懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
外洋型宇宙船《スタープラチナ》が宙を疾駆している。
速度は、この船の最高巡航速度を超えている。重力波エンジンも、動力源であるクーアシステムも、船体そのものも、全てが悲鳴を上げている。
この航海が終われば、ドッグで長期間の修理を受けなければならないのは間違いない。それとも、この船の寿命は、ここで尽きるのかも知れない。
それでも急がなくてはならないだけの理由が、彼らにはあった。
「ルウさん!本当にこの宙域で間違いないんだろうな!?」
叫んだのはインユェであった。竜胆色の瞳が焦りに染まっている。本来彼が負うべき責任とは全く無縁の仕事をしているのだが、双肩に数億の人命がかかっているのだとすれば、年若いインユェが押し潰されそうになったとしても不思議ではない。
対して、ルウは、インユェなどからすれば心憎いほどに落ち着き払っていた。
「間違いないなんて言えない。僕の手札も、百発百中とはいかないんだから。でも、ジャマーを探知するための機械も無いんだ。今は手札を信じるしかない」
航海士の席に座ったルウが、計器類を睨みながら言った。
彼の占いはほとんど未来予知と呼べるほどの高い精度を誇るのだが、ウォルという、この世界に本来存在するべきではない存在の来訪により、歯車に僅かな狂いが生じていた。それが、この騒動を巻き起こす切っ掛けの一つにもなったのだ。
苛立たしげに舌打ちを漏らしたインユェが、更に何かを言おうと口を開きかけたが、彼の肩をそっと押さえる小さな手が少年の言葉を優しく鎮めた。
「焦るなインユェ。気持ちはよく分かる。それは、きっとみんな同じだ。だからこそ焦るな」
ささくれだちかけたインユェの心を撫で摩るような、少女の声だった。
その声を聞いたインユェは、自己嫌悪を噛みつぶすように歯を軋らせ、
「……すまねぇ、ルウさん」
「いいよ。それに、僕のことはルウでいい。これは前にも言ったけど、お願いね」
「……ああ、分かったよ、ルウ」
インユェは項垂れかけた首筋に喝を入れ、鋭い視線で正面を向いた。
その眼差しに、甘えや幼さは無い。少年が、少年と呼ばれる時代を、きっと今、越えていったのだ。
ウォルは、スクリーンに反射したインユェの面差しを見て、僅かな苦みとともに微笑んだ。自分にもこのような時期があったのだろう。幼かったからこそ許された罪。幼かったから救えなかった何か。少女の脳裏を、そんな取り留めもない何かがよぎったのだ。
◇
「しかし、この作戦には一つ、重大な欠点があるのではないでしょうか」
ほとんど音を立てずに椅子を引いて立ち上がったエクベルトが、抑揚の少ない調子で発言した。
「確かに狭隘な戦場の設定に成功し、奇襲作戦も成功すれば、寡兵の我が軍にもエストリア軍と互角の勝負が出来る可能性が出てくるでしょう。しかし、贔屓目に見てもそれが限界です。我が軍の総力をもってしても、エストリア軍の一個艦隊と互角の勝負が出来るかどうかの瀬戸際が限界なのです」
エクベルトの指摘は、冷酷なまでに事実を指摘していた。
「もしも、クーア顧問の仰る勝利の女神が我らに微笑み、さらに聖女の加護があり、第十三艦隊を撃退することが叶ったとしましょう。しかし、行動限界を迎えた我が軍に対し、エストリアは万全の他艦隊を派遣すれば、些かの労も無く我が国を蹂躙することが可能でしょう。いや、第十三艦隊が戦況を不利と判断し母国に救援を要請でもすれば、倍増した敵軍の猛攻に、我が軍は朝露よりも速やかに虚空への退場を余儀なくされるでしょう。その点について、顧問はどうお考えですか?」
この懸念は確かに重要なものであったが、エクベルト自身も意識しないところで検察官的な悪意を孕んでいたのかも知れない。援軍を含めて彼我の戦力を比較するということは、即ち大国エストリアとヴェロニカ共和国の全兵力を比較することに等しいのだから。
だが、惑星ヴェロニカに埋蔵されたトリジウムの総量からして、エストリアが簡単にヴェロニカ侵攻を諦めるとは思えない。状況に変化が訪れない限り、第二第三の矢をつがえない保証は無いのだ。
エクベルトが席に座ると、代わりに、ジャスミンがゆっくりと立ち上がった。
「参謀長の仰ることはご尤もです。先ほど小官が説明させていただいた作戦をもってしても、第十三艦隊の撃退自体はほとんど不可能に近い。精々、長時間の戦線維持が限界でしょう。そして我が軍に援軍はありえず、彼らにはそれが無限に等しいほどある。戦略的に見れば、我が軍の必敗は明らかです」
