懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「ここは暗いね」
「ええ、そうね、ここは暗いわ」
少女はそう言って微笑んだ。
「それに、すごく狭くて、少し埃っぽい」
「ええ、あなたの言うとおりね。ここは暗くて、すごく狭くて、少し、埃っぽいの」
少女の言葉に、黒髪の青年は微笑んだ。
二人の言葉通りに、そこは酷い場所だった。
朽ちかけた廃屋。灯りと呼べるものは、今にも崩れ落ちそうな机の上に置かれた、古びてくすんだランプだけ。窓の格子にはガラスの残骸が欠け落ちた老人の歯のようにへばりついているだけで、外からは冷たい風と細かな雨粒が、我が物顔で押し入ってくる。薄いトタン板の壁は所々が腐食し穴が空いている。その向こう側にあるのは、青年の青い瞳でも見渡すことの出来ない暗闇だけだ。
そして扉は、無い。この部屋には、およそ出入り口と呼べるものが無い。全てを拒絶する、少女自身の精神のように。
「ねぇ、ルウ、あなたはどうやってこの部屋に入って来たの?」
「ぼくは、ほら、そこの窓から」
そう言って指差したルウの人差し指からは、真っ赤な鮮血がぽたぽたと垂れ落ちている。おそらく、窓枠に手を掛けたとき、割れた窓ガラスで切ったのだろう。
少女は、薄暗がりの床に広がる赤い斑点を見て、少し痛ましそうに眉を顰めた。
「凄く、痛そうね」
ルウは首を横に振り、
「別に、どうってことはないよ。それに、痛かったとしても、すぐに治るんだ、ぼくの傷は」
「そう、それでも、わたしのせいで怪我をさせてしまったのなら……本当に、ごめんなさい」
少女はそう言って身体を軽く揺すり、腰掛けた安楽椅子を動かし始めた。
ぎしぎしと、聞く者が不安になるような音が部屋に満ちる。少女はその中で、ゆっくりと目を閉じた。
「ここにはね、色んな人達が来るのよ」
「それは良かった。もしかしたら、ぼくが初めてのお客さんなのかなって思ってたから」
「昨日はザックスが来たわ。相変わらず自分の感情を持て余したみたいにつっけんどんで、でも本当は優しいの。もう少し素直になれることに気が付いたら、きっと女の子に人気が出るのにね」
「……」
「アネットも、ケティも、みんな来てくれた。みんな、わたしを気遣ってくれた。優しくしてくれた。でもね、酷いのよ。誰も、わたしを連れて行ってくれないの。こんなにも、わたしはみんなと一緒にいたいのに」
目を閉じたまま、ぼんやりとした調子で呟く少女は、年老いた老婆よりも生に倦み疲れていたのだろう。
ルウは、困ったように微笑んだ。
「それはね、マルゴ、みんな、きみのことが大好きだからだよ。だから、一緒には連れていけないんだ」
マルゴは安楽椅子に身体を預けたまま、ルウのように微笑んだ。
「知ってるわ。だって、こんなにもわたしが彼らを愛しているんですもの。わたしは、きっと本当に幸せなんだわ。でも……」
「でも?」
「まだ、一度も、お父様がお顔を見せてくださらないの。こんなにもわたしが待っているのに。こんなにも、わたしが愛しているのに。どうしてかしら?ねぇ、あなたには分かるのかしら、ルウ?」
出入り口の無い廃屋の外は、相も変わらず嵐が吹き荒んでいる。この朽ちかけた廃屋が、少女の唯一作り得た精神の殻なのだとすれば、彼女が感じている絶望はどれほどのものなのだろうか。
ルウは無性に叫びたくなった。幼児のように無様に喚き散らし、駄々を捏ね続ければ、もしかしたらこの少女をここから連れ出すことが出来るのかも知れない。
「ねぇ、ルウ。優しいルウ。ごめんなさい、わたしのせいであなたにそんな顔をさせてしまって。お願いだから、泣かないで」
「でも……でも……!」
「わたしはここに縛られているのではないの。ただ、ここにいたいからここにいる。きっと、外の世界は素晴らしいんでしょうね。貴方もいる、ケリーもいる、ジャスミンもいる。きっと、みんなわたしなんかに優しくしてくれる……」
マルゴは、まるで母親のようにルウを抱きしめ、慰めながら呟いた。
「ただ、外の世界には、お父様も、そしてわたしの兄弟たちも、もういないの。わたしだけが生き残ってしまった……」
「そうだね……。でも、きみはずっとここにいちゃいけない」
マルゴは微笑む。微笑むだけで、しかし何も答えない。
「ねぇ、ルウ。一つお願いがあるの。聞いてくれるかしら?」
ルウは、頬を伝う涙を拭い、目を赤くしたまま頷く。
「ぼくにできることなら、何でも」
「歌を、歌ってほしいの」
マルゴは再び目を瞑り、安楽椅子を揺らし始めた。
ぎいぎいと、旧い木材の軋む、どこか懐かしい音を聞きながら、ルウは歌いはじめた。
――あなたの家に、この者達を、お招き入れください。
――疲れた肩をもみほぐし、旅塵に汚れた赤子を拭き清めてください。
