懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第九十八話:連邦大学の日常

 季節は、初夏である。

 春に芽生えた新緑はその緑を力強く、一段と深く鮮やかな色に変えている。吹く風の中にも、冷たさよりも涼やかさが勝ってきた、なんとも心地よい季節であった。

 ウォルは、アイクライン校のほぼ中央に位置する食堂のカフェテラスで、その艶やかな長髪を風に遊ばせながら優雅な午後を楽しんでいた。

 既に、授業は終わっている。

 辺りを見回せば、これからクラブ活動に勤しむつもりなのだろう、様々なユニフォームに身を包んだ少年少女が、若さに満ちた顔で談笑しながら歩いている。それとも、分厚い参考書の束を抱えて走り去っていく学生も多い。きっと、課題の提出期限が近いのだろう。

 ここ、連邦大学星ならば、その地表の至る所で見ることの出来る、まったくの日常風景だった。

 

「……なんとも忙しないことだなぁ……」

 

 淹れ立ての紅茶の香気を楽しみながら、ウォルは嘆かわしそうに呟いた。こんなに気持のいい季節なのに、どうして皆、こうも落ち着かないのか。

 転校当初、というかこちらの世界に来てからしばらくの間は、学問と習俗、あるいは常識的な機械操作などの知識の習得に寝る間も惜しんで励んでいたウォルであるが、それも一段落した今となっては、自身の身軽な身の上を楽しんでいたりする。

 なにせ、あちらの世界では、運命を司る女神が何をどう間違えたのかは知らないが、国王などという職業に就いていた彼女である。他者の羨む身分であったことは否定し得ないが、しかし他の誰がどう言おうと、彼女自身はその職業が自分の天職であるなど一度も思ったことはない。

 そんなウォルであるから、今の、何も背負っていない自分に結構満足していたりするわけだ。そのあたり、彼女の婚約者である少年の、昼寝好きの熊という表現に相応しい有様であった。

 夥しい書類の山と格闘しなくても誰も小言を言わないし、テーブルで片肘を付きながらぼーっとしていても誰も眉を顰めないし、煩わしい毒味役やお目付役や侍従や侍女もいないから、好きなものを好きな時に好きなだけ食べることだってできる。

 現に今だって、国王であったときは『そのように童が好む食べ物を……』などとお小言を言われて思うように食べられなかった、卵と牛乳をたっぷり使った菓子――こちらの世界ではプリンとかパフェとか言うらしい――を、頬を綻ばせながらぱくついだりするのだ。

 元々、ウォルは酒を好むたちであるが、同じくらいに甘味も好んだ。そして、何の因果か女性の身体を授かった今、どちらかと言えば舌に合うのは後者のほうになってしまっている。

 普通の男であれば、その一事をもって己の身に降りかかった災難を嘆き悲しみそうなものだが、この生き物は元が元であるから、精々が『楽しみが増えたなぁ』程度にしか思っていない。

 然り、午後のお茶を楽しむ今のウォルの目の前には、鮮やかな彩りのデザートたちが所狭しと並んでいる。

 既に一皿目のプリン・アラモードをぺろりと片付けていた少女は、次の甘味、チョコレートババロアの征服に取りかかった。

 ふるふると震える濃褐色の表面にスプーンを入れてたっぷりとすくい取ったババロアを、精一杯に大きく開けた小さな口の中に放り込む。口内に広がる控えめな甘さと濃厚な生クリームのこく、そしてチョコレートのほろ苦さ。舌の上でほろりと溶けていく儚さが何とも官能的だ。

 ああ、天上の至福とも呼べるこの瞬間!ウォルのふっくらと柔らかな頬は緩みっぱなしだった。大きな瞳は三日月型に細められ、目尻はだらしなく垂れ下がっている。もう、どこからどう見ても年頃の乙女であった。

 そんなウォルの後ろの方で、密やかな声が交わされている。

 

「……おい、あれが例の転校生?」

「ああ、あのヴィッキー・ヴァレンタインの妹らしいぜ」

「嘘だろ?ちっとも似てないじゃないか」

「いや、噂では義理の妹だとか、それともそれだってただの方便で実は許嫁だとか恋人だとか、色々な話が飛び交っててさあ……」

 

 お菓子の征服に夢中なウォルは、その囁き声には気がついていない。普段の彼女であればまた別であっただろうが、捕食中の生き物というものは存外無防備になるものなのだ。年頃の少女が甘い物に夢中であれば尚更である。

 三品目のデザート、莓のパリブレストにフォークを突き刺した少女の背後で、少年が、ありったけの無念を込めて天を仰いでいた。

 

「かぁーっ、あいつのお手つきかよ。勿体ない、そうじゃなけりゃあんな可愛い子、ほっとかないのになぁ」

「心配しなくっても、あいつと無関係だったとしてもお前なんか相手にされないよ」

「そう言うなよ、俺だって夢くらい見たいんだよう」

 

