懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
遙か遠く、青白く不気味な光を放つ太陽が、一眼の魔物のようにケリー達を睨み付けながら、名も無き宙域を照らし出していた。
人気の無い宙域であった。宇宙に人の気配も何もあったものではないが、少なくともケリーにはそう思えた。人の手が入ったことのない、未開発の宙域独特の雰囲気が濃密に漂っている。言い換えれば、人を拒み撥ね付けるような表情の宇宙であった。
大小の小惑星、隕石群が、侵入者に牙を剥くように飛び交い続けるその宙域は、並の腕の船乗り程度では近づくことすら許されない。至る所で発生する原始惑星のガスと異常磁場は、ベテランの船乗りであっても容易く遭難させてしまう。
そして船乗りの方も、敢えて近づこうなどとは思わないだろう。主立った航路からは遙か遠くに位置し、近くに居住用惑星の一つもない、辺境の中の辺境宙域。この時代の人類が絶え間なく抱き続ける、宇宙踏破の情熱からも忘れられた忘却の園。
しかしケリーは、ラナートが指定したこの宙域に、覚えがあった。
ケリーだけではない。ジャスミンも、その宙域を覚えていた。
ジャスミンは、たったの一度しか足を運んだことのない宙域である。それも、遙か昔、自分の産んだ赤子を誘拐されるという非常事態に、八方塞がりの状況を打破する切り札を手に入れるため、この宙域を訪れ、そして一人の老人と出会った。
ジャスミンにとっては、初めて顔を合わせる老人だった。しかし、その老人はジャスミンのことを知っていた。というよりも、年来の友人の娘として、ジャスミンを知っていたのだ。
「懐かしいな」
ぼそりとジャスミンが呟いた。
操縦席に座ったケリーはジャスミンを一瞥し、正面スクリーンに視線を戻す。そこには、小惑星帯の中でも比較的大きな、最大直径二キロメートル程の岩塊が映し出されており、その映像は徐々に拡大されつつある。
《パラス・アテナ》は、正しくその岩塊を目指してこの宙域を疾駆しているのだ。
彼らは、凶悪無比な海賊に脅迫され、その小惑星まで呼びつけられたのだ。本来であれば重苦しく口を開くのも躊躇われるような状況であるはずだが、ジャスミンはふと笑みを溢した。
「どうした、女王」
「失礼。少し、昔のことを思い出していた。まぁ、わたしにとってはそれほど昔のことでもないのだが、お前や他の人間にとっては大昔のことだろうな」
「前に、ここに来たときのことか」
ジャスミンは頷き、
「あの時、初めて《パラス・アテナ》に乗せてもらった時だ。お前はともかく、《パラス・アテナ》の腕白振りは色々と札付きだったからな。わたしを送り出す《クーア・キングダム》のみんなの表情といったらなかったよ」
望まざる客の命など、雑草ほどにも省みないダイアナである。客室の空気を抜く、慣性相殺を勝手に切る、その他諸々の非常識な手段でもって異物を排除したことなど、片手では数え切れない。
そんな危険物に大事な人が乗るのを、当時の《クーア・キングダム》の面々が、どれほど必死な顔で制止したか、ジャスミンは昨日のことのように思い出すことが出来る。
「……」
「もう、あの時のみんなのほとんどが、いなくなってしまったな」
ケリーが乾いた笑みを浮かべ、
「ずいぶんセンチメンタルじゃないか、らしくねぇな」
「無茶を言うな。わたしも人間だ。過去を振り返り、愛でる権利を持っているのさ。あの時のみんなは、十分に愛おしみ続けるだけの価値を有している人間ばかりだった。それは、我々がこれから赴く場所に隠居していた、伝説の大海賊も含めてな」
「あんたの言うとおりさ、女王。いい奴ばかりが先に死ぬんだ。長生きなんてするもんじゃねぇな、お互いよ」
「わたしをセンチメンタルと言ったが、お前の方こそずいぶんと老人じみた台詞を吐くじゃないか」
「忘れちまったのかい、ずっと眠り姫だったあんたはともかく、俺は本当に爺になっちまってたんだ。年寄り臭い台詞はお手の物だぜ?」
「それは困った。わたしはまだまだ若者のつもりだからな。気が老いた夫の隣に居ては、老け込むのが早まりそうだ」
ジャスミンはくつくつと含み笑いをし、ケリーもそれに倣った。
どちらかといえば普段は口数の少ない二人を多弁にしたのは、二人の言うとおり懐古の情だったのかも知れないし、あるいはある種の緊張感だったのかも知れない。
洞察力に優れ、如何なる事態にも沈着冷静を崩さないケリーとジャスミンだったが、ラナートの突然の変貌には面を喰らっていた。
一体どうして、傷付いたマルゴを人質にしてまで、ケリーをこんな場所に呼びつける必要があるのか。
もしも彼らの言葉通り、ケリーを殺害するのが目的であるならば、こんな手の込んだことをする必要はない。あの戦闘の最中に背後から襲いかかれば、さしものケリーとダイアナとはいえひとたまりもなかっただろうし、第一ラナート達の助けがなければ《パラス・アテナ》は今頃宇宙の藻屑となってあの宙域に四散していたはずである。
仮に、殺害がただの脅しであり、海賊の流儀に従ったところで身代金の要求が真の狙いだったとすれば、全くもって本末転倒な話になる。何故ならケリーは、真実宇宙一の金持ちであり、しかも金に対して一切の執着を持っていない。ラナートが自分達の働きに対して金銭を持って贖うよう要求すれば、意外の念は覚えたにせよ、二つ返事で了承していただろう。
そして、ジャスミンという極々例外を除けば、ラナートはケリーの本質をこの宇宙で一番良く理解している人間の一人であるはずだ。であれば、このように迂遠なことをする必要など見出すはずがない。
どのような交渉事であっても、相手の真意と狙いが全く分からずにテーブルに着くのは気分の良いものではない。まして、今回の相手は大海賊『銀星』ラナートである。その腹の内に何を隠し持っているか、さしもの二人であっても計りかねていた。
同じ頃、《パラス・アテナ》の歓談室に、リィ達の姿を見出すことが出来る。
リィ、シェラ、そしてルウ。ここらは《パラス・アテナ》に乗っていてもさほど不思議ではないメンバーだが、今は彼ら以外に、インユェ、そしてメイフゥの姉弟が乗り込んでいる。
インユェは、自ら所有する宇宙船《スタープラチナ》で《パラス・アテナ》を追いかけるつもりだったのだが、
「相手さんが指定してきた場所はちっと手狭でな、何隻も宇宙船を泊められるほど贅沢な格納庫はないのさ。だから、悪いが我慢してくれ」
窶れた表情でそう言ったケリーに対して、インユェは大人しく従った。
相手が無頼の宇宙海賊であるということ、そしてマルゴを人質にケリーをその場所まで呼び出したことを、インユェもメイフゥも聞かされている。なら、万一の場合に備えて船は多く用意したほうがいいはずだ。
しかし、マルゴの捜索作業の中でケリーの操船技術を目の当たりにしたインユェは、自身のそれがケリーに遙か遠く及ばないものであることを自覚せざるを得なかった。タイムリミットを設定された状況の中、自分の我が儘や拙い操船技術で迷惑をかけるわけにもいかない。
インユェ達は、《スタープラチナ》を付近の小惑星に着陸、固定し、電子的な迷彩を施した上で、そのまま《パラス・アテナ》に移動した。
