懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第九十二話:清算

「ああ、疲れた……」

 

 その場に居合わせたみんなの気持ちを代弁し、リィが大儀そうに吐き出した。

 もう、三日もまともに寝ていない。寝ていないだけならばまだしも、四六時中を緊張とともに過ごしたのだ。鋭気に満ちた彼らの若い身体も、隠しきれない疲労でぐったりとしていた。

 ジャマーの数が予想よりも遙かに多かったこと、そしていくつかの防衛衛星がその周囲に配備されており、その排除に手間がかかったことがリィ達の作業を手間取らせた。

 

「一歩も宇宙船の外に出ていないのにどうしてこんなに疲れるんだろう。これなら地上で斬り合いをしているほうが遙かに楽だ」

 

 美神の魂が吹き込まれたような容姿を、心なしかげっそりとさせ、リィは思わず呟いた。

 その視線の先にあるスクリーンに、ヴェロニカ教の司祭が映し出されている。

 リィは、その司祭の顔を知っていた。何せ、一度はその男を頭陀袋に放り込んで誘拐したことだってあるのだ。

 その男──ヴェロニカ教最高指導者であるテセルは、老師の正式な装束である紫色の法衣に身を包み、緊張の面持ちで鈴なりのマイクに相対していた。

 

「さて、どういうふうに幕を降ろすのかな?」

 

 些か意地の悪いリィの呟きを合図にしたかのように、テセルは唇を開いた。

 

『これより、この映像を見る全ての共和宇宙人民の皆様に、ヴェロニカ教団老師テセル・マニクマールが慎んで申し上げます。これから私が語るのは、この星の真の歴史、恥の歴史、今まで闇に葬られてきた歴史。どうぞ耳を傾けられたい』

 

 果たして、今、この瞬間、この映像の意味するところを理解している人間が、この宇宙にどれだけ存在するだろうか。一夜明ければ全ての人間が瞠目するのだとしても、今だけは、テセルはきっと一人の道化に過ぎないのだろう。

 道化に出来るのは、人を笑わせることだけだ。精々滑稽に、しかし真剣な表情で、己の存在を笑い物にするのだ。テセルは、これが喜劇だと知っていた。少なくとも、人は自分に関わりの無いあらゆる事象を、喜劇として取り扱うのだと。

 道化でいい。道化ならば上等だ。どうせ、地獄の最下層は自分のために特等席を掃き清めているだろう。いや、今から犯す罪が加わるならば、その更に下の階を、自分のためだけに掘り下げる必要が生まれるかも知れない。

 それでも、守ると誓った。この星に神が居ないのだとしても、守り抜くと誓ったのだ。

 ビアンキ老、いや、ビアンキ先生。どうか、最も愚かだった教え子をお許しください。そして、私に勇気をください。全てを成し遂げるまで生き続ける勇気をください。

 テセルの視線が揺らいだのだとしても、それは一瞬のことだった。それこそ、リィですらがやっと気が付くような一瞬。

 そしてテセルは語った。

 ヴェロニカ教が犯した罪。

 弱者を見捨て、迫害し、踏みにじってきた歴史。

 隠された富。隠された罪。隠された悲劇。隠してきた悲劇。

 全ての罪を語った。

 それも、己の師であるミア・ビアンキを含んだところの、旧ヴェロニカ教指導陣の罪として。

 

『私は、これらの罪がヴェロニカ教という組織全体によって繰り返されてきたことを否定しません。しかし同時に、罪の本質を理解しながら最も唾棄すべき罪を積み重ねてきたのは、当然の如く組織の指導者達であることを皆様にご理解頂きたい。末端の信徒達は、ただ彼らの邪悪な思想に感化され、追随していただけなのだ、と。人の本質が白であるとするならば、それを黒に近づけるべく教育を施したのは、ヴェロニカ教老師連中なのだ、と』

 

 テセルの視線は自信に充ち満ちた様子でカメラを見遣り、声はほんの少しも震えることはなかった。

 

『無論、私もヴェロニカ教の導師でした。私の論法で言うところの、最も罪深き人間の一人であることを否定し得ません。上層部の姿勢に疑問を抱きながらも、数々の非道を看過してきました。体勢に疑問を抱きつつ、しかしそれを非難し得なかった。これは正しく私の弱さであり、最も卑劣なところであり、後ろ指を指され石を投げつけられるべき罪です。しかし──』

 

 テセルは一度目を瞑り、大きく息を吐き出してから、

 

『しかし同時に、私が信仰と忠誠を捧げるヴェロニカ教が、これ以上の罪を犯すことに耐えられませんでした。先日、私は老師の階位を授かると同時に、ヴェロニカ教の秘儀、即ちこの星の限られた一部の地域にトリジウム鉱床が存在することを知らされ、また、その隠された資金をもとに大規模な宗教テロリズムを企図していることを知らされました。そして、その計画には、狂信的な老師達の信奉者であった、ヴェロニカ共和国大統領アーロン・レイノルズも賛同していたことを』

 

 一国の指導者が、恐るべき宗教的テロ行為の加担者となっていた。もしもそれが事実ならば、未だかつて無い規模のテロリズムによる惨禍が共和宇宙を覆い尽くしていたであろうことは疑いない。