 不平そうに唇を尖らした少年である。

 然もありなん、確かにウォルは可愛らしかったし、何より美しかった。

 漆を塗り重ねたようにあでやかな黒髪は、陽光の加減で七色に輝いた。ころころとよく変わる表情はそのどれもが魅力的だったし、すべらかな肌は透けるように白かった。

 女の子らしい格好もかつてのリィほどに嫌ってはいないウォルであるが、今は、上にはざっくりとした薄手のパーカーを羽織り、下はハーフパンツにレギンスという軽快な出で立ちである。普段は無造作に流してある長い黒髪も、後ろで一つに括っている。すんなりと引き締まった身体と相まって、彼女の健康的な魅力を引き立てている。

 少年たちは、しばし陶然と彼女に見とれていたが、荘厳な音で奏でられる時報で明日の授業の課題が済んでいないことに気がついたのだろう、いそいそと立ち去った。

 そんなことは露知らず、あっさりと3皿めのデザートを平らげたウォルは、口中に残る甘味を名残惜しく想いながら、しかしやはりぼーっとしている。明日は別に予習の必要な授業はなかったはずだし、彼女の明敏な頭脳からして復習に割く時間もさほど必要ではない。先生方に失礼のない程度に宿題を済ませさえすれば、あとは正しく自由時間そのものだ。

 ならば、その空いた時間を趣味やら遊びやらに使えばいいようなものなのだが、やはりそこは貧乏性というか、人生の楽しみ方を知らないウォルである。王という、己の享楽のみを追い求めて何人にも非難されない至高の地位にいたときでさえ、僅かな余暇の過ごし方に頭を悩ましていたのだから、況んや普通の女子学生の身分においてをや、である。娯楽の多いこの時代ですら、心を焦がして熱中出来るような何かは未だ見つからないようだ。

 剣の稽古も、今日明日正に戦争が始めるような時世ではないようだし、そもそもこちらで言う戦いとは馬に跨り剣を携えて行うものではない以上、どうにも身が入らない。他の少年少女が目を輝かすようなスポーツやゲームも、遊び以上のものとは思えず、長続きしない。夢、というか、なりたいものはあるのだが――それがアイドルと聞けば、彼女の友人達はどう思うだろうか――、それになるために何をどう努力すればいいのやら見当もつかない。

 そして結局、日がな一日何もせず、お菓子をぱくつきながら、ぼーっと外の風景を眺めながら、心底どうでもいいことを考えていたりするわけなのだが、その様子がなんとも絵になる。物憂げな表情で一人思索に耽る美少女というのは学園の中でも相当に目立つようで、ウォルが、惰眠を貪る熊のように暇を持てあますそのテラスは、彼女に淡い想いを寄せる男子生徒たちの密かな聖地になっているのだ。

 自分を見つめる熱心な視線を、転校生を物珍しげに眺めているだけだと勘違いしているウォルは、その視線に答えるわけではないが、『あふぅ……』と大きく欠伸をして、目尻に浮いた涙を拭き取った。

 

「お暇そうですね、陛……ウォル」

 

 半ば睡魔の誘惑に膝を折りかけたような有様のウォルは、笑いを噛み殺したその声に気付いて顔を持ち上げる。

 するとそこには、斜陽で薄紅色に染まった、銀色の頭があった。

 

「おう、シェラ。そっちも講義は終わりか?」

 

 真白い半袖シャツにスラックスという涼やかないでたちのシェラは、ウォルの向かいの席に腰掛けた。テーブルに置いたトレイの上には、まだ湯気の立つコーヒーと、手軽に摘まめるサンドイッチが並んでいる。

 

「ええ、今日はこれで全ての講義が終了です。お昼は少しばたばたしていましたので、今から遅い昼食を、と思いまして。ウォルは……聞くまでもなかったようですね」

 

 テーブルを埋め尽くさんばかりのデザートの空皿を眺めて少し目を丸くしたシェラは、堪え切れない様子で苦笑をこぼした。

 

「……あちらの世界におられたときと比べると、本当に甘いものがお好きになられたようで」

 

 西離宮に結構な頻度で顔を出す国王の好き嫌いは、王妃の食事担当でもあったシェラにとって十分把握していた事項である。その時の記憶に照らせば、甘いものが特別嫌いというわけではなかったはずだが、目がないほど好きというほどでもなかったはずであり、好むのは酒と合わせる酒肴などであったはずである。

 痛いところを突かれたウォルも、苦笑いで返す。

 

「まったく、煩わしい執務も重たい責任もなくなって、身体は軽くなったはずなのに、どうしてか腹だけは減るものだな。それも、こういう甘味に目が無くなってしまった。リィと同じ生き物の身体のはずなのに、これは一体どういうことか、不思議で仕方ない」

 

 まるで他人事のように言う。

 確かに、今のウォルの宿る身体は、彼女の配偶者であるリィと同じ生き物である。そしてリィはといえば、甘いものの『あ』の字を聞いただけでも裸足で逃げ出すほど、甘いもの嫌いである。

 おそらく、今のウォルの様子を見れば、眉を顰めて嫌な顔をするに違いなかった。

 その様子を思い浮かべて、シェラは微笑んだ。

 