――最後の時に、あなたを思った魂に、大きな哀れみを。
――わたしの潰れた喉で、希います。
――終末の時に、彼らの魂が安らがんことを。
――跪き、ひれ伏して、お願いします。
――灰のように砕かれた彼らの御霊に、出来うる限りの救いを。
それは、闇の天使の歌声だった。
聞く者の心を安らげ、苦痛を和らげ、辛い記憶を慰めるための歌だった。
マルゴは、夢を見るようにうっすらと瞼を閉じ、その歌声に聞き入った。その瞬間だけは、ぼろ家に叩きつけられていた風雨も止み、曇天の隙間から星の輝きが零れだした。その世界を作り出したのがマルゴの自罰機構だとするならば、ルウの歌は、少しでもそれを和らげることができたのか。
静かに歌い終えたルウは、再びマルゴの前に立った。
マルゴは、うとうとと眠っていた。幸せそうに、無垢な表情で。
「また、来るからね」
そう囁いたルウは、この部屋に入った時と同じように、朽ちかけた窓枠に手をかけ、そしてぼろ屋から出ていった。
嵐は、収まっている。きっと、マルゴが目を覚ますまでは、この世界は穏やかなままだ。でも、彼女はそれを許さないだろう。己を罰するために、嵐を巻き起こし、そして風雨をもって己を責め苛むのだ。
いつか、マルゴはこの無間地獄から解放されるのだろうか。それとも、彼女はこの世界に閉じこもったまま、一生を終えるつもりなのだろうか。永遠に訪れることのない、父親を待ち続けて。
もしもそうだとして――果たして自分に、それを止める権利はあるのか。ここから連れ出すことが、マルゴの幸せに繋がるのだろうか。
ルウは、答えの無い問いを己に課しながら、ぬかるんだ大地を、俯きつつ歩き続けた。
病院の見舞いには、鉢植えの花よりも花束のほうが相応しいと言われる。鉢植えの花は、根付くという意味があり、入院が長引くようで不吉だというのだ。
しかし、ケリーは、鉢植えの花を選び、マルゴの病室の片隅に置いた。いつかマルゴが目を覚ましたとき、できれば花瓶に活けられた切り花ではなく、力強く土から咲いた花を見てほしかったからだ。
花は、ジャスミンを選んだ。きっと、一目で誰が置いた花かを理解してくれるだろうから。
今日も、ケリーはマルゴの病室を訪ねた。アドミラルのクーア本社にほど近い、クーア・カンパニーの資本の入った病院である。最先端の設備と、最高のスタッフが揃った、考えられうる最高の医療環境だ。
それでも、マルゴは目覚めない。体に異常はない。主治医が言うには、今、この瞬間に目が覚めても不思議でない状態なのに、何故か意識が戻らないのだという。
それが、戦争という極限状態ですり減った精神のせいなのか、それとも中毒性の高い麻薬を常用してまでTYPON零型を動かし続けた肉体的消耗のせいなのか、もしくは――マルゴの意思によるものなのか、原因は定かではない。
事実として、マルゴは目覚めない。まるで、目覚めた後のこの世界を拒絶するかのように。
病室のドアをノックして、中に入ると、今日は先客がいた。
「天使、来ていたのか」
白一色で統一された清潔な病室。
窓側の壁に合わせて置かれた寝台、その横に設えられた椅子に腰かけていたルウは、ケリーに、力ない笑みを向けた。
「こんにちは、キング」
「悪いな」
短い台詞に込められた万感の意味を、ルウはほぼ正確に汲み取っている。
キングにとってのマルゴが、どういう存在なのか。マルゴが目覚めないことについて、どれほどケリーが責任を感じているのか。ルウが見舞いに来てくれることに、どれほど感謝をしているのか。
全ての感情をひっくるめて、その一言なのだ。
だから、ルウも、か細い笑みを浮かべて頷いただけだ。
そして、視線を寝台のマルゴに移す。
穏やかな寝顔だ。長い昏睡のため、頬肉は削げ落ち、痩せた顔になってしまっているが、整った顔立ちは変わらない。背中に届くほど長かった赤毛は、看護のために必要だからだろうか、少し短めに切り揃えられ、今は肩口にかかる程度になっている。
年相応の少女の、顔立ちだった。戦場も、銃把も、血臭も知らないような、幼い少女。
「まるで眠り姫みたいだね」
ルウの、彼にしては陳腐な感想に、ケリーは苦笑した。
「馬鹿を言うなよ天使。こいつにそんなキャスティングはちっとも似合わない。こいつは、いつだって男の尻を蹴っ飛ばして、そして笑うのさ。お前はその程度の男なのか、お前の男気はそれっぽっちなのかってな。そうすりゃ、どんな男だって黙って奮起せざるを得ない、それを知ってるんだ」
ベッドに歩み寄ったケリーは、そっと、眠り続けるマルゴの頬を撫でた。そのまま指先を、少女の唇に触れさせる。そこは、ケリーと口づけを交わしたときよりもしっとりと柔らかく、艶やかな感触だった。
「早く目を覚ませよマルゴ。そして笑ってくれよマルゴ。お前は、笑った顔が一番綺麗なんだ。寝顔のお前も綺麗だけど……もったいねぇじゃねぇか」