 

『私は、この国を守るため、共和宇宙の秩序を守るため、何よりも私の愛したヴェロニカ教を守るため、少数の同士達と共に立ち上がりました。本来であれば、危険な選民思想に染まった老師達を説き伏せ、正道に立ち戻るよう説得するのが私の務めだったのでしょう。しかし、そのためには圧倒的に時間が足りなかった。そのように悠長なことをしていれば、いつ危険なテロ計画が実行されてしまうか分からなかったのです』

 

 そしてテセルは沈痛な表情を浮かべ、

 

『私は、私の罪をここで懺悔します。私は、武力でもって旧ヴェロニカ教指導陣を排除し、また、大統領であるアーロン・レイノルズをも排除しました。端的に言うならば、彼らを殺害することでテロ計画を未然に防止しようとしたのです。そして極めて残念なことに、その決意は報われてしまいました。彼らが文字通り神をも恐れぬ空前絶後のテロ計画を企図し、正しく実行まで秒読み段階だった数々の証拠を、私はこの目で確認しております』

 

 つまり、ある種のクーデターを起こしたことを認めたのだ。しかしそれは、危険なテロ行為を防ぐためであり、決して権力の奪取などが目的ではなかったのだ、と。

 その上で、テセルは決然と言葉を紡ぎ続ける。

 

『ヴェロニカ共和国は、そしてヴェロニカ教は生まれ変わらなければなりません。もはや、前近代的な選民思想や秘密主義の罷り通るべき時代ではない。そのためには、全てを一度審らかにし、全ての罪を償わなければならないのです。しかし、この国の人間が、この国の罪を裁けるでしょうか。私は、外部組織により、この国の膿を徹底的に絞り出すことを提案します。具体的には、共和連邦の監査により、公正中立な捜査と判断を──』

 

 その時、スクリーンから発せられる音ではない、椅子が蹴倒される激しい音が、《スタープラチナ》の操縦室に響き渡った。

 全員の視線が、怒りの表情で立ち上がったインユェに集中している。

 

「この糞坊主、あれだけの啖呵を切っておいて、結局これか!全部の罪を死人になすりつけて、自分は善人面か!自分は被害者でございますかよ!見損なったぜ!」

 

 インユェとテセルが行動を共にしたのは、実質半日ほどに過ぎなかったが、その短い間に心通じるものが、例え僅かであったとしても確かに存在した。だからこそ、それを裏切られた怒りと失望に耐え難いものがあったのだろう。

 インユェは、震える拳を握りしめながら、殺意さえ込め、未だ演説を続ける画面のテセルを睨み付けていた。

 

「おい、インユェ、落ち着け」

「リィ!てめぇははらわたが煮えくりかえらねぇのか!こんな、自分一人だけ助かろう、美味しいところを独り占めしようってやりかたをされて黙ってられるのか!」

「違う。全く違う。お前は全然分かっていない」

 

 リィは、逆上し立ち上がったインユェを、冷ややかな視線で見上げた。

 その静かな迫力に、インユェは思わず唾を飲み下し、

 

「……違うってどういうこったよ!?こいつはビアンキ爺さんやらあのいかれた大統領に全部の罪をおっかぶせて、自分はしれっとヴェロニカ教の指導者に収まり続けようって腹づもりじゃねぇのかよ!?」

「少し頭を冷やして考えろ。テセルは、外部の調査を受け入れるって言ったんだ。大規模なテロ計画が立案され、実行まで秒読みの段階だったと聞かされれば、間違いなく共和連邦の然るべき筋が動く。ここまでは分かるな?」

 

 リィの、子供を相手にしたような言葉遣いが癪に障ったが、インユェは渋々とした様子で首肯した。

 

「そうすればどうなる?外部の調査が入れば、少なくともテロ計画なんて存在しなかったことは容易に分かる。何故なら、そんな計画は本当に存在していないからだ。旧ヴェロニカ教指導陣が皆殺しにされたのは、大統領だったアーロン・レイノルズの差し金で、理由は大統領が宗教的な実権を握るためだったってことも、すぐに明るみに出るだろう」

「……だからどうしたってんだよ」

「分からないのか。テセルは、大統領の走狗として、小さな女の子を生け贄に捧げる外道な儀式の司祭まで務めているんだ。それも、ヴェロニカ教の最高指導者につけて貰った上でな。事情を知らない第三者が見た場合、この一件で、一体誰が一番得をしたように見える?」

「それは……」

 

 間違いなく、テセルだろう。

 目の上のたんこぶだった旧ヴェロニカ教指導陣を廃し、己が実権を握るため、大統領を唆した。全ての汚れ仕事は大統領に押しつけ、自分は泥を被ることなくヴェロニカ教の最高指導者となり、前非を悔いることなくヴェロニカ教の古い体質を受け継ぎ、それが当然のような顔で忌むべき生け贄の儀式を執り行った。

 そして最後に大統領本人をも暗殺し、この国の実権を握ろうとした。

 

