懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第九話:会談

 その少女が目覚めたのは、彼女がその病院に運び込まれてから二日後のことだった。

 彼女の怪我は、尋常のものではなかった。

 脊椎の損傷、右肩甲骨の粉砕骨折、幾本かの肋骨が砕け、内臓にも大きなダメージを負っている。普通の人間であれば間違いなく死んでいる、奇跡的に助かったとしても二度と目を覚ますことはないだろう、そういう傷だった。

 それでも、少女は二日で目覚めた。組織再生療法の加護があったとはいえ、驚異的な快復力である。

 

『……う……』

 

 年端もいかぬ黒髪の少女は、電灯の明かりを眩しがるように、小さなその手を目の上に翳した。

 長い睫に飾られた瞼がふるふると震え、ゆっくりと持ち上がる。すると、その下に隠されていた大きな黒い瞳が露わになり、最初はぼんやりとしていた焦点が、徐々に合わさっていく。

 陽光でも蝋燭でもない明かりに照らされた、平坦な天井。

 それは、彼女が初めて見る、文字通りの異世界だった。

 

『目が覚めましたか』

 

 少女の耳に優しい声が響いた。

 まだ満足に体を動かすことが出来ないのだろう、少女は視線だけを声のする方に向けた。

 そこには、白い服を着た、年配の男性が立っていた。

 

『こ……こは……』

『あまりしゃべらない方がいいでしょう。あなたの体は、まだまだ休息を必要としています』

 

 白髪の混じった、少しだけ薄くなった頭髪。そして、今まで一度足りとて怒り皺を刻んだことがないような柔和な顔。彼の顔には、どれほど恐慌に陥った患者でも一目で安心させるような、不思議な安心感がある。そう言う意味では、彼は天性の医者だった。

 彼は、その柔和な瞳の中に、出来る限りの慈愛と誠実さを込めて、言った。

 

『あなたが件の研究所でどのような扱いを受けてきたのか、それは私も分かりません。しかし、ここにはあなたを傷つける人間はいません。ですから、ゆっくりと傷を癒して下さい』

 

 少女は、傷ついた自分の隣に見知らぬ誰かがいるという恐怖にも似た焦燥感と、この医師にならば今の自分を委ねても大丈夫だという安心感の両方を同時に味わっていた。

 それらの感覚の齟齬は、いわば獣としての肉体と人としての精神の乖離から生じるものだったのだが、肉体の支配の弱まっている今の彼女には精神――というよりは魂の支配のほうが勝ったのだろう、少女は瞼を下ろし深い眠りについた。

 この傷ついた肉体を癒すには、何よりも深く眠ることが肝要だと、戦士の魂が知っていたのだ。

 再び眠りに落ちた少女を見下ろしながら、初老の医師は深い溜息を吐き出した。

 痛ましいことだと思った。特異能力者と呼ばれる人間に対して非人道的な人体実験を行っている研究施設がある、彼も長い従軍経験を持つ軍医であるからそういった噂があるのは知っていた。知っていたが、それがまさか真実だとは思わなかった。

 目の前で、安らかな寝息をたてる少女。この、天使のように無垢な寝顔が、自分自身と同じ世界で禄を食む人間の手によって穢され、地獄のような苦しみを味合わされていたのだと思うと、自分が選んだ職業が果たして人の幸せに貢献しているのか、彼は分からなくなってしまった。

 それでも、彼には分かっていることがある。この少女、彼の歳からすれば孫娘のようなこの少女の安らかな眠りだけは、自分の力の及ぶ限り守ってみせるという、己の決意の堅さである。それを信じることが出来なくなったとき、彼は自身の職を辞することになるのだろう。

 医師は一度深い溜息を吐き、少女の夢の安らかなことを祈ってから病室を後にした。

 

 その少女が次に目を覚ましたのは、さらに二日後のことだった。

 本来であれば絶対に起き上がることなどできない体であったはずだが、彼女はいとも容易く体を起こし、付き添いの看護師を驚かせた。

 

『大丈夫なの?無理をしては駄目よ』

 

 少女は、弱々しいながらもはっきりとした声で答えた。

 

『お心遣いには感謝するが、あまり体を甘やかしすぎると、いざというときに使い物にならん。これを扱うには、少しぞんざいな位でちょうどいいはずだ』

 

 どうにもその外見にそぐわぬ言葉を使いながら、空色の検診衣に包まれた自分の体を見つめる少女。その視線が、何か珍しいものを見るように、丸くなる。

 

『どうしたの?』

『うん?いや、別に何でも無いのだが……。これが新しい体かと思うと、中々に感慨深いな』

『新しい体?』

『いや、こちらの話だ』

 

 少女は苦笑した。

 

『ところで、一つだけ尋ねたいのだが……』

『私に?ええ、何でも聞いて頂戴、私の知っていることならいいのだけど……』

『ここは、天の国だろうか?』

 

 看護師は、冗談かと思った。しかし目の前の少女の瞳は存外に真剣なものである。

 看護師として豊富な経験を誇るその女性は、気の毒そうな視線で、ベッドにちょこんと腰掛ける少女を見遣った。精密検査では分からなかったが、もしかしたら頭部にも何らかの障害が残ってしまったのだろうかと訝しんだのだ。

 

 

 共和政府の首脳陣は、突然大雨に襲われた蟻の巣の働き蟻のように、卒倒するほどの恐慌に襲われた。その中心にいなければならない連邦主席などは、己の知るありとあらゆる語彙能力を発揮して、神に向かって恨み言を吐き続けたほどだ。

 発端は、一人の少女である。例の、三年前の事件を発端とした研究所閉鎖に関する一連の騒ぎの中で発見されたその少女は、研究所跡に赴いた調査員六人のうち五人までも半死半生の重傷を負わせた上で、最後の一人をやはり手酷く痛めつけ、やっとのことで保護、というよりは捕獲された。

 見た目は、ようやく中等教育にさしかかった程度の、か細い少女である。しかし軍隊からの出向というかたちで配属された調査員をいとも容易く戦闘不能にさせたことから、研究対象となっていた特異能力者の生き残りの可能性が高いと推測された。それ故、彼女を『保護』するためには鉄格子と拘束衣が必要なのではないかという意見もあったが、少女の担当となった医師がそれを強く拒絶し、自分の責任のもとで通常の患者と同じ処置をすると言い張った。