『ようこそ、《パラス・アテナ》へ。歓迎するわ、二人とも。先の戦闘でボロボロなのがちょっと恥ずかしいけど、我慢してね』
二人を、ダイアナは好意的に向かい入れた。インユェは、最初の顔合わせの経緯から、少々と言えば控えめに過ぎるだろう苦手意識をダイアナに抱いているが、今更逃げ出すわけにもいかない。
『どうかしらインユェ君、これがあなたのいうところの、旧型で、ジャンク屋のパーツ取り用くず宇宙船の内部よ。お気に召したかしら?』
「あの、本当、すんませんでした、もう二度とあんな失礼なことは言いません、だからもう勘弁してくれ……」
インユェは総身に冷や汗を流し、見るも憐れなほどにたじたじである。
ダイアナはくすくすと笑い、インユェをからかうための矛先を収めた、
リィ達にすれば勝手知ったる船内だが、インユェとメイフゥは初めて見る《パラス・アテナ》の内部である。子供のようにきょろきょろと辺りを見回しつつ、自分に割り当てられた客室に荷物を放り込み、そして歓談室に集まった。
「マルゴみたいな子供を人質にするなんざ、『銀星』ラナートっつったか、グランド・セヴンも地に落ちたもんだ」
行儀悪く、椅子の上に片膝を立てて座ったメイフゥが、憤懣やるかたないと言った調子で毒づく。まだまだ少女と呼ぶべき年齢の彼女であっても、宇宙に生きる者として、グランド・セヴンの勇名には憧れを覚えていたのだ。
もう半世紀も昔、ゲート航法の黄金時代、自前のゲートと軍艦並に武装した艦艇をもって、連邦警察や共和宇宙軍を正面から相手取り、一度も白旗を揚げることのなかった宇宙の男達。
既に、彼らのことを直接知る人間は数を減らしているが、それでも、まるで中世の吟遊詩人が村々に伝説を語り広げたように、口伝でもって彼らの勇名は語り継がれ、決して色あせることはない。
幼稚な言葉を使うことが許されるなら、メイフゥやインユェにとって、グランド・セヴンは一種のヒーローだったのだ。普通の子供が記録映像や漫画の中の主人公に憧れ育つように、二人は海賊達を英雄に見立てて育ってきたのだ。
そのヒーローが、年端もいかない、しかも半死半生の少女を捕まえ、交渉材料として用いるなど、幻滅をするには十分すぎる材料である。
憤慨するメイフゥに、しかし、いつものことならば彼女以上に沸騰しているだろうインユェは、不自然なほど静かに沈思していた。
そんな、対照的ともいえる姉弟を尻目に、リィが口を開き、
「グランド・セヴンねぇ……。半世紀も前に活躍した海賊っていうなら、ケリーとは顔見知りなんじゃないのか?」
「おそらくそうなのではないかと……。以前、ジャスミンが言っていた、ケリーに男惚れしている連中とやらの中に、その名前があった気がします」
シェラが人差し指を唇に当てながら応える。
「なら、本当の狙いはケリーの命じゃなくて、ケリーの身柄なのかな。あらためて自分の部下にするつもりとか」
「残念だけどエディ、キングの性格からして、絶対にそれは無理だ。脅しても宥めても泣き落としを使っても、絶対に彼は靡かない。仮に首輪でもつけて身体を繋ぎ止めることは出来ても、心を自由にするわけにはいかない。なら、宝の持ち腐れも甚だしい。仮にも大海賊って名乗るくらいなら、それくらいは分かっていると思うけど……」
「それに、万が一ケリーが捕まったら、奥さんの方が黙っちゃいないからなぁ」
「だよねぇ」
ルウは深く納得した。
普通は逆である。妻の危機に夫が奮い立つ例は、創作実話を含めて宇宙の歴史の中では枚挙に暇がないが、その逆を地でいくのはあの夫婦くらいなのではないか。
さらに付け加えるならば、どうやらラナートという人物は、ジャスミンとも知己だという。ならば、夫を奪われた彼女の危険度が如何ほどのものか、実例を目の当たりにせずとも理解しようというものだ。
「そうするといよいよ分からない。こんなところまでケリーを呼び出して──しかもおれ達も一緒でいいと断りを入れて──何をするつもりだろう」
「俺は、なんとなく、分かる気がする……」
ぼつりと呟いたのは、今まで一言もしゃべらなかった、インユェである。
全員の視線が集中する中、一人じっと床を見つめた少年は、しかしその後、一言も喋ることはなかった。
じっと、床の一点を見つめ、微動だにしなかった。
そしてもう一人、形の良い顎先に、ほっそりとした指を当てながら考え込む少女がいた。
「ラナート……」
その名を聞いた覚えがある。ウォルは確かにそう思った。
最近だ。今と同じ、宇宙を泳ぐ船の中で。
端正な顔立ちの、初老の男。甘い顔立ちの中に、白刃のような鋭さのある、そんな男だった。
あの男が、敵として待ち受けているのか。
ウォルの背に、冷たい緊張が走った。
◇
直径僅か二キロメートルほどの、何の特徴も無い小惑星であった。
注意しなければ他の小惑星に紛れてしまうであろうその星を、ケリーの双眼は見逃すことなく、巧みな操船技術で《パラス・アテナ》を接近させていく。
すると、岩石の塊にしか見えなかった小惑星の表面に幾何学的な裂け目が現れ、その裂け目が次第に大きくなっていった。そこから見える小惑星の内部には金属板や各種舗装が施されており、綺麗に整えられた着陸場となっているようだ。
明らかに人の手を加えられた痕跡が残っている。どうしてこのような秘境の宙域に、このような小惑星があるのか。誰の目にも不審を招かずにいられないだろう。
しかしケリーやジャスミンの表情に、驚きは奇異の感情は浮かんでいない。むしろ当然といった面持ちで、その裂け目に《パラス・アテナ》の艦首を向け、小惑星の内部へと侵入した。
「以前来たときは、確か真っ暗だったのに、随分と待遇の良いことだ」
ジャスミンが片頬を歪めて呟けば、
「前は突然の珍客扱いだ。今回はきっちりとした賓客だぜ。無論、ホストは別人だがな」
ケリーはそう返し、ジャスミンを納得させた。
そしてケリーは《パラス・アテナ》を着陸場に固定させた。その隣には、《スタープラチナ》に似た、しかし遙かに大型で重厚な装いの宇宙船が停泊している。
「《シルヴァースター》……」
ジャスミンにとっても見間違いようのない、それは船体であった。
遠い昔──彼女にとっては数年前のことだが、ラナート本人の突然の招待に戸惑いつつも、しかし自らの足と意思でもってこの船に乗り込み、数日を楽しんだ。その間、昼は荒くれ者の船員──言うまでもないことだが全員が海賊だ──の中に交わり、賭け事や戦闘機の操船技術で競い合った。夜は、船長室で過ごすことが多かった。
政財界の頂点にいた夫婦、その妻が、各国の要人との会談をキャンセルしてまで、不法者の船に乗り込むことを選んだのだ。不貞行為と罵られても弁解しようのない数日であり、それはまた事実でもあったが、夫であるケリーは笑って許してくれた。いや、許すという発想すらなかったかも知れない。
色々と型破りな数日間であったが、少なくともジャスミンにとっては素晴らしい思い出として記憶されるべき束の間の休日であった。
ジャスミンは、それほど広くはない着陸場をぐるりと見回したが、《シルヴァースター》以外の船を見つける事は出来なかった。