「まぁ、年頃の女の子のお身体ですからね、仕方ないといえば仕方ないのかもしれません」

 

 悪気なく、くすくすと微笑むシェラに、

 

「おいおい、その言い方だと、まるで俺が本当の女の子になってしまったようではないか。これでも、まだ心は男のつもりだからな。そこだけは譲れんぞ」

 

 精一杯しかめつらしい表情でウォルは言ったのだが、あどけない少女の顔と声である。どうしても険を含ませることができない。そこがまた何とも愛らしいのだが、本人は気が付いていないようだ。

 シェラは遠慮なく、ブラックのホットコーヒーを一口啜り、それからサンドイッチを口に運んだ。もしもこれが元の世界であれば、女官の身分であったシェラが国王であったウォルの目の前で食事をするなどとんでもない不敬というべき所作のはずだが、流石にシェラも慣れてしまったのか、この世界では過剰な振る舞いはしないようになった。

 もちろんウォルも、シェラを咎めることはしない。その代わり、舌なめずりしそうな様子で、残りのサンドイッチに手を伸ばす。

 大切な昼食を横取りされそうなシェラは、じろりとウォルをねめつけ、

 

「……太りますよ、陛下」

 

 年頃の少女には些か残酷な一言を言い放つ。

 サンドイッチを摘まもうとしたウォルの手が、ぴたりと止まる。その一事で、シェラは見抜いた。何か、思い当たるところがあるのだと。

 

「……一つ申し上げておきましょう、陛下」

「……なんだ?」

「……見た目に変化が出てからでは手遅れです」

 

 ウォルの表情が、悔しげに歪められる。

 そして、大いに傷ついたとでも言わんばかりの有様で、

 

「別に良いではないか!年頃の女の子は、少しふっくらしたくらいが愛らしいのだぞ!」

「その意見には賛成ですが、二つほど反駁を。まず、デザートを三皿も平らげた後にそんなことを言っても、ただの言い訳にしか聞こえません。そして、心は男のつもりのあなたが、年頃の女の子の可愛らしさを引き合いに自己弁護するのは、些かお門違いに思われます」

 

 ぴしゃりと言った。

 全くもって正しい意見であったから、ウォルとしてはぐうの音もでない。

 そして、恐る恐るといった調子で聞いた。

 

「……太ったかな?」

 

 シェラは、やはり小声で、

 

「……わたしの目には、少しふっくらしあそばされたように見えます」

 

 ウォルは驚愕に目を見開いた後で、がっくりと肩を落とした。

 

「……確かに、最近服が少しきつい気がしたし……脇腹のあたりがぷよぷよしてきたような気もするし……しかし仕方ないではないか、この世界の甘いものが美味しいのが全て悪いのだ……」

 

 それは思春期の少女にとって、正しく呪いの言葉であった。

 ただ、ウォルには別の事情も存在する。あちらの世界では、甘いものはそもそもが高級品であり嗜好品。砂糖自体が希少であり、また生の食材の鮮度を保つための冷蔵技術も未発達であったから、この世界で好まれる、いわゆるデザートのほとんどは、あちらの世界ではそもそも口にするのが難しいものだったのだ。

 無論、国王であるウォルがえいと命じれば、山海の珍味を食卓に並べるなど造作もないことであるが、そんな金があるなら少しでも民のために施しを、というのがウォルという貧乏性の熊の本質であったから、国王としての威厳を保つための最小限の豪華さは仕方ないとして、食事に贅沢を言ったことはほとんどない。

 たまに、例えば他国との友好式典のテーブルなどに、本当に珍しく並んだ生菓子を、密かな喜びとともに平らげていたくらいである。

 その高級品が、この世界では、子供の小遣い程度の金額で、こうも手軽に口にすることができる。ウォルの現在の義父であるアーサーは、無暗に子供を甘やかす父親ではなかったが、必要と思われる金額の生活費はきちんと援助してくれている。その中には、年頃の少女ならば必須ともいうべき被服費等も含まれるのだが、ウォルはこれ幸いと、おしゃれに回すべきお金で思うさま甘味を堪能しているのだ。

 そして、熱量保存の法則というものは、例えそれが人間の身体であろうが、狼の変種の身体であろうが、この世万物に適用される法則であり、どれだけ食べても太らないという便利な身体は存在しない。摂取したカロリーは、消費しない限り、脂肪として蓄積されるのが道理であり、また健康な身体でもある。

 要するに、ウォルは少し太った。まだ見た目にははっきりと分からない程度であるが。

 ただ、シェラからすれば、先ほどの言葉通り、むしろウォルは可愛らしくなったとすら思う。これも、あちらの世界とこちらの世界の差異とでもいうべき事柄だが、こちらの世界の女の子は、少し体型にこだわりすぎるのではないかと、シェラは思っている。例えば雑誌やテレビのファッションモデルなどは、それが商売だからあの体型を維持しているのであって、それを基準に自身の体型を眺めて「これは太りすぎだ、もっと痩せなければ」と悩む年頃の少女というのは、どう考えても不健康なことではないか。