ヴォダルスは確と頷いた。今更嘆くまでもない。この程度の事実は、エストリア軍侵攻の報がもたらされた直後に、彼は認識している。それこそ魔法使いでもいない限り、この事実を覆すことは出来ないだろう。
それでもジャスミンは不敵に微笑んだ。
「しかし、エストリアは、古典の悪役を割り振られた蛮族の集団ではなく、共和宇宙に名だたる巨大国家です。エストリアの弱点は、取るに足らない建前を、少なくとも表面上は守る必要があるということ。どれほどそれが、かの国にとって馬鹿らしいものであっても、です」
「……それは、どういうことですか?」
「彼らがヴェロニカ共和国へ侵攻する大義名分は、狂信的宗教テロリズムに毒されたヴェロニカ首脳陣から、在ヴェロニカの自国民を保護し、そして近いうちに決起されるであろう国家的な大規模テロ行為を未然に防ぐこと。誰が聞いても眉唾ものの作り話ですが、彼らはそれを強引に押し通すでしょう」
かつて、人類が宇宙という巨大な揺りかごにまだ馴染まないほど幼く、単一の惑星の表面だけで暮らしていた時から、その手の話は枚挙に暇がない。小国の罪をでっち上げることで大義名分を拵え、侵攻し、資源や利権の甘い蜜に群がった大国の、なんと多くなんと恥知らずなことか。
そして、いつだって小国は自らの罪無きことを訴えてきたが、無いことを証明することはいつだって不可能に近かった。在るのだという主張にはもっともらしい証拠で色づけすることが出来るが、無いという主張には何を着飾らせることも出来ない。そして人の目は、派手派手しい色彩にしか心奪われないのだ。
「ならば、我々は殉教者を気取って、全滅を前提に戦わなければいけないのかね?」
ヴォダルスの声に、ジャスミンは首を横に振った。
「もしも残された選択肢がそれだけならば、それはあなた達ヴェロニカ教徒だけがそうすればいいこと、無関係の我々はすっ飛んでこの星から逃げ出しています」
それは確かに放言であったが、ヴォダルスの、それほど豊かとは言えないユーモアを強かに刺激したらしい。
気難しく偏屈を極めると敬遠された老人は、僅かに弛んだ頬肉を振るわせて笑った。
「これは心強い!つまり、大尉には我らを救う、起死回生の策があるということか!」
「無い、とは言わない。しかし、この国にとっては相応以上の痛みのある方策ではある」
ジャスミンの厳しい声に、ヴォダルスは笑いを収めた。
「彼らの侵攻を食い止めるためには、彼らの大義名分を正面から叩きつぶすしかない。そして、罪無きことを証明するのは不可能に近い。それは、歴史が証明するところだ。しかも、エストリアの侵攻が間近に迫っている今となっては遅きに失していると言わざるを得ない」
場を見渡すジャスミンに、一同が首肯した。
「では、どうするか。単純な話だ。罪があることを認めてしまえばいい」
静寂が、場を支配した。無論、元から騒がしい場であるはずがない。規律厳しい軍の、しかも最高幹部が集まり作戦を議論する場だからだ。
しかし、全員が息を飲み、声を失ったのが、気配で分かる。乾いた口中の唾液を強引に飲み下す音すらが響くようだ。
その中で、エクベルトが、意を決したように立ち上がり、
「つまり、我が国が、蒙昧な宗教的野望に基づき共和宇宙を覆そうと企んだテロリスト国家であると、全宇宙に認めろと、そういうことですか?」
流石に棘を逆立てた言葉に、ジャスミンは容易く頷き、
「正しく参謀長どのの仰るとおりです。今、現時点でエストリアの戦略を打ち砕くには、罪なき罪を認め、全宇宙に向けて恥を曝す。それ以外の方策はありえません」
「なんという無茶を!そのようなことをすれば、ヴェロニカ共和国の威信は地に墜ちる!それは、国家的な自殺ではないか!」
椅子を蹴倒すように立ち上がったエクベルトが糾弾の視線で無礼な発言者を射貫いたが、当のジャスミンは、少なくとも表情には一切の動揺を見せず、平然とした調子で続けた。
「国家の自殺。正しく仰るとおりでしょう。しかし、今、全国民の命が危機に晒されようとしている。それを防ぐため、全ての兵が命を賭けて戦おうとしている。ならば、ヴェロニカ共和国という国の命数と、それら国民や兵達の命。天秤にかけてどちらが傾くか。どちらが真に守られるべきものか。それだけの判断でしょう」
「それだけ……」
エクベルトは絶句した。彼にとって、国家とは絶対不可侵であり、命を捧げて忠誠を誓うべきものであった。しかし、宇宙そのものに己の居場所を見出したジャスミンにとって、国家とは、人の人生を縛り付ける鎖のうちの、やっかいな一つでしかなかったのである。