 その少女が本格的に目覚めたのは保護されてから四日後の事だったが、怪我の回復は順調であり、調査員から聞き取った情報と異なり意外に理性的な人格であるように思われたため、その直後から少女に対していくつかの質問調査が行われた。

 

 結果、いくつもの事実が判明した。

 

 少女の名前は、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。

 今から十三年前に研究所に収容されたこと。

 以来日に当たることもなく人体実験の被験者となっていたこと。

 それらの証言を元に研究所跡に残された資料を分析した結果、驚くべき事が判明した。

 その研究所に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンという少女は確かに存在した。残された断片的な記録が事実であるならば、彼女は僅か一歳の時に研究所に収容され、十年間も人体実験のサンプルとして供され続けていた。特異能力者への人体実験は、その徹底した非人道性から極めて過酷なものとなることがほとんどで、それ故に彼らの耐用年数も平均すれば一年から二年程度しかならない事が多い。そのことを考えれば、彼女は驚異的ともいえるほど長持ちしたサンプルだったようだ。

 しかし、今から三年前、例の事件をきっかけとして当該研究所が閉鎖される直前に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンはその死亡が記録されている。そして彼女の体は解剖され、標本として薬品に漬けられ、永久保存されているはずだった。

 ならば、今、彼らの前で旺盛な食欲を発揮して病院食を平らげていく、この少女は一体何者なのか。

 まず、少女の毛髪から採取したDNAとエドナ・エリザベス・ヴァルタレンのDNAとの照合が行われた。

 照合は一切の事情を知らされていない第三者機関に依頼されたが、その結果はクロ。分析した二つの細胞の持ち主は同一人物であるという無慈悲なものであった。

 では、死亡診断のほうが誤りで、彼女は密かに生存していたというのだろうか。しかし、そうだとすれば彼女はどのようにして三年間もの時をあの地下で生きてきたのか。緊急用の食料は確かに存在したが、一人の人間が三年も生きていくことが出来るほどのものではなかったし、第一消費された緊急食料は少女の証言通り二週間分程度のものであった。

 密かに外部に脱出していたとするならば、何故今になって彼女は忌まわしき記憶しかないはずの研究所に戻ったのか。それに、研究所の外部からの封鎖は完璧であったし、地下二階における研究ブロックと一般ブロックを区切る頑丈な扉は、ごく最近に『内側から』とんでもない力で強引にこじ開けられていたのだ。これは少女の証言と完全に一致する。

 また、研究所の奥深くに陳列されていた被験者の体細胞サンプルの中に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンとラベルを貼られた瓶が数多く存在したのは事実である。事実であるのだが、その中身はいずれも空であった。無論、ここ最近に誰かが動かした形跡は無い。こっそりと持ち出して中身を回収したとしても、積もった埃までも元通りにするのは著しく困難だし、そんなことをする意味がない。最初から空だったという可能性も無いではないが、では誰がそんなことをする必要があるのか。その空の瓶以外は、全てが憐れな被害者の臓器や眼球などでいっぱいだったというのに。

 どのような仮説を組み立てても、どこかで必ず齟齬が生じる。関係者は四次元のパズルを組み立てているように錯覚すらした。

 そんなふうに、誰しもが首を傾げていたところに、更に驚くべき情報が伝わった。

 少女は、自分とエドナ・エリザベス・ヴァルタレンが別人だというのだ。自分は、彼女の体を借り受けているだけで、彼女とは別の人間だ、と。

 報告を受けた医師達は、痛ましそうな表情こそ見せたものの、だからといって驚愕に顔を歪めることはなかった。

 強い肉体的な苦痛を長時間に渡って受け続けた人間が、自分の中に別人格を作ることは決して珍しいことではない。

 解離性同一性障害、いわゆる二重人格と呼ばれる人格障害の一種である。

 人の精神は、その肉体に比べて遙かに複雑であり、癌をはじめとした一昔前の難病にはある程度の治療の目処がついている今日においても、特定の精神疾患には有効な治療法が見つかっていないことが多い。解離性同一性障害もその例に漏れず、未だメカニズムの解明されていない難病の一つである。

 当初はこの少女もそのケースだと思われたが、彼女を診察した精神科の女医は、首を捻った。

 この少女が、精神疾患を患っているようには、どうにも思えないのだ。

 まず、精神病に罹患した患者特有の、不安定な感情表現というものが感じられない。加えて、その少女の人格が、どうにも『普通』過ぎる。少なくとも、今までに彼女が診察してきた精神病患者の、どのような類型にも当てはまらない。

 解離性同一性障害によって生まれた交代人格は多くの場合、その人格ごとに何かの役割、抑圧された精神活動を表出するための傾向を持っている。例えば攻撃性を引き受けた暴力的な人格や、逆に痛みを引き受けるため生まれた人格などである。しかし女医と話す少女の人格には、そういった偏った指向性がないばかりか、十四歳の少女とは思えない程に成熟した、威厳に近いものまで漂っている。

 それに、俗には『二重人格』などと呼ばれるこの症例であるが、その実、人格が2つしか存在しないことは稀であるとされる。にもかかわらず、女医の見たところ目の前の少女には、今の人格と主人格以外、他の交代人格は無いように思われるのだ。

 それらの点を訝しんだ女医が尋ねたところ、少女は自身を異世界の王だと名乗った。

 通常であれば思春期の少女に特有の夢想癖の進行したものかと疑る女医だったが、それにしては彼女の語る異世界のディティールが鮮明すぎる。また、王としての人格を与えられた割には、尊大さや居丈高さといったものが感じられない。不自然なほどに『自然』なのだ。

 女医は、おそるおそるといった調子で尋ねた。

 

『では、あなたはデルフィニアという国の王だというのね』

『ああ。正確には王だった、という方が正しいのだろうが』

 

 黒髪の少女は、やはりその容姿にはちっとも相応しくな口調で答える。

 女医は更に尋ねた。

 

『じゃあ、その王様が、何故このようなところに?』

『ふむ。あちらの世界では、俺は一度死んだ。それは間違いのないことだと思うのだが、少々心残りがあってな。それで運良く天の国、いや、こちらの世界に来ることが出来たのではないかと思っている』