 そんなシェラの内心など知るすべもないウォルは、悲し気な調子で続ける。

 

「分かっていた……分かっていたのだ……最近は体重計に乗るのが恐ろしくて体重をきちんと確認したわけではないが……やはり、現実は直視しなければならんか……」

「……あの、こういう言葉がお慰めになるか分かりませんが、リィなどは、むしろ今くらいの貴方の方が好ましく思われるのではないでしょうか」

「……それはそうかもしれんが、このまま太り続けてみろ。きっとあいつはこう言うぞ。『どうしたんだウォル、そんなに美味しそうになって』、とな。そんなことを未来の夫に言われれば、いくらなんでも婚約者として立つ瀬がなさすぎるというものだ」

 

 いじけたような調子でウォルが言うと、目を丸くしたシェラが思わず吹き出した。それは、確かにこの少女の婚約者であり配偶者でもある黄金の狼が言いそうな台詞だったからだ。

 かつて、自分の血を舐めとって、美味いと言ったリィである。そして、国王だったウォルと大喧嘩の末、リィ自身が拵えたウォルの擦り傷を舐めて、やはり美味いと言ったリィである。まさか本当に食べるはずなどないのだが、確かにまん丸にふくらんだウォルを目にすれば、悪げもなくそんなことを言いそうな気がする。

  未だ、男女の恋愛感情を持たない配偶者であり婚約者のリィとウォルではあるが、仮にも一生を添い遂げるという契約を結んだのだ。その相手から、太ったことをからかわれたり非難されるなら百歩譲って甘受できても、美味しそうと言われるのは我慢できない。その気持ちは、シェラにもなんとなく理解できた。

 シェラは口元に手を当てながら笑う。

 

「では、今日から甘いものは厳禁ですね」

 

 それを聞いたウォルは名残惜し気に、

 

「……明日からでは駄目か?」

「……まだ食べるおつもりですか?」

「冬眠に入る前の動物は、しっかりと食いだめをするものだぞ」

 

 至って真面目そうにそんなことを言う。

 これは重症だ、とシェラは頭を振った。

 リィ曰く、『冬眠明けの熊』であるはずのこの少女が、まさかこれから冬眠するとなれば、一体どのような生き物に変貌するというのか。体型云々などといった細かい話を抜きに、空恐ろしくなってしまうシェラである。

 シェラは諦めたように溜息を吐き出した。甘いものはを我慢させるのは、どうも困難事らしい。

 

「ウォル。今日は、これから時間はありますか?」

「時間?……特にこれといった用事はないが……いったいどうしたというのだ?」

「単純な話です。太るのは嫌、そして食べるのも我慢できない。なら、方法は一つだけ。つまり、体を動かすのです」

 

 

 ウォルとシェラは、学園内バスに乗り込んだ。アイクライン校の校内だけでなく、近隣の学校や公共施設などを往復しており、本数もそれなりなので、学生の生活の足として欠かせないものだ。

 席は結構埋まっており、これから駅前に繰り出すのか少し浮ついた雰囲気の学生や、他校のクラブ活動に参加する予定なのか大きめのスポーツバッグを膝の上に乗せた学生など、様々である。

 ウォルとシェラは、ノープス中央体育館前駅で下車した。

 ノープス中央体育館は、アイクライン校を含む複数の学校のほぼ中央に位置しており、それらの学校でまかないきれない運動部の需要に、柔軟に応えるために建設された体育館であるから、規模はかなり大きく、専門的な設備も数多く設置されている。

 例えばライフル射撃などは、普通の校内では危険でそれ専用の設備や銃などは設置されていないが、この体育館には地下に専用の射撃場があり、その中で安全に競技の練習を行うことができる。

 それ以外にも、スポーツはその分野によっては専門的な設備を要するものが意外なほど多く、しかしそれらを個々の学校が設置するのは、規模的な意味でも予算的な意味でも現実的ではない。だから、各種専用設備を備え、しかも誰でも使用できる中央体育館には大きな需要があるのだ。

 ウォルとシェラがノープス中央体育館に到着した頃には、流石に太陽もかなり傾いていた。赤みがかかった陽光を背に、二人は体育館に入った。

 中は、やはりというべきか、かなり活気に満ちている。受付から覗く一階の最前面フロアにはバスケットコートが設えられており、おそらくは他校同士の交流戦だろうか、色違いのユニフォームに身を包んだ高等部の学生が熱戦を繰り広げている。観客席もそれなりの人で埋まっており、歓声が受付まで響いてくる。

 

「アイクライン校のシェラ・ファロットです」

 

 シェラが、受付の女性に学生証を提示する。女性は学生証のIDを機械にかざし、モニタに表示された情報と目の前の少年を見比べ、柔らかい表情で頷いた。

 ウォルも、詳細は分からないが、おそらく自分も同様に身分を明かす必要があるのだろうと思い、財布から出した学生証を女性に渡す。

 

「同じくアイクライン校のフィナ・ヴァレンタインです」

 

 これも同じ確認作業を済ませた女性は、

 