「そして、ヴェロニカ共和国という存在が、果たして清廉潔白で、他国の非難に値する行為を今まで一切してこなかったのか。ここにいる人間ならば、色々と思うところはあるのではないでしょうか」
ジャスミンの容赦ない視線を受けて、ヴォダルスが頷いた。
「確かに、ヴェロニカ共和国の一部の人間……いや、今更事実を曖昧に糊塗しても始まらんな。ヴェロニカ共和国の上層部の、一部とは言えん人間が、人としてあるまじき、強烈な非難に値する行為をしてきたのは事実だ。それは無論、全てに対して見て見ぬふりを決め込んだ、儂自身も含めてな」
「閣下……しかし閣下は……!」
「いや、いいのだエクベルト少将。これは覆しようのない事実なのだから。そうだろう、テセル老師」
今までほとんど石像のように沈黙を守っていたヴェロニカ教の最高指導者は、こくりと首を曲げて賛同の意を表した。
「はい、将軍。我らの罪の深きことを、最早否定しようと私は思いません」
ジャスミンも頷いた。
「ヴェロニカ共和国が公的に非を認めてしまえば、少なくとも短期的にエストリアはヴェロニカ侵攻の大義名分を失う。その間に、如何様でも名誉回復の機会を探すことは出来るでしょう。しかし、今、奴らに時間を与えれば、ヴェロニカ共和国は悪辣なテロ国家の烙印を押されたまま、身の潔白を主張する機会すらを奪われる。それも、永久に」
ジャスミンの、一種冷徹とも言える発言は、途轍もないスリルと化してヴェロニカ共和国主席であるノールデの心臓を射抜いた。
ノールデは、絞るように握りしめたハンカチで、年相応に拡大した額を吹きつつ、苦しげに呻いた。
「……俄かには信じ難い話です。いえ、この様な事を言えば将軍に退席を命令されてしまうかも知れませんが、それでも私は口にせざるを得ません」
ノールデの、やや弛んだ頬肉が、緊張と不安で細かく震えていた。
「本当に、エストリアは我が国への侵攻を企んでいるのでしょうか?それが確実ならば、私は如何なる手段を持ってしてもこの国を、そしてこの国に住む全ての国民を守る義務がある。一時の汚名など恐るものではありません。しかし、その情報が不確定であるならば、ヴェロニカの歴史に大きな傷を負わせる決断を、私個人の責任で下すなど……」
ノールデが縋るような視線で助けを求めたのは、彼の半分程も人生を踏破していないであろう、年若いテセルであった。ヴェロニカ教の老師というものは、その年齢に関わらず、信徒の尊敬を一身に受け、彼等の進むべき道を指し示す義務を負う。それは、大統領亡き後、臨時とはいえ国家の最高権力者となったノールデであっても同様らしい。
ノールデの視線を受けたテセルはゆっくりと頷き、
「あなたの仰ることは分かります、ノールデ主席。しかし、あなたの元にもビアンキ老師は訪れたのではありませんか。であれば、その一事をもってエストリア侵攻の証拠とする事は出来ませんか?」
通常の国家であれば、故人が枕元に立ってお告げをした事など、どれ程多くの人間が同時に同じ体験をしたとしても、これを国政の大事についての判断材料とするわけにはいかない。
しかし、ヴェロニカ共和国は、形式はともかく、実質的にはヴェロニカ教の精神に寄って立つ宗教国家であることを言うに待たない。
ならば、その前最高指導者であったビアンキ老師のお告げに従うことは、必ずしも不条理ではないのではないか。テセルなどはそう思うのだ。
しかし、ヴェロニカ教の神秘性以上に、合理性と現実性に重きを置いて政治活動を行ってきたノールデにとって、テセルの意見は無条件に首肯出来るものではなかったのだ。
「……例えば、他国に向けて、或いは共和政府に向けて、エストリアが我が国への侵攻を企んでいると訴えるだけでは不足なのでしょうか?宣戦布告や最後通牒も無く、加えて表立った理由の一つも無いのに他国へ攻め入ったとなれば、これは国際的な非難を免れません。であれば……」
「エストリアは沈黙を保ったままヴェロニカを攻め滅ぼすでしょう。その後で、どれ程不自然極まりないものだとしても、緊急にヴェロニカを攻撃せざるを得なかった理由をでっち上げる。例えばヴェロニカ共和国が宗教的野心に基づく大規模テロを実行する間際だったと主張してもいい。さぞたくさんの物的証拠が彼らの主張を裏付けてくれるでしょう」
「そんな……まさか、そこまで……」
絶句したノールデに、ジャスミンはなおも追い討ちをかける。
