに、最初に見つけた人間を殺す。そうしなければならない。それが理由よ』
『ああ、そうか』
これほどに理屈の通らない理屈もなかったが、ヴォルフガングには不思議と納得出来た。目の前の少女が、これほどに苦悩に満ちた悲しげな瞳でそう言うのならば、それはそういう事なのだ。
だから、彼も答えた。少女の好意を無碍にするのは心が痛んだが、彼にとって他の選択肢は存在しなかった。
『なら、俺が逃げるのも無しだ』
『どうして?』
『俺はな、ウォルフィーナ。こいつらを病院のベッドに叩き込んでやらねぇと、ビールが美味くねえんだよ。きっと、これから一生、不味いビールしか飲めなくなる。きんきんに冷えて、突けば凍り出すくらいに冷えた缶ビールを飲んでもちっとも美味くないなんて、そんなの人生における重大な損失だ。勿体ないにも程がある。分かるか?』
『ああ、うん、なんとなく分かるわ』
少女も、楽しそうに頷いた。
二人は、互いを好ましく思いながら、しかし互いを許すという選択肢を持っていなかった。それだけの話で、それ以上ではない。
二人は見つめ合い、そして微笑みあった。
それが、互いの降伏勧告を無期限に拒絶する、互いの意思表示だった。
『できるだけ、楽に殺してあげるわ』
『誰が殺されるか。顔を洗って出直してこい、しょんべん臭い小娘が』
ヴォルフガングがそう言い終えたと同時に、ウォルフィーナの小さな身体が、彼の視界から消え失せた。
もう、何度も繰り返したことだった。
ヴォルフガングは、単純な力比べならいざ知らず、総合的な戦闘能力でこの少女に自分が勝っているとは考えていない。
速度。体を動かす性能が、根本的なところで桁が違う。
まるで、四つ足の獣だ。いや、ひょっとしたらそれ以上か。遠く眺めるならいざ知らず、目の前でこうも素早く動かれたのでは、人間の目が追いきれるはずがない。
だから、ヴォルフガングは諦めていた。当然、勝利をではない。華麗に少女を取り押さえて、無傷の勝利を得ることを、である。
『あは、熊さんはいつから亀さんになったのかな!?』
ウォルフィーナの台詞は、全くもって正鵠を射ていた。体を小さく屈め、急所だけをなんとか守って一切の攻撃をしなくなった生き物を、もはや猛獣と呼ぶことはできない。ならば今のヴォルフガングのそれは、巨大な亀とでも言うべき姿だった。
しかし、少女も気がついている。彼の、腫れ上がった瞼の奥で未だ鈍く輝く瞳が、己の勝利を信じて微塵も疑っていないことを。
ならば、実のところ、追い詰められているのは少女のほうだった。どんなに苛烈に攻撃しても、男の頑丈な体がその全てを吸収してしまう。この体を攻略するには、拳や蹴りでは役者不足なのだ。
そして、男もそのことに気がついていた。気がついて、じりじりと待っていたのだ。己ではなく、己の肉体の頑健さのみを信じて、荒れ狂う暴風雨のような少女の攻撃を、じっとひたすら耐え忍んでいた。
いいぞ。どれほどでも痛めつければいい。
存分に殴って、存分に蹴っ飛ばして、存分に引っ掻け。
その度に、体は痛むだろう。傷つくだろう。だが、決して壊れはしない。俺はそのことを知っている。この体は、どうしたって俺を裏切らない。裏切るとすれば、それは俺が先にこの体を信じることが出来なくなったときだ。
だから、俺は戦っている。たった一度も攻撃をせずに、それでも必死に戦っている。どうだ、追い詰められているのはお前のほうじゃないか、ウォルフィーナ。その真っ黒な瞳が、焦りに染まっているぞ。
ならば、いずれお前は奥の手を使わざるを得なくなる。お前の、お前だけの、とっておきの武器だ。しかし、お前がそれを手にしたときが、俺の勝つときだ。
そうして、男は耐えた。とことん耐えた。