「いいか、インユェ。しばらくの間は、テセルは開明派の先鋒として、外部的な脚光を浴びるかも知れない。だが、半年もしないうちに、事件の黒幕として徹底的な糾弾を受けることになる。間違いなく、大きな罪に問われ、逮捕収監されることになるだろう。宗教的な野心により身を滅ぼした狂人、愚か者、大悪人、道化者として」

「そんな……」

「ルウ。ヴェロニカ共和国に死刑制度はあるのか?」

 

 傍らで椅子に腰掛けていたルウが、静かな面持ちで首を横に振った。

 

「この国の最高刑は終身刑だ。死刑制度はずっと昔に撤廃されている。少なくとも表向きは、人道主義の国だったからね。もしもテセルが刑に服することになるなら、終身刑が妥当だろう。旧ヴェロニカ教の老師達、そして大統領を殺した罪を裁くなら、終身刑以外あり得ない」

 

 リィは大きな溜息を吐いた。

 

「なら、もっと残酷だ。テセルは、惑星ヴェロニカに住む全ての人間に嘲笑されたまま、牢屋の中でこれからの長い一生を送らなければならないんだからな」

「……」

「テセルは、自分が道化になることでヴェロニカ教を守ろうとしているんだ。ヴェロニカ教徒が過去から犯し続けてきた罪から、今この国を混乱させている罪まで、一切合切を、自分を含めた旧ヴェロニカ教指導陣の責任にしようとしているんだ。糾弾の舌鋒の全てが、唯一生き残っている自分に向けられることを承知の上で」

 

 インユェは画面に視線を戻した。

 そこには、相変わらず自信に満ちた表情で事件のあらましを語るテセルがいる。

 どこにも、己が犠牲になるという悲壮感はない。ただ、青年に相応しい清冽なまでの清々しさに充ち満ちている。誰しもが、彼の言葉を信じているだろう。今は誰も、彼が全ての黒幕の道化だろうなどと思わないだろう。

 それは正しい。彼は、黒幕などではない。ただし、道化ではある。道化になろうと、自らが望んでいるのだ。

 

「もう、惑星ヴェロニカでこれ以上、ヴェロニカ教と無関係の人達が死なないように。そして、聖女ヴェロニカの教えが息絶えないように。テセルなりに考えに考え抜いた方策が、これだったんだろう。おれは、ちっとも同意出来ない。自分が犠牲になって全てを丸く収めようっていう考えはおれの理解を超えているからだ。でも、全ての事実を承知の誰かがテセルを馬鹿にするなら、おれはそいつを許すことが出来ないと思う。こいつの覚悟には、それだけの重みがあるからだ」

 

 インユェは、ぐっと唇を引き絞り、食い入るように画面を睨み付けていた。

 その背後で、老人の啜り泣く声が聞こえた。

 誰しもがそっと席を立ち、操縦室を後にした。インユェも、リィに促されて立ち上がり、操縦室から立ち去った。

 一人残された老人は、画面の前に跪き、声を絞り出すようにして泣いた。

 

「おお、テセルよ、許せ、愚かな儂を許してくれ……」

 

 

「……司令本部より、撤退命令が出ております。如何しましょうか、閣下」

 

 テセルというヴェロニカ僧の演説は、まだ続いている。しかし、事態は明白だ。先手を打たれ、エストリア軍はヴェロニカ侵攻の大義名分を失った。事ここに至り、自分達はとんでもない外れ籤を掴まされ、道化と成り果てたのだ。これが、そもそも連中の狙いだったのだろう。

 フォルクマールは天井を見上げ、重々しく息を吐き出した。

 

「……是非もあるまいよ、我らは粛々と命令に従うのみだ。上が戦えといえば戦う。退けといえば退く。それに抗う権利を与えられてはおらん。私も、そして君も」

「……無念です」

「少佐、君が無念を感じる必要はない。この作戦を立案し指揮したのは私だ」

 

 フォルクマールは、寧ろ清々しい笑顔を浮かべた。既に老齢に差し掛かった肌は、疲労と緊張から鉛色に染まっているが、鳶色の瞳の奥には一抹の安堵が含まれている。

 イレックスは、それを感じ取りながら、しかし上官を非難する気にはなれなかった。如何なる理由があろうとも、軍人が無抵抗の市民に銃を向けるなど、許されるべきことではない。どれほど厳重な蓋で封をしようとも、いずれ真実は漏れ出し、衆目の知るところとなるだろう。

 彼らが大規模なテロ計画を立案していたのだとして、少なくともそれは未然に防がれたのだ。ならば、自分達が彼らに銃口を向ける必要が無くなったということではないか。それは、むしろ喜ぶべき事なのだ。イレックスはそう思おうと努めた。

 だが、フォルクマールはイレックスの想像とは異なる安堵に総身を浸していた。この戦いの最中で散っていったエストリア軍の勇者達には申し訳も立たないが、それでも、この戦いはエストリア軍の敗北で終わるべき戦いだったのだ。共和宇宙時代の国民軍が、資源の獲得という野蛮な理由のために他国を蹂躙しその住人を鏖殺するなど、悪夢以外の何物だというのか。