「そもそもエストリアがこの様な暴挙に出たこと自体、共和政府のお墨付きがある可能性が極めて高いのです。であれば、エストリアを悪者に騒ぎ立てたところで、黙殺されるか、それとも却ってヴェロニカ共和国の立場を悪くしかねない。ですが、ヴェロニカ政府が先に非のあるところを認めてしまえば、少なくとも建前として、彼らは一義的に事実関係の調査を必要とするでしょうし、武力による一方的な制裁を加える理由を喪失する事になる。それでも強いてヴェロニカを蹂躙すれば、今度は逆にエストリアは国際的な強い非難を覚悟せざるを得ないでしょうな」
「……確かに、一時しのぎにはなるでしょう。しかし、その後に事実を調査し終えたエストリアが、再度我が国へ、今度は報復名義での侵攻を企てる可能性もあるのではありませんか?」
ジャスミンは頷いた。
「正しく主席の仰るとおりでしょう。しかしそれはあり得ません」
「どうして?」
「わたしがそれを許さないからです」
獰猛に口の端を吊り上げて、ジャスミンは微笑んだ。その表情のまま、行儀悪く足を組んだケリーに話しかける。
「さて、超大国エストリアと、超巨大企業であるクーアカンパニーが正面から殴り合いをしたらどちらが勝つか、中々興味深い命題だとは思わないか、海賊?」
「さてな。トップ同士の肉弾戦の一騎打ちなら、さぞ良い視聴率が稼げるだろうな。ま、あまりに不憫で見てられないのは事実だがよ。当然、あんたじゃなくてあちらさんがな」
「なるほど、一騎打ちか。それは話が早くて助かるな。検討の余地があるかも知れん」
真剣な表情で考え込んだジャスミンに、ノールデは訝しげな面持ちで、
「し、失礼ですが、私にはあなたが何を言わんとしているのか、分かりかねます。クーアカンパニー?エストリアと殴り合い?それはいったいどういう……?」
「単純な話ですよノールデ主席。クーア大尉……いえ、そこにおられるクーア臨時顧問は、クーアカンパニーの二代目経営者、ジャスミン・クーア女史です」
ヴォダルスの声があまりに淡白な調子であったからか、ノールデの表情は時が止まったように動かず、ややあって、方眉だけを動かしたノールデが不審そうに問い返した。
「……それは、何かのジョークですか将軍?それとも、クーアカンパニーは、あのクーアカンパニー以外にも存在するということですか?」
「残念ですが主席。その女性は、あのクーアカンパニーの二代目です。我々も、一時期肝を潰されたものです。まさか、あの鬼教官が超巨大財閥の令嬢だったとは、とね。さらに軍の上層部では、肝だけでなく心臓を潰された連中もいたようですが……」
「ほう、よく知っているじゃないかヴォダルス。確か貴官に結婚式の招待状は送っていなかったと思うのだがな」
「あの結婚発表会見を見れば、嫌でもあなただと分かりましたよ。そして、些か造形が変わってはいるようですが、ご夫君も健在らしい」
「悪いが、こっちが素なんだ。あの時は、ちょっと顔をいじらなけりゃならない事情があってな」
「ええ、あの時も似合いの夫婦だと思いましたが、今は尚更ですな」
ヴォダルスがケリーに向けた視線に極々僅かな嫉妬が混じっていたことに、他ならぬヴォダルス自身が驚いていた。それは、長い人生の中で乾き崩れて形を失ったと信じていた、老人の若き日の残照だった。
無論、ヴォダルスの言葉に含まれた苦いものに、ケリーも気が付いている。だが、女房に想いを寄せる男がいたとして、その旦那であるケリーからその男に、果たしてかける言葉などあるものか。それでもこの女の一体どこに惚れたものやらと、自分のことを棚に上げて、ケリーはヴォダルスという男にほんの少しの興味を覚えた。
ケリーの眺める先で、ヴォダルスはジャスミンに視線を戻し、
「あなたが死んだという報を受けたときは、鬼の霍乱とは本当にあるものだと呆れたものですが、なんのなんの、あなたの非常識なことたるや、どうやら時の流れすらも逆に巻き戻すらしい」
「馬鹿を言うなヴォダルス。わたしはただ冷凍睡眠を続けていただけさ。マグロの刺身か何かと一緒だよ」
平然と言うジャスミンに、ヴォダルスは重々しい溜息を吐いた。
「……まぁ色々と申し上げたいことは山ほどもあるのですが……とにかく主席。この方々が、あのクーアカンパニーの経営責任者であることは完全な事実です。一企業に、果たして大国を押さえ込むほどの尽力を期待出来るのかどうかは置いておいても、彼らの言葉には千金の価値がある。そうは思いませんか?」
「しかし……」
汗で重たく湿ったハンカチで、額を磨くように拭い続けているノールデは、煮え切らない様子で口をもごもごさせた。
その時である。
──ああ、もう、鬱陶しいじじいだな!