『心残り?』

『会いたい人がな、いるのだ』

 

 少女は、女医がはっとするような微笑みを浮かべて、言った。 

 彼女は、自分が気圧されているのを悟った。目の前にいるのは、少なくとも精神病を発症した十四歳の少女ではない、そんな気がした。

 

『……じゃあ、その人の名前を教えて貰える?』

 

 少女は一瞬思案する顔をした後で、言った。

 

『……グリンディエタ・ラーデン。もしくは、ルーファセルミィ・ラーデン、それともルーファス・ラヴィー。ひょっとしたらこの世界は彼らの世界ではないかと思うのだが……』

『その人達は、あなたにとっての何なの?』

 

 少女は、何のためらいもなく言った。

 

『グリンディエタ・ラーデンは、俺の同盟者であり配偶者だ。ルーファセルミィ・ラーデンとルーファス・ラヴィーは同一人物だが、彼は妻の相棒であり俺の友人だ』

 

 その日の診察は、少女が疲れた様子を見せたのでそこで終わった。

 精神科医のカルテを見た病院の院長は、少女が口にした名前を病院に直結している政府の電子脳へ照会した。無論、ただの戯れである。有効な返答を期待してのことではない。

 しかし、院長の予想、もしくは希望を裏切るように、機械は応えた。

 

『該当有り。しかし第一級政府機密につき、照会には最高評議会の認可が必要である。』

 

 唖然とした院長は、上司に直通の内線番号をプッシュした。

 

 

 事の経緯についての報告を受けた連邦主席マヌエル・シルベスタン三世が発狂しそうになったとしても無理もあるまい。

 彼の記憶に未だ新しいセントラル星系破壊未遂事件。冗談のような話だが、星系一つを破壊する――しかも人口十億を数える有人惑星を含む――という前代未聞の凶行を引き起こしかけたのは、見た目には優しい風貌のたったひとりの青年であり、それを未然に食い止めたのは年端もいかない少年である。

 黒髪に青い瞳を持つその青年の名を、ルーファセルミィ・ラーデン。『神の一族』とも呼ばれるラー一族の若者であり、彼らの中でも異端視され、そして最も恐れられる存在である。

 怒り狂った彼の暴走をすんでのところで食い止めた、流れるような金髪に緑色の瞳を持つ少年の名前が、グリンディエタ・ラーデン。詳しい経緯は分からないが、ルーファセルミィ・ラーデンの相棒であり、この宇宙で唯一、彼と同等の――少なくとも彼を止めうるだけの力を持った人間の少年だ。

 その前代未聞の事件が一応の収束を見たあとで、一様に十歳は老けたように見える政府首脳は、彼らのことを『歩く超新星爆発』、『呼吸するブラックホール』と密かに名付けて、共和政府の下位機関について、今後一切その二人及び二人の周囲の人間に関わることを禁じた。

 それは異例とも呼べるほどに強権的な禁止であった。万が一彼らを研究材料にしようと試みる機関があれば、それが公的なものであると私的なものであるとを問わず、連邦政府はその軍事力の全てを注ぎ込んででも無謀すぎる野望を阻止するだろう。そうでなければ、今度こそ惑星セントラルは全ての生命を巻き込んで宇宙の塵となるのだから。

 

 とにかく、あれらは人類の手に余る危険物なのだ。

 

 しかし、希望がないわけではない。

 彼らは究極の危険物であるには違いないが、触らぬ神に祟り無しとあるとおり、こちらから要らぬちょっかいをかけない限り暴走することはないらしい。

 そう割り切ることで一応の精神的均衡を取り戻していたマヌエル・シルベスタン三世であったが、彼も有能な政治家である。彼の裁量の範囲で打つべき手は打っておかないと安心できない。だからこそ三年前に封鎖した研究機関も含めて、違法な人体実験に手を染める研究機関の一斉捜索及び閉鎖に踏み切ったというのに、何故そんな自分がこんな目に遭わなければならないのか。

 惑星レダのアカシャ州に設置された、政府公認の特異能力者研究機関。研究と言えば聞こえはいいが、要するに人体実験場である。故に、三年前の連邦第五惑星大陸沈没事件の直後、最優先で閉鎖された研究機関の一つでもある。

 にもかかわらず、今になってその封鎖された研究所から発見された少女、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。

 なんとその少女が、例の二人の知り合いだというのである。

 しかもその言葉を信じるならば、彼女はグリンディエタ・ラーデンの妻であるという。

 悪夢だ。マヌエル・シルベスタン三世は思った。

 過ぎてしまったこととはいえ、自分達はあの『歩く超新星爆発』の愛する人間を、人の尊厳を奪った上で実験動物として鎖に繋ぎ、その体を十年間切り刻み続け、記録を信じるならばその結果として殺してしまったというのだ。

 報告によればその辺りの事実関係に納得のいく説明ができないらしいが、おそらくは『あの一族』の不可思議な能力の恩恵で生き返ったのだろう。

 しかし、生き返ったからといって、そのことによって過去の事実が消え去れるわけでは勿論ない。

 当然、研究所に十年間収容され続けた少女とあの少年がどうやって結婚するのかという疑問がないわけではなかったが、『あの一族』を前にして常識という概念がどれほどに儚く脆いものかを痛いほどに思い知らされた彼にとって、その程度の事実は心の拠とはならない。

 その上、今回調査が行われた際、彼女は調査官の一人によって生死の境を彷徨うほどの重傷を負わされ、四日間も意識不明のまま入院を余儀なくされたという。

 

 もう、笑うしかない。

 

 共和宇宙の最高権力者は、青ざめた顔に乾いた笑みを貼り付けながら、呟いた。

 

『さて、これだけのことをしておいて、惑星一個で勘弁して貰えるのだろうか』

 

 彼は自分の執務室に響いたのは、ほとんど絶望に近い響きであった。

 もう、全ての重責を放り出して自宅に帰り、暖かいベッドの中で夢に逃げ込みたい彼だったが、政府の最高責任者たる自分が逃げだしてしまっては事態の悪化を招くだけである。それに、今眠ったとしても悪夢しか見ることが出来ない気がした。

 彼は、政府首脳の緊急招集を補佐官に告げた。

 

 