悲し気なケリーの声に、しかしマルゴは答えない。ただ、静かに目を閉じ、安らかに呼吸を繰り返すだけだ。
マルゴのとってのこの世界が、あまりに辛いものであることを、ケリーは理解している。愛した父親、家族と呼んだ仲間達はすでにこの世を去り、残されたのは自分だけ。それでも生きていかねばならないとすれば、少女の運命はあまりに過酷だ。ケリー自身がそうであったのと同じように。
それでも、約束したのだ。ケリーの駆る宇宙船に乗って、旅をすると。その約束がケリーにとって――ケリー・エヴァンスと呼ばれた少年だった男にとって、救いでないと誰が否定しうるだろうか。
「本当は、《パラス・アテナ》に乗せてやりたいんだが……あの船に意識のない病人を乗せるわけにもいかねぇからな。こんな寂しいところに独りぼっちにさせて悪いが……我慢してくれ」
《パラス・アテナ》が飛ぶのは、順風満帆な宙域ばかりではない。むしろ、宇宙嵐を突っ切り、安定度の低いゲートを飛ぶことにこそその船の真価はある。そんな船に、例え医務室が立派なものであったとしても、意識のないマルゴが乗るのは相応しくないだろう。
――だから、頼むよ。お前が目を覚ますのは、俺が隣にいるときにしてくれ。お前が最初に目にする人間が、どうか俺であってくれ。お前の絶望を、俺に慰めさせてくれ。せめてそれくらい、祈ってもいいだろう?
マルゴの前髪を掻き上げてやる。少女の額の熱はひんやりとしていて、少女の目覚めがもっと遠い未来のことなのだと、ケリーに教えた。
ケリーは、何故だかあの星が、惑星ウィノアの赤茶けた大地が、無性に恋しくなった。そこが、例え彼にとって呪われた場所であったとしても、確かに彼を構成する思い出の一部であるのだ。
――一度、あいつらの墓参りに行ってもいいかもな。
ケリーがまだ少年だった遠い過去、肩を並べて戦った仲間たち。そして、銃口の向こう側にいた敵たち。彼らは共に泥濘に塗れて戦いながら、しかし求めたのは、ただ、祖国の平和と穏やかな生活だった。
今は、同じ場所で、静かに眠っている。誰からも忘れられ、静かに、静かに。
ケリーが今まで彼らのもとを訪れなかったのは、自分の来訪ですらが、彼らの平穏を乱すのではないかと、内心に恐れていたからかもしれない。
今回の事件が、ケリーの古傷を掻き毟るものであったとしても、もう一度マルゴ達と出会えたことだけは、この宇宙を司る何者かに、皮肉交じりの感謝を捧げていた。
「じゃあな、天使。俺は行くよ」
「うん。ぼくは……もう少しだけ」
ケリーは頷いた。
病室の、開け放たれた窓から、爽やかな風が吹き込んでくる。巻き上げられたカーテンの裾を少しだけ揺らしたそれは、ルウの長髪を弄り、そしてケリーの頬を撫でていった。
二人は同時に窓の外を眺め、そして、眠り続ける少女に目を遣った。
まるで、誰かが微笑んだような、そんな気がした。
◇
巨躯の男が、のっしのっしと狭い廊下を歩いている。
軍人やSPの姿もちらほらとした、共和宇宙連邦情報局のビルだ。大柄な人間など珍しくもないはずなのに、全ての人間が唖然とした表情を浮かべながら男の顔を仰ぎ見て、そして男の行手から慌てて身を躱した
なにせ、尋常な様子の男ではなかった。
まず、その巨躯が尋常ではない。縦にも横にも、およそ人間というカテゴリから外れたように巨大である。全身の筋肉が盛り上がった有様は、厳めしい人食い鬼の石造に魂を吹き込んだようですらある。
それに、その服装も尋常ではなかった。身を包む垢じみた、そしてところどこに血痕の浮いた軍用迷彩服は、どこからどう見ても中央政府ビルには不似合いなものであった。
もしも男が、自らが情報局付きの人間であることを示すIDカードか、警備員の口を問答無用で塞いでしまう威圧感か、そのどちらか一つでも持ち合わせていなければ、きっとこの建物に入った瞬間に非常ボタンを押されていたに違いない。それほど異様で、見るからに危険な男であった。
その男は――ヴォルフガング・イェーガー少尉は、まるで十戒のワンシーンのように己の目の前で裂けていく人の海を無感動に見下ろしつつ、たったの一瞬も立ち止まることなく目的地を目指した。なにせ、そのためだけに惑星ヴェロニカを発つ貨物船に密航し、快適性などとは縁遠い貨物用コンテナブロックの隙間に身を潜めながら、飢えや乾きと闘いつつ、ようやく惑星セントラルまで辿り着いたのである。
――まったく、面倒事はさっさと片づけて、家に帰って冷たいビールをぐいっとやりたいもんだ。
キンキンに冷えたビールが喉を通る感触を想像し、思わずぐびりと生唾を飲み込んだヴォルフは、苦笑を浮かべながら歩く。
目的地はビルの地下2階だ。ヴォルフが、自身にとっては些か狭いエレベーターに体を押し込むと、乗り合わせていた数人の職員が、まるで猛獣がエレベーターに乗り込んできたかのように、慌てて飛び降りた。