ジャスミンやケリーでさえ目を丸くさせる大音声と共に、作戦会議室の重厚な扉が、文字通りに吹き飛んだ。
分厚い木材が床に倒れ、巻き起こった風が机の上の資料を舞い散らせ、間一髪で跳ね退いて難を逃れたマルゴの、細く垂れた前髪を舞い上がらせた。
先ほどまで扉があった場所は、幾分風通しが良くなり、そして廊下側から、細く生白い女性の足が覗いている。
それが誰かを考えるまでもないジャスミンは、頭に手を当てて唸り声を上げた。
「……大人しくしていろと、あれ程言ったのに……」
保護者としての苦悩を久方ぶりに味わうジャスミン、その嘆きなど無視して姿を見せたのは、色鮮やかな衣装に身を包んだ大柄な少女と、その影に隠れるように佇む銀髪の少年だった。
言うまでもない。メイフゥとインユェの姉弟であった。
そしてメイフゥが、全体重をかけて足を踏みならし、威嚇するよりも烈しい視線でノールデを睨みつつ、大見得を切りながら叫んだのである。
「やいやいこの老いぼれ!てめぇ、それでも男か!その股ぐらに垂れ下がってるのは干し柿か何かか!なら今すぐにそのズボンを脱ぎな!あたしが噛み千切ってやる!」
「な、なんだこの小娘は!どうしてこの場に入って来られた!警備兵は何をしている!」
ノールデの狼狽する様に、メイフゥは大いに胸を反らし、
「けっ、あの案山子どもなら廊下の向こうでおねんねしてるぜ!」
「な、何を馬鹿な!警備兵!早くこの娘を取り押さえろ!」
顔を真っ赤にして叫んだノールデだったが、声は無情にも廊下に木霊するだけで、こうした事態に即座に駆けつけるべき警備兵の固い靴音はいつまで経っても聞こえない。
流石に事態の異常さを悟ったノールデの、震える肩に、ジャスミンの大きな掌が乗せられた。
「残念ですが主席、この娘の言っていることは本当です。緊急事態でもない、通常の警備兵程度の装備で、この娘を取り押さえろというほうが無茶です」
「ば、馬鹿な……」
普段であれば、年端もいかない少女に警備兵が伸されたなど一笑に付すであろうノールデも、廊下の向こうの静寂を感じては乾いた唾を飲み下すしか出来なかった。
そんなノールデの前までツカツカと歩いたメイフゥは、ノールデの襟元をぐいと捻り上げ、そのまま片腕で持ち上げてしまったのだ。
「てめぇら政治屋が大して働きもせずに美味い飯にありつけるのは、曲がりなりにもてめぇらの職分が下の人間の生活を守るためのもんだからだろうがよ。税金を払うのが国民の義務なら、国民を守るのがてめぇらの義務じゃねぇか。それを、くだらねぇ体面守るために選ぶべき手段も選べないなら、てめぇ、ここで腹を割って死ね!」
牙を剥き出しにそう言ったメイフゥに、首を締められたまま持ち上げられたノールデは、たった一言も反論することが出来ない。真っ赤になった顔の口元には小さな泡が立ち、このままでは失神することは明らかだ。
「メイフゥ、そこらへんにしておけ」
ジャスミンが、メイフゥの硬質な金髪の上に手を載せると、ようやく力を緩めたのか、ノールデの体がどすんと床に落っこちた。
ノールデは苦しげに咳き込んだが、メイフゥはその憐れな姿に唾を吐きかけんばかりの軽蔑の視線を送った。
「ったく、これだから政治屋どもは嫌いなんだ。いざって時に腹を切って首を差し出すのが大将の一番大っきな役割だってのに、そんなことも知らねぇで普段はでかい面してやがる……」
「メイフゥ。お前の言うことも一理あるが、しかし、わたしは確かに言ったはずだぞ。大人しく待っていろと。なら、どうしてお前が、今、ここにいるんだ?」
「えっ?そ、それは、その……」
視線を外したメイフゥの前で、ジャスミンは仁王立ちに構えた。メイフゥも女性にしてはかなり大柄な体格だが、しかしそのメイフゥよりもジャスミンは一回り以上大きい。そんなジャスミンから見下ろされれば、如何に男勝りの少女とはいえ気圧されるらしい。
心持ち顔を青ざめさせて冷や汗を掻くメイフゥ、その背後から、彼女よりも更に二回りほども小さな少女が顔を見せた。
「メイフゥを叱らないでくれ、ジャスミンどの。ここに連れてきて欲しいと頼んだのは俺だ」
腰まで届く黒髪に凜とした瞳の少女は、ジャスミンからメイフゥを庇うように、二人の間に立ち入った。