 政府首脳が招集連絡を受けたのは深夜のことだったので、集った面々の顔は一様に不満と眠気に満ちていたが、怠惰とも傲慢とも呼べるその表情は主席の報告を聞いて一気に吹き飛んだ。彼らの脳裏に、黒い天使によって刻みつけられた、あの忌まわしい記憶が蘇ったのだ。

 

『あ、あのくつうを……じゅ……じゅうねんかん、ですか……?』

『十年だ。我々は、あの少年の配偶者を、十年間切り刻み続けた』

 

 あの二人に『我らの与り知らぬことだ』という言い訳が通用しないことは前回の一件ではっきりしている。無論、自分達が政府首脳となる前のことだから、と言ったとしても、火に油を注ぐ結果にしかならないことも間違いあるまい。

 

『今回君たちに集まってもらったのは、我らの、というよりは人類全体に対する未曾有の危機を引き起こしかねないこの事態に対して、有効な解決策を導き出すためだ。忌憚の無い意見を述べて欲しい』

 

 述べて欲しいと言われても困るというのが全員の正直な意見であったし、それは主席自身が誰よりも分かっていた。

 有効な解決策などあるはずがないのだ。

 有形無形の脅迫で黙らせるのは不可能だ。彼らの力は全人類がその軍事力を結集したとしても到底及びもつかないものだということは間違いない。力でもって彼らを押さえるのは不可能である。

 では、残る手段は限られている。

 全てを明らかにした上で許しを乞うか、それとも全てを闇に葬ってしらを切り通すか、だ。

 

『もし彼らに事の経緯が伝わった後になって頭を下げたとしても逆効果でしょう。今となっては、一刻も早く彼らに真摯な謝罪の意志を伝えるのが最も得策なのでは?』

『しかし、前回の彼らの強固な態度を覚えているでしょう。彼らには、恫喝や威嚇はもちろんのこと、利をもって籠絡したり懐柔することも通じない。つまり、交渉のあらゆる常識が通用しない。そんな相手の怒りをどのようにして宥めるというのだ?』

『かといって、全てを隠すなど不可能でしょう。もしもあの二人が例の不思議な力を使えば、今すぐにでも彼女を取り戻すことが可能なのですぞ?』

『言いにくいことだが、彼女一人の命と全人類の命を天秤にかけることは出来ん。今まで彼らが件の少女に気づかなかったところから考えると、彼女と例の少年とは、いわゆる通常の夫婦とは違うかたちの婚姻をしているのでしょう。少なくとも、二人が常に一緒にあるという、我々にとっての婚姻ではないはずだ。ならば、もう一度彼女がこの世の人でなくなっても、おそらく気がつかないのでは?』

『危険すぎます。もしもそのことが彼らの耳に入れば、それこそ人類が滅びるほどの損害を覚悟しなければならない。それに、今まであれほどの虐待を受け続け、折角この世に帰ってきた少女を再び亡き者とするなど、許されることではないと思いませんか?』

『そもそも、謝罪の意志を伝えるというが、その役は誰が引き受けるというのだ?言うまでもないことだが、謝罪の意志を伝える人間は真っ先に彼らの怒りに晒されることになるぞ。私は御免だ』

 

 喧喧諤諤たる議論が行われたが、意見は全くまとまる様子を見せない。そもそも、恐慌状態に陥った精神でまともな結論を導き出せというのが無茶なのだ。

 それでも深夜から行われた、おそらく昨今において最も真摯な議論は、途中何度も休憩を挟みながら夜明けまで行われたが、結局議論は建設的な方向にまとまることはなかった。おおかたの予想通り、最終的な決断は、最高責任者たる連邦主席に委ねられるかたちとなった。

 だいたいこのような結果になるのではないかと予想していた彼だったが、これで一応の体裁はつけた格好になる。あとは、自分が決断を下すだけだ。しかし、その『だけ』のことに、彼の胃はキリキリと痛み、声にならない悲鳴をあげ続けていたのだが。

 その日のうちに彼は、例の少女に面会を求めた。無論、彼女を亡き者にするためではない。そんなことをするために彼が直接足を運ぶ必要など、どこにもないのだから。

 

 

 主席が立ち入ったのは、精神に優しい薄緑色に統一された、落ち着いた病室だった。簡素なベッドと、その脇に置かれたサイドボード以外に目立った家具は存在しない。

 普通の病室だ。ただ、精神病の患者に多い発作的な自殺を防止するために、鋭い刃物や長い紐の類が徹底的に排除されている点が、他の病室と違うと言えば違っていたかも知れない。

 それでも、やはりそこは普通の病室だった。少なくとも、この部屋の主がこの共和宇宙の命運を握っているなど、主席たる彼以外の者には思いもよらないだろう。

 その少女は、ベッドの上で体を起こし、何やら真剣に本を読んでいた。窓ガラスを透過した初夏の陽光が、少女の黒絹のような髪の上を滑り落ちる。怪我の影響だろうか、元々白かった肌には更に血の気が薄く、触れれば割れる薄っぺらい陶磁器のような印象ですらある。

 主席は、よくできた一枚の絵画のような情景に息を飲み、しかし乾いたその喉を酷使して、出来る限り穏やかな声で話しかけた。

 

『早かったですかな』

 

 一心不乱に字を読み進めていた少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 壁に掛けられた時計を見る。長針と短針は、今がちょうど約束の時間であることを少女に教えた。

 

『いえ、時間通りでしょう。それよりも、このような格好で失礼します。本来であればもっとまともな服を着るべきなのでしょうが、なにぶん病人扱いが度を過ぎるようでして』

 

 少女は、診察衣にくるまれた自分の体を見て、憮然としながら言った。

 確かに、この少女はもっと見栄えのする格好をして、その上に薄化粧の一つでもすれば極上の美少女に化けるだろう。

 その姿を見ることの出来なかった主席は、内心で少しだけ残念がりながら、少女の下手な冗談に僅かだが頬を綻ばした。

 

『初めまして、ミス・ヴァルタレン。私はマヌエル・シルベスタン三世、共和連邦の主席を務めております』

 