「少し意外だな。もっと、海賊達が大挙して待ち侘びていると思ったんだが……」
「ここは連中にとっちゃ聖地みたいなもんさ。中には遠慮する人間もいるだろうよ。第一、あの戦場にいた奴らを一から十まで詰め込んだら、人間だけでこの洞窟はパンクしちまう」
「なるほど、そのようなものか」
ケリーは器機を確認し、船外に酸素が供給されていることを確認してから、歓談室で待機しているリィ達に到着を知らせた。
「じゃあ、ちっと行ってくるぜ。大人しく待ってるんだぜ、ダイアン」
『ちょっとやめなさいよ、人を犬か何かみたいに』
《パラス・アテナ》の感応頭脳は苦笑混じりにそう言った。
「馬鹿なことを言うなよ。俺がいなくて寂寥の涙に暮れる美女に向けて言ったつもりなのによ」
『そういうことは奥さんに言ってあげるものよ、ケリー』
「こいつはそんなこと、言ったって聞きやしねぇさ。鎖でふん縛ったって、それを食いちぎって暴れ出すのが目に見えてる」
二人の会話は、もちろんジャスミンにも聞こえている。
だが、当然というべきか今更というべきか、この程度のことでジャスミンが怒ることはない。
平然とした調子で、
「まぁ概ねお前の言うことは否定しない。しかし、残念だが海賊、そういう意味ではわたしもダイアナも同じ種類の女だと思うぞ。待てと言われて大人しく待っていた例しが今まで一度でもあったのか?」
真面目にそう訊かれると、ケリーも前言の誤りを認めるしかない。
わざとらしく溜息を吐き出し、
「どうして俺の周りには、こうも恐い女ばかり集まるかね。それも超弩級のやつばっかり」
『きっと前世で女の人に酷いことをした報いね、大人しく悔い改めたらどうかしら?』
「いやいや、ダイアナ、それは違う。この男はわたし達のような女に手綱を握られるのが好きなのさ。こういうふうに苦い顔をすれば、わたし達がやる気を出すのだと理解しているらしい。ここは一つ、思い切り振り回してやるのがこの男の望みだと思うぞ?」
『あら、ケリー、あなたそういう趣味があったの?早く言ってくれればいいのに、水臭いわぁ』
スクリーンに映し出されるダイアナの格好が、そういう男の人ならばたまらないだろう、特殊で扇情的な装束に変化した。そして、手には何に使うのか、乗馬用の鞭などを持っていて、楽しそうに素振りしている。
ケリーは流石にげんなりとして、
「生憎だが、俺は女に尻を叩かれて喜ぶ趣味も、女の尻を叩いて喜ぶ趣味もねぇよ」
『機械に叩かれて喜ぶ趣味は?』
「もちろんありゃしねぇよ!」
ここまでがジャスミンの耐久力の限界だった。もう何日も寝ていない、疲労困憊の身体に生気を漲らせ、大笑いに笑う。
釣られて、ケリーも笑ってしまった。もう、果たして何日ぶりか分からない笑いだ。この女達が果たして自分の人生を幸福の岐路に向けてくれているのか、ケリーには分からないが、少なくとも笑いの多い方向には導いてくれているらしい。それはきっと、感謝を捧げるべき事だろう。
『それだけ笑えるなら安心だわ。ケリー、必ず帰ってきてね』
「そういう真面目な台詞をボンテージ姿で言うなよ、腰から砕けそうになる」
『あら、気が付かなかったわ。わたしったらはしたないわね』
そういうと、ダイアナは普段の船員服に戻る。
『ラナートはわたしも良く知ってるから、あなたに対して無茶なことをするつもりは無いと信じたいけど、彼が操られていたり脅迫されていたりする可能性もあるから、絶対に気を抜かないこと。いいわね?』
「むしろそれなら安心だ。相手は銀星本人じゃないってこったからな。一番やばいのは、本気のあいつを正面から相手どらなけりゃならないケースだぜ。心配するならそっちの心配を頼む」
『……そうかも知れないわね。気をつけて、とは言わないわ。だから、絶対に帰ってきなさい。いいわね?』
「承知したぜ、ダイアン」
ケリーとジャスミンは操縦室を出、通路の途中でリィ達と合流し、全員で《パラス・アテナ》の外に出た。
宇宙船着陸場のある格納庫は、いかにもがらんとしていて、そして古びていた。
清涼で、どこかに機械油の匂いが漂う、いかにも宇宙海賊らしい空気が、その空間に満ちている。しかし、その空気の中に埃っぽさと錆臭さが混じっているのは隠しようがない。
もう半世紀も前、ケリーとジャスミンがこの場所を訪れた時は、こうではなかった。ここには歴とした主人がいて、この場所を守っていたからだ。
この隠れ家に、今、住む者はいないのだろう。人の手が、ほとんど入っていないのだ。奇特な誰かが定期的に整備をしてはいるのかも知れないが、それでも使われなくなった設備は急速に痛み、そして風化していく。
「懐かしいだろう、ケリー・クーア」
首を巡らし格納庫を見渡していたケリーに、太い、良く響く声が向けられる。
その声の源に、一人の男が立っていた。
見栄えのする男だった。がっしりと肉付きの良い体躯の上に、端正な顔が乗せられている。
それも、ただ形が整っているだけではない。男の送ってきた波瀾万丈の人生に相応しいだけの威厳と深みが皺として刻まれ、見る者の襟を正さずにはおかない程の迫力を醸し出しているのだ。
「お前がここを訪れたのは何年ぶりのことになる?あの事件の直前、アレンジマシンを融通してくれるよう親父に頼みに来たときだとするならば、およそ半世紀も前のことか?」
「ああ、その通りだな、キャプテン・ラナート」
男は──『銀星』ラナートは、冷ややかな視線でケリーを射貫いた。
「もう、随分昔に、親父は──大海賊シェンブラックは、この世の人では無くなった」
「そりゃあそうだろう。爺さんはもう、あの時でも随分小さくなっちまってたんだ」
「ああ、そうだ。あんなにでかかった親父が、片手で持ち上げられるくらいに軽くなってしまった。棺桶は、子供用のサイズより少し大きいくらいで間に合ったよ。きっと今も、この辺りの宙域のどこかを漂っているんだろう。ずっと、これからも永遠に」
タラップを降りたケリーは、ラナートの正面に相対した。彼我の距離は、二十メートル程か。言うまでもなく、銃の有効射程内である。
ケリーの後に、ジャスミン、リィやウォル達、そしてインユェとメイフゥが続いた。中でも、メイフゥはぎらぎらとした視線でラナートを睨め付けている。殺気すら込めた視線だ。それほど、重傷を負ったマルゴを人質にするというラナートの遣り口に、腹を立てているのだろう。
また、ラナートの背後にもいくつかの人影がある。それは、例えば『花火師』アーウィン・ショウ 、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデス、『血頭』ダシール・ハメット、『亡霊師団』サミュエル・ドミトリクなど、先の戦いでいくつもの武功を立てた海賊団の頭領の姿であった。
「お前はここで昔話をするために、わざわざ俺を呼び出したのか?それなら、こんなしち面倒くさい手妻を踏むまでもねぇ、一言声をかけてくれりゃいつだって飛んでくるさ」
「そうだったな、お前を呼び出したのはビジネスの話をするためだった。忘れていたよ、ケリー・クーア」