 もしもそのような事実が明るみに出れば、共和政府の作り出した秩序が根底から覆り、この宇宙が戦乱の渦中に投げ込まれることになっても不思議ではない。自分達は、その戦火をもたらす死神の露払いと成り果てるところだったのだ……。

 

「停戦信号を放て」

「はっ」

 

 エストリア軍旗艦《ネプトゥーン》から信号弾が放たれると、周囲のエストリア艦艇もそれに倣った。

 それをきっかえに、火線は少しずつなりを潜め、宇宙に静寂が戻り始めた。各所で散発的な戦闘は依然続いていたが、しかしそれもじきに収まるだろう。

 戦いは終わったのだ。勝者も敗者も作り出さないままに。

 

「さて、これでよろしいかな、ミスタ……?」

 

 先ほどから通信画面を占拠していた端正な顔立ちの男は、冷ややかな笑みを浮かべた。

 

『ケリーだ。ファミリーネームは色々ありすぎて全部は覚えちゃいないんだが……そうだな、一番長く使わせて貰ってるのは、クーア。だから、ケリー・クーアでいいぜ、中将閣下』

「ケリー・クーアだと?それは……」

『まぁ、あんたくらいの年代の人間なら、キング・ケリーの名前の方が馴染み深いかもな、爺さん』

 

 イレックスは、この不遜な男が何を言っているのか分からなかった。

 しかし、若かりし日、重力波エンジンの搭載された戦闘機を供に、ゲートを突き抜け宇宙を駆け抜けたフォルクマールは、その男の顔を思い出した。

 神出鬼没を謳われ、共和連邦加盟国の全ての警察と軍隊を敵に回し、それでもなお一度も捕まらなかった無頼漢。この宇宙の全てを知り、全てを手に入れたと噂された大海賊。

 その異名を。

 

「海賊王……生きていたのか……」

 

 むしろ嬉しげな、それ以上に懐かしげな揺らめきを帯びたフォルクマールの声に、ケリーは野性的な笑みで応えた。

 

『その名前は、どうやら俺以外の誰かの持ち物になっちまった。それでも、あんたがひよっこだったころ、そう呼ばれたのは確かに俺さ』

「ならば、あの海賊達をここに集わせたのもあなたか」

『いんや、そいつは今の海賊王の仕業だ。残念だったな、あと少しで俺を捕まえられたのに』

 

 フォルクマールは力無く微笑んだ。全くもって男の言うとおりだ。遠い昔、この男を捕まえるために何度となく大きな作戦が立案され、自分の部隊も駆り出された。にもかかわらず、結局この男は一度して刑務所の不自由を味わうことなく、この共和宇宙で最も自由な男として在り続けた。

 その有様に、どうして嫉妬を覚えずにいられるだろう。フォルクマールだけではない。あの時代を生きた全ての男達にとって、海賊王は一つの偶像で在り続けたのだから。

 

「このようなことを言えば負け惜しみと取られるでしょうが……私はあの時、あなたとあなたの乗艦を撃たずに、本当に良かったと思っています。これは紛れも無く、私の指揮のもと、あなたやヴェロニカ軍に討たれた全ての部下への背信ですが……心の底からそう思う」

『それでも、あんたは戦わなくちゃならないんだものな。全く、軍人ってやつは因果な商売さ』

「ええ。それも、心の底から、そう思いますとも」

 

 二人は同時に笑った。

 二人の会話を一番近くで聞いていたイレックスは、尊敬する上官とにっくき敵兵が、どうしてこのように親しげなやり取りをしているのか、全く理解出来なかった。

 ただ、会話の端々に現れる『海賊王』という単語が、脳髄の奥底に沈殿した記憶の切れ端を、僅かに刺激したに過ぎなかった。

 

「我々の撤退を、見逃して頂けるので?」

『こっちは、あんたらが攻め込んでくるから迎え撃っただけさ。あんたらが大人しく帰ってくれるなら、追いかける理由もない。そんなことをしたってくたびれるだけさ』

 

 フォルクマールは頷いた。

 

「少佐、聞いての通りだ。我が軍はこの宙域から離脱する。撤退だ。ただし、整然と、秩序を保ったまま」

「……はっ、承知しました」

「ヴェロニカ軍はともかく、海賊達が挑発をしてくるかも知れんが、努めて無視するよう全軍に伝達せよ。もうこれ以上、この無意味な戦いで一人も死者を出してはならない」

 

 イレックスは頷き、上官の指示に従った。しかし、フォルクマールの懸念したような事態は起こらず、ヴェロニカ軍も海賊連合軍も、撤退準備を始めるエストリア軍を静かに見守っていた。

 その様子を確認して、《パラス・アテナ》は《ネプトゥーン》から離脱した。途中、『貴殿の航海に幸多からんことを望む』という通信が入り、思わず苦笑を誘われたが。

 

「終わったな、海賊」

 

 《パラス・アテナ》のデッキに、そこにいるべき女性が姿を見せた。

 豊かな赤毛は汗と埃に塗れ、見る影もない。肌は荒れ、唇はかさつき、目の下には濃い隈が浮いている。もう何日もまともに風呂に入っていないのだ。むっと、濃い体臭が立ちこめている。