 この宇宙の最高権力者たる彼が、見ず知らずの少女に話しかけるには少々堅苦しく、そして緊張した様子であった。だが、ベッドから体を起こしたこの少女が『あの少年』の妻であるならば、普通の人間のはずがない。まして、彼女は特異能力者であり、しかも五人もの軍人を病院送りにしているのだ。見た目通りの少女であるはずがないのである。多少の緊張はやむを得ざるものだろう。

 黒髪の少女は本をサイドボードに仕舞い、賓客に相対した。その漆黒の瞳には、見知らぬ大人が突然自分を訪ねてきたことに対する恐れや驚きなど、微塵も感じられない。主席の身分は事前に伝わっているはずだから、彼女は、自分が今話しているのがこの国の、というよりもこの宇宙の最高権力者であることは承知しているはずである。それにも関わらずこの落ち着き様、やはり普通の少年少女ではありえないだろう。

 

『初めまして、シルベスタン卿……とお呼びして失礼でないのかな?』

『結構です、ミス』

『かたじけない。まだ、この国の風俗が今ひとつ掴み切れていないのだ。失礼があればご指導頂けると有難い』

 

 少女は僅かに姿勢を正し、言った。

 

『確認したいのだが、シルベスタン卿。あなたは、一体誰に会いに来たのだろうか?ウォルフィーナに会いに来たのか、それとも彼女の交代人格とやらである俺に会いに来たのか?』

 

 少女は笑いを噛み殺すようにしながらそう言った。

 主席は、息を飲んだ。目の前の少女に、はっきりと圧倒されていた。

 彼は、かつて金色の少年と相対した際、その気魄に正面から敗北した。彼の長い人生の中で、初めてと言っていいほどに決定的な敗北だった。自分という人間の器が目の前の人間のそれに及ばないということを、他でもない自分自身が認識してしまったのだ。

 あの時の少年の、燃えるような緑色の瞳に感じた途方もない威圧感。今自分の前にいる、やはり年端もゆかぬ少女の漆黒の瞳にも、それと同じものを感じる。ただ、種類は違う。少年の瞳から放たれたものを帝王の気魄とでも呼ぶならば、この少女のは賢王のそれだ。彼ほどに激しくも熱くもないが、しかしその分静かに澄み渡っていて、しかし底が見通せない。

 この瞳は、きっと鏡なのだと思った。こちらが下手な策を講じて少女を罠に嵌めようとすれば、おそらくはこちらが下手な道化を演じる羽目になる。しかしこちらが真摯な態度で臨む分には、彼女も真剣にこちらの言い分に耳を傾けてくれるだろう。

 主席は、自分の判断の正しかったことを悟った。

 

『……その前に、まずあなたのお名前を教えて頂きたいのですが……』

 

 少女は一度頷いて、その可憐な唇を開いた。

 

『非礼をお詫びする。俺の名前はウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。この世界ではない世界の王を務めていたものだ……と俺自身は思っているのだがな』

『王を務める?それは少しばかり妙な表現ではないですか?私が歴史で学んだ王というものは、君臨するものではあっても務めるものではなかったような気がしますが……』

 

 主席の言葉に、少女は苦笑いを浮かべた。何か、思うところでもあったのかも知れない。

 

『シルベスタン卿の仰るところは一々ごもっともだが、俺は自分から望んで王座についたわけではない。あれは、黄金で出来た牢獄のようなものだ。食うには困らんし誰しもが傅いてくれるが、しかし野山を駆け巡るための足には知らぬうちに特大の錠が嵌められている。王座に価値を見いださないわけではないが、しかし俺には相応しいものではなかった気がするな』

 

 朗らかに笑う少女を見ながら、これをただの人格障害で片付けることの出来る医師連中の脳天気さを、主席は心底羨ましく思った。いや、事情の知らない人間であれば、そうとしか思えないのだろうか。

 これは、ただの交代人格などではあり得ない。間違いなく、『あの一族』が関わった怪異の一つだ。

 とすれば、この少女の言葉、異世界の王であったという言葉に嘘はあるまい。

 主席の汗ばんだ手が、知らずにネクタイの結びを締め直していた。

 

『……ではあなたのことは、陛下とお呼びした方がよろしいのでしょうか?』

『いや、あちらの世界でも俺は楽隠居の身だ。既に王と呼ばれる身分ではなかった。それに、聞いたところではあなたこそこちらの世界の王なのだろう?あまり畏まらないでいただけると有難い』

『王とはまた違うものなのですが……あなたの理解ではそれが一番近いと思います』

『そうか、そこら辺もご教授頂けると有難いのだが……。とにかく、まずは椅子にでも掛けて欲しい。俺は生憎、まだ立ち上がることが出来ん。卿にだけ立たせていると、どうも俺の方が落ち着かん』

 

 主席は、少し慌てたような調子で折りたたみ椅子を脇から引っ張り出し、そこに腰掛けた。そうすることで、ようやく二人の視線はほとんど同じくらいの高さになった。

 

『では、これからあなたのことをデルフィン卿と呼ばせて頂きたいと思います。それでよろしいでしょうか?』

 

 名前の呼び方に拘るのは、以前、例の少年から手厳しい洗礼を受けているからだ。

 

『ああ、それで構わない。俺としてはもっと砕けて頂いてもかまわないのだが……』

 

 主席は苦笑した。目の前の座っているのは見目麗しい少女であるはずなのに、まるで自分と同年代かそれより幾分年上の、しかも男性と話している気分になってしまうのだ。

 そして彼は、いつの間にかこの少女に心引かれている自分に気づいた。無論、異性としてではない。彼には幼女嗜好の性癖は無かったし、今だって性的な意味で魅惑されているわけでは決してない。しかし、この少女と話していると心安らぐ自分がいる。この少女に何もかもを委ねてもいいのではないかと思う自分がいる。彼女という人間に惹かれている自分がいるのだ。

 これが王というものなのだろうか。それとも、この少女が特別なのか。

 共和宇宙にはいまだ王制を存続させる惑星がいくつか存在するが、そのいずれもが形骸化し、かたちだけの専制君主となった王制である。だから、本当の意味での王とは初めて顔を合わせる彼であった。

 しかし、彼は世間話を楽しむためにここまで来たのではない。誘惑とも呼べるその感情に逆らうように、彼は固い声を出した。

 