「予約されているのは、地下の格闘技場ですね。既にご友人は来られていますよ」

 

 シェラは人好きのする微笑みを浮かべ、

 

「ありがとうございます。あの、申し訳ないのですが、運動着とタオルをお借りしてもよろしいですか?」

「はい、承知しました。サイズはどうされますか?」

「二人ともSサイズで、上下だけで結構です」

 

 受付の女性は如才ない様子で二人用のトレーニングウェアとスポーツタオルを用意し、

 

「レンタル代金はIDカード払いでよろしいですか?」

「はい、お願いします」

 

 連邦大学は一つの星であるから、学びの場であると同時に一つの巨大な経済圏でもある。

 当然、経済活動をするためには貨幣が必要となるのだが、多くの学生はIDカードにクレジット機能をつけ、それで日常的な出費をまかなっている。多額の現金を持ち歩くのは防犯上問題があるし、万が一紛失等したときに騒動の種にもなりやすい。その点、クレジットカードならば会社に利用の停止を求めればいいだけだし、その間に誰かに使われていたとしても追跡が可能である。

 反面、学生達にとっては頭の痛い点もある。カードの実質的な契約者である両親がその利用履歴を確認すれば、自分達が一体どんなものを買ったのかがばれてしまうのだ。

 

『ちょっと、今月はお菓子を買いすぎてるんじゃないの?そんなに食べてると太るわよ。次の健康診断の結果、ちゃんと家まで送りなさい』

『ゲームが全て悪いとは言わないが、しかし学生の本分は勉強だ。俺の息子なんだからそこらへんは弁えていると思うが、こんなことが続くようだとお小遣いの減額も考えなければならないな』

 

 カードの履歴が実家に送信される月末あたりになると、こんなメッセージに怯える学生達があちこちで大量発生するのだ。

 しかし、学生達もさるものである。カードを使えばその用途がばれるならば、一旦現金で引き出してから使えばいい。当然、その額が多くなればなるほど親の不審を買うのだが、そこらへんはバランス感覚が重要になってくる。

 カードでの支払いを済ませた二人は、それぞれ男性用、女性用のウェアを受け取り、更衣室へと向かう。

 シェラが入ったのは、当然のことではあるが、男性用の更衣室だ。中で正しく着替えをしていた男子生徒の何人かが、シェラの姿を認めて、ぎょっと目を見開いた。何せ、見た目は少女――しかもその前に「極上の美」と付けるのが相応しい――にしか見えないシェラである。どう考えても、女の子が間違えて男性用更衣室に入ってきたとしか思えなかったのだ。

 

「ちょっときみきみ、こっちは男性用の更衣室だよ。女性用は廊下の向こうにあるから……」

 

 慌てた様子の男子生徒が、シェラに声をかける。

 そんな対応は慣れっこのシェラは、にこやかに微笑みを返し、

 

「ありがとうございます。ただ、わたしは男性ですので、どうぞお気遣いなく……」

 

 そう言われると、声は、声変わりがまだとはいえ少年のものだし、身に着けているシャツやスラックスも男性ものである。

 とはいえ未だ納得がいかないのか、固まってしまった男子生徒の横をすり抜けて、シェラはロッカーに荷物を放り込み、手早く着替えを済ませた。いくつかの視線を感じたが、いちいち気にしていてはきりがない。

 上はTシャツ、下はハーフパンツという、先ほどのウォルのような軽快な恰好のシェラが更衣室から出ると、ちょうど同じタイミングでウォルも女子更衣室から出てきた。

 そのウォルが、どうにも苦い顔だったから、シェラは訝し気に、

 

「どうかしましたか、ウォル?」

「いや、もう慣れたことといえば慣れたことなのだし……別に子供相手に欲情するほどねじ曲がった性癖をしているわけではないのだが……こういう場所に入ると、自分がこすっからい覗き魔かなにかになったようで気が滅入るのだ」

 

 特大の溜息を吐き出しながらそんなことを言う。

 なるほど、見た目が女性にしか見えないシェラにはシェラの苦労があり、見た目と中身が食い違っているウォルにはウォルの苦労があるということか。シェラは苦笑した。

 

「いっそのこと、俺も男性用更衣室を使わせてもらえれば気が楽なのだがなぁ」

「そんなことをすれば、間違いなく騒ぎになりますのでどうかお控えくださいね」

「仕方ない、慣れるまでは我慢するとしよう。しかし、何故いきなり格闘技のトレーニングなどという話になるのだ?」

「実はヴォルフが……」

 

 シェラは事情をかいつまんで説明した。

 過日の大事件――一つの惑星を丸ごと巻き込み、果てにはエストリアの一個艦隊と戦うはめになった大騒動である――の中で、リィ達がインユェと知り合うきっかけとなった小さな事件があった。

 小さいといっても、事件の全体像からすれば小さいというだけの話で、その騒動も決して取るに足らない事件というわけではない。何せ、一つの街を牛耳るマフィア組織を、実質4人(入れ知恵をしたダイアナを含めれば5人だ。)で壊滅させ、その本部ビルを爆破解体までしてのけたのだから。