 それでも、ケリーはその姿を美しいと思った。どんな香水よりも、その女の匂いを好ましく思った。

 だから、ケリーは女を抱き寄せ、口づけを交わした。それも、本来ベッドの中で交わすべき、濃密な口づけを。

 女は──ジャスミンは、流石に少し驚いたようだったが、しかしすぐにケリーの情熱に応えた。自らケリーの首に腕を回し、唇と舌を、ケリーのそれに押しつけ、絡みつけた。

 粘膜の交わる、水気に満ちた音が《パラス・アテナ》の操縦室に満ちた。短い時間ではない。二人が十分に満足するまで、二人の交合部分からその音が奏でられ続けた。

 やがてジャスミンが口を離すと、二人の舌の間に、所々泡立った透明な唾液の橋が架かっていた。

 

「……命の危機を感じると、生命の本能として生殖欲求が高まると言うが、どうやら本当らしいな」

 

 髪を乱し、頬を赤らめたジャスミンが呟く。

 その愛らしい様にまたしても我を忘れかけたケリーだったが、今度は自制した。

 

「どうする、このままベッドに行くのか?これでもわたしは女だから、出来ればシャワーを使わせて貰いたいのだが……」

「いや、もう十分満足だ……ってことはないが、しばらくは我慢しておくさ。俺もあんたも、これから少しばかり忙しくなる。そういうことに体力を使っている余裕は無いだろうからな」

 

 ジャスミンは傷付いたように溜息を吐いた。

 

「夫婦の営み以上に尊ばれるべき行いなど、この世にそうそうあるはずもないが……しかし、お前の言うとおりだな。我々もハイスクールの少年少女ではないのだし、自重すべきは自重するとしよう」

「ああ。まずは、あいつらを迎えに行かなくちゃな」

 

 あいつらとは言うまでもない、ケリーやジャスミンと共に戦った、ヴェロニカ特殊軍の少年少女である。

 ケリーは、傷付いた《パラス・アテナ》に許される最大船速でもって先ほどまでの戦場を駆け、TYPHON零型に搭載された発信機の識別信号を追いかけた。

 しかしその作業は徒労に終わった。破壊され、細かなパーツに砕かれたTYPHON零型の残骸が宙空を漂っているだけで、既に搭乗者はどこにもいなかった。おそらく爆発の衝撃でばらばらになり、物言わぬ死体となってこの広い宇宙のどこかを彷徨っているのだろう。これからも、ずっと、永遠に。

 それでも、奇跡的な確率で、彼らの遺体を回収出来ることもあった。まるで眠るように死んだ彼らの顔は、どこからどう見ても年相応の子供そのものだった。呼べばそのまま目覚めるに違いないと信じてしまうほどに。

 下半身を失い、切断面から内蔵をはみ出させて、それでも彼らは安らかに眠っていた。

 ケリーはその一人一人の遺体を拭き清め、子供用の棺桶に入れて宇宙に放った。残酷かも知れないが、彼らの家族がこの宙域を漂っているならば、一番近くに葬ることが、彼らの望みに叶うと思ったからだ。

 そして、ケリーは終始無言だった。先ほど、情熱的にジャスミンを求めたのがまるで別人のように、ケリーは淡々と、己に課せられた義務を全うした。ジャスミンも、自分のことを忘れたかのようなケリーを、無言で見守っていた。

 もう、今回の戦場に設定されたN49-KS1173という星域は、静寂そのものだった。ヴェロニカ軍も海賊達も、生存者の探索を続けている。そこに、敵味方の区別はない。例えエストリア軍の人間であっても、彼らは分け隔て無く救助した。

 戦いは終わったのだ。戦いが終わったならば、あとは宇宙に生きる者達の掟に従うだけだ。センチメンタルに支配された行動かも知れない。ならば、最初から戦わなければいいのにとは、誰しもが頷かざるを得ない意見だろう。

 まるで、同族同士で殺し合う愚かな人類を蔑むかのように、或いは愚かな戦いで死なざるを得なかった憐れな死者を悼むかのように、名も無き恒星が光り輝いている。ケリーは時折、その恒星を眩しそうに眺めた。

 

「……そろそろ休んだらどうだ。もう、丸二日以上寝ていないだろう」

 

 ジャスミンが、痺れをきらしたように口を開いた。

 ケリーは、げっそりと窶れた表情で我が妻の方を振り返り、力無く笑った。

 

「ああ、そういやそうだな、忘れていた。すまねぇな、女王。先に寝てもらって構わねぇぜ」

「……生憎、しばらくは独り寝するつもりになれん。お前がベッドに行かないなら、わたしも起きていることにしよう」

「……そいつは遠回しな脅迫かい?」

「そう思われるような自覚があるなら、さっさと眠ることだ。もう、識別信号を発信している機体は全て回収したのだろう。ならば、お前の為すべき事は終わったはずだ。後は、ヴェロニカ軍の探索部隊に任せればいい」

 

 ジャスミンの無慈悲な言葉に、ケリーは笑顔で応じた。

 もう、生存者が見つかる可能性は絶望的に低い。頑強に作られたTYPHON零型が、識別信号を発する事も出来ない程徹底的に破壊されたならば、搭乗者が生存しているなど通常は考えられないのだ。