ヴォルフは、その太い指からすれば、豆粒のように小さなボタンを押し、エレベーターを起動させた。僅かな浮遊感を感じ、自身が地下へと降りていくのを感じる。そして、それほどの時間を置かず、目的階へと到着したことを知らせるチャイムが鳴った。
ヴォルフは、目的の階に降り、フロアの案内図を確認した。 いくつかの部署の札が掲げられているが、そのいずれもが、いわゆる華々しいキャリアを歩む人間とは無縁の、閑職のための部屋ばかりであった。およそほとんどの建物がそうであるように、上層階ほど重要な部署が配置され、地下階はその反対と相場が決まっている。
ヴォルフが探していたのは、その中でもひと際薄汚れた札が指し示す部署であった。
「おお、あったあった」
少しだけうきうきした声を出し、やはり少しだけ浮かれた歩調で、その部屋を目指す。数回廊下を曲がっただけで、その部屋を見つけることができた。
ペンキの剥げかけたおんぼろドアをノックする。ヴォルフの巨大な拳に叩かれて、ドアが悲鳴のように大きな音を立てる。
「なんだ」
部屋の中から、不機嫌を絵にかいたような声がする。
ヴォルフは、特に許可を得ることもなくドアを開き、狭く薄暗い部屋の中に、その男を見つけた。
にこやかに笑ったヴォルフは、その男に対して折り目正しく敬礼を施した。
「お久しぶりでございます、もと主任どの」
もと主任と言われた男――かつての連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官であり、現在の情報局資料編纂室長であるアレクセイ・ルドヴィックは、不機嫌を隠そうともせず――そして、少なくともそれ以上の感情は見せずに、ヴォルフをにらみつけた。
「それは嫌味かね、少尉」
かつての精気に満ち溢れた容貌はどこへやら、すっかり痩せこけ、そしてどんよりと隈の浮いた目つき、なにより脂の抜けたかさついた肌のアレクセイであった。
ヴォルフは、大いに心外というふうに肩を竦める。
「私には、かつてとはいえ、上司だった人間を面罵するほどの度胸はありませんよ」
「では、何をしにきたというのだ。私の現状を嗤いに来たとでもいうのか」
アレクセイの、ハリネズミが我が身を守るような棘のある言葉に、ヴォルフはにやりと笑い、
「あなたに旧交を温めるおつもりがあるのなら、そういうつもりもないではなかったのですが、そうですな、どうやら相当にお忙しいご様子だ。要件は手早く済ませてしまうとしましょう」
閑職に追いやられ、どう見ても忙しそうに見えないアレクセイを嘲るようにそう言うと、ヴォルフは、その巨体からは信じられないような速度でアレクセイに接近し、机を乗り越えて背後を取り、ようやく椅子から腰を浮かしかけたアレクセイを机に押し倒した。
「何をする!」
ある意味当然ともいえるアレクセイの言葉に、平然とした様子のヴォルフは、
「アポ無しでいきなり押しかけた俺を見て、一応は平静を保てただけでも、中々あんたは大したもんだ。だが、けじめってやつは取らねぇといけねぇのさ。分かるだろう?」
ヴォルフは手にした結束バンドで手早くアレクセイの手足を縛ると、芋虫のような姿のアレクセイをそのままよいしょと肩に担いだ。
「何のつもりだ!下ろせ!」
流石に顔を青くしたアレクセイが、震える声でそう叫ぶが、ヴォルフは一切聞く耳を持たない様子で、資料編纂室から出て、もと来たエレベーターへと向かった。
「俺とウォルに仕込まれた発信機で、居場所を敵さんに教えたのは、あんただな」
エレベーターに乗り込み、操作盤で最上階のボタンを押しながら、ヴォルフが言った。
意見を聞くでも、問いただすでもない。断言したのだ。
「な、なんのことを言っている!?」
千の尋問に対しても答えつくすだけの言い訳を準備していたアレクセイも、これには面を食らった。
「別にいいって、下手な言い訳しなくても。全部分かってるんだからさ」
「だから、何のことを言っているのかと聞いているのだ!」
「俺さぁ、惑星ヴェロニカで知り合いが一人……一人って言っていいのか分からんが、とにかくできたんだよ。その人が、とことん機械に強い美人さんでな。俺とウォルの情報を掴める立場の人間を、片っ端から洗ってくれたのさ」
エレベーターは閉まり、静かに動き出す。ヴォルフは僅かな荷重を感じる。
「他の局員連中にはばれないようログを操作したつもりだろうけど、はっきり、あんたのIDでウォルや俺の情報にアクセスした形跡が残っていたらしいぜ、その人に言わせるとな」
「だ、誰だ、そんな根も葉もない虚言を吐く卑劣漢は!」
「おいおい、卑劣漢なんて言ったら怒るぜその人。なんたってとびっきりの美人さんなんだ。ダイアナってぇ、可愛らしい名前もある」