 その最中で、ヴォルフはルウと、事件が片付いたら連邦大学で遊ぶ――この場合は素手での力比べを意味する――約束をしたのである。

 そして事件は、関わり合った様々な人間に深い爪痕を残し、しかし一応の終息を迎えた。関係者も日々の平穏を取り戻しつつある。

 そんなタイミングで、ヴォルフからルウに連絡があったらしい。今度、連邦大学に住居を移すことになったから、ちょうどいい機会だ、あの時の約束を果たそう、と。

 

「……ヴォルフどのは、確かこの国の軍人なのではなかったか?果たして、こんな時間にもう勤務は終わっているのか?それとも、休暇でも取っているのかな?」

「そのあたりはわたしも何も聞いていないのですが……」

 

 そんな会話を交わしつつ、二人は地下の格闘技場へと向かった。

 格闘技場は、その名のとおり、武道や格闘技を練習するためのスペースである。ボクシングの練習には欠かせないサンドバッグやリング、グローブ、ミットやヘッドギアなどの道具類はもちろんのこと、柔道やレスリングの練習用のマットや道着など、素手の格闘技を練習するためのおよそ全てのものが揃っている。

 普段はウォルもシェラも足を向けるような場所ではないのだが、この日は特別であった。

 「使用中」の札のかかった扉を開けると、まず目に飛び込んでくる広いリングの中で、二人の人間が向かい合っていた。

 二人はともに、ボクシング用のグローブとヘッドギアを身に着けている。足は裸足だ。そして脛には安全のためレガースを着用している。

 一人は、およそ人間というカテゴリに含めるのが憚られるほど、横にも縦にも巨大な人間であった。その身体はトレーニングシャツの上からでも分かるほど、ごつごつと盛り上がった筋肉で覆われている。まるで大岩をそのまま人間にしたような身体だ。

 その巨人と対峙しているのは、見た目女性のようになよやかな青年である。やはりトレーニングウェアに身を包んだ青年は、身体のどこにも、筋肉で盛り上がったような箇所はない。寧ろ、筋肉と筋肉の境を探すのが難しいような滑らかなラインで、しかし脂肪は最低限、そして必要な筋肉は必要なだけついている、そういう身体だ。人で例えれば一流のダンサー、獣で例えれば若いチーターだろうか。

 体重で言えば、おそらく倍、いや、3倍ほどの開きがあってもおかしくない二人である。

 しかし、息を乱し、肩で呼吸しているのは巨人のほうであった。

 

「そろそろギブアップ?」

 

 両手をだらりと下げた青年が、柔らかい微笑みを浮かべながら言った。

 

「いやぁ、まだまだだね」

 

 両の拳で頭を挟み込むように構えた巨人が、こみ上げる笑みを堪えるように言った。

 その拍子に、巨人が、驚くほどの速度で間合いを詰め、左手でジャブを放つ。

 シェラやウォルでも見切れない程の速度の拳を、しかし青年は柔らかな表情そのまま、スウェーバックで躱す。

 上体を後ろに折り曲げた青年の鼻先、僅か数ミリのところで拳が止まる。まるで、グローブと唇と触れ合うような距離感。

 恐るべき見切りの技術である。

 しかし巨人は、もう何度も繰り返されたその光景に慣れたのか、軽くステップして再度間合いを詰め、今度は返しの右ストレートを繰り出す。

 これもまっすぐ、凄い速度で青年の顔向けて、一直線の打撃である。

 もしも当たれば、一撃でKOされかねない攻撃を、しかしノーガードの青年は、今度は上体を横に振って躱す。

 

「ちいっ!」

 

 巨人が舌打ちをして、逃げる青年を追いかけ、左のフックを繰り出す。

 否、繰り出そうとした。

 そして青年はその隙を見逃さなかった。

 左フックを放つために僅かに下がった左手の隙間を縫うように、青年の右足は宙を走り、そして巨人の頭部を思い切り蹴り飛ばした。

 頑強を誇る巨人も、防御と意識の両方をすり抜けた一撃には流石に耐えられなかったのか、がくりと膝を落とした。

 一瞬の攻防であった。

 

「これで決まりだね」

 

 そう言った青年はヘッドギアを外す。

 ほとんど汗すらかいていない青年は、爽やかに微笑みながら、膝をついた巨人を抱え起こした。

 

「ヴォルフ、大丈夫?」

 

 頭を振りながら、巨人は――ヴォルフは立ち上がった。

 

「かーっ、今のは効いたなぁ!ナイスキックだ、ルウ!」

 

 悔し気というより、寧ろ嬉しそうな様子でヴォルフは言った。

 

「結構……いやいや、完全に本気でやったのに、こんなにこてんぱんに叩きのめされたのはいつ以来だろうなぁ!」

「そのわりには凄く嬉しそうだねぇ」

 

 呆れたように青年――ルウが言う。

 