ラナートが顎をしゃくると、屈強な体つきの部下が一人、医療用カプセルの乗せられた台車を押してきた。
縦になったカプセルの一部は透明な素材で造られており、そこから、薬液に満たされた内部と、目を閉じたまま身動ぎしない少女の顔を見ることが出来た。
その医療用カプセルに入れられているのは、紛れも無くマルゴ本人だった。
マルゴが生きている。その事実をあらためて知ったケリーの顔に、しかし一切の喜びはなかった。内心でどれだけの歓喜が爆発したのだとしても、それを表に出すような男ではない。
「これが、こちらの用意出来る商品だ。確認したか?」
「ああ。で、恐え恐え海賊さんは、憐れな俺に何を要求するんだい?」
ケリーが戯けた調子でそう言うと、ラナートは苦笑し、
「生憎だが、この商談については俺は単なる窓口でな。これから先は、権利者に道を譲らせて貰おう」
「ケリー・クーア、どうも貴様は思い違いをしているらしい。まずはその辺りから説明する必要があるな」
ラナートの背後から、まるで影が起き上がるように、一切の気配無く、一人の老人が姿を現した。
既に相当の高齢だろう、しかし背筋に曲がったところはなく、鍛え抜かれた四肢には力が漲っているようだった。
ただ、射貫くように細い視線と、口元の表情を隠すように蓄えられた立派な髭が、どうにも不気味な様子であったが。
その老人を見て、メイフゥが息を飲んだ。
「ヤームル……どうしてここに……」
確かにその老人は、二人の後見人を務め、親代わりとしてずっと付き添ってくれた男の姿だった。
しかし、身に纏う雰囲気があまりにも違う。メイフゥが知っているヤームルという男は、有事はともかく、普段はまるで陽だまりで寝転ぶ大型犬のように、ゆったりとした慈愛と柔らかさに満ちていたというのに。
メイフゥの呟きは、おそらく老人の耳に届いていただろう。だが、老人はメイフゥに対して視線を寄越すことすらしない。ただ、底冷えのする視線でケリーを凝視し続けていた。
「あの時、城の地下にいた爺さんだな、あんた」
「だとしたら、どうだと言う?」
「別に。ただ確認したかっただけさ」
ヤームルは、冷笑をケリーに向けた。無為なことを、と蔑むように。
そしてケリーは肩を一つ竦め、
「無駄話が気に食わないなら話を進めようか。まず、あんたの要求を聞こう。そうしてもらわないと話が先に進まない」
「そこが貴様の思い違いだ、ケリー・クーア。我々がこの少女を拐かし、卑劣な脅迫を行っているのだと考えているのか?違うな。残念だが、この少女は正当な契約でもって、既に俺の所有物だ」
どういうことか。ケリーが無言で続きを求める。
ヤームルは、医療カプセルに収められたマルゴの穏やかな寝顔を見遣り、
「この少女は、父親と呼ぶべき男に捨てられた。重い傷を負い、誰からも省みられることなく死ぬところだった。それを、俺が気まぐれに助けた」
「……だから、それだけのことで、こいつがお前のもんだと?ずいぶん乱暴な理屈だ。その理屈が正しけりゃ、救急隊員は奴隷商人で一山当てられそうだな」
「そして目覚めた彼女は、死を希った。全てを失った。全てが恐ろしい。だから殺してくれ、とな」
ケリーは表情を消してヤームルの言葉を受け入れた。おそらく、いや、間違いなく、この男は真実を口にしている。アーロン・レイノルズの呪縛を受け、そして裏切られたマルゴならば、一も二もなく死を受け入れただろう。自分から望んだに違いない。
「そして俺は彼女の願いを聞き入れた。ただし、一つの条件をつけて」
「……条件、だと?」
「俺の知る、一人の少年を守ることだ。そして、その少年の成そうとすることに助力すること。そして、どうやらそれは達成されたらしい」
ヤームルはちらりとインユェを見た。
インユェも、自分が見たことのない、恐ろしい迫力の込められたヤームルの視線を、正面から受け止め、そして目を逸らさなかった。
その様子に、ヤームルは心中、微笑んだか否か。
「彼女は俺の依頼を完璧にこなしてくれた。ならば、俺には彼女の要望に応える義務がある。俺にはこの少女をあの世に送り届ける義務があるということだ。どうだ、俺の理屈は詭弁か?」
「……いいや、あんたの言っていることが正しいんだろうな。契約の履行が為されたのに報酬を払わずにとんずらこけば、そいつは詐欺師呼ばわりされても文句を言えない」
ケリーの言葉に、ヤームルは頷くことすらしない。それが当然のことだからだ。特に、口約束をこそ何よりも固く守るべしとされる海賊達の世界では。
「俺にはこの少女を殺す義務がある。そして義務の履行を邪魔するやつがいるならば、俺にはその不届き者を排除する権利がある」
「なるほど、で、この場合は俺がその不届き者な訳だな」
「誰に知らせることもなくこの娘の願いを叶えることも出来た。しかしケリー・クーア、貴様はこの娘と浅からぬ縁があるらしい。だから、最低限の仁義として貴様の耳にはこの少女の死を伝えておくことにした。この少女に伝えたいことがあるなら言っておけ。気が向けば、最後の瞬間に伝えてやってもいい」
ヤームルの言葉を受け、ケリーが口を開きかけたとき、しかしケリー以外の声が広い格納庫に響いた。
「馬鹿を言うんじゃねぇぞ、ヤームル」
その場にいた全員の視線が、ケリーの後方にいた、銀髪の少年の顔に集中する。
歴戦の古強者である海賊達の、明らかに自分を異物と認識した、ごわごわとした視線。青二才と侮る視線、ケリー達のやり取りを邪魔した事に対する苛立ちの視線。
もしも、半年も前のインユェであれば、それらの視線を浴びて、たちまちに萎縮して言葉を失ってしまっていただろう。もごもごと何かを呟き、ふてくされたような表情で後ろを向き、自分以外の誰かを罵りながら元の立ち位置に戻り、苛立ち紛れに唾の一つも吐き出したかも知れない。そして、この場においては誰からも忘れられた存在に成り果てていたに違いないのだ。
しかし、今のインユェは怯まなかった。自分に浴びせられる、物理的な圧迫感すら感じる視線の束を正面から睨み返し、少し陰気な表情の少年は、背筋に力を入れて歩を進めた。
そんなインユェに、今度は視線よりも遙かに恐るべきものが向けられた。
銃口である。
「おう、若ぇの。命が惜しかったらよ、そこまでにしときな」
足を止めたインユェに言葉を向けたのは、この場で最年長であり、『花火師』の異名を持つ大海賊でもある、アーウィン・ショウであった。
既に年は百を超えているだろう。正確な生まれ年はおそらく本人ですら分からないに違いないのだが、彼が宇宙に名を馳せた時期から逆算すれば、それは間違いないなのだ。
しかしこの古海賊の地面を踏みしめる足は頑健そのものであったし、背筋はちっとも曲がっていない。それに、今、インユェに向けている銃口も、ほんの少しも震えたりはしていなかった。ぴたりと、少年の胸の中央、心臓の位置に向けられて静止している。
「お前とヤームルがどういう関係かは聞かねぇ。のっぴきならねぇ事情があるこたぁ百も承知よ。その上で、若ぇの、忠告しといてやる。ここはな、お前さんの舞台じゃねぇのさ。この場所は、お前さんには分からねぇかも知れねぇが、たいそう海賊連中に縁深い場所でな。正直を言やぁ、この男以外のあんたらには、今すぐ立ち去ってもらいてぇくらいなのよ、俺はな。それを、百歩譲って観客席に立ち入るのは良しとしようや。だが、そこまでだわな。それ以上は、役者の領分だ。観客が立ち入るのは、無粋を通り越して野暮天だ。鉛玉の一つもぶち込まれたって文句を言えねぇってなもんさ」