やがて、焦れたのは、やはり少女の方だった。
『しいぃっ!』
鋭く漏れ出した呼気と共に、少女の足が疾駆する。
狙いは、男の右内股。少女の小さな足の甲が、そこを思いっきりはじき飛ばした。
『ちぃっ!』
さすがに、男の巨躯が揺らいだ。がくりと膝が折れ、男の顔が剥き出しになる。
しかし少女は、男の顔面を狙わなかった。素早く引き戻した足を、そのまま垂直に蹴り上げた。
では、そこに何があるか。
そこには、男の股間がある。今まで、敢えて一度も狙わなかった、急所中の急所である。
少女は、ほとんど思いっきり、そこを蹴り上げた。
少女の爪先に、柔らかい感触が伝わった。
『かはっ!』
男は短く呻いて、そのまま悶絶した。
両手で股間を押さえ、前のめりに倒れていく。
普通なら、これで勝負ありだ。少女の怪力で思い切り股間を蹴られたのだから、睾丸の一つや二つ、潰れていてもおかしくはない。そして、そんな男が立っていられるはずがない。
しかし、ウォルフィーナは徹底的だった。前のめりに崩れていく男の、剥き出しになった喉に焦点を合わせ、その獰猛な牙を剥いた。
それが、この、狼女と蔑まれた少女の、最後にして最高の武器だった。
そして、ヴォルフガングが待ちに待った、唯一の勝機であった。
◇
あれ。
おかしい。
何でだ。
私は、噛み付いた。
この、とても好感の持てる、大男の喉元に。
なら、私の口の中には、暖かい液体が充ち満ちていないとおかしい。
おかしいのに。
どうして、何の味もしないんだろう。
それに、どうして噛み裂けない?確かに筋張って固そうな首だったけど、一気に噛み切ることは不可能ではないはずなのに。
おかしい。
なんで。
◇
ウォルフィーナは、ヴォルフガングの喉元を一気に食い千切るつもりで噛み付いた。
グラントの右腕を、たった一噛みで無造作に食い千切った獰猛な顎である。それは、巨木のように太く、豊かな筋肉に覆われたヴォルフガングの首であっても、有効な攻撃たり得るはずだった。だからこそ、彼女は最後まで、自分にとっての文字通りの牙を隠し続けていたのだ。
なのに、少女の牙は、その喉笛を噛み裂くことが出来なかった。
単純な理屈だ。少女が噛み付いたのは、男の首などではなかったのだから。
『…つ、かまえたぜぇぇ…!』
少女が噛み付いたのは、男の左前腕部であった。
悶絶し、前のめりに倒れそうになっていたのは、あくまでふりだった。そして、目にも止まらぬ速度で飛びかかる少女、その口と頸動脈部の間に、腕を差し入れたのだ。
男は、いつか少女が、自分の喉元か、それとも延髄に牙を突き立てるものだと信じて疑わなかった。鋭い牙を持つ肉食獣が獲物を仕留めるときは、それが作法なのだ。
その点、男は少女のことを信じ切っていた。信頼していた。
だから、この一瞬を、全てをかけて待ち続けたのだ。
一瞬の驚愕の後、しかし少女は、自分が今何に噛みついているのかを瞬時に把握した。
馬鹿にするなと思った。こんなもの、一息で噛み千切ってやると、顎に力を込めた。
『無駄だ。いくらお前さんでも、それは噛み切れねぇよ』
ヴォルフガングはそう言いながら、残った右腕で、少女の細い腰を抱きかかえた。そうすると、もう少女は逃げられない。
後ろに引くことが叶わないならば、前に進むしかない。少女はそう思い、いっそうの力を顎に込めた。もう、満身の力で噛み付いた。しかし、特殊な防刃加工を施したジャケットをぐるぐる巻きにしたヴォルフの左前腕部は、どうしたって噛み裂けるものではなかったのだ。
勝負は、ここに決した。
『いい子だ、そのまま離すなよ』
ヴォルフガングはそう呟いて、その巨体からは想像もつかない速度で疾駆した。無論、少女を抱きかかえたまま、である。
どこに向かって?