 そして、識別信号を発する事が可能だった機体も、搭乗者を守り抜くことは出来なかったらしい。ケリーが今まで回収したのは、全てヴェロニカ特殊軍の隊員だった少年少女であり、今は物言わぬ遺体となってしまった少年少女であった。

 

「まだ、あいつを見つけていないんだ」

 

 眉を寄せ、少し困ったように笑顔を浮かべたケリーが、ぼつりと呟いた。

 ジャスミンは、誰かと問わなかった。ケリーの言葉が誰のことを指しているか、明らかすぎるほどに明らかだったから。

 

「マルゴも、お前には見つけて欲しくないと、思っているかも知れない」

「……どうしてだい?」

「まだ幼くても女だ。なら、好きな男に醜い自分の姿を見られたくない。そう思っても不思議ではないだろう」

「……ああ、そんなものなのかもな……」

 

 ケリーは、普段の彼らしからぬ、魂が抜けたような声でぼんやりと呟いた。

 もう一日が、経った。既にエストリア軍の姿はこの宙域に無く、救助任務を特に帯びた艦以外、ヴェロニカ軍も姿を消した。海賊達もいつの間にかいずこかへと立ち去ったようだ。

 空っぽになった宇宙に、《パラス・アテナ》だけがあった。

 ケリーは、相変わらず宙空を睨み、漆黒の機甲兵の姿を探し続けている。その間、僅かな水分以外、何も口にしていない。もともと肉付きの薄いケリーの身体は、既に痩身といっていいほどにやせ細っていた。

 流石に業を煮やしたジャスミンが、力尽くでケリーを寝かしつけようとしたとき、《パラス・アテナ》に通信が入ったことを、ダイアナが告げた。

 

『リィ達だわ』

 

 間もなく、《パラス・アテナ》のレーダーが《スタープラチナ》の機影を捕らえた。既に戦闘は終結したというのに、N49-KS1173を漂っている《パラス・アテナ》を不審に思い、駆けつけてくれたのだろう。

 ケリーが通信越しに事情を話すと、リィ達はもちろん、インユェとメイフゥも、マルゴの探索を快く引き受けた。

 

『あの嬢ちゃんは、いい奴だった。いい奴が、誰にも看取られることなく、こんな寂しい宇宙で眠り続けるなんて間違えてる』

 

 メイフゥはそう言った。

 

『……そうか、マルゴが……』

 

 一度、危地を助けあったことがあるインユェは、そう言って言葉を失った。

 そして《パラス・アテナ》と《スタープラチナ》は、マルゴの搭乗したTYPHON零型の探索を再開した。

 しかし、それが容易な作業ではないことを、全員が理解していた。この広大な宇宙で、救助信号を発してすらいない小さな機甲兵を捜そうというのだ。しかも、いつ、どの地点から、どのような状況とどれほどのエネルギーでもって攻撃を受け、遭難したのかも分かっていないという。これならば、広大な砂漠の中を歩き回って緑野豊かなオアシスを探す方がどれほど容易いか。

 全員が絶望的な覚悟で宙域を彷徨っていたとき、《パラス・アテナ》に二つの通信が入った。

 一つは、ヴェロニカ軍の救助部隊からであった。

 彼らも、無論ではあるが、ヴェロニカ特殊軍であったマルゴの探索任務を帯びている。元々、大統領のお抱えであったマルゴ達に良い感情を抱いていなかった彼らだが、エストリア軍侵攻の際のヴェロニカ特殊軍の獅子奮迅の戦いには畏敬の念を捧げており、任務以上の真摯さをもって探索に当たっていたのだ。

 その救助部隊が、非常に興味深い話を《パラス・アテナ》に寄越した。

 

『……詳細については小官も把握しておりません。これはあくまで噂話程度の認識に止めて頂きたいのですが……』

「ええ、それでも結構です。我々は、縋ることの出来るものならば、例えそれが藁であっても求めているのですから」

 

 紳士然としたケリーの態度であったが、痩せ衰えた顔貌にぎらりとした眼光が如何にも不吉で、救助艦の艦長は些か気圧されたようだった。

 艦長は軽く咳払いをし、その噂話をケリーに伝えた。最初は冷静だったケリーの表情に、少しずつ緊張が満ちていくのを、傍らにいたジャスミンは見て取った。

 

「……つまり、TYPHON零型の残骸らしき物体を、海賊達が回収し、いずこかへ運び去ったと、そういうわけですな?」

『真実は分かりません。しかし、戦闘が終結し、生存者の探索が開始された極々初期の段階で、そのような光景を目にした者がいると、小官が聞かされているのはそれだけです』

「その、回収の現場を目撃した兵士はどこに?」

『既に本国に帰還しております。例によって、この宇宙嵐の影響により、今は連絡がつかない状況にありますが……』

 

 艦長が、如何にも歯痒そうにそう言った。何よりも正確さを優先する軍内部の規律に慣れ親しんだ彼からすれば、このように甚だあやふやな報告をすること自体、自身の矜持に関わることなのだろう。そのことをジャスミンは知っていた。