『今日、このようなかたちであなたの平穏を騒がせてしまったのは、他でもありません。私、いえ、私を含む連邦政府の総意として、あなたにお願いしなければならない事があるのです』

『お願いと言われても……。見ての通り、この世界の俺には何の力もありはしないが?』

『いえ、あなたにしか出来ない事なのです。グリンディエタ・ラーデンの妻である、あなたにしか』

 

 その名を聞いて、少女の眉目が突然に強張った。柔和を意味していた漆黒の瞳が、全てを打ち砕く黒曜石の鋭さを帯びる。それどころか、少女の背後に真っ赤に燃え盛る火焔があがったようですらあった。

 その火勢に炙られた主席の全身から、冷たい汗が噴き出した。

 戦場において兵を率いたことのない主席には分からなかっただろう。それは、戦う者、戦士のみが帯びることを許された、何物をも寄せ付けぬ、迸るような覇気であった。

 数瞬、眉を寄せて目を閉じた少女は、ゆっくりと言った。

 

『……その名を、知っているのか』

『……はい、存じ上げております』

 

 実は、主席の言葉には重大な勘違いが一つ含まれていたのだが、少女は敢えて訂正しようとは思わなかった。彼の妻がこちらの世界では男性であること、また今の自分が少女となっていること等を勘案した結果、その誤解を解くのに不要な労力を要すると判断したからだ。

 そこまでを考えて出来た微妙な間だったが、立場が下にあるものにとって、それだけでも酷く精神を削り取る。完全に気圧された主席は、喘ぐようにそれだけを答えた。

 対する少女は、薄く目を開き、一際鋭い視線で主席を睨みつけた。主席の心の内を抉るような、鋭い視線だった。

 やがて再び目を閉じると、少女は深い息を吐き出した。溜息とも違う、満足の吐息とも違う、いかにも曖昧な吐息であったから、それがどのような感情によってもたらされたものか、主席には分からなかった。

 瞼を閉ざしたままの少女が、呟くように言った。

 

『では、シルベスタン卿の御用向きは、あれに関することか』

『……はい。まずは、こちらをご覧ください』

 

 主席は、少女に一束の書類を手渡した。

 

『こちらの文字は読めますかな?』

『ああ、この体がそういったことは覚えてくれているようだ。しかし、当然わからぬことも多いと思うが……』

『質問して頂ければ、ご説明させて頂きましょう』

 

 少女は無言でその書類の束を繰った。時折意味の分からない単語がでてくると、その一々を主席に質問し、彼もその質問に良く答えた。彼らはまるで入院中の令嬢と、その学習を補助するために派遣された家庭教師のようでもあったが、そうだとすれば少女はとても飲み込みの早い生徒だった。

 彼女がその書類を読み終えるのに、それほどの時間はかからなかった。

 

『……信じがたい話だが、確かにあの方ならば何ができてもおかしくは無いと思う。神か悪魔か、あれはそういう雰囲気の御仁であった』

 

 少女が読んだのは、数ヶ月前に惑星セントラルを騒がせた恒星の異常活動、その真相を記した機密文書であった。当然そこには、黒い天使が恒星を爆発させることで一つの星系を破壊しようとしたこと、彼を止めるために金色の天使が奔走したこと、そして彼らをその事件に巻き込むきっかけとなった、三年前の事件についての詳細が記されている。

 少女は無言でその書類を主席に返却した。さすがにこの世界においても、こんな突拍子もない事実は表沙汰になるべきものなのではないことを悟ったのだろう。

 

『シルベスタン卿。あなたがここに来られた理由も、朧気ながら理解できた』

『恐れ入ります』

『俺の存在が彼らに知れることで、再びこのような事態が起きることを憂いておられるのだな』

 

 主席は静かに首肯した。

 

『我々は、この未曾有の危機を如何にして乗り切るか、議論を重ねました。結果、一切合切の事実を審らかにし、許しを乞うべきであるという結論に至ったのです』

『賢明な判断だ』

 

 少女はそう言った。

 そして、背中まで伸びた黒髪を一度掻き上げ、続けた。

 

『であれば、どうして俺などの病室を訪問されるのか。今は一刻も早く、彼らのもとに赴き、事実と謝意を伝えるべきでは?』

『それはもっともなのですが……』

 

 主席は如何にも人好きのする笑みを浮かべて、言った。

 

『あなたも御存じのことかと思うのですが……、彼らはその、何と言いますか、少々頑固なところがありましてな。私などが行っても門前払いをされるのがオチでしょう。それどころか、彼らの怒りに油を注ぐ羽目にもなりかねません』

 

 ごほん、と咳払いをする。そして、彼は精一杯の誠意を込めて、自分が少女のもとを訪れた本来の目的を語った。

 

『なので、あなたから彼らに、我々の謝意を伝えて頂きたいのです。彼らは我々をちっとも信用してくださらないが、あの少年の妻であるあなたの言葉なら耳を貸してくれるでしょう。我々が彼らとの約束を誠実に守ろうとしていることは、あなたも御存じのはずです』

『なるほど、卿が謝罪に赴けば、彼らの怒りを買うか』

『はい、そういうこともあろうかと……』

『では、卿らがしたことが、あの二人の怒りを買うことであると、そういう自覚もあるわけだ』

『……はっ?』

 

 主席は、己の言葉を最後まで言い切る前に、煮えたぎるような感情の込められた言葉をぶつけられた。

 つい先ほどまで吐き出そうとしていた言葉の束を丸ごと飲み下し、更に灼熱の言葉をぶ飲み下す羽目になった彼は、目を丸くしながら呟いた。

 

『あ、あの、デルフィン卿?一体、何のことでしょうか……?』

『今さら惚けるつもりか?貴様らが彼女に、この体の本来の持ち主に何をしたか、知らんとは言わさんぞ』

 

 先ほどまで穏やかだった少女の口調が、一変していた。

 主席は、安っぽいビニール椅子から転げ落ちそうになったのを何とか堪えた。

 呼吸が、平時のそれと異なる。喘ぐようにしか酸素を取り込むことが出来ない。

 目の前の少女が、恐ろしい。今すぐにここから逃げだしたい。

 これは、かたち通りの少女ではない。絶対に違う。

 これは、獅子だ。あの少年と同じ生き物だ。先ほどは深い知性と無限の暖かみを感じさせた黒い瞳が、あの燃え盛るエメラルドの瞳と同じく、漆黒の炎に猛っている。

 彼は、質の良いシャツの背中が冷たい汗で重たくなっているのを自覚したが、ここで引くわけにはいかない。彼の双肩には、惑星セントラルの、いや、全人類の生命が乗りかかっているといっても過言ではなかったのだから。