病院の、太くて頑丈な柱、その角に向かって、である。
『………っ!』
少女は、さすがに身の危険を感じて、顎を離そうとした。しかしそれも一瞬遅く、彼女の小さな身体は既に男の太い腕に抱きかかえられてしまっている。
最早、この顎を放したところで逃れられない。そう理解した少女は、よりいっそうの力を顎に込めた。もう、自身が顎と牙だけの生き物になってしまったような様子で、一心に噛み付いた。
ヴォルフガングは、己の左腕から、べきりと鈍い音が鳴り響いたのを聞いた。それも、二回聞いた。間違いなく、尺骨が二本とも砕けたのだ。
それでも構わず、男は疾駆した。まるで獲物を仕留める熊のように、大きく、しかし想像以上に敏捷な動きで、走った。
そして、そのまま叩き付けた。
自分の200㎏の体重と少女の40㎏ほどの体重を、存分に加速させ、そして柱の角に少女の背中を叩き付けたのだ。
病院全体が、何の比喩でもなく震えた。
ぐしゃり、と、すごい音が鳴った。
それは少女の背中で柱がひしゃげた音であり、少女の肩甲骨が砕けた音であり、少女の肋骨が粉微塵に粉砕された音であった。
『かはっ…!』
少女は、先ほどのヴォルフガングのように、弱々しい声をあげて悶絶していた。
今度こそ、勝負ありである。
しかし、それでも男は攻撃の手を休めなかった。
『悪いなぁ、ウォルフィーナ。俺は臆病なんだ。お前みたいに物騒な女はさ、意識があるだけでもおっそろしいんだよ』
ヴォルフガングは、少女が噛み付いたままの左前腕を、そのまま強く柱の方に押し付けた。少女の開かれたままの口に、男の腕が深く埋まる。これで、口で呼吸することは出来ない。
彼は少女を強く押し付けることでその体を柱に固定し、自由になった右腕で、少女の鼻を塞いだ。これで、鼻での呼吸も封じられた。
ウォルフィーナはヴォルフガングと戦う際、荒々しく呼吸を繰り返していた。あれがふりでなければ、これも呼吸によってエネルギーを生み出し、そして戦う類の生き物であるはずだ。ならば、呼吸を封じてしまえば容易に無力化することが可能なはずだ。
『だから、悪いことは言わねえからさ、大人しく眠ってくれよ。なっ?』
ヴォルフガングは、今までで一番優しい口調で、少女に語りかけた。それは勝者の優越の籠もった声ではなく、父親が娘に語りかけるような、優しい調子だった。
ウォルフィーナは、激しく暴れた。さすがに先ほどのダメージが回復していないのだろう、ヴォルフガングを散々痛めつけたときと比べれば見る影もないような弱々しい調子だったが、その鋭い爪でヴォルフガングの頬を何度も引っ掻き、その肉を浅く削っていった。
それでも、結局は追い詰められた獣の、最後の悪あがきでしかなかった。一分と立たずにウォルフィーナの顔は真っ赤に染まり、口の端から泡を吹き、白目を剥いて気絶した。
ヴォルフガングはそれでも力を緩めず、やがて少女の小さな身体が細かく痙攣し始めたところで、ようやく彼女の鼻から手を離した。
『あぁ―――…つっかれたぁ…』
ヴォルフガングはそう呟いて、がっくりと腰を下ろした。その拍子にウォルフィーナも小さな体も、コンクリートの床の上にとさりと落っこちた。彼女を抱き留めようとしなかったのはヴォルフガングが非情だったからではなく、純粋にそれだけの力が残されていなかったからだ。
彼は、残された最後の気力を振り絞ってウォルフィーナの元まで這いずり、彼女の腕を後ろ手に拘束した。この程度の枷がこの少女に対して如何ほどの効果があるのかは分からないが、やらないよりはましというものである。
その時点で、彼の頭にはいくつかの疑問が浮かび上がっていた。
この、今は安らかな顔で眠る黒髪の少女は、一体何者なのか。この研究所とどんな関係があって、ここが閉鎖されてからどのようにして生き延びてきたのか。