「なるほどね、あんたの言うことはもっともだな、爺さん」
インユェが無表情に頷いた。
それを見たショウは、片眉をぴくりと振るわせ、
「脅しだと思うかい?」
インユェは首を横に振った。
「あんたみたいな、自分の命だって見切っちまったような死に損ないの爺さんがよ、今更何を恐れるもんかよ。刑務所なんざ鼻歌交じりに行ってこいだろう?なら、いけ好かねぇ糞餓鬼が、大事な場面でしゃしゃり出てきたんだ。警告無しでズドンが当然なのに、あんたはお優しいもんだ」
ショウは、ただでさえ皺に埋もれたような顔をもっとくしゃくしゃにして笑った。無論、銃口をインユェに向けたまま。
「分かってもらって嬉しいよ、お若いの。なら、こっちも無粋なこたぁ言わねぇよ。早くこの老いぼれに、重たい玩具を仕舞わせておくれ」
「残念だが、そいつは聞けねぇな、爺さん」
インユェは一歩、足を進めた。
ショウの指が引き金にかかり、僅かに引き絞られた。もう少し、あと数ミリ指を曲げれば、銃弾は自動的に発射され、インユェの心臓を射貫くだろう。
「……おいおい、脅かすんじゃねえよ、若いの。あんた、もう一歩足を進めてたら、おっ死んでたぜ」
むしろ呆れたように言う古参海賊に、
「お、俺も、う、撃たれるかと思ったよ」
片頬を引き攣らせ、胸を大きく波打たせて呼吸を繰り返すインユェは、総身を恐怖と緊張にがたがた震わせている。
「……若ぇの、あんた、命が要らねぇのかい?脅しじゃないことが分かってんならよ、お前が死ぬってことだ。そんな簡単なことも分からないくらい、頭がいかれちまってるのか?」
「ばば、馬鹿言うなよ。俺だって命は惜しいよ。いや、今まで生きてきて一番、今が死にたくねぇよ」
「ほう、どうして」
「す、好きな女がいるんだよ」
顔を青ざめさせ、涙さえ浮かべながら、インユェは虚勢の笑みを浮かべた。
「ほ、本気で惚れた女なんだよ。爺さん、あんたみたいな人生の大先輩に言わせりゃさ、青臭ぇ餓鬼んちょの麻疹みてぇなごっこ遊びかも知れねぇがよ、もうこれから先、そいつ以上に良い女なんて絶対に会えるもんじゃねぇってくらいに良い女に、心底惚れ込んじまったんだよ、俺は」
「……」
「だから、死にたくねぇよ、俺は。絶対に、そいつを俺のもんにするまでは、死ねねぇんだよ。でも、仕方ねぇじゃねぇかよこんちくしょう、ここで退いたら、昔の俺に逆戻りなんだからよう。それは、死んだって出来ることじゃねぇんだよ」
ショウは、少し呆れたような、それとも驚いたような表情で、まじまじと目の前の少年を見た。
年の頃は、自分の孫、いや、曾孫といってもいい年齢である。星によっては、まだ教科書と鉛筆を供に、受験勉強やら部活動やらに明け暮れていても不思議ではない。
その少年が、自分の向ける殺意に正面から立ち向かい、小便すら漏らしそうな情けない顔で、大見得を切っているのだ。
殺すのは簡単だ。自分の命の価値も弁えず、向こう見ずに突っ込んでくるだけのチンピラならば、最初の警告も無しで撃ち殺している。しかし、この少年を、こんなところで殺していいものか。
逡巡しているショウと、遠目にも分かる程震えているインユェの対峙の背後で、難しい顔をした少女が一人。
「……ずいぶん愛されてるなぁ、お前」
その少女の婚約者であるリィが、ウォルの肩を叩いた。
「本当に、おれからあいつに乗り換えたらどうだ?きっと、あいつならお前を幸せにしてくれると思うぞ」
婚約者とも思えない一言である。普通の女性がこんなことを言われれば、びんたの一つもくれてやるのが普通だし、その程度で気が済めば御の字といったところだろう。
しかし、普通という枠にどう工夫しても詰め込めそうもないその少女は、重々しく溜息を吐き出すだけだった。
「俺もそう思う。あいつならば、俺を女として幸せにしてくれるだろう。だから、もしも俺が本当の意味で生まれ変わって、女としての生を授かったなら、あんな少年に愛されたいと思うし、愛したいとも思う。しかし、何の因果か俺は俺としての生を再び生きねばならん身だ。ならば、どうしたってあいつの想いには応えられんのだ。それが、心底申し訳ないし、歯痒い」
「まぁ、そうだろうな」
「ただ、あいつには恩義があるからな。何度も危ないところを助けられた。黙って高みの見物を決め込める身分ではないだろう、俺は」
ウォルはそう呟き、いとも容易い歩調でインユェに肩を並べる位置まで歩き、銃口をこちらへと向ける老海賊に一礼した。
「お初にお目にかかる。ご老人、俺がこの少年の言う、良い女です」
にべもない自己紹介に、今度こそ老海賊の目がまん丸に見開かれる。
同時に、インユェは大慌てでウォルを自分の体の影に隠そうと引き寄せ、
「馬鹿、ウォル、女がこういう場面ででしゃばるんじゃねぇ!」
極端な性平等主義者などからすれば噴飯ものの台詞であったが、ウォルはにやりと笑い、
「では訊くがインユェ、こういう場面で男の後ろに隠れて大人しくしている女に、お前は惚れたのか?」
こう言われてしまうとインユェとしても返す言葉がない。少年の魂の奥底までをも奪い尽くしてしまったのは、いつだって自分を庇い、或いは肩を並べて戦ってくれた少女だったのだから。
いつの間にか、ウォルの手が、インユェの固く握られた拳の上に重ねられていた。そうすると、まるで魔法にでもかかったかのように震えも力みも溶け去っていき、残ったのは燃え盛るような闘志だけだ。
「……お前は本当に良い女だよ」
「知っているかインユェ。生憎だが、その言葉は俺にとって褒め言葉にならんのだぞ」
「じゃあ、そうだな、ウォル、お前は良い男だ」
「それなら良し」
どう見ても将来の美女の卵にしか見えない少女は、そう言って微笑んだ。
そして二人は再び、相変わらずインユェの心臓に銃口を向ける、ショウに相対した。
ただし、今度は追い詰められた少年の表情ではない。不敵な、まるでいくつもの修羅場を潜り抜けたことがある男のような顔で。
その一事だけで、少年にとっての少女がどういう存在か、嫌でも分かろうというものではないか。
「ってこったよ、爺さん。俺には惚れた女がいて、こいつの前ではいつだって男じゃなくちゃいけねぇんだ。格好つけなきゃいけねぇんだ。だから、例え殺されたって、後には退けねぇ。俺には俺の為すべきことがあるからだ」
「そして、俺はそんな理由のために、こいつを殺させるつもりは毛頭ない。ご老人、あなたの仰る道理は百も承知だが、ここは横車を押させてもらうぞ」
ウォルはそう言って、腰に履いた鞘から剣を抜き放った。
濡れたように光を跳ね返す、妖しい刃だった。宝物を飽きるほどに見慣れているだろう海賊連中にも、一目でそれが規格外の業物であると、いや、それ以上の品であると分かる。
しかし、幅広で肉厚の長剣は、どう見ても少女に似つかわしい武器ではない。