言うまでもない。その少女は、ウォルである。
ウォルの、懇願するように見上げる視線を受けて、ジャスミンは溜息を吐いた。
「……別に、本気で怒っているわけではない。しかし、警備兵を殴り倒してここまで来たのは少しばかりやり過ぎだぞ」
「分かっている。だが、この星に、今日、このような事態を巻き起こした責任の一端が俺にあると聞かされては、居ても立ってもいられなくなってな。何の役に立つかも分からん体ではあるが、それでもお邪魔させてもらった。非礼を許して欲しい」
ウォルが頭を下げた時、部屋にいたヴェロニカ人の全てが床に平伏した。無論、ヴォダルスも含めて。
流石に、聖女よ許しを等と叫ぶことはなかったが、到底年若い少女に対して通常取るべき態度で無いことは明らかである。
ウォルは彼らの後頭部を見下ろして、疲れたように呟いた。
「もう、今更卿らにどうこう言うつもりもないのだが、昨日までのことは昨日に片が付いたことだ。詫びて欲しいとも思わんし、逆に俺が詫びるつもりもない。今は、そのようなことをしている時間こそが勿体ないと思うのだがどうだろう?」
最初に顔を上げたのはテセルだった。テセルは、その若々しい瞳をウォルに向け、決意と共に言った。
「聖女よ。こう呼ぶのがお気に召さないなら、そしてもしも許されるならば、御名を伺ってもよろしいか」
「ウォル。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。それが、今生の俺の名だ。少なくとも今のところはな。呼ぶなら、ウォルでいい」
ウォルの普段の呼び名は、少女らしくフィナにしているのだが、あのような大立ち回りを見せた後で少女用の呼び名も何もあったものではない。だから、一番馴染んだ名前を選んだウォルである。
テセルは、深い感動と共に頷いた。
「ではウォルよ。私は、今、御身の御姿を見て決心がつきました。私は、またしても逃げるところだった。師を裏切り、師を失い、それでも私の瞼は降りたままだった……」
昨晩、テセルの師であるビアンキを斬ったのは、他ならぬウォルである。
だが、ウォルは何も言わなかった。あの時、ああしていなければ、より深刻で破滅的な結果が生じていたことを、ウォルは知っていたからだ。責任が無いと思っているのではない。最善の選択をしたのだと確信していただけだ。それが、どれほど罪深いものであったとしても。
だから、テセルの視線を避けてはいけない。疎んではいけない。正面から受け止めることこそ、彼から師を奪った自分の責務である。そう、ウォルは思っていた。
「考えるまでもない。この星を今日のかたちにしたのは、政治ではない。他の星だったらそう逃げることも許されたでしょうが、ここは聖女の鎮座坐す星ならば、全ての功罪はヴェロニカ教団に帰するべきでしょう。ならば、全ての責めを負うべきは、ノールデ主席ではない」
テセルは立ち上がり、ウォルの正面に立った。
「しかし、今、我らの罪を衆目に晒すことすらが不可能なほど、我らは追い詰められている。どうか、ウォルよ、我らをお救いください」
ウォルは、はっきりと頷いた。
「そのために、俺達はここに来た。存分に頼ってもらおう」
メイフゥも牙を剥くように笑った。
「あたしらをここまで虚仮にしてくれた連中が、最後の最後に笑うなんてどうしたって納得いかねえのさ。もう二度とあたしらに刃向かう気が起きなくなるくらい徹底的に奴らの横っ面を張り倒して、泣きっ面に泥を塗りたくってやらねえと気が済まねぇ」
そしてインユェが、少しおどおどとした調子で、
「あ、あのさ、俺の船、じゃなくて親父の形見の船なんだけど、もう借金のカタに取り上げられる寸前の船で、でも金も無いし、もうきっと俺のものじゃないのかも知れないけどさ……いけ好かない銀行屋に二束三文で売り払われるくらいなら、親父も、誰かのために使うべきだって言うと思うんだよ。だから、だからよう──」
所々で詰まり、切れ切れに、それでも必死に話す少年に、ジャスミンは笑いかけた。そして、その大きな掌で、少年の銀髪を撫でてやった。