地下二階に設えられたあの扉を、どのようにしてこじ開けたのか。彼女は確かに驚くほどの怪力だったが、しかし自分と比べればさして際立ったものではない。旧式の薄っぺらな鉄扉ではなく、あれほど頑丈な電子ロック式の扉をこじ開けるのは、いくら自分でも不可能だ。
それらは確かに重要な疑問であったが、しかし同時に今の彼にはどうでもいいことであった。彼の頭のうちの三割を占めるのは、自宅の冷蔵庫の中に入った冷たい缶ビールのことであり、残りの七割はこのまま泥のように眠りたいという睡眠への欲求であった。
しかし、彼には残された最後の仕事があった。懐から小さな携帯用情報端末を取り出し、押し慣れた番号を、震える指先でプッシュする。彼の大きな指にフィットするような機種はなかったから、出来るだけ大きなものを買ったつもりだったが、それでも何回か番号を押し間違えて、その度にこの悪魔のような機械を真っ二つに砕いてやりたくなったヴォルフガングである。
やがて、彼は思い通りの番号を押し終え、その機械を耳に押し当てた。
『…おう、リヒター。元気か?…ああ、こっちは深夜だ。いや、そっちも深夜なのは重々承知なんだがな。ちょっとトラブった。例の廃病院まで、救急車を寄越してくれ。怪我人が七人、内少なくとも五人は重傷だ。一人は命に関わるかも知れん。…クルツだ、そうだ、クルツがやられた。…そんなことはどうでもいい!さっさと救急車を手配しろ!…そうだ、例の病院だ。言っとくが、間違えても政府の息のかかっていない人間を寄越すなよ。見られたら不味い人間もいるんでな…』
◇
廊下の向こうから、お伽噺にあるような巨人が歩いてくるのを見て、待合室の子供が泣き始めた。それをあやすべき母親も、その男の異様なまでの巨大さに言葉を呑んで、身動ぎ一つ出来ない。
そんな光景は彼にとってはいつものことだったので、彼はいつも通り無表情に、そして足早に待合室の横を通り過ぎた。下手に笑顔なんかを見せれば逆効果になるのはわかりきっている。ならば、早々に自分が立ち去るのが、泣き叫ぶ子供の涙を止める何よりの薬になるということを、彼は知っていた。
ヴォルフガング・イェーガー少尉は、病院の清潔な廊下を一人歩いていた。右手に、見舞い用の花束と、可愛らしい小包を抱えている。
その小包の中には、この近所で美味しいと評判のケーキ屋さんのケーキが入っている。その店に入ったときは、まるで街中に突然熊が出現したような奇異な瞳で見られたものだが、彼が顔を真っ赤にしながら擦れた声でケーキを注文すると、可愛らしい女の子の店員さんは、ケーキの種類に詳しくないヴォルフガングに色々なことを教えながら、笑いを噛み殺したような表情で、一緒にケーキを選んでくれたのだ。
ヴォルフガングは、果たして女の子を見舞うのに何を持って行くのが一番相応しいのか、大いに迷った。だが、彼はそういった方面にはとことん疎い男であったし、やはり小さな女の子は甘いものが好きに違いないという固定観念に負けて、このように無難な選択となった。
彼の左手は、まだ上手に動かない。いくら組織再生法という便利な医療技術が確立されているとはいえ、結局最後に頼るべきは己の体の治癒能力である。その点、彼は自信のそれが十分な信頼に値するものだと信じていたから、左手の痺れもすぐにとれるものだと理解していた。
一週間前の、悪夢のような一夜は、剛胆な彼の記憶にも色濃く陰を落としている。しかし、あの場に居合わせた六人のうち、一番早く回復したのはやはり彼だった。その傷が、内臓破裂を起こして一時は危篤状態に陥っていたクルツを除けば、一番に手酷いものだったにも関わらず、である。
全身を覆う重度の打撲傷と擦過傷、右睾丸破裂、左膝靱帯断裂、右足首剥離骨折、左十番から十二番までの肋骨完全骨折、右六番及び十一番の完全骨折。骨にひびが入った程度の細かいものは数え上げればきりがない。
その中でも一番ひどかったが、左上腕部の裂傷である。大形の肉食獣に噛まれたと思われるその傷は、骨を断ち割り肉を裂き、あと少しで完全に食い千切られる、ほとんど皮一枚で繋がっているような有様だったのだ。