「ああ、嬉しいともよ!なんでもそうだが、やっぱり乗り超えるべき目標があってこそ燃えるってもんだからな!次はこうはいかねぇからな!絶対に叩きのめしてやる!」

「ぼくもほとんど手加減しなかったんだけどなぁ。普通の人なら、きっと10回は入院しているくらいは攻撃したはずだよ。それでもぴんぴんしてくれてるから嬉しくなっちゃうよね。こういうふうに遊べる人って貴重だから、これからも友達でいてね!」

 

 結構怖いことをさらっと言うルウであったが、ヴォルフは嬉しそうに頷いている。人外連中にはなんとも似合いの、物騒な友誼が結ばれているようだ。

 リングの横に目を移すと、そこでは、リィとインユェがレスリングのスパーリングをしている。

 キャンパスマットの上でにらみ合った二人の間に、色濃い緊張が満ちている。

 お互い腰をかがめ、額をこすり合わせるような体勢で、手を差し合いながら相手の隙をうかがっている。ただ、インユェは馬力でリィに劣るのを自覚しているので、どちらかというとリィの手を払い、組み合うのを嫌がっている印象だ。

 そんなインユェの手をかいくぐって、リィが低空のタックルを仕掛ける。目が覚めるような速度だ。だがインユェはそれを予想していたのか、両足を引き、上から体重を乗せてリィを押しつぶそうとする。

 それに対して、リィは柔軟に身体を捩り、覆いかぶさってきたインユエの身体を逆に持ち上げ、見事に後方へと投げ飛ばした。

 インユェは背中からマットに落とされ、そして上に乗ったリィに抑え込まれてしまった。インユェは両手両足をばたつかせるが、リィの抑え込みはびくともしない。

 

「はーい、そこまでー。あほちび、これでお前の10連敗だな」

 

 審判役を引き受けていたメイフゥが、欠伸を嚙み殺しながら言った。

 その言葉を聞いて、抑え込みを解いたリィが、ふぅと軽く息をついて立ち上がる。

 

「ちくしょー、勝てねぇ!いつも思うが、その細っこい体のどこにそんな馬力がありやがんだ!リィ、この詐欺生物め!」

 

 全身汗みずくのインユェが、仰向けに寝転びながら、乱れた息で途切れ途切れそんなことを言う。

 そんな彼を笑顔で見下ろしながら、ルウと同じく汗一つかいていないリィは、

 

「まだまだだなインユェ。それでもまぁ、あの酒場の時と比べればずいぶん見られたもんになってるよ」

「あの時のことは思い出させるなよな、これでも十分反省してるつもりなんだからよ」

 

 銀髪をがしがしと搔きながらインユェは身体を起こした。

 確かにインユェにとってあの時の醜態は一生ものの恥部である。冷静に振り返れば、一体どれだけの人に迷惑をかけてしまったか、正しく赤面の思いだ。

 しかしそれが、今連邦大学にいるきっかけになったのも事実であり、そしてリィやルウ、シェラやヴォルフと知り合うきっかけにもなったのだ。

 人生万事塞翁が馬とはよくいうことわざであるが、いつかあの時のことも笑って話せる日がくるのだろうか。

 なんとも苦い思いで立ち上がったインユェは、入口にウォルの姿を――インユェにとって、この宇宙で一番愛しい少女の姿を見つけた。

 

「ウォル!」

 

 目を輝かせたインユェが、先ほどまでのくたびれた様子はどこへやら、正しく尻尾を振り回さん有様でウォルに駆け寄る。

 かつてウォルのことを奴隷と呼んだことがあるインユェだが、これでは立場がまるで逆、ウォルが飼い主でインユェが忠犬のようにすら見える。

 ウォルは困ったように微笑んだ。

 

「ウォル!どうしたんだよ、急に!来れるなら、迎えに言ったのに!」

「インユエ、気持ちは嬉しいが、あまり大っぴらにそういうことをされても困るぞ。なにせ、お前は結構ファンが多いようだ。彼女たちの恨み嫉みを買うのは、どう考えても得策ではないからな」

 

 そうなのだ。

 インユエは、結構女子学生から人気がある。

 金銀天使と並ぶとどうしても目立たないが、実は十分以上に整った顔立ちであるし、加えて、宇宙生活者特有の陰のある佇まいが、年頃の女子生徒などからすれば野性的な魅力として映るらしい。

 その結果、インユエとメイフゥが連邦大学に転入してからの短い期間に、結構な数の愛の告白を受けており、しかしその全てをけんもほろろに断っている。

 そのインユエが、ウォルにこれほどぞっこんということが衆目の知れるところとなれば、謂われなのない嫉妬の刃がウォルに向けられたとしても不思議ではない。

 万が一そういった事態になったとしても、ウォルとしては別に痛くも痒くもないのだが、しかし避けられる面倒事は避けるに如かずであるから、学内ではそれなりの距離間で接するようお願いしているのである。

 少ししゅんとしてしまったインユェだが、気を取り直したように、

 

「でも、今日はいいじゃねぇかよ!なんたって、ここは貸し切りなんだから、別に誰の目も気にする必要はねぇさ!」

 