「……お嬢さん、あんた、そのだんびらにその細腕で、俺の銃と渡り合おうってかい?ずいぶんと見くびられたもんだ」
「確かに、考えてみれば初めてだな。矢くらいならいくらでも斬り落としてきたものだが、果たして銃弾に同じ事が出来るかな?」
まじまじと自分の剣を見つめ、むしろ少しわくわくとした調子で言ったウォルである。不謹慎かも知れないが、戦士としての好奇心がそうさせるのだろう。
「ばかやろう!ウォル、てめぇまじでそんなこと出来ると思ってんのか!いくらお前が化け物じみた剣士だったとしても、出来ることと出来ないことくらい弁えてろ!」
「いやいや、やってみなければ分からんぞ。元の体ならばいざ知らず、この体は信じられんくらいに速く、思い通りに動いてくれる。それに、この剣の常識外れなことはお前も良く知っているだろう。銃弾を叩き落とすくらいならば、意外と訳もないかも知れん」
「だから!そういうのは事前に練習しとくもんだ!ぶっつけ本番で失敗したらどうするんだよ!」
「やってみなければ分からないという、便利な言葉があるではないか。成功した者は皆、そう言っているぞ?」
「失敗したやつはみんな死んでるからそういうことになるだけだ!」
ウォルの声は一応真剣なのだが、彼女のことをよく知るリィやシェラなどが聞けば、この状況を楽しんでいるのが丸わかりである。
そも、ウォルが矢面に立った時点で、既に海賊達に勝ち目は無いのだ。この場にいる海賊達が歴戦の強者揃いなのは分かる。目の前に並んだ厳めしい表情の、風格も、そして迫力も、例えば惑星ヴェロニカで叩きのめした木っ端海賊達とは大違いだ。
だが、それでもなお、異世界の覇王であったウォルには、一歩も二歩も及ばないものがある。それは、華だ。言い換えれば、場の雰囲気を支配し、己の意のままにする力。つまり、ウォルが王として長年培ってきた力である。
「勝負ありだな、これは」
「そうだねぇ」
そう言ったのは、リィとルウであった。
この場でウォルの華に抗えるのは、リィの見立てでは、ラナートと呼ばれた銀髪の大男と、その隣に立った、インユェ達がヤームルと呼んだ口髭の見事な老人くらいのものか。
然り、未だ銃を構えた『花火師』ショウの肩に、白魚のような手がぽんと置かれ、
「あんたが悪い訳じゃないし、あんたの言ってることはあたし達の想いを代弁したもんだよ、ショウ。良く言ってくれた、ありがとう。それでも、ここはあんたの負けだ。最初に引き金を引けなかった時点でね」
妖艶な女の、呆れかえった声である。それは、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスの、笑いを噛み殺した声だった。
普段であればこの女海賊の言うことには一々噛みつかないではいられないショウも、肩を一つ竦めて銃を下ろした。
「……坊主、つまらねぇこと、すんじゃねぇぞ。俺をがっかりさせたら後が恐ぇかんな」
どすを利かせようとして失敗した声であった。いつの時代であっても、老人は前途の豊かな若者を嫉妬し、同時に羨望し、そしてその背中を押したがるものなのだから。
インユェは、ショウに深く一礼し、隣に立ったウォルを見た。
ウォルは真剣な面持ちで一度頷いた。それだけで、インユェは背中に羽が生えたような、そんな気持ちで足を進めることが出来た。
そして、インユェは、その男の前に立った。
「久しぶりだな、ヤームル」
「……ええ、お久しぶりです、お坊ちゃま。無事に、ウォルを連中の手から救い出されましたな。よくぞ仕遂げられました」
インユェは頷く。
互いに、もう、何ヶ月も、いや、何年も顔を合わせていないような気がした。
インユェにとってのヤームルは、自らの育ての親であり、何度も自分を助けてくれた恩人だ。あの時、隠れ家をマルゴ達に強襲された時も、自分だけが逃げようと思えば如何様にでも出来たはずである。それを、敢えて敵の注意を引きつけるために、無謀な戦いをした。一歩間違えれば、あの場所で殺されていてもおかしくなかった。今ならば分かる。ヤームルは、いつだって自分を守ってくれていたのだと。
そして、ヤームルにとってのインユェは、もっと複雑な感情の対象となる。愛娘の残した孫であり、忠誠を捧げたラナートの息子であり、それらの事実を隠して、育ての親として振る舞ってきた。
いつまで経っても甘さの抜けない少年に、苛立ちを覚えなかったとは言わない。しかし、たったの数週間も顔を合わせない間に、どうだろう、少年はすっかりと変貌を遂げていた。まだまだ隙は多い。しかし、彼の器に満たされた液体は清浄で、豊潤で、量も申し分ない。このまま成長すれば、さぞ立派な若木となり、大樹となるだろう。
その変化をもたらしたのが、インユェの背後からこちらを見つめる、黒髪の少女であることをヤームルは疑わなかった。自分にはどうしても出来なかったことをやり遂げてくれたのだろう。
ヤームルは、以前のヤームルの視線で──暖かみと慈愛の籠もった眼差しでウォルを見て、深々と腰を折った。
「……なぁ、ヤームル。こんなこと言ったらどやされるかも知れねぇけどさ、もう、俺、何も知らないがきじゃなくなったよ」
「……それは?」
「自分が何者で、どういう存在か、ようやく分かったんだ。姉貴にも、お前にも、随分苦労をかけちまった……」
海賊達には、インユェが何を言っているのか分からなかった。
しかし、ウォルやリィ達、そしてヤームルには、インユェの言わんとすることが十分に伝わった。つまり、少年は少年以外のもう一つの現し身を得たということだ。
ヤームルは、毛の先ほども表情を動かすことはなかった。ただ静かに瞑目し、天を仰いだ。
「そうですか、それは……それは……ようございましたな、お坊ちゃま」
「ああ、よかったよ。だがなヤームル。そんなことを報告するために、わざわざこの場に割り込ませてもらったわけじゃねぇんだよ」
「ええ、それはそうでしょう」
頷いたヤームルの視線は、もう元に戻っていた。鋭く冷たい、海賊のそれだ。
「お前、俺に言ったじゃねぇかよ、もう忘れちまったのか」
「……忘れたとは、何を」
インユェは、自嘲の笑いを溢す。
「俺がさ、おかしな星で拾った女の子を、人買いに売り渡すって言った時のことだよ」
インユェの後ろで、当の女の子であるウォルが、少し目を丸くした。
「拾っただけの無力な女の子を売り渡して金に換えるなんて外道のすることだ。船を売り渡しても買い戻せばいいだけだけど、品性を売り渡しちまえば二度と買い戻せねぇ。そう言ったのはお前だったよな、ヤームル」
「……ええ、確かにそう言いましたな」
「じゃあ、今のお前は何なんだよ。マルゴを殺す権利があるのか、殺す義務があるのか、そいつは知らねぇがよ、とにかく、拾っただけの無力な女の子を材料にして、ケリーさんを脅迫してるじゃねぇか。それはお前が口にした、品性を売り渡す行為と何が違うんだ」
「……」
「その上、もしケリーさんが話を無視すれば、マルゴを現物支給で部下にくれてやるだと?それこそ、俺がウォルにしようとしたこと、そのまんまじゃねぇか。お前は自分の品性を売り渡して、買い戻す算段が立ってるのか?それとも、もともと品性なんざ持ち合わせちゃいないっていう、その程度の男だったのか?」