ヴォルフガングとしては、最早恐怖を通り越して感嘆するしかない。彼自身の命を何度も救ってくれたあの防刃ジャケットを食い破り、彼の逞しい筋肉の鎧をものともせず、骨までも噛み切ったのだ。驚くべき力であった。第一、どうやればあの少女の小さな口で、大形肉食獣のような噛み跡を残せるのか。何度考えても納得のいく答えを導き出すことが出来ない。
この一週間、彼は病室のベッドで、ぼんやりと天井を見ながら過ごしていた。その間考えたことといえば、病院食とはどうしてこんなに不味いんだろう、とか、冷蔵庫に入れておいた缶ビールが凍り付いて破裂していないだろうか、とか、食べ物の事ばかりであった。その点、彼は自分が熊か象に似ていると言われても反論する材料を持たない。
そんな、人生の夏休みを謳歌するようにのんびりとしていた彼のもとに、一本の電話が入った。彼の直属の上司であるアレクセイからの電話であった。
『…ウォルフィーナが、私との面会を求めている、と?』
『そうだ、さっさと会いに行ってやれ!』
六人の中で一番傷の浅かった上司は、電話越しに不機嫌な声を隠そうともせず、そう言って受話器をフックに叩き付けたようだった。
はて何の事やらと耳を疑ったヴォルフガングだが、上司の命令となればこれは立派な任務の内である。取るものもとりあえず、彼は少女が入院しているという大学病院へと向かい、そして今は少女の病室のあるフロアの廊下を歩いている。
しかし、その内心では、未だに強く困惑している。
果たして今の彼女と顔を合わせて、なんと言ったものか。自分は今まで女っ気なく過ごしてきた叩き上げの軍人であり、あちらさんは、その内側に詰まっているものを無視すれば、うら若き乙女だ。どう考えても、共通の話題があるとは思えない。
あるとすれば、やはり一週間前の、あの戦いだろうか。しかし、その点について、勝者である自分が口にしていいものか。それは、彼女の誇りを傷つけるものになるのではないだろうか。
加えて、ヴォルフガングの中には強い自責の念がある。無論、口にすればウォルフィーナを侮辱することになるので言わないが、彼は、いくら非常の事とはいえ、女性を傷つけたことを後悔しているのだ。女手一つで育てられた彼は常に女性というものを尊敬していたし、また守るべきものなのではないかとも思っていた。極端な男女平等主義者に言わせれば男の身勝手と非難されかねない意見だったが、しかし彼は、力の強い者が弱い者を守るのは当然のことだと思っていたので、やはり彼にとっての女性は庇護の対象だったのだ。無論、ウォルフィーナがか弱い女性であるとは思わない彼ではあったが。
それとは反対に、彼女と会って、落ち着いて話をしたいと思う自分もいる。彼女は、なんだかんだいってとても美しい少女だった。別に異性として意識しているわけではないが、しかし彼女と話すのがとても楽しいことであるのは、間違いない気がしていた。
そんなことを考えつつ歩いていたら、いつの間にか彼女の病室の前に辿り着いていた。
未だ心の整理のつかないヴォルフガングではあったが、この期に及んでの逡巡は、臆病者との誹りを免れ得ないものだろう。
意を決した彼は、その大きな手の甲で、病室のドアを三回ノックした。
すると程なくして、中から声がした。
『どうぞ』
それは、明らかにあの少女、ウォルフィーナの声だった。
ヴォルフガングは、緊張で汗ばんだ掌をズボンで拭って、それから扉を開けた。
その瞬間、爽やかな風が彼の前から吹き、僅かばかりの体温を奪って、後ろのほうに抜けていった。
まるで初夏の森に拭く、木々と獣たちの息づかいをたっぷりと含んだような、馥郁たる風だった。
その風に誰かの魂が乗っていたような、そんな気がした。
望外の心地よさに気を取られていた彼は、やがて意識を目の前の少女に集中させた。
ヴォルフガングは、無言で目を見張った。