ダイアナ、ダイアナ、と、アレクセイの脳内で、自分に敵対する派閥の構成員の中に、そういった名前の女がいなかったか、猛烈な勢いで検索がかけられる。しかし、答えはヒットせずだった。当然だ、自我を持ち他の感応頭脳をたぶらかすという特技を持った宇宙船など、一介の官僚風情が知るはずもない。
「それに、あんたの携帯電話に、ここ最近、何度か間違い電話がかかってきてるな。そしてその直後に、あんたはこの建物から出て、遠くの公衆電話からどこかに電話をかけている。諜報畑のあんたにしちゃ、些かお粗末な接触方法だな」
「し、しらん!濡れ衣だ!」
アレクセイは叫んだが、ヴォルフはくすりと微笑っただけだった。
「あんたがその電話をかけた直後に、ヴェロニカ軍が動き出し、そしてウォルや俺が襲われた。さて、あんたの情報はどういう経緯で敵さんに渡り、どういう使われ方をしたのか……。ま、一つだけいえることは、あんたにはきっちり落とし前をつけてくれないと、ウォルの友人としての俺の立場がないってことだけさ」
アレクセイは唸り声を上げた。
ダイアナという女が何者で、どういう経緯で自分の所業に足が付いたかはともかく、自分が情報を売ったことが、この男にはばれているらしいのだと、ようやくアレクセイは悟った。
だが、殊勝に謝罪をしたりはしないのが情報局の人間というものだ。とにかく、こういう場合は強気の姿勢を崩してはいけないと思っている。
「わ、わたしをどうするつもりだ!」
「言ったろ?落とし前をつけてもらうって」
エレベーターのチャイムが鳴り、目的階に着いてことを知らせる。そこは、共和宇宙連邦情報局のビルの最上階である7階だった。
ヴォルフは、アレクセイを担いだままエレベーターを降りた。エレベーターを待っていた人間が、唖然とした顔でヴォルフは見上げたが、ヴォルフは人好きのする笑みを浮かべ、人垣を掻き分けて歩いていく。
「た、助けてくれ!私は、資料編纂室長のアレクセイ・ルドヴィックだ!この男は不法な侵入者だ!襲われているんだ!」
悲痛な声が廊下に響き渡るが、しかしその声の主を担ぎ上げているのが、到底人間とは思えないような大男である。咄嗟に助けることもできず、かといって警備員に通報することもできず、ほとんどの人間は唖然とした顔で二人の後姿を見送った。
そしてヴォルフは、非常階段を昇り、その先にある扉を開けようとした。最上階から非常階段を昇れば、そこにあるのは屋上だ。普通、屋上への扉は、特別な場合を除き、施錠されているものである。
「よいしょっと」
しかしヴォルフは、いくらも力を込めない様子で取っ手を強引に回し、ばきりとへし折り、正しく力づくで扉をこじ開けてしまった。
扉の向こうには、だだっ広い屋上と、まばゆいばかりの青空が広がっている。
「ああ、いい天気だなあ」
暢気そうにヴォルフが言う。
事ここに至って自分がどういう目に遭わされるのか、うすうす感じ始めたアレクセイは、殊勝な様子で、
「わ、分かった!言う!全て言う!確かに、私がエストリアに情報を流した!仕方なかったんだ!私は家族の安全を脅されていた!それに、きみやあの少女の情報がそれほど危険なものだとは思わなかったんだ!」
「一応言っておくけどさ、ダイアナさん、あんたとお相手――アイザック・テルミンって言ったか?その会話の内容も教えてくれたぜ?その中に、あんたの家族の身の安全を条件にした交渉なんて無かったはずだがね」
ヴォルフは、何気ない調子で、屋上をすたすた歩く。当然、手足を拘束された状態とはいえ、必死で暴れるアレクセイを担いだまま。
「まぁ、あんたの気持ちも分かるよ。脇目も振らず出世街道を走ってきたら、突然訳の分からない女の子に関わるはめになって、いつの間にやら閑職に追いやられて。そりゃあ、チャンスがあればもう一度浮かび上がってやろうってのが男ってもんだな」
そう、アレクセイに理解を示す口ぶりで、しかしヴォルフの足は止まらない。一歩一歩、屋上のふちまで歩いていく。
「だけどさ、さっきも言ったけど、それとこれとは別の話なんだ。落とし前はつけさせてもらう。それが、ウォルの友人としての、俺の最低限の罪滅ぼしってやつなんだ。だから、我慢してくれよ」
「が、我慢だと!?」
ヴォルフは、屋上のふちで立ち止まり、屋上からの絶景を楽しむように嗤った。
「ま、待て、考え直せイェーガー少尉!そうだ、今度のきみのキャリアのためにわたしが一肌脱ごうじゃないか!絶対に損はさせない!少しだけでも話を聞いてくれ!」
「あいにく、俺はしちめんどくさい出世やら栄達やらには興味がなくてな。もしも交換条件が、酒と料理の旨い居酒屋の情報なら少しは考えんでもなかったが――どうやら、あんたとはとことん好みが合わないらしいな」
「居酒屋だと!?ふざけているのか貴様!」
震える声でそう叫んだアレクセイを、もったいぶるでもなく、突然浮遊感が襲った。