 

『あの、それはわたくし共の与り知らぬところで為された凶行でして……』

『その言い訳が、俺の同盟者に通用したのか?』

 

 主席は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 正直に言えば、彼は油断していた。ベッドから体を起こした病弱そうなこの少女は、きっと彼らよりも与し易い人間だと思い込んでしまっていた。

 とんでもない、これは虎だ。それとも獅子だ。

 彼は無防備に密林を歩き、猛獣の尻尾を踏みつけてしまっていたのだ。

 

『そ、そのてんについては……はい、ふかく、ふかくはんせいしております……』

 

 青ざめた表情のままそういった主席だったが、しかし黒髪の少女は彼の存在自体を軽んじるような、嘲りの笑みを浮かべて言った。

 

『にも関わらず、何の臆面もなく俺の前に顔を出せるとはな。貴様らの面の皮は相当に分厚いらしいが、その分脳味噌が少ないか。なるほど、あのように恥ずべき行為に及ぶこともできような』

『陛下、陛下の仰ることは至極ごもっともかと……。しかし、この時代に生きる全ての人間があのように卑劣なものばかりではありません。そして、今の我らには過去の過ちを悔い、詫びることしか出来ないのです……』

 

 今すぐ床に体を投げ出して、王者の許しを乞おうとする遺伝子の命令を押さえつけ、彼は震える声でそう言った。

 以前、あの少年と会談した際もそうだったが、彼に出来ることと言えば再発の防止を約することと過去の過ちを詫びること、これ以外に為せることは無い。そしてあのときは彼と少年の間を取り持ってくれた第三者が存在したが、今回、この病室にいるのは彼自身と、彼の目の前で静かな怒りを滾らせる、少女のかたちをした王者だけなのだ。

 その王者が、言った。

 

『覚悟は、あるのか?』

 

 主席は、ほとんど失神しそうになりながら、答えた。

 

『わ、わたしは、いつでもこの職を辞する覚悟なら……』

 

 それはかつて金色の狼たる少年に言ったのと同じ言葉であったが、しかし返ってきたのもその少年と同じ、もしかするとより冷淡な侮蔑の笑みだった。

 

『その程度のものを覚悟とは言わん。俺が言っているのは、己の命を捨てる覚悟だ。それとも、己に親しい誰かの命を奪う覚悟だ』

『い、いのち……』

『そうだ。王の失政とはそのようなものだろうが』

 

 少女は、その瞳にはっきりとした激情を宿しながら続ける。

 

『俺の治めた国ではな、国の行いの責任は全て王の責任だった。王は己の過ちを、己の命をかけて償った。言い換えれば、王とは決して過ってはならぬものだった。如何なる過ちも、全てが己の思い通りであると振る舞わねばならなかった。ならば、その王が誤ればどうするか。国が戦に敗れれば王は死なねばならない。それどころか、死ぬために生き延びなければならない。政を間違えれば、その責を誰かに取らせねばならない。何故なら、王は絶対だからだ。そして、その責とは即ち死だ。貴様に、その覚悟はあるのか?』

 

 無茶苦茶な理屈だ。少なくとも、少女の前に座った、青ざめた顔をした人はそう思った。

 

『そ、そのように前時代的な……』

『忘れたか。俺は、貴様の言う前時代からやってきたのだ。その俺を納得させたければ、俺の理屈で筋を通せ。それが、この時代の王たる貴様の、最低限の責任だろうが』

 

 この会談の最中に五歳は歳を取ったように見える主席は、重たく濡れたハンカチで額の辺りを拭い、泣きそうな表情を浮かべた。というよりは、彼は泣き出す寸前であった。なのに彼が無様に涙を流さずにすんだのは、目の前の少女に対する意地などではなく、既に涙を流すほどの心の余裕すら無くなっていたからだ。

 だから、彼の口を割ってでたのは、末期の息にも近い呟き声だった。

 

『わ、わたしに、死んで詫びろと、そう仰るのですか……?』

『それとも、この体が受け続けた苦痛を、一度味わってみるか?』

 

 少女は、不吉な笑みを浮かべた。

 それを見た主席は、これ以上ないというくらいに顔を青ざめさせて、首を横に振った。首が千切れ飛ぶのではないかというくらいに猛烈な勢いで振った。彼は以前、黒い天使に、三年前に金色の少年が味わった苦痛のほんの一端を味合わされただけで、発狂寸前までに追い込まれたのだ。己の死を希ったのは、あのときが初めてだった。

 それを、十年間。最早、悪夢と、いや、地獄と呼ぶことすら生温い。もしも自分が、死か、それともあの苦痛を味わい続けるかのどちらかを選ばねばならなくなったら、間違いなく前者を選ぶつもりだった。

 主席は、安いビニール椅子の上で項垂れた。もう、紡ぐ言葉も残っていなかった。

 そんな彼を前にして、抜き身の怒りを携えた少女は、なおも続けた。

 

『いいか、俺は怒っているのだ』

『は、はい……。それは、もう……』

『この体、ウォルフィーナに非道な行いを続けたこともそうだが、俺の妻に、あの誇り高き戦士に同じような侮辱を与えた貴様らを、到底許す気にはなれん。今すぐ、貴様の首を断ち切ってやりたいとすら思う』

 

 この少女にはそれが出来るだろう。その、折れそうな程に細い手に何も握られていなかったとして、それは可能なことなのだ。

 それにしても、奇妙な会話ではあった。そして、主席の期待した会話ではなかった。

 非人道的な研究から救い出された憐れな少女と、この宇宙を統べる国家元首の対話。未だ心の傷が癒えず療養を続ける少女のもとに共和宇宙でもっとも忙しい男が足を運び、過去の過ちを悔いて頭を下げる。その姿に感動した少女は、噎び泣きながら過去の過ちを許す……。