 それでも、ケリー達の必死な有様を見て、どれほど僅かな手がかりでも、と覚悟を決め、恥を忍んでその噂話を伝えてくれたのだ。

 ケリーも、艦長の好意を感じ取ったのだろう。笑顔で感謝の意を伝え、通信を切った。

 

「海賊達が、何故……?」

 

 ジャスミンが思わず呟いた。

 普通に考えれば、人命救助作業の途中に、漂流していたTYPHON零型の残骸を回収したというのが妥当な線だろう。しかし、それならば、搭乗者の生死をその所属する組織に連絡するのが通例である。その上で、搭乗者が生存しているならばその状況を伝える。死亡しているならば、状況が許せば遺体の引き渡しを、許さないならばその場で埋葬をする。

 現在、マルゴの生死に関する情報は、ヴェロニカ軍の如何なる部隊にも届けられていない。

 回収された残骸がマルゴの搭乗するTYPHON零型だったとして──マルゴの遺体が生体認証による所属判定すらも困難なほど損壊していた、もしくは操縦席から外部に投げ出された等のケースを除き、銀星ラナートに率いられるほどの海賊達が、遭難者に関する報告をヴェロニカ軍に寄越さないはずがない。

 では、もっと単純に、TYPHON零型の機密を欲しがり、回収の事実を秘匿したのか。あり得ない話ではないが、それも彼らの気質にそぐわない気がする。

 ケリーとジャスミンが沈思に耽る間もなく、もう一つの通信が届けられた。

 《パラス・アテナ》のメインスクリーンに、見事な銀髪をした初老の男が映し出された。

 どっしりとした幅広の肩の上に、女性ならば誰しもが溜息を吐かざるを得ない程に端正な、褐色の相貌がある。半世紀ほども前は、甘やかさと烈しさがぎりぎりのところで調和した顔立ちだったが、今はそれに、老いによる柔らかさが加わっており、年上趣味の若い女性ならば一も二もなく恋に落ちるだろう。

 その男の顔に、ケリーは見覚えがあった。そして、無論のこと、ジャスミンも。

 

『久しぶりだな、キング』

 

 老いを感じさせない溌剌とした声で、ラナートはケリーに笑いかけた。

 

「ああ、そうだ、久しぶりだ、ラナート」

『お前はちっとも変わっていない。いや、少し昔に戻ったらしいな。その顔の方が、お前には似合っている』

 

 確かに、ケリーが最後にラナートと顔を合わせた時は、海賊王ケリーの素顔ではなく、ケリー・クーア用に整形された顔だったのだ。

 ケリーは、疲労を忘れて思わず笑ってしまった。

 

「気持ちの悪いことを言うなよ。俺のは、天使の悪戯さ。それにしても、お前もちっとも変わっちゃいないじゃねぇか。冷凍睡眠してたんじゃなけりゃ、そいつは詐欺だ」

 

 ラナートは苦笑した。確かに、既に彼は従心を越えて久しい老齢である。それでも、顔はまだ初老といって通じるほどに若々しく、鍛え抜かれた身体はなお精気に充ち満ちている。

 

『遺伝と体質、そして適度な栄養と睡眠と運動さ。別に特別な何かをしたつもりもない。むしろ、中々貫禄がつかなくて困っているんだ』

「若作りに悩む世の女性の全てに聞かせてやりたい言葉だな。きっとお前は一日と生きちゃいられないだろうさ」

『普通の女性の前でこんな言葉を口にするほど、俺は命知らずじゃない』

 

 そしてラナートは、少し視線をずらし、ケリーの傍らの女性を、意味ありげな視線で見つめた。

 

『まぁ、あなたは普通の女性にはカテゴリできないでしょうから。色々な、そしてあらゆる意味で』

「聞きようによっては失礼な台詞だが、他ならぬあなたが言うのだ。褒め言葉だと受け取っておこう」

『お久しぶりです、ミズ。お元気そうでなによりだ。もう一度あなたにお会いできるとは思わなかった』

「キャプテン・ラナート、わたしもあれが今生の別れだと思っていた。あなたに会えて嬉しい。そして、あなたには伝えなければならないことがある」

『……それは?』

 

 ジャスミンは隈の浮いた眼に愉快そうな笑みを浮かべ、

 

「あなたの子供は、二人とも、中々手強かったぞ。将来が楽しみだ。流石は、銀星の跡取りだな」

 

 ラナートは一瞬呆気にとられ、そして破顔した。

 

『……ミズ、あなたに、例えリップサービスであったとしてもそこまで言わせるなら、インユェもメイフゥも捨てたものではないらしい。どうやら、インユェについては、相当鍛え直して頂いたようだ。礼を言わせて頂こう』

「ああ、メイフゥには危うく殺されるところだったがな」

 

 そうジャスミンが言うと、ラナートは目を丸くした。

 