ヤームルは、流石に少し驚いたのか、傍らに立つ、かつての友であり今の頭目である男に小声で話す。
「おい、銀星、どういうことだ。少し、俺の聞いている話と違うようだが?」
声を向けられた銀髪の男は悪びれもせず、
「海賊王をこの場所に呼びつけること。手段は全て任せる。そう言ったのはお前だ、猟犬」
ヤームルは再び天を仰いだ。ただし、今度は神に感謝を捧げるためでは決してなかったが。
大きく溜息を吐いたヤームルは、再びインユェの方へと向き直り、
「まぁ、どうやら少々手違いがあったようですが……しかし、お坊ちゃま、概ね、あなたの仰ることは正しい。私は無力な少女を出汁にして、そこにいる男をここへ招いた。その点には弁解のしようもございません」
「……なんでだ。どうして、ケリーさんをここへ呼ぶ必要がある。呼びつけて、一体どうしようっていう腹づもりだ」
「何、その点については嘘偽りを述べた覚えはございません。私には、その男の存在が受け入れ難い。その男がこの世にいること自体、その男がこの世で息をしていること自体、どうしても許せない。言葉を選ぶならば、不倶戴天ということです。だから、丁度良いこの機会に、現世からの退場を願いたいと、そう思った次第ですよ」
寧ろ優しささえ感じさせる声の調子だった。
しかし、インユェの耳には育て親の優しい声が、今まで聞いたどの人間の声よりも恐ろしく、そして不吉に聞こえた。それはつまり、ヤームルが今まで数え切れない人間を殺したことがあり、今回も本気でケリーを殺そうと思っているからだろう。
震えそうになる舌の根を必死で押さえつけ、インユェはもう一度訊いた。
「どうして、殺す必要がある」
「一言では、とてもとても……。例えば、その男が開発を推し進めたショウ・ドライブの隆盛により、海賊の時代が終わりを告げたこと。例えば、困窮し飢え疲れた海賊達を尻目にその男が栄華を極め続けたこと。何でもいい、理由をつけようと思えばいくらでもつけられる。だが、そんなものに意味など無い。最も大事なのは……ただ、俺はその男の存在が気に入らないということだ。人を殺すのに、これ以上上等な理由なんてない。そうは思わないか、インユェ」
口調が、自分に対する常のものではなくなった。
それが、果たしてどういう意味を持つのか、分からないインユェではない。つまり、もう、インユェやメイフゥの後見人であり家令であるという皮を脱ぎ去ったという意思表示だろう。
そもそも、具体的な契約や主従の誓いなど、一度だって結んだことがない。インユェやメイフゥにしてみれば、自分達とヤームルがどういう関係にあったのかすら知らない。ただ、宇宙を目指して家を飛び出した自分達のことをどこからか聞きつけ、いつの間にかそういう関係になっていただけのこと。
そう、考えてみればそれだけなのだ、自分とヤームルは。親代わりのこの男のことを、自分は何一つ知らない。どうしてケリーをこうも憎んでいるのか。何がそこまでヤームルを駆り立てるのか。何も分からないことに、インユェは愕然とした。
ただ、今しがたヤームルが挙げた理由は、きっとこの男の本心ではないだろうことだけは、確信めいた納得とともにインユェの胸に納まった。つまり、最後までヤームルは自分達に本心を打ち明けることはないだろうことを悟ったのだ。
「……つまり、俺が何を言おうと、あんたはケリーさんを殺そうとすると、そういうこったな」
「ご理解頂けたようで何よりだ」
「何を言っても無駄か」
「ああ、無駄だな」
ヤームルは、温度を感じさせない視線でインユェを見下ろした。
インユェは、灼熱の決意を込めた視線でヤームルを見上げた。
「分かった。じゃあ、説得はここまでだ。後は、力尽くでお前を連れて帰る」
そう言ったインユェは上着を脱ぎ捨て、後ろにいたウォルに向けて放り投げた。
「……お前が、俺と戦うというのか」
「そうだ」
「どうして」
「それが、俺の責任だからだ」
歩を進めるインユェの背後から、悲鳴じみた声がぶつけられる。
「バカヤロウ、インユェ、お前正気か!相手はヤームルだぞ!あたしにだって歯が立たないお前が、どうしてヤームルに勝ち目があるっていうんだ!」
メイフゥが、ほとんど半狂乱の面持ちで叫ぶ。それほどにインユェとヤームルの技量には開きがあり、そして今のヤームルは常軌を逸しているということだろう。
だから、どうした。
そんなことは百も承知だ。インユェを構成する体細胞の悉くが、幾度も幾度も自分達を痛い目に遭わせた目の前の男に対して、勝ち目のないことを声高に叫んでいるのだから。
「……どうしてそこまでする。そこの男が死んだとして、お前に何の不都合がある。袖振り合った他人の一人が、自分の人生と関わりを無くすだけのことだ。多少後味が悪かったとしても、それ以上のものではない」
「ああ、そうだな、あんたの言っていることは正しいな」
「では、何故俺に刃向かう」
「さっき、あんたが口にした理由と同じさ」
インユェははにかむように笑った。
「あんた、さっき言ったじゃねぇか。人を殺すのに理由なんて要らない、ただ気に食わないってだけで十分だってな。だから、俺もそうさ。あんたの邪魔をする理由は、ケリーさんに恩義があるとか、その奥さんにも借りがあるとか、そういうご大層な理由じゃない。ただ、気に入らないんだよ」
「気に入らない、と。それは、俺がか」
「ちょっと違う。俺が気に入らないのは、俺の部下が、俺の目の前で、俺の意に沿わない殺しをすることだ」
ヤームルの目が、驚きに見開かれる。ヤームルだけではない。ヤームルという男の技量、人格、そして恐ろしさを熟知している古参の海賊達は、一様に耳を疑う様子で目の前の少年を見た。
その視線の先で、インユェは、育ての親であり戦いの師匠でもある男を睨み付けていた。
「昔のことなんざ知ったことかよ。今のお前は、《スタープラチナ》の航海士だろう、ヤームル。《スタープラチナ》の船長は俺だ。なら、あんたは俺の部下ってことになる。そして、部下の不始末の責任は、その頭領が背負い込むってのがこの世界の習わしだ。違うか、俺の言っていることはおかしいか」
「……いえ、違いませんな」
「俺の目の届かねぇところでお前がどんな殺しをしたところで、それがお前の器量の範疇なら口出しする筋合いじゃねぇのかも知れねぇ。だがよ、俺の目の届くところで、俺の気に食わねぇ殺しをお前がするなら、俺にはそいつを止める義務がある。違うか、俺の言っていることはおかしいか」
「……」
「お前が俺の前で殺していいのは、俺のために殺すときだけだ。だから、俺はお前を力尽くでも止めるんだ」
インユェの声は、その内容ほどに、自信に満ち溢れたものではなかった。響きの端々に、未成熟な感情の昂ぶりが滲み出ており、聞く者の耳に、自分がかつて少年と同じ年頃だった時の、青臭い感情を思い起こさせる。
だからこそ、ヤームルは思い出した。かつて、自分の能力に溺れ、自分よりも優れた者などいないと勘違いをしていた時。自分の牙は誰の心臓にも突き刺さるのだといい気になっていた時。