 連邦主席は、そんな蜂蜜菓子のように甘い構図を、僅かだが夢見ないわけではなかった。それに、もしも少女が見た目通りの少女であるならば、そんな美談もあり得たのかも知れなかった。

 しかし現実の彼ら二人の間に無慈悲な捕食者とその怒りに許しを乞う被食者の関係が出来ていたのは、ものの道理を弁えぬ幼児の目から見ても明らかだっただろう。

 己の前で、身を縮ませながら震える初老の男性を睨みつけて、少女は溜息を吐き出した。

 

『……研究所の連中は、どうなった?』

 

 主席は、もう、少女と視線を合わせることすら出来ないというふうに、病室の床へと視線を落としながら答えた。

 

『……あなたの配偶者に侮辱を与えた連中は、彼の友人たるあの方が処罰を与えました。そして、あなたの体の持ち主に侮辱を与えた連中は、医師としての国家資格を剥奪の上、辺境の惑星へと強制移住させ、二度とこのような研究に携わることが出来ないよう厳重に監視をしております』

 

 彼の友人、つまり黒い天使が罰を与えたというならば、それはその人間の低劣な罪に相応しい罰だったのだろう。つまり、その件については解決したということに違いない。少なくとも、部外者である自分がこれ以上首を突っ込むべきではないはずだ。

 ウォルフィーナの尊厳に泥を塗りたくり続けた連中の処遇については到底納得が出来ないが、少女の内に宿る王の魂は、この少女自身が誰よりも報復を望んでいなかったことを知っている。だから、今自分が怒りに任せた行動を取れば、それは誰よりも彼女を悲しませることになることも知っていた。

 それ故、少女は、全てを飲み込んで重たい溜息を吐き出す以外、何も出来なかったのだ。

 

『……彼らの寛容に感謝しろ。そして何よりこの少女の優しさに、だ』

『で、では……』

 

 主席は喜び勇んで顔を上げ、しかし怒りに震える黒い瞳を直視して再び顔を下げた。

 目の前の少女は、何一つ許していないと悟った。

 

『一度だ。一度だけ、猶予をくれてやる。しかし覚えておけよ。俺は生前、二度俺を裏切った人間を許したためしは無い。貴様らが再び彼らとこの少女を裏切れば、俺はそのことを貴様の体で実証してくれる』

『は、はっ……』

『俺には彼らのような力は無いが、しかし王には王にしか出来ない戦い方というものがある。貴様が、今貴様の治めるこの国が俺の率いる兵との戦の火中に滅ぶ様を見たくないというのであれば、俺の言ったことをゆめ忘れるな』

 

 少女は、その漆黒の瞳に殺気とも呼べる剣呑な光りを込めて、言った。今後この国が自分達を裏切ることがあれば、少女自身が何処かで己の軍勢を編成し、それをもってこの国を攻め滅ぼしてくれるぞ、と。

 主席は、それが不可能事だと思った。不可能事であるべきだった。しかし、その少女の言葉のどこにも、それが不可能であると信じている様子はなく、また、主席自身の魂の一番奥底では、少女の言葉がどうしても確定した未来のようにしか思えなかったのだ。

 第一、共和政府はこの広大な宇宙に盤石の支配体制を敷いているように思われがちではあるが、マースやエストリアのように、その支配体制に不満を抱く国は少なくない。

 そして、この少女であればそれらの勢力を一つに纏め、この宇宙に戦乱の時代をもたらすことも決して不可能ではない。いや、彼女はいとも容易くそれをやってのけるのではないだろうか。

 やはり、これも一匹の化け物だ。あの、黄金の戦士とも黒い天使とも違う、この宇宙に一匹しか存在しない、化け物の一匹なのだ。

 主席は、この少女を亡き者するという選択肢を選ばなかった自分を、内心で褒め称えた。もしも禁断の選択肢を選び取っていれば、あの二人の登場を待つまでもなく自分達は少女の大顎に噛み砕かれていただろう。だからといって、今彼の前に横たわる困難が、少しでも軽くなるわけではないのだが。

 主席は呻き声を出そうとしたが、最早それすらも叶わぬほどに彼の口中は乾ききっていた。

 そんな彼を見ながら、少女は柔らかな微笑みを浮かべた。しかしそれは口元だけの笑みで、眼は全く笑っていない。彼女の美貌を歪めるそのアンバランスさが、少女の相貌を恐ろしい程に不吉なものへと染め上げている。

 

『俺の言いたいことは、全て伝えた。それに対してどう答えるかは、あなた方次第だ、シルベスタン卿』

『は、ははっ』

『いや、これからも卿らとは良好な関係を築いていきたいものだな』

 

 少女は、やはり凶悪な笑みを浮かべながら、自分の目の前に座った憐れな獲物の手を取り、熱心に握りしめた。

 それは、連邦主席がその長い政治家生活において見た中で、もっとも人の悪い笑みであったし、彼は今までそれほどに熱の籠もった握手というものも経験したことがなかった。手に伝わるのは少女の柔い肉の感触なのに、まるで獅子の口中に手を突っ込んでいるように、彼は錯覚した。

 冗談では無い、と彼は思った。これでは脅迫だ。相手の喉元に刃を突き付けておいて、良好な関係もくそもあったものか。

 しかし、こちらに選択権が無いことも、彼は心得ていた。少なくとも、向こうが良好な関係を築きたいというのであれば、こちらにそれを拒否するだけの理由もなければ権利もない。加害者である自分達は、被害者である彼女らの気が収まるまで、ひたすらに侘び続けるしかないのだから。無論これが人間社会であれば示談なり時効なりの区切りが存在するが、彼らの掟にそんな気の利いたものを期待するのが愚かというものだろう。

 一年前まで精気に溢れた気鋭の政治家と呼ばれていた連邦主席マヌエル・シルベスタン三世は、フルマラソンを終えた老人のような有様で椅子から立ち上がると、這々の体で少女に辞去の許しを乞うた。結局少女の口から、例の化け物二人へ今回の一件を取り持ってくれるという確約は得られなかったが、これ以上この場に留まるのは彼の精神の崩壊を意味する。

 少女は再度これからもよろしくと念を押し、既に保水力の限界を迎えた彼のハンカチでは到底拭き取れないほどの汗を主席の額に浮かべさせて、その濡れそぼったスーツの背中を見送った。

 

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