自分が、屋上から投げ捨てられたのだと知った。
「うわああぁぁ――!」
「そう、だから落とし前だ。落っこちて、そんでけじめをとってもらおうってことさ」
アレクセイを屋上から投げ落としたヴォルフは、ようやく重たい荷物を下ろした肩をもみながら、少し疲れた様子で言った。
アレクセイの絶叫が、少しずつ小さくなり、そして足元から、すごい衝突音が聞こえた。
冷たい表情のヴォルフは、下を覗き込む。当然、そこには赤く咲いた人のかたちがあると思っていた。
しかし、なんとアレクセイは、たまたまビルのすぐ脇に停めてあった大型トラックの荷台に落っこちていた。トラックの荷台が大きく陥没していることから、流石に無事ということはないだろうが、しかしどうやら、苦痛に体を捩るくらいの元気はあるらしい。
ビルの屋上から投げ捨てられて、息があったのだ。十分に幸運だといえるだろう。もちろん、有無を言わさずに屋上から放り投げられたこと自体は――それが己の行為の報いだったとしても――十分以上に不幸と言えるのだが。
「おやおや、ウォルフィーナの時もそうだったが、運のいいことだ」
呆れたようにウォルフは呟いた。そして、すでにアレクセイの生死にすら興味を失ったかのように踵を返し、
「しかし、これでまぁ、俺も晴れて懲戒免職だわな、どうあがいても。さて、再就職はどうしたものかねぇ」
ほんの少しの危機感もない、のんびりとした様子で、ヴォルフは片手で頬をさすった。
これだけのことをしでかしたのである、職を辞す覚悟は十分にできている。もともと、大して愛着のある職という訳でもなし、未練はそれほど無い。当面の生活費程度の貯えもある。
「そうだな……差し当たり、知り合いに職の伝手でも探してもらうかな」
今回の任務で知り合いになった何人かの少年たち――金銀天使と異世界の王だった少女の顔を思い出しながら、ヴォルフは非常階段へと向かって歩き始めた。
「さて、とにもかくにも一仕事終えたんだ。さっさと家に帰って、ビールでも飲むとするか」
むしろ楽し気に、ヴォルフは呟いた。
◇
時が経った。
時が経った。
時が経った。
赤子が大人になり、子を為し、その子がまた子を為すほどの時が経った。
気が遠くなるほどの時が経った。
景色はずっと変わらない。
牢獄の狭い部屋にあるのは、粗末な寝台と、仕切りすらない便器、あとは文机くらいのもの。
鉄格子の窓の向こうには。のっぺりとしたコンクリート塀と、僅かに覗く空。
どれほど時が経っても変わらない部屋の中で、ただ祈る。
祈る。
祈る。
時折、考える。
どうして祈るのか。
祈ることに意味があるのか。
自分に問う。
祈ることの意味を。
問い続ける。
春も、夏も、秋も、冬も。
晴れの日も、雨の日も、雪の日も、嵐の日も。
ただ、座して、目を閉じ、己のうちに問い続け、そして祈る。
『この星に、どうか神様の教えが、永く伝わりますように』
亡き師の最後の言葉を思い出し、祈る。
愚かな弟子だ。
師の教えを何一つ守ることができなった。
自分の人生に、何一つ誇ることができるものなど無い。
あの時の、ヴェロニカ教を守るためにした決断も、果たして正解だったのかどうか。
結果として自分は――かつてヴェロニカ教の老師だったテセルという男は、犯罪者として獄に繋がれ、ここにいる。
果たして、この星に、まだヴェロニカ教は根付いたままなのか。
ヴェロニカ教は、人を幸せにしているのか。
分からない。
この塀の中では、分からない。
だから、祈る。
祈ることしかできないから、祈る。
ずっと、祈っている。
刑務所に入ったばかりの頃は、他の受刑者からの侮蔑や嫌がらせもあったが、時が経ち、誰もがテセルという男のことなど忘れ、自分はただの老人となった。
目はかすれ、腰は曲がり、手指も思うように動かなくなった自分は、労役作業すらできなくなり、いつしか独房に入れられるようになった。
この狭い、灰色の部屋が、世界のすべてだ。
一日三度の食事の配膳以外、他人と言葉を交わすこともない。
起きて、食べ、排泄し、寝る。
それ以外の時間の全てを、祈っている。
時間の感覚がどんどん薄れていくのを感じる。
昨日が、気が付けば去年になっている気がする。若かりし頃の一瞬が、今の永遠に感じる。
死が迫っているのを感じる。
日々、その気配が強くなる。
だが、恐怖はない。
待ち遠しくもない。
ただ、死があるのを感じるだけだ。
きっと、祈るのだろうと思う。死ぬ直前も、死んだ後も。
死体となって祈る自分を想像する。
肉は腐り、骨は大地に埋もれ、地の深く深く底に潜り、それでも祈る自分を想像する。
魂は地獄に堕ち、業火に焼かれながら祈る自分を想像する。
それが、相応しいと思う。
祈り続けるのだ。ずっと、永遠に。
ヴェロニカ教の神に、聖女ヴェロニカに、そして、あの時に知己となった天使たちに。