誰かが、自分を戒めてくれた。殺すなとは言わないが勿体ない、ただ漫然と殺すなら俺のためにひたすら殺せ、その相手は俺が選んでやると、傲岸不遜な有様で言った誰かがいた。
ちょうど、目の前の少年と同じように、銀色の見事な髪をした、誰か。
「……安心しました。どうやら、あなたは私の血を、あまり受け継がなかったらしい」
「……何だって?どういう意味だ」
ヤームルは静かに首を振り、
「独り言です、お坊ちゃま、いえ……お館様と、お呼びするべきでしょうな、今のあなたならば」
そう、子の成長を喜ぶ親の表情で、ヤームルは微笑んだ。その微笑みが、インユェにとって、どれほど嬉しかったか。
ああ。今、やっと、再会出来た。
インユェも微笑み、親代わりのその男に駆け寄る。褒めてもらうために。頭を撫でてもらうために。良くやったと、良く生き残ったと、そう言ってもらうために。
「しかしお館様」
それは、やはり暖かい声だった。
暖かい声とともに、インユェの鳩尾を、重たい衝撃が貫いた。
「……えっ?」
ふと下に視線を遣ると、頭を撫でてくれるはずの暖かな手が、拳を形作り、自分の腹に深々と突き刺さっている。
横隔膜から呼吸機能が失われ、痛みと苦しみが同時に脳髄を責め苛む。自然と膝が折れ、口元から涎が垂れ落ち、目から涙が、唇から呻き声が滲み出る。
何故。そう思い、見上げようと顔を持ち上げたインユェに、逆光に遮られたヤームルの表情は見えない。
「理には力が要る。力を伴わない理に意味はない。そう、何度も教えたはずだ」
左の耳に、風を感じた。
そして衝撃。頭蓋骨の内側に、脳みそが何度も激突する。首から上が吹っ飛んだような気がする。視界が暗転し、意識が遠ざかる。
ヤームルの蹴りをまともに喰らったインユェは、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
とさり、と、少年の体が地面に横たわる、軽やかな音が響く。誰しもが、息をすることすら忘れたように、呆然とその男を眺める。
「ヤームル、てめぇぇっ!」
次の瞬間、リィ達ですら制止し得ない勢いで、メイフゥが飛び出した。
表情には激怒が刻まれ、纏った空気には殺気が込められている。瞳孔は縦に裂け、牙を剥き出しにし、振りかぶった手の先からは恐ろしく分厚い爪が生え揃っている。
決して人の姿ではない。
それはいわば虎人ともいうべき姿であり、メイフゥが受け継いだ『鳥』の異種人類の血が可能とさせた、半形態変化の一種であった。そして、ジャスミンをあと一歩のところまで追い詰めた、本気の戦闘形態であった。
怒りに我を忘れたメイフゥは、超人的な筋力でもって彼我の距離数十メートルを一瞬のうちに飛び越え、ヤームルに襲いかかった。
彼女の表情は、怒りで染まりきっている。相手が自分の肉親とも呼ぶべき人間だということなど意識の片隅にもありはしない。あるのは、最愛の弟が裏切られ、傷つけられたという一事のみ。
メイフゥは、引き絞った右腕を思いきり突きだし、ヤームルの眉間を貫こうとする。
だが、鉄の板ですら貫通しただろうメイフゥの必殺の一撃は、空を切った。
仕留めたはずだった。避けようのないタイミングだった。
驚愕が表情に表れる前の、ほんの一瞬。そして、光の粒子すらがコマ送りで見えるようなその一瞬、メイフゥは確かに、見た。
地を這うほどに低い姿勢で先の一撃を躱したヤームルの、底冷えのする視線を。
「修練の時は師匠と呼べと、そう言ったぞ」
ヤームルは全身のバネを使って一気に立ち上がり、その勢いで、メイフゥの顎に頭を突き上げた。
凄まじい激突音が響き、焦点を失ったメイフゥの顔が天井を向く。膝がかくりと曲がり、腰が落ちる。傍目にも、意識の過半を刈り取られたのが分かる。それでも、メイフゥの腕だけが別の生き物のように、ヤームルの首筋に爪を突き立てようと振るわれる。
しかし、顔色一つ変えることなく、その一撃をいなし躱したヤームルは、
「お前は、些か俺の血を濃く引き継ぎ過ぎたな」
返す左鉤突きでメイフゥの肝臓を抉り、右肘打ちで鳩尾を貫き、最後に胸骨の中央、ちょうど心臓の位置を爪先で撃ち抜いた。
一秒にすら満たない一瞬。瞬きすれば見逃してしまったであろう、一瞬。
リィやウォルの目ですら追い切れない四連撃。
一般人なら命を落とすような攻撃を立て続けに叩き込まれたメイフゥの体は、まるで自動車に衝突したように跳ね飛ばされ、格納庫の床に叩き付けられ、ぴくりとも動かなくなった。
「メイフゥ!」
悲鳴を上げるように少女の名を叫んだジャスミンが駆け寄り、体を起こす。
ボロ雑巾のようになったメイフゥの名を呼びながら、ジャスミンは意識のどこかで考えた。自分をあれほど苦しめたこの少女を、こうもあっさりと、圧倒的に叩きのめすとは、あの老人は一体何者なのか。
内心の動揺をおくびにも出さず、ジャスミンはメイフゥの状態を確かめた。戦場で培った鉄の平常心は、緊急事態だからこそジャスミンの精神を安定させてくれた。
メイフゥは完全に意識を失っていた。白目を剥き、歯を食いしばったメイフゥの顔は、それでもなお戦おうと足掻いているかのようだったが、
「くそっ、息が……!」
胸が、上下していない。呼吸が、止まっている。
絶望的な気持ちで脈をとると、案の定、心臓も止まっている。
ジャスミンはメイフゥが好んで着る民族衣装の胸をはだけさせ、心臓マッサージを加えようとしたが、諦めざるを得なかった。メイフゥの胸の中央には拳大の大きな陥没が出来ていたからだ。
胸骨が砕けている。最悪、折れた骨が心臓に突き刺さっていても不思議ではない。
「ごほ、がはっ!」
意識の無いメイフゥの体が大きく跳ね上がり、驚くほどの量の血を吐いた。飛び散った血が、ジャスミンの顔に赤い斑点を作った。
このままでは、この少女は死ぬ。間違いなく。
ジャスミンは一も二もなく意識を失ったメイフゥの体を担ぎ上げ、一目散に《パラス・アテナ》へと駆け戻った。あそこならば、きちんとした医療設備がある。
「海賊!あとは任せた!」
遠ざかるジャスミンの靴音を背後に聞きながら、ケリーが、二人の姉弟を地に沈めた男を睨み付ける。
「……ずいぶんな真似をするじゃねぇか、あんた」
それは先ほどまでの飄々とした様子ではない、はっきりとした侮蔑の込められた声だった。
「あんた、インユェとメイフゥの、親代わりだったんじゃねぇのかよ」
「……随分と可愛いことを言うじゃないか、ケリー・クーア。だとしたら……俺があの二人の親代わりだったとしたら、一体どうしたと言うんだ?」
「……そうだな、別にどうもしやしねぇさ。ただ、あんたは今、あんた自身が言うところの品性って奴を、地獄の肥溜めの中に放り捨てたんだ。それを忘れるな」
「覚えておくとしよう、お前が死ぬまでの短い間はな」
そう言ったヤームルは凪いだ視線でケリーを見ていた。息も、感情も、全てが落ち着いている。
「なら、話を戻すぜ。あんた、結局俺に何をさせたいんだ。そこが見えてねぇと思うんだがな」
「そう難しいことじゃない。俺が、お前に引導を渡してやろうというだけだ。お前は俺からこの子を奪おうとし、俺はお前が許し難い。だから、決闘だ。これが一番俺達の流儀に相応しい。そうだろう、海賊王?」