『……まさか、本気のメイフゥと戦って、生き残ったのか?』

「あなたの目には、わたしが亡霊か何かに見えるのか?まぁ、あの巨大な虎の姿ではなかったぶん、どうやら手加減はしてもらっていたようだがな」

『……あきれ果てた人だ、あなたは。そしてどうやら思い違いをしている。メイフゥ達が形態変化をするためには、色々と面倒な誓約や掟がつきまとっているのさ。だから、メイフゥはおそらく全力であなたを殺そうとしたに違いないのだ。少なくとも、その瞬間は』

「誓約?」

『この共和宇宙で、彼らのような人間がひっそりと暮らしていくためには、色々と面倒が多いということらしい』

 

 そう言ったラナートの視線には、言葉では語り尽くせない、深い事情を見てきた者の気配が込められていた。

 ジャスミンはそれを尋ねようとは思わなかった。人が、異質なものを、自分とは異なる者を、どれほど執拗かつ残酷に排除するものか、彼女は知悉している。まして、人と獣の二つの姿を持つ生き物は、古来から最も忌むべき化け物の一つに数えられ続けてきたのだ。

 まだ年若いインユェもメイフゥも、きっと今まで、年にそぐわぬ労苦を経験し続けてきたのだろう。生物としての能力が優れていることが、即ち人としての幸福とは必ずしも直結しない。

 だが、それらの事情を語るのも聞くのも、今が相応しい時とは、ジャスミンには思えなかった。

 

『……さて、少し挨拶が長引いてしまった。そろそろ本題に入るとしようか』

 

 ラナートの視線がケリーに戻る。

 ただ、数十年の時を経て再会した友人に向けるには、その視線は幾分冷ややかに過ぎた。まるで、獲物を見つめる捕食者のように。あるいは、無知な金持ちを前にした詐欺師のように。

 その気配に気が付いたのだろう、ケリーの義眼が怪訝そうに揺れた。

 

『ケリー・クーア。これはビジネスの話だ。我々にはお前を満足させる商品があり、相応の買値をつけてもらえれば譲り渡してもいいと考えている』

 

 窶れたケリーの眼光が、鋭さを増してラナートに向けられる。

 

「興味深い話だな、キャプテン・ラナート。ちなみにそいつは、どの立場がお前に言わせた台詞だい?商売人かそれとも……」

 

 ラナートはひんやりとした笑みを浮かべ、

 

『無論、海賊だ。海賊が、共和宇宙一の大金持ちに対して、卑劣な手段でもって恫喝を加えているのさ。冷や汗を垂れ流しながら、大人しく聞いていろよ。それが作法というものだ』

「悪かった。続けてくれ」

『我々は、先日一人の少女を保護した。未判別の最新型機甲兵に搭乗していた、ヴェロニカ軍人の少女だ。認識票にはマルゴ・レイノルズと記載されているな……』

 

 ジャスミンは、自分の表情が変化しないよう、鉄の精神力でもって顔の筋肉を操作した。

 ケリーも同じだったのだろう。ラナートが海賊としてマルゴを保護したというならば、そして自分達に話を持ちかけてきたというならば、無垢な子供のように正直な表情を作って良いはずがない。

 

「で、それがどうしたんだい、キャプテン」

『これだけ大がかりで、そして命がけの仕事に付き合ってくれた部下達には、相応の報酬を用意する必要があるだろう。現物支給というには少し下品だが、まぁ血気盛んな若い連中にはそういうものの方が喜ばれるかも知れんな。古来より、命を賭けて戦った勇者には、純潔の美女が送られるのが慣例だ。あの子一人に何百という若い男の相手をさせるのは少し酷だが、仕方ない』

「……グランド・セヴンと謳われた大海賊にしちゃ、随分と品性に欠ける脅し文句だ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」

 

 突然画面が切り替わり、そこに、医療用カプセルに収められた少女の姿が映し出される。

 紛れも無い、マルゴの姿だった。死んだように眠っている。それとも、眠るように死んでいるのか。

 ただ、生きているにせよ死んでいるにせよ、ケリーが探し求めるものは、今、ラナートの手中にある。それは紛れも無い事実らしい。

 再び映し出されたラナートは、やはり冷たい視線でケリーを見遣った。

 

『これが、俺の用意する商品だ。確認は出来たか?』

「ああ、どうやら間違いはないらしい。で、お前はさっき、ビジネスの話だと言ったな。マルゴの対価は何だ?俺の全財産か?そんなもんで済むなら安いもんだ」

 

 ケリーの言葉に偽りはないだろう。おそらく、ケリーの所有するクーア財閥の全株式を要求されたとしても、二つ返事で了承していたに違いない。

 だが、ラナートの求めるものは全く違った。

 ラナートはさも愉快そうに首を振り、

 

『残念だが、そんなものがお前にとって何の価値も持たないものであることは理解している。そして、何の痛みも伴わない対価でもって、この少女をお前に引き渡すつもりはない』

「……」

『俺が求めるのは、ケリー・クーア、お前の命だ。二十四時間以内にこちらが指定したポイントまで来い。一人で来いなどと辛気くさいことは言わん。ギャラリーが多いなら、その方が色々と盛り上がるからな。もし指定された時間にお前が姿を現さなければ、この少女は二度と陽の光を浴びることの出来ない場所で、女を切り売りして短い一生を送ることになる。くれぐれもそれを忘れるな』


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