「わかった。今は、猫の手でも借りたいところだ。それに、インユェ、もうお前は子供ではないのだものな。立派に、一人前の男だものな。ならば、命を賭けて戦う資格があるのだものな」
「──おう!」
叫ぶように返事をすると、踵から脳天に向けて、熱いのか冷たいのかすら分からない膨大な温度が突き抜けたような気がした。それは、インユェの体をぶるりと震わし、瞳を僅かに湿らせた。
きっとそれが、インユェにとって初めての武者震いだったのだろう。
◇
出立して、既に三日が経つ。
もしも全てがジャスミンの想定通りならば、今頃、ケリーやジャスミン、そしてマルゴは戦っている。それも、絶望的な程の戦力を有する大国相手に。
だからこそ、自分達も戦わなければならない。
それに、自分達の働き如何で、一つの国が滅びかねないのだ。
息をするのも苦しいほどのプレッシャーに、インユェは耐えていた。《スタープラチナ》号の快足をここまで遅く感じたのは初めてだ。理由は分かっている。逸っているのだ。少しでも早くこの重圧から解放されたいと。
それでもインユェは、齧り付くようにしながらでも操縦席から離れなかった。震える手を叱咤し、操縦桿を握りしめていた。ちかちかと目眩がする眼球を酷使して、スクリーンに映し出された無限の宇宙に、米粒ほどの異物を探し続けた。
「インユェ、あまり無理をするな。少しは休め」
ウォルが心配そうに声をかけたが、インユェは頑として聞き入れなかった。
「ジャスミンさんもケリーさんも戦ってる。なら、戦ってもいない俺が休むわけにはいかない」
インユェの固い口調の言葉に、ウォルが、ふ、と微笑んだ。操縦桿を握って白んだ少年の手の上に、少女の小さな手が重ねられた。
「インユェ。俺は、お前が自分からこの任を引き受けたとき、確かに嬉しかったのだ。初めて出会ったときあれほど子供じみていたお前が、これほど立派になったのかと、そう思った」
「ウォル……」
「だが、どれほど成長しようとも、人一人では出来ないことなど山ほどある。だからこそ、人は人を求めるのだし、恋しいと思うのだと、俺は思う。人に頼ることは恥ではない。人に頼ることすら出来ない狭量な心根こそ、恥ではないか。そうだろう、インユェ?」
にかりと眩しく笑った少女に、インユェは一瞬唖然として、それから色素の薄い肌を真っ赤にしながら、躊躇いがちに頷いた。
「わ、分かったよウォル。ちょっとだけ休ませてもらう。何かあったら、すぐに呼んでくれ」
「ああ、存分に休んでくれ」
インユェが操縦室を出た後で、リィがウォルに笑いかけた。
「ずいぶんとインユェの操縦が上手くなったもんだな」
ウォルが苦笑した。
「まぁ、これでもかなり付き合いが長いからな。この世界では、リィ、お前といたよりもインユェと一緒にいた時間の方が長いくらいだ」
「なら、おれは止めてインユェと番いになるか?」
リィが、結構真剣な口調で言ったものだから、ウォルだけでなく、ルウが、メイフゥが、そしてシェラが、その場に居合わせた全員の視線がリィに集中したのだ。
「……何か、気に障ったのか?もしかして、万に一つの可能性として、嫉妬させたならば謝るのだが……」
一度は破棄したものの、今は婚約者のリィとウォルであるから、ウォルが、男女としての意味でインユェと仲良くすれば、リィはそれを糾弾する権利を持つ。
しかし、元が男のウォルにしてみれば、インユェとそういう意味で仲良くなろうというつもりは欠片も無いわけだし──あちらがどう思っているかは別にして──リィもそれを知っていると思っていたから、ウォルは少しだけ驚いたのだ。
然り、元々大きな瞳をまん丸にしたウォルを見て、リィも苦笑いを浮かべた。
「そうじゃないさ。ただ、もしもお前が、おれじゃなくて本当に好きな相手を見つけることが出来たなら、そいつの子供が欲しいって心の底から思ったなら、それはそれで凄く嬉しいことだと思う。だから、そんなときはおれとの約束なんて気にする必要な無いって、そう言いたかったんだ」
リィの言葉を聞いて、ウォルは、少し疲れたように微笑みながら首を横に振った。