彼の目の前で、寝台に腰掛けている、白い診察着を身に纏った少女。それは、一週間前に、彼と死闘を繰り広げた、あの少女だ。流れるような黒髪も、黒真珠みたいな瞳も、白磁の肌も、すべてがそのままだ。
しかし、彼の目には、それがどうしても同じ人間には見えなかった。薄汚れた体は綺麗に手入れされ、幼いながらに匂い立つような色気を身に纏っている。それはそれで目を見張るような変化であるのだが、もっと根本的な部分で、目の前の少女はウォルフィーナではない。ヴォルフガングはそう直感した。
だから、口に出してはこう言った。
『…あんた、誰だい?』
少女は不思議そうに小首を傾げた。
『はて。俺と卿とは初対面ではなかったと思うが?』
俺。
この、どう見てもウォルフィーナにしか見えないのに、決してウォルフィーナではない少女は、自分のことを『俺』と呼んだ。
ヴォルフガングの記憶にあるウォルフィーナは、自分のことを『私』と呼んでいた。
これはいよいよ、同一人物ではあり得ない。
『…もう一度聞くぜ。あんた、一体誰だ?ウォルフィーナはどこに行った?』
『卿が戦ったのは、ウォルフィーナと呼ばれた少女の残滓だ。今は、この世界のどこにも彼女は存在しない』
目の前の少女は、少しだけ寂しそうにそう言った。
ヴォルフガングには一体何事か分からなかったが、しかし少女が真実を言っていることだけは分かった。
『…死んだのか?』
『ある意味では、そうとも言える』
『俺が殺した?』
『違う』
少女は首を横に振り、確固として言った。
『卿と出会った時点で、彼女は既にこの世の住人ではなかった。先ほども言ったが、卿が出会ったウォルフィーナはあくまで残滓、この世の最後の未練のようなものだった。だからこそ複雑な思考も出来ず、ただいたずらに卿らを傷つけた。詭弁にしか聞こえないだろうが、あれは彼女の遺志でも俺の意志でもなかった。そう言う意味では、俺も彼女も、深く貴方に感謝している。俺達を止めてくれて、どうもありがとう。そして、故なくあなた方を傷つけたことを、深く謝罪させて欲しい』
『いや、俺達も彼女に銃を向けたからな、お互い様だと思うんだが…』
ヴォルフガングは、彼女が自分達を殺さなければいけないと、少し悲しそうに言っていたのを思い出し、そういう意味だったのかと納得した。
そして、目の前の、ウォルフィーナではない少女の言葉。自分を止めてくれてありがとうというその言葉だけは、まるであの少女が話したような、そんな気がした。
大きなお兄さんと少女に呼ばれた青年は、己を殺そうとし、また己が殺そうとした少女の魂の平穏を願って、短い黙祷を捧げた。
『彼女の死を悼んでくれるのか?』
目を開けたヴォルフガングは、その瞳を僅かに濡らしながら、鼻にかかったような声で答えた。
『ああ。あの子は、何て言うか…そう、とてもいい子だった』
『卿を殺そうとしたのに、か』
『俺を殺そうとしなければならない程に追い詰められた彼女が、今はただ悲しいと思う。それだけだ』
その言葉に少女は深く頷き、そして頭を深々と下げ、礼の言葉を述べた。
『彼女に代わって、御礼を申し上げる。そして、卿の気高き魂に尊敬を』
それは少女の口が紡ぎ出すべき言葉ではなかったが、しかしヴォルフガングには、そのややこしい言葉遣いが、何よりもその少女に相応しい気がした。
彼は照れたような表情ではにかみ、そして問うた。
『じゃあ、あらためて聞くよ。あんた、名前は?』
黒髪の少女は、烟るような笑みを浮かべて、こう言った。
『俺の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。少し前まで国王などという職業についていたのだが、今は昔だな。ところで、俺も彼女と同じように卿のことをヴォルフと呼びたいのだが、それを許してくれるだろうか?』
ヴォルフガングは、自分の目の前で太陽が笑ったような、そんな気がした。