 通常、トレーニングルームは共同使用が原則である。

 だが、クラブ活動のように多人数で使用する場合や、他の学生に見られたくない等、事情があれば部屋の専用使用は認められている。無論、他に使用する予定の学生がいる場合はそちらが優先されるため、今日のように部屋を一つまるごと借りられることはまれである。

 だからこそ、普段は全力でトレーニングなど絶対できない――もしもそれが他の学生にばれてしまえば、クラブ間の勧誘合戦が始まることは目に見えている――ため、こういうふうに思い切り身体を動かせる機会は貴重である。

 

「じゃあ、早速だけどウォル!ちょっとトレーニング付き合ってくれよ!」

 

 インユェが、今は空のリングを指さして言う。

 ウォルは苦笑しながら、

 

「分かった分かった。少し待て、準備運動するから」

 

 いくらウォルとはいえ、いきなり思い切り身体を動かすのは危険である。柔軟運動やウォーミングアップをせずに最初からトップギアで運動すれば、怪我のリスクがあるのだ。

 シェラと二人で軽くストレッチを行い、体を温めるための準備運動を行う。

 その様子を見ていたインユェは、

 

「……シェラ、悪いけど、ちょっと代わってもらってもいいか?」

 

 前屈するウォルの背中を押していたシェラに、声をかけた。

 シェラは、思春期真っただ中のインユェが、想い人の身体に触れる機会を狙ってそんなことを言ったのかと訝しんだが、どうにもインユェの声はそういった調子ではない。それに、まだ短い付き合いではあるが、そういった恥知らずで姑息な真似をする少年ではないと、一応は信用している。

 首を傾げたシェラが、

 

「ええ、いいですよ」

「悪いな」

 

 今度はインユェがウォルの背中を押す。

 ウォルの身体は、同年代の少年少女と比べても遥かに柔軟で、背中を押すまでもなく、ほとんど足と胸がくっつくほどに柔らかい。

 なので、インユェは別に力を込めたわけではないのだが、インユェの指は、記憶にあるよりも深く、ウォルの背中に埋まってしまう。

 そしてインユェは、何気なく――そして彼を弁護するならば、一切の悪気なく――決定的な言葉を口にした。

 

「ウォル、お前太ったか?」

 

 ぴしりと、空気がひび割れる音が響いた。

 インユェには、ほとんどの人間がそうであるように、美点があれば汚点もある。神ならぬ人の身である以上、それは無理からぬことであろう。しかし、彼特有の特大の悪癖があるとすれば、正しくこれであった。

 例えば『紅の魔女』と共和連邦宇宙軍の猛者から恐れられる女丈夫に対して、ベッドの中で尻を叩いてやると挑発したように。

 例えば宇宙最速時代の最先端を存在命題とする感応頭脳に対して、ジャンクパーツ屋のボロ宇宙船と罵ったように。

 この少年は、恐るべき女性に対して、最悪のタイミングで、致命的かつ極めて効果的に、余計な一言を口にしてしまうのだ。

 そして、その悪癖は、今、この場においても、十分すぎる威力で炸裂した。

 近頃の悩みの種を、シェラに控えめに指摘され、くさくさしていたウォルの逆鱗は、あまりにも不用意なインユェに一言に対して、怒りの雷光を孕むように逆立った。まして、シェラはウォルのためを思って過度の食事を諫めてくれたのに対して、インユェは無神経な一言でウォルの気にしているところに痛撃を加えたのだ。どちらに怒りの矛先が向かうかなど、言うまでもない。

 

「いーんーゆーえー?」

 

 ぎぎぎ、と、石臼を挽くように重たい様子で振り返るウォルは、凄絶な笑みを浮かべている。

 その時点で、遅まきながら自分の一言が如何に軽率で、如何に命知らずなものかを認識したのだろう、恐れおののくインユェが数歩後ずさり、

 

「ちちち、違う、ウォル、そういう意味じゃない!」

「ほーう、では一体、どういう意味なのかを聞かせてもらおうか」

 

 ゆらりと、背後に怒りの陽炎を纏うように立ち上がった少女は、リィやルウ、シェラなどから見ても、かなり怖い。

 そして、メイフゥの諦めたような溜息と、楽し気なヴォルフの顔。

 

「ええっと、そう、いい意味だ!いい意味で太ったっていうか、ふっくらしてもっと可愛くなったっていうかだな、そう、つまりおれはお前に惚れなおしたっていうことなんだ!」

「よし、遺言はそれでいいのだな?」

「遺言じゃない!愛の告白だ!」

「人の気にしていることをずけずけ言っておいて、愛の告白とはよくぞほざいたな。よし、おれも男だった時は、余計な一言がきっかけで女連中には随分酷い目にあわされ、女というものの恐ろしさを身に染みて分からされたものだ。今からお前にも、たっぷりと思い知らせてやるとしよう!」

 

 ウォルはそう言いながら、この場から逃げ出すために踵を返したインユェの襟首をむんずと捕まえ、無慈悲な表情で少年の身体をリングの中に放り込んだ。

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