「リィ、今ならば、あの時のお前の気持ちがよく分かる。インユェには悪いのだが、俺はどうしても男と番うつもりにはなれないのだ。体は女とはいえ、やはり心としての俺を裏切ることは出来ないということだろうな」
「ああ、お前の言うとおりだろうな。あっちの世界にいたときは、女としての自分を褒められる度に虫酸が走ったもんだ。乞食同然だとか浮浪児みたいだとか、そういうふうに言われるほうがまだ我慢できた。蝶よ花よなんて言われた日には、鳥肌が止まらなかったもんさ」
「だから、今の俺もあの世界でのお前のように、本当の意味での結婚相手は見つからないのだと諦めている。ただ、俺はこちらの世界でも子供を、跡継ぎを設ける必要があるのだ。だから、お前を種馬にしたいだけだ。その役割を、まだまだ幼いインユェに強制しようとは思わん」
婚約者たる少女の、少女とは思えない言葉を聞いて、リィは意地悪そうな表情を浮かべ、
「どうかな。種馬になってくれってインユェあたりに頼めば、二つ返事で引き受けてくれるかも知れないぞ。おれも、あいつと同年代くらいの子供をたくさん見てきたから分かるけど、あれくらいの男の子は発情した猿みたいだからな」
「……それは少し、インユェに失礼だと思うのだが……とにかく、俺なんぞにかまけず、あいつはあいつに相応しい相手を見つけるべきだ」
「ふん、いよいよ言っていることが、あっちの世界でのおれみたいになってきたな。お前にポーラを宛がった時のおれの気持ちが分かったか?」
「ああ、ほんの少しだけな」
あちらの世界では闘神の夫婦と呼ばれ、最も高貴で最も名声を集めた男と女の、会話がこれである。
シェラは溜息を隠そうとせず、ルウはくすくす笑い、メイフゥは卵を丸呑みしたように目を丸くした。
「まぁ、それもこれもくだらない雑事を全部片付けてからだな」
「ああ。そのジャマーとやらを、さっさと見つけるとしよう」
そう言って、二人はスクリーンに映し出される宇宙空間に意識を戻した。
だが、探知機に反応せず、肉眼でしか探すことの出来ないジャマーを発見するのは容易ではない。例えそれが、ルウの占いによって大まかな位置を把握出来るのだとしても、である。
「この嵐さえ収まってくれれば、探知機ももう少しまともに作動してくれるはずなんだけど……」
ルウも、そう言って長い溜息を吐き出した。
目を凝らしても、スクリーンに広がるのは漆黒の闇と、遠くで輝く名も知らない恒星ばかりだ。
まるで、自分達が、深い深い海の底で藻掻き続けているような気がする。ちっとも前に進むことも出来ず、同じ場所をぐるぐる回っているような気がする。
そう考えると、途方もなく息苦しい、四方から圧迫されるような閉塞感に襲われるのだ。ともすると絶望へと姿を変えそうなその息苦しさと戦いながら、リィも、ルウも、シェラも、そしてウォルも、宇宙を睨み続けている。
「……メイフゥたちは凄いね。ずっと、こんな苦しいことを続けて、生きてきたんだ」
ふ、と、ルウがそんなことを口にした。
そうだ。インユェもメイフゥも、いや、全ての資源探索者達は、ずっとこんなことを続けてきたのだ。
果てしない宇宙に、笹舟のように頼りない宇宙船を浮かべ、果たしてあるのかどうかも分からない資源を探して放浪する。根無し草どころではない、何処にも寄る辺ない生き方。一度災禍に襲われれば、誰に看取られることも、土に還ることすらも出来ず、永遠に宇宙を漂い続ける……。
「凄くなんかないさ。あたしは、あたしの意思でこの生き方を選んだんだ」
メイフゥが、視線を前にしたままそう言った。
「こういう生活も、悪くはないんだぜ。何度も死にかけるような目にも遭ったし、折角見つけた資源も大企業の連中に足下見られて、二束三文で買い叩かれることが分かってるけどさ……。でも二束三文の金で飲む酒は例えようもないくらい旨いし、一緒に旅する連中とも家族みたいになれる。それに何より……」
その時、スクリーンを凝視するメイフゥの瞳の瞳孔が、猫のように拡大した。
「資源を見つけたときの感動は何物にも変えがたい。そう、例えば今みたいになぁ!」
獲物を見つけた肉食獣の笑み。そんなメイフゥが指さした先に、米粒よりも小さく映し出された、しかし隕石や小惑星などではあり得ない、人工的な建造物が浮遊していたのだった。