この世界が平穏でありますように。この世界の人々が幸福でありますように。どうか、この星に神様の教えが永く伝わりますように――。
祈ることで何かが変わるはずがない。世界はそんなに脆弱ではありえない。祈りはただの自己欺瞞だ。
それでも、祈るのだ。祈り続けるのだ。
一心に、ひたすらに、ひたぶるに……。
「そう、それが、あなたの贖罪なのね」
声が聞こえた。
重たい瞼を持ち上げる。
かすれた視界に、何故かそこだけはっきりと、少女がいた。
鉄格子の内側である。
あり得ない。ありうべきことではない。
幻かと、それとも妖かと、そう思う自分がいる。
しかし、ほとんどの自分は、それを否定していた。
目の前の、少女。
まだ年若い。そう、あの時、師匠の心臓を貫いた、生贄だった少女と同じ年の頃だろうか。
そんな少女が、座した自分を見下ろし、微笑んでいた。
「きみは……」
ひび割れたような声が出る。老人の声。ああ、自分は、こんなにも老いていたのだと認識する。
少女は、優しく微笑む。
「わたしの名前を知りたい?」
首を横に振る。
この少女が例え何者であろうとも、その役割だけは明らかだ。
ほとんど色素のないような、白い髪。そして、ほんの少しだけ茶色を残した、透明な瞳。
幽玄で、夢幻で、美しい少女。
自分を、迎えに来てくれたのだろう。
そして、連れていくのだ。ここではないどこかへ。この世界ではない、どこかの世界へ。それは、きっと地獄と呼ばれる世界だ。
心が軽くなるのを感じる。
罪が許されたのではないのだとしても、ただ、一つの区切りが訪れたことに安堵を感じる。
「私は、もう死んでいるのだね」
抑揚のない私の声に、少女は、少しだけ悲しそうに眉根を寄せ、頷いた。
知れず、口角が持ち上がる。
それが微笑みという表情だということを、久しぶりに思い出した。
ああ、私は、そんなに笑っていなかったのだな。
「では――行こうか」
膝が、すっくと持ち上がる。腰が軽い。まるで、精気に溢れていた昔のように。
魂に、重量はないのか。それとも、魂は死後に若返るのか。
少女は、私に手を差し伸べた。
「貴方の罪がどれほど重たいものだとしても――もう、許されてもいい頃合いだわ。だって、貴方はこんなにも、祈ってきたのですもの」
私は、私の死体を見た。
干からびたような老人が、ことりと、牢屋の床に寝転んでいる。
その表情は、静かで、まるで眠っているようだった。
こんな表情で、穏やかな死を迎えられたことが、自分には相応しくないように思える。
少しだけ、ほんの少しだけ、自分に嫉妬を感じる。
そして、少女の手を取った私は、共に鉄格子をすり抜け、そして分厚い壁すらすり抜けて、牢獄の外へと歩いていく。
いつしか、目の前に階段がある。
らせん状に連なり、天へと伸びる、透明な階段だ。
手すりがないことに少し恐怖を感じたが、質量のない魂の身である。踏み外したとして、如何ほどのことがあろうかと、苦笑する。
「私の罪は、許されたのだろうか」
詮無いことを口にする。
少女に手を引かれ、階段を一歩一歩登っていく。
地面が少しずつ遠ざかり、視界が少しずつ高くなる。
「それを決めるのは、わたしではないし、神様でもない。ただ、貴方だけが、貴方を許すことができるの」
当たり前の事実を告げられて、苦笑する。
罪は、背負わされるものではない。背負うものだ。そして、許されるものではない。許すものだ。
「ならば、私はまだ、私を許すことができていない。この階段は、果たして私に相応しいものだろうか」
何故なら、階段は天に向かって伸びている。自分は、地の底に向けて下る階段を目指すべきではないか。
少女は苦笑した。
「わたしの名前は、ウォルフィーナ」
振り返った少女は、微笑んでいる。
「貴方が貴方を許すことができなくても、ただ、この光景を、見てほしかったの」
階段は、もうだいぶ高いところまで自分を持ち上げていた。
歩を進めるごとに、身体が揺らいでいくのを感じる。
世界との境界が不確かになり、自分としての形を保てなくなっていく。
もう、自分が人間だったころの形が思い出せない。
両足で歩いているのか、四つ足で歩いているのか、翼で飛んでいるのか、分からない。
それでも、少しずつ、階段を昇っていく。
空が近い。天の星が大きく、足元の地は小さく、自分を閉じ込めてた監獄はまるで米粒のようになっている。
地平線の彼方に、僅かな光が輝く。夜が明けるのだ。太陽が、ヴェロニカの赤い大地を照らし出していく。
そこには――。
「――ああ」
緑がある。
人の営みがある。
それらを包み込む、赤い大地がある。
この星には、まだ、人と緑の調和がある。
この星には、まだ、聖女ヴェロニカの教えが、根付いているのだ。
例え、その教えに、神が住まう余地が無かったとしても――この星は、こんなにも美しい。
「この眺めが、貴方の祈りを捧げた対象なのだとしたら――貴方は、貴方を許してもいいんじゃないかしら」
少女の手に、僅かな力が込められる。
指先は崩れ、そこは私ではなくなっているのに、少女の暖かさを感じる。
輪郭の歪む不確かな頬を、暖かい感触が伝う。
私が私だった時の名前も、もう思い出せないというのに、ただ、その名前が恋しくなる。
人だった時の罪が、罰が、ただ遠くなり、自分がここにいることすらあやふやになり。
世界が、どんどん高くなっていく。歩みを進めているつもりすらないのに、階段は私をより高いところへ運んでいく。
大地が大地でなくなる。海が海でなくなる。それは、星と呼ばれるかたちの一部となり、自分が宇宙にいるのだと理解する。
そして、星すらが遠くなり、ただの輝きとなり、その輝きも消えたとき。
階段の終わりが分かる。暗くなく、明るくなく、何も見えず――ただ、暖かい。
そうか――私は、私を、許すことができたのか。
最期に一度、息を吐き出す。
「貴方は、ここで休むのよ。そして疲れを癒したとき、貴方はあの星を見守る存在になる。ずっと、永遠に。それは、きっと一番恐ろしい罰であり――貴方が、一番望むことでしょう?」
少女の声が遠い。
瞼が、どんどん重たくなっていく。
自分が拡散していくのを感じる。この暖かい世界で、少しずつ解けていく。
声が聞こえる。遠い昔、聞いた声。
懐かしい、師の声だ。
ああ、老師。
ビアンキ師匠。
どうか、どうか。
最も愚かだった弟子に、どうかもう一度、導きを――。
かつて、その星を揺るがす大事件があった。結果、その星そのものがトリジウム鉱山であるという驚愕の事実が白日の下に曝され、その星に住む全ての人々を大混乱が襲った。
人が死に、涙が流れ、それでも歯を食いしばり人々は立ち上がった。
幾度も国難に見舞われ、幾つもの政権が樹立し、倒れ、また樹立する。政体すらも昔のままではない。
何もかもが移ろいゆくその国の片隅に、時代から取り残されたかのように、或いは忘れられたかのように、何も変わらない場所があった。
荒野の只中のその施設が造られた理由はただ一つ、囚人の逃亡を防止するためである。
そこは、監獄であった。死刑制度の存在しないその国では、最も重い刑罰である終身刑を言い渡された、凶悪な犯罪者達が集められる陸の孤島。
高く聳え立つ塀に周囲を囲まれた巨大な建築物は、その国がヴェロニカ共和国と呼ばれる前から存在していた。直方体の飾り気薄い外見は、遠目に見れば鋭角的な威容を誇っているが、よくよく見れば年月と風雨の浸食により、細かな罅や汚れが目立つようだ。
どれほど月日が経ち、看守と囚人が入れ替わろうとも、その建物はここにあるのだろう。
そして、また一日が始まる。
惑星ヴェロニカ独特の、赤みの強い大地に、東の方角から朝日が差し込む。
大地の赤さは、土壌に含まれる多量のトリジウム酸化物によるものだ。もう、この星に大量のトリジウムが埋蔵されていることは、共和宇宙の常識となっている。しかし、それ以上の埋蔵量を誇る惑星もいくつか発見されており、既にこの星は鉱物資源市場からも忘れられつつあるらしい。
それでも、その星に根付いた信仰も、人々の生活も、何も変わらない。
その監獄の若い看守は、当直勤務の最後の仕事として、 独居房の見回りをした。凶悪犯の中でも特に粗暴で集団房に入れるのが危険な囚人か、それとも、高齢で集団生活についていけない囚人を入れておくためのものだ。
房の半ばまでを見回った看守は、途中、倒れている囚人を発見した。
驚きはなかった。看守仲間の間でも、もう長くはないだろうと噂されていた囚人の房だったからだ。
看守は、無線で同僚を呼び、万が一に備えてから、慎重な様子で房に入り、倒れた囚人の顔を確認した。
それは紛れもなく、テセル・マニクマールという名の、この部屋に収容された囚人の、老いた顔であった。
確か、自分が生まれる遥か前に、大罪を犯した罪人だったという。しかし、その看守にとっては、物静かで、ただじっと動かない、まるで置物のような老人だったという印象しかない。
脈を測るために手首を握る。止まった鼓動よりも、その体温の冷たさで、看守は囚人の死を悟った。
後ろに待機した同僚に向けて、首を横に振る。
「駄目だ、死んでる」
同僚は事務的な表情で頷いた。色々と面倒な手続きが必要となる。人が死ぬというのは、例えそれが寿命によるものであっても、多数の生者の手を煩わせるものなのだ。
作らなければならない報告書の数を内心で数え上げた看守は、面倒くさそうに溜息を一つ吐き出した。
ああ、今日は、残業だ。夜勤明けの残業は疲れるものだ。
ヴェロニカの神も、なかなかに意地が悪い。
それでも、今日という一日は始まる。
惑星ヴェロニカの赤い大地を、今日も新しい朝日が照らし出す。