懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百話:Fight!

「お騒がせしてすみません、私はこういうものです」

 

 闖入者である男子生徒は、居並んだ面々の個性的な様子に若干気圧されつつも、腰の低い態度で名刺を差し出した。

 一同の代表として腰を上げたルウは――本来であれば年長者であるヴォルフの役割なのだが、彼は学生ではないので、ルウに役割を譲ったのだ――、名刺を受け取った。

 

「『連邦大学学生放送局ノーマン・ディーゼル』……TBSB(ティラボーン・スチューデント・ブロードキャスター)の方ですか?」

 

 ルウの質問に、男子生徒――ノーマンは頷く。

 TBSBは、運営主体が学生でありながら、連邦大学における一種のマスメディアの役割を担っている組織だ。政治、経済、スポーツやバラエティーなど、その放送内容は多岐に渡る。大手のマスメディアに比べれば取材力や資金力に大きく劣るものの、学生ならではの視点や企画力、そして連邦大学OBOGによる協力もあり、結構な人気を誇っているメディアである。

 基本的には課外活動の一環という扱いであるから、無給であるにも関わらず拘束時間が長いため、敬遠する学生も多い。しかし、中々やりがいのある活動であり、著名人と接する機会が多いなど貴重な経験もでき、なにより卒業後の進路として大手マスメディアを選ぶ学生にとってはTBSBに所属していたことは大きなアドバンテージとなることから、結構人気の課外活動となっている。

 どうやら、ノーマンを名乗る青年もその一員らしい。

 

「実は折り入ってお願いがありまして……あの、もしよろしければ、この格闘技場を、しばらくの間、取材のために使わせていただくわけにはいかないでしょうか?」

「取材のためですか……ええっと、それはつまり、ぼく達がこの場所を使いながらの取材だとまずいと、そういうことですよね?」

「本当に申し訳ありませんが、はい、できればこの場所全てを取材のために使いたいんです……」

 

 ノーマンは、平身低頭の様子でルウに頼み込む。

 ルウは少し困惑気味に、

 

「あの、お願いを無下に断るつもりはないんですが、念のため確認させてください。ぼく達はこの場所の専用許可をもらっているはずなんですが、それはご承知ですよね?」

「はい、重々承知しています」

「もしよろしければ、事情を教えてもらってもいいですか?」

「もちろんです」

 

 ノーマンの語るところはこうであった。

 今回、彼の業務は、先日連邦大学で行われたTBO――ティラボーンオリンピックの金メダリストの取材だったらしい。

 本来は、その選手の所属する学校の体育館で取材を行うつもりで、日程や場所を確保していたのだが、選手の都合で急遽今日取材を行うことになってしまった。そして悪いことに、取材場所であった体育館は別の行事で既に使用が決まっており、近くの体育施設も軒並み予約済み、辛うじて交渉の余地がありそうなのが、唯一このノープス中央体育館だったらしい。

 

「その選手の取材は、次の放送の目玉なんです。何としても成功させたいと思ってまして……」

「ちなみに、その選手っていうのは誰なんです?」

 

 ルウの質問に、

 

「レオン・オリベイラです」

 

 ノーマンの答えに、しかしルウは首を傾げる。

 

「何の種目の金メダリストなんですか?」

「ええっ!レオン・オリベイラを知らないんですか!?」

 

 軽く目を剝きながらノーマンが問い返す。

 一方、質問に質問で返されたかたちのルウは困惑顔だ。彼は、人並にニュースに目を通す人間ではあったが、それは政治経済などが中心で、スポーツ分野には少々疎かった。

 ルウは助けを求めるように、リィ達に視線を寄越したが、リィ達も首を横に振った。リィはルウに輪をかけて世間の話題に興味が無かったし、シェラはまだスポーツの詳細についてすら不分明だ。宇宙生活者であったインユェとメイフゥは地上のイベントに興味がなく、ウォルはTBOやら金メダリストやらの単語の意味すらよくわからない。

 結局、この場で唯一話題についていけそうなヴォルフが、苦笑交じりに助け舟を出した。

 

「レオン・オリベイラっつったら、確かMMAの無差別級金メダリストじゃなかったかな?それに、SNSなんかでも自分の試合やら練習風景やらを投稿して、随分人気者だったはずだぜ」

 

 ノーマンは、救い主を見るようにヴォルフを見て、

 

「そうです!そのオリベイラ選手の取材なんですよ!」

「ヴォルフ、MMAってなんだ?」

 

 リィの質問である。

 ヴォルフは顎の無精ひげを撫でつつ、

 

「ミックスド・マーシャル・アーツ、つまり総合格闘技ってやつだな。ありていに言えば、ルールのある喧嘩だよ」

「ルールって、例えば?」

「ざっくり言やぁ、噛みつかない、目んたまやきんたまを狙わない、髪の毛を掴まない、そんなところだな」

 

 リィは不思議そうに首を傾げ、

 

「ずいぶんお行儀の良い喧嘩だな。人体に対して一番有効な攻撃が軒並み禁止されてるじゃないか」

 

 リィの、彼らしい意見にヴォルフは苦笑し、

 

「リィ、お前の意見には賛成だが、牙を剥きだしにして噛み合いっこ、急所を狙い放題じゃ、喧嘩は喧嘩でも、野獣の喧嘩だ。スポーツってやつは、もう少しお上品なのさ」

「ふうん、それじゃおれにはそのスポーツはできないな。多分、相手と向かい合った瞬間に股間を蹴り上げて、いっぱつで反則負けだ」

「もっともな意見だ。少なくとも、お前さんやウォルが本気で噛みついて、相手選手の腕やら足やらが食いちぎられる試合なんざ、どう考えてもテレビで放映できるはずがない。だから、お前さんは俺みたいな頑丈なのを相手に憂さ晴らしするのが似合いだぜ」

 

 ヴォルフはそう言ってからから笑う。 リィも、ヴォルフの意見に全面的に首肯した。

 一方、ファンタジーゲームに出てくる巨人モンスターのようなヴォルフと、中世の天使画から抜け出してきたようにしか見えないリィが、ぽんぽんと物騒な会話を繰り広げていることに圧倒されていたノーマンは、ようやく自分の使命を思い出したのか、こほんと咳払いをして、

 

「と、とにかく、オリベイラ選手の取材は何としても成功させたいんです。そのために、この場所をお借りしたい。不躾なお願いとは理解していますが、どうかご協力いただけないでしょうか?」

 

 ノーマンが再度、頭を深々と下げる。

 ルウは肩を竦め、

 

「どうする?」

 

 一同を振り返り、意見を求めた。

 一瞬、周りの反応を探るような空気が流れたが、

 

「別にいいのではないか?もう、一通り身体は動かしたし、ヴォルフどのとルウとの約束とやらも果たしたのだろう?」

 

 黒髪の美しい少女が、似合わない男口調で言う。

 ヴォルフとルウは、ウォルの意見に頷いた。

 

「俺は別に構わねぇぜ」

「僕も。エディは?」

 

 リィは、シェラやインユェ、メイフゥに目配せする。結果、全員が頷いた。

 

「いいんじゃないか?だいたいこの場所だって、他に使う人がいないから専用が認められたんであって、取材なんていう真っ当な理由があったなら、そっちが優先されていたはずだ。なら、寧ろおれ達のほうから譲るべきだと思う」

 

 優等生的なリィの意見を聞いて、ルウも頷き、そしてノーマンに体を向ける。

 

「聞いてのとおりです。ぼく達も十分身体を動かしましたし、この場所を取材に使っていただいて結構ですよ」

「ああ、ありがとうございます!本当にありがとうございます!」

 

 ノーマンが、ルウに対して拝まんばかりに礼を言う。

 別に感謝されたくて場所を譲ったわけではないから、ルウは苦笑いを溢し、

 

「それじゃみんな、帰ろっか。ぼくとヴォルフが車で来てるから、寮まで送るね」

「なら途中で飯でも食ってくか。さっきも言ったが、当面は懐もあったかいから、奢るぜ学生諸君」

「お、太っ腹だねヴォルフ!これでもう少し金持ちなら、あたしの未来の旦那様候補なのになぁ!」

 

 そんな具合で、さて引き上げようという空気になった一同に、ノーマンが声を掛ける。

 

「あの、皆さん、もしお急ぎでなければですが、取材を見学していかれませんか?もし皆さんが格闘技に興味がおありなら、TBOの金メダリストの練習を目の前で見られるというのは、中々貴重な体験だと思うのですが」

 

 そう言われて、また全員が顔を見合わせた。

 本当ならば、この後ももう少し身体を動かそうとしていたくらいだから、特に急いでいるわけではない。

 さてどうしようかというところで、ウォルが手を挙げ、

 

「せっかくだから、この世界の闘技者の頂点を見られるなら見ておきたいな」

 

 ウォルの意見に、一同は頷く。そして、部屋の隅に腰を下ろし、取材見物という流れとなった。

 ノーマンは、早速自身の携帯端末で各所に連絡を入れ、取材場所が確保できたことを知らせ、機材などを部屋に搬入する。大型のカメラやマイク、見たことのない機器が流れ作業で組み立てられ、あっという間にテレビの取材現場が出来上がる。

 そして最後に、随分と体格のいい一団が入室してきた。年の頃は大学生だろう、すでに大人といってよい精悍な顔立ちだ。その中に、一際体格の良い学生がいる。傍らに女性を二人侍らせ、何やら楽しそうに話をしている。浅黒い肌、しかし短く切った髪は真っ赤に染めており、顔にはサングラス、胸元には太い金属のネックレス、腕には複雑な意匠のタトゥーを入れている。品行方正な学生が多い連邦大学では、あまり見かけることのない類の人間だ。

 その男が、室内に入って来るや否や、真っ先に口を開き、

 

「なんだ、ここ。せまっ苦しいし、汗くせぇし、こぎたねぇな。豚小屋かよ」

 

 くちゃくちゃとガムを嚙みながらそんなことを言った。

 ノーマンは、冷や汗を流しそうな様子で、

 

「も、申し訳ない、ミスターオリベイラ。スケジュール的に、どうしてもここしか抑えられなかったんだ」

 

 元々、ノーマンという人間の性質なのか、腰が低いというよりも卑屈な様子に映る有様で、傲岸なオリベイラの機嫌を取っている。

 そんなノーマンを、文字通り睥睨しながら、オリベイラは、不遜な口調で続ける。

 

「TBOの金メダリストを呼びつけておいて、こんなみすぼらしい場所でインタヴューかよ。TBSBさんもやる気がねぇみたいだな。俺、帰ろっかな」

 

 ガムを風船のように膨らませて不機嫌を隠そうともしない。まるきり、へそを曲げた子供の有様である。

 

「そんな恐ろしいことを言わないでくれよ、ミスター。確かに、本当ならもっと見栄えのする場所で取材を行うつもりで場所も時間も押さえていたんだけど、急なことでこちらも対応が難しかったんだ」

「あー、それって俺のせいで予定が狂っちゃったから、悪いのは俺ってことを言いたいわけ?」

 

 いかにも威圧的に、今にも襟首を掴まんように、オリベイラはノーマンに詰め寄った。

 ノーマンは、目に見えて顔を青ざめさせた。取材対象に機嫌を損ねられるのも怖いが、それよりなにより、オリベイラという男が直截的に放つ暴力の匂いに、荒事に不慣れなノーマンが萎縮してしまっているのだ。

 

「そ、そんなことを言うつもりはなかったんだ。気を悪くさせたなら謝罪するよ」

「そうだよな、お前らのくだらないマスコミごっこに付き合って、寝る間もないほど忙しいTBO金メダリストが貴重な時間を割いてやっているんだ。本当なら這いつくばって礼を言っても罰は当たらねぇぜ」

 

 オリベイラはにやにやと笑っている。そして、オリベイラが連れてきた取り巻き連中や、侍らせた女達も、ノーマンを見下すようにして嘲笑っていた。

 どうにも気分の良い眺めではないなと、リィ達は辟易した。オリベイラという男がどれほど選手として傑出しているかは知らないが、精神年齢は幼児期から成長していないと見るべきであろう。

 そんな、ノーマンとオリベイラのやり取りの背後で、 TBSBのスタッフがひそひそ声を交わす。

 

「なんだ、あの態度。確か、予定を変えたのだって、今日、いきなりあちらさんが言ってきたんだろう?」

「いけしゃあしゃあと、ファンの女の子を招いてパーティーをするから日程を変更してくれって言ってきたらしいぜ。どうしてそんなやつにへいこらして、取材してやらなきゃならないんだよ」

「仕方ないさ。悔しいけど、オリベイラは確かに人気がある。トラッシュトークやら派手なパフォーマンスやら、反発する人間も多いけど、熱烈なファンが多いのも事実だ。次の放送の視聴率を考えたら、どうしたって成功させたいっていうノーマンの気持ちもよくわかる」

 

 彼らの声が聞こえたわけではないだろうが、オリベイラはノーマンから視線を外し、格闘技場をぐるりと一瞥した。その視線には、施設の陳腐さを見下す侮蔑の意思が込められている。

 その視線が、リィ達に向けられて停止する。

 

「おい、何だよあいつらは」

 

 この場にいるのが、自分がどんな悪態をつこうとも揉み手を作らざるを得ないスタッフだけだと思っていたのだろう、明らかにそれとは違う雰囲気のリィ達を見つけて、少し焦った調子だった。

 オリベイラの質問にノーマンが答える。

 

「あ、ああ、彼らは元々この格闘技場を予約していた一般学生さんだよ。今回の取材のために、場所を譲ってくれたんだ。せっかくだから、きみの取材を見学してもらおうかと思ってね」

「見学だと!?勝手な真似をしやがって!俺はそんなこと、一言も聞いちゃいねぇぞ!」

 

 激昂したオリベイラはノーマンの襟首を掴んだが、しかしリィ達を二度見して、その手をゆっくり離した。

 たまらず咳き込むノーマンに、もはや一瞥もくれず、リィ達の方に歩み寄ってくる。その視線には、めぼしい牝を見つけた、発情期の雄特有の脂ぎった欲望が滾っていた。

 

「やぁ、見苦しいところを見せたね、すまなかった。少し今日はくさくさしていてさ。きみたち、俺のファンかい?」

 

 あまりに分かりやすすぎるオリベイラの態度に、リィは軽蔑を込めて微笑する。

 

「先に言っておくけど、おれは男だぞ」

「わたしもです」

 

 シェラがリィに続く。

 オリベイラは唖然として二人を見て、それから悔しそうに唾をマットに向けて吐き出した。

 

「なんだよ、紛らわしい。男のくせにそんななりしてんなよな。紛らわしいったらねぇぜ」

 

 そして、気を取り直して、メイフゥとウォルを見る。

 

「きみたちはどうなのかな?まさか、その恰好で男ってことはないよね?」

 

 メイフゥの豊かに膨らんだ胸を凝視しながら、そんなことを言う。

 

「もしよければ、この後で食事とかどうかな?俺の知り合いに、この近くでレストランを経営してるやつがいてね。本当は予約が半年先まで埋まってる店なんだけど、きみたちは特別だ、今日招待してやるよ。そのあと、最高の雰囲気のバーにも案内してやる」

「で、その後は?夜景の綺麗なホテルにでも案内するつもりかい?」

 

 メイフゥは、呆れの吐息をつきながら、肩を竦めた。惑星ヴェロニカの酒場で、バニースーツを着て酔客の相手をしていたときから、こんな輩には慣れっこではあるが、素面の相手にここまで明け透けな欲望をぶつけられるのは久方ぶりであった。

 今日初めて顔を合わせて、そもそもオリベイラのことなど露ほども知らない自分達に、いきなりこの態度である。よほど自分に自身があるというべきか、なんというべきか。ありていに言えば、この男には羞恥心とか自制心とかが致命的に欠けているとしか思えない。

 この男が何様かは知らないが、これ以上この場所にいて、何か利益があるとは思えない。さっさと退散しようかと、腰を上げた。

 その動作をどのように誤解したのか、オリベイラはにたりと嫌らしい笑みを浮かべ、メイフゥの二の腕を掴んだ。そしてそのまま、自分のほうに引き寄せようとする。

 

「おい。あたしは、あたしの身体に触っていいなんて、一言も言ってないはずだぜ」

 

  メイフゥは反射的に、オリベイラの顔面を殴ろうとした。一同は、オリベイラが紙屑のように吹き飛ぶ姿を予想した。

 しかし、流石に格闘技のチャンピオンであるオリベイラは、十分に加減したものであったとはいえ、メイフゥの裏拳を辛うじて躱してみせた。だが、拳が掠めたサングラスが、部屋の反対側まで吹き飛んでいった。

 冷や汗を流したオリベイラが、ひゅうと短く口笛を吹く。

 

「いいね、気の強い女は好きだぜ。特に、そういう女がベッドの中で俺好みに変わっていく様子がたまらねぇ」

「そうかい、じゃあ今から、あたしをベッドに連れ込めるかどうか、試してみるかい?」

 

 メイフゥが、長い舌で、唇を艶めかしく湿らせて、挑発的に言った。

 オリベイラの喉が、ゴクリと鳴る。実際のところ、メイフゥの容姿はオリベイラの好みそのものであった。男好きのするスタイル、整った目鼻立ち、何より決して男に靡かない強気な視線。それを、自分に従属する媚びた牝のものに変わる様を思い浮かべて、オリベイラは鼻息を荒くしていた。

 そしてメイフゥはといえば、酒場で酔客に尻を撫でられるくらいはサービスと割り切っているものの、全ての女が自分の思い通りになると勘違いしている男など、彼女にとって狩りの獲物でしかないのである。今までもそうだったし、これからもそうだ。そして、今回だけを例外にする必要性など微塵も感じていない。

 獰猛に牙を剥き、今にも飛びかからん様子のメイフゥの前に、しかしコンクリートの壁より分厚い体躯が立ちはだかった。

 

「やめとけメイフゥ。そんで、命が惜しかったらそこらへんにしときな、兄ちゃん」

 

 そう言って、メイフゥとオリベイラの間に割って入ったのはヴォルフだった。

 オリベイラも、人並外れて大きな体躯の男である。身長は2メートルに近く、体重は100キロを軽く超えているだろう。

 しかし、ヴォルフはオリベイラをして見上げるほどに大きい。単純に比較しても、頭一つ以上サイズが違う。それも、例えばバスケットボールやバレーボールの選手のように、ひょろりと大きいのではない。ボディビルダーも真っ青という筋骨隆々の体格で、上背がそれだけあるのだ。

 縦にも横にも奥行きにも、肉体の持つ迫力という意味で、オリベイラはヴォルフに圧倒されていた。

 それでも、自分はこの星で一番強い男だという自負心、それとも虚栄心だろうか、オリベイラはにやついた表情でヴォルフに問いかける。

 

「命が惜しかったら?そりゃあどういう意味だい、おっさん」

 

 まだ二十代も半ばのヴォルフは、軽く肩を竦め、

 

「言葉通りだよ。あんたが何者か知らないが、命が惜しかったら、それとも、今日自分の足で歩いて家まで帰りたけりゃ、そこらへんにしとけ。悪いことは言わねぇからよ」

 

 苦笑交じりにそんなことを言う。

 リィ達にすれば、ヴォルフの言葉は、『これ以上お前がメイフゥに言い寄れば、彼女の鉄拳制裁により足腰が立たなくなるぞ』という警告である。

 しかしオリベイラにしてみれば、これは、自分の女、もしくは知り合いを守るため、義侠心を見せたヴォルフが自分を脅しつけたようにしか思えなかった。

 結果、オリベイラは矛先を変え、ヴォルフに対して狂犬の視線を向けてせせら笑い、

 

「恰好いいじゃねぇかおっさん、てめぇの女を守るために、TBOの金メダリストに立ち向かうのかよ。いいぜ、ついでだ。あんたさえ良けりゃ、もう一つ武勇伝を作っていくかい?その身体だ。喧嘩の一つや二つ、やったことあるんだろう?それとも、そのなりで、実はいじめられっ子でしたって口かい?」

 

 親指でリングを指し示しながらそんなことを言う。

 ヴォルフはオリベイラの質問に答える必要性を見出さなかった。ヴォルフが経験してきたのは、喧嘩の一つや二つではない。文字通り、殺すか殺されるかの戦場をいくつも渡り歩き、語弊を恐れずに言うならば、その戦場でもって殺した敵兵やテロリストの数で、少尉の階級を得たのだ。素手の喧嘩など、彼にとってはただのじゃれ合いの域を出ない。

 断るべきなのだろう。この場を収めるならばそうするべきだし、そもそもメイフゥの暴発を止めるために自分は二人の間に割って入ったのだから。

 それでも、自身の身体が、果たしてMMAのチャンピオンにどれだけ通用するのか。むくむくとした興味が湧き上がってくるのをヴォルフは感じた。どうせ負けたとしても、腕や足の一本を折られて終わる程度のことだ。大したことではない。

 

「ふむ、それはそれで面白そうだな。よし、いっちょやってみるか、オリベイラさん!」

 

 ばしん、と、オリベイラの肩を叩いたヴォルフは、遊びに誘われた子供のように目を輝かせ、うきうきとした調子でそんなことを言う。

 オリベイラは一瞬うろたえた。例えば、女の前で格好つけた男が虚勢を張って勝負を受けたり、自分と同じように狂気を身を委ねて襲い掛かってきたりは想定していたが、こうも無邪気な様子で勝負を受けるとは、一体どんな魂胆があってのことかと思ったのだ。

 だが、リングの中は、文字通りオリベイラの土俵である。例えこの大男がどれほどの怪力があろうと、チャンピオンの自分に勝てるはずがない。

 オリベイラはほくそ笑み、

 

「おい、TBSBさんよ!予定変更だ!インタビューの真っ最中、飛び込みで挑んできた道場破りを返り討ちにする金メダリスト!スパーリングパートナーとの退屈な練習風景なんかより、ずっとスリリングで面白い映像になるだろ!」

「ちょっと待ってくれオリベイラ!そんなの聞いてない!それに危険過ぎる!」

 

 ノーマンが悲鳴を上げる。オリベイラは確かに人気選手であるが試合態度には大いに問題があり、相手選手に必要以上の攻撃を加えて重大な怪我を負わせたり、反則スレスレの攻撃で相手を痛めつけることがしばしばだったのだ。それが素人に向けられれば、下手すれば怪我ではすまないかもしれない。そうなってしまえば、取材どころの話ではなくなってしまう。

 だが、オリベイラは既にその気のようだ。身に付けていた派手な服を脱ぎ捨て、見事に鍛えられた上半身をあらわにする。ズボンがそのままなのは、ヴォルフを素人と侮ってのことだろうか。

 ヴォルフもその様を見て、嬉しそうにリングに入る。普通ならロープを潜って入るのだが、巨体のヴォルフはロープを跨いでリングに入った。

 慌てたTBSBのスタッフが二人を止めようとするが、オリベイラの取り巻き達が、にやついた笑みを浮かべながら、スタッフがリングに近づこうとするのを制した。彼らにとってはこの程度のこと、正しく日常茶飯事であり。オリベイラがヴォルフを叩きのめすことを少しも疑っていない。

 翻ってリィ達はといえば、突然目の前で繰り広げられつつある決闘に、しかしのんびりとした表情で、

 

「どうする、止める?」

 

 暢気なルウの言葉に、相棒であるリィは、

 

「ヴォルフがやりたいって言ってるんだし、そもそも挑発してきたのはあちらさんだ。おれ達が止める義理もないだろ」

「リィの言うとおりだな。それに、所詮は素手の取っ組み合いであろう?男同士、互いに了解の上だ。別に、大の大人が慌てて止めに入るようなことでもあるまいよ」

 

 やはり暢気な調子で、少女にしか見えないウォルが応じる。

 シェラ、インユェとメイフゥも同じ意見なのか、慌てふためくTBSBのスタッフ達を尻目に、壁に背を預けて座り込み、やれ試合観戦といった風情だ。

 

「おい、みんな。せっかくだからよ、いっちょ握らねぇかい?」

 

 メイフゥが楽しそうに言う。この場合の握るとは、要するに賭けのことだ。

 

「どっちが勝つと思う?ヴォルフか?それとも、あの品性ゼロのチャンピオンか?」

 

 煽るようなメイフゥの言葉に、

 

「ヴォルフ」

 

 短く言ったのはリィであり、そしてその後、全員が頷いた。

 

「なんだ、賭けになりゃしねぇな。面白くねぇ」

 

 メイフゥが詰まらなさそうに天井を見上げた時、リングの中央では、ヴォルフとオリベイラが向かい合っていた。拳にMMA用のオープンフィンガーグローブを身に着けている以外、互いに身を守るヘッドギアやレガースなどは着用していない。

 

「おい、おっさん。防具はつけなくていいのかよ」

 

 オリベイラが、ヴォルフを見上げながら言う。

 ヴォルフは顎の無精ひげを撫でさすり、

 

「いやぁ、せっかくチャンピオンの攻撃を体験できる貴重な機会だ。防具なんてつけてちゃもったいないだろう。それより、あんたこそ防具はいらないのかい?」

 

 その言葉を侮辱と受け取ったのか、オリベイラの浅黒い肌が紅潮し、目が据わる。オリベイラの取り巻き達は、それが危険な兆候であることを知っていた。この巨人があっという間に叩きのめされ、自らの血の海に沈む光景を確信し、にたにたと笑った。

  

「ルールは?」

 

 今にも牙を剥きそうな顔のオリベイラが尋ねる。

 対して、いつもと同じように悠然とした様子のヴォルフは、

 

「ただの喧嘩だろう?ルールなんて高尚なもんいらんだろうがよ」

「いいのかよ。ついうっかり熱くなって、あんたのことを殺しちまうかも知れねぇぜ?」

 

 脅しとしか思えないオリベイラの言葉に、ヴォルフはくすりと微笑った。

 

「それは困るな。じゃあ、こうしようか。目の玉ときんたまはできるだけ狙わない。相手がまいったって言うか、それとも意識を失ったらそれで勝負は終わり。そんで、怪我は自分持ちだ。これでどうだい?」

 

 オリベイラが頷き、

 

「ああ、いいぜ、じゃあいつでも――」

 

 『かかってこいよ』、そう言おうとした瞬間である。

 ヴォルフの巨躯が物凄い速度で動き、オリベイラとの間合いを詰め、思い切りのいい右ストレートを放った。

 巨大なヴォルフの拳は、まだ何事かをしゃべろうとしていたオリベイラの顔面に突き刺さる。

 がつん、と、まるで交通事故のような激しい衝突音が部屋の隅々まで響き渡る。

 そして、当然の如く吹き飛んだのはオリベイラのほうであった。顔をのけぞらせたオリベイラは為すすべなくリングの端っこまで吹き飛び、そのままロープともつれあい、そしてリングから落下した。

 時間にして、一秒にも満たない、一瞬の一撃であった。

 

「はぁっ?」

 

 間の抜けた声が、ヴォルフの口から飛び出る。自分のしたことが信じられない、いや、自分のしたことの結果が信じられない、そんな声だ。

 リングの下で悶絶していたオリベイラは、それでも殴られ慣れているのが幸いしたのか、ふらつく足取りで何とか立ち上がり、曲がった鼻をそのままに、ヴォルフを糾弾した。

 

「おい、てめぇ!まだ試合開始の合図はしてねぇだろうが!不意打ちは卑怯だ!」

 

 そんなことを、恥ずかしげもなく叫んだ。

 唖然としていたオリベイラの取り巻き達も、リングの上のヴォルフに対して、アンフェアだの卑怯者だの罵り声をぶつけている。特に、オリベイラが侍らせていた女達は、金切り声でヴォルフを罵るので、耳にやさしくないことこの上ない。

 ヴォルフは、顔を鼻血で真っ赤に染めたオリベイラや、自分を非難するオリベイラの取り巻き達に対して、怒るでも嘲笑うでもなく、寧ろ困惑していた。そして、少し泣きそうな顔で、自分の背後にいたリィ達に助けを求める。

 

「おい、俺、何か悪いことしたか?」

「いや、どう考えても正当な一撃だ」

 

 ヴォルフの言葉に答えたのは、笑いを噛み殺しながらのリィである。

 この場合、どう考えても正しいのはヴォルフであった。何せ、オリベイラからルールをどうするかと問われたヴォルフが、きちんと回答し、そしてオリベイラはそれを受けたのだ。その瞬間に試合は始まっていると考えるべきだし、第一その条件において、試合の開始の合図については一切触れられていない。つまり、どのタイミングで試合を開始するかは当人同士に委ねられていると考えるのが当然だ。

 そしてヴォルフは、オリベイラの返答を待ってから、攻撃を開始したのである。

 リィなどからすれば、ヴォルフの対応は行儀が良すぎて呆れてしまうほどのものだ。リィだったら、リングに上がった瞬間に、下手すれば上がる前にオリベイラを叩きのめしている。

 だいたい、大の男が、ルールに守られた試合ではなく、ただ戦うといって向かい合ったのだ。その後、何が起きたとしても、何をされたとしても、相手を卑怯と糾弾するのは筋違いだ。仮に卑怯な戦法で敗れたとしても、それは敗れた自分が間抜けなのであって、相手を非難するのは、自分が間抜けでしたと大声で喧伝するに等しい。

 ヴォルフも当然そう思っていた。それが、一度でも戦場に身を置いたことがある人間の、普通の考えだったからだ。しかし、オリベイラにとっては、理解の及ばないものだったのだろう、鼻を曲げたままの彼はリングに上がり、再びヴォルフの前に立った。

 

「おい、卑怯者。もう一度だ。今度は、汚ねぇ不意打ちはさせねぇぜ」

 

 にやりと不敵な笑みを浮かべたつもりなのだろう、ひきつった笑みでそんなことを言う。

 ヴォルフは、なんだか自分が悪いことをしているような気になってきた。考えてみれば、自分は二十代も半ばの社会人――今は絶賛無職であるが――であり、相手はまだ二十歳そこそこの学生なのだ。ひょっとしたら、自分がしているのはただの弱い者いじめなのではないか。

 ヴォルフは、困ったような笑みを浮かべ、

 

「いや、悪かった、オリベイラさん、あんたの言う通りだ。俺が卑怯だったよ。あんたのほうが強い。それでいい。だから、もう止めにしないか?」

「ふざけんな!この俺様にこれだけのことをしておいて、無事にリングから下りられると思うなよ!」

 

 威勢よく喚きながら、しかし攻撃をしてくる気配がない。ひょっとしたら、まだ試合開始の合図を待っているのだろうか。

 ヴォルフは大きく溜息を吐き出した。もう、なんというか、好きにしてくれという気持ちだ。

 

「わかった、わかったよオリベイラさん。じゃあ、試合開始だ」

 

 ヴォルフがそう言うと、鎖から解き放たられた闘犬の勢いで、オリベイラが突っ込んできた。

 そして、ガードを固めたヴォルフに、猛烈な攻撃が襲い掛かる。拳が、蹴りが、肘が、膝が、次々とヴォルフを叩く。

 流石、学生とはいえ格闘技のチャンピオンである。攻撃は鋭く、重たく、上手い。ガードをすり抜け、いくつかの攻撃がヴォルフに当たる。

 しかし、直前まで手合わせしていたのが、揃いも揃って人外連中だったヴォルフだから、どうしても彼らと比較してしまう。ルウの怪力、リィの素早さ、シェラの巧さ、ウォルのしたたかさ、メイフゥの激しさ、それらと比べると、オリベイラの攻撃程度では、どうしても闘争への悦びが湧き上がってこない。

 ただ、痛いだけだ。それも、ヴォルフの身体が余裕をもって受け止められるだけの痛みでしかない。つまり、少し強めのマッサージと変わるところがないのである。

 ヴォルフは、急激に冷え込んでいく自身の闘争心を感じていた。一方的な攻撃を受けながら、この試合を受けた事自体が、大人げなかったのだと反省すらしていた。

 しかし目の前のオリベイラは、ヴォルフが反撃してこないのを自身の攻撃が効いていてるからだと理解したのか、嬉しそうに笑みを浮かべ、なお攻撃の手を緩めない。そして彼の取り巻き達は、囃すような歓声を上げてオリベイラを応援している。

 さて、どうしようかとヴォルフは思った。このまま攻撃を受け続ければ、いずれオリベイラの体力が底をつき、それで試合は終わるのだろう。その時、なんだかすごく気まずい空気が流れる気がした。

 別にそれはそれで構わないはずなのだが、ヴォルフは自責の念とか罪悪感とかを抱き始めていた。

 だから、ボディを殴られた時、それが効いたふりをして、軽くガードを下げてやった。

 オリベイラは、その隙を見逃さず、ヴォルフの顎にパンチを叩きこんだ。ヴォルフは首を回してその衝撃を受け流したので、ほとんど効かされてはいなかったが、しかしたたらを踏んで後退し、ぺたんと尻もちをついてやった。

 

「いけ、効いてるぜオリベイラ!やっちまえ!」

 

 ヴォルフの内心など露ほども知らない取り巻き達が、熱狂的な叫びを上げる。

 これはMMAのルールだから、ダウンという概念はない。相手の意識があり、試合続行の意思があれば、ダウン後の追撃が認められている。オリベイラは仰向けに倒れたヴォルフにのしかかり、馬乗りの体勢を取った。マウントポジションと呼ばれる、MMAにおいては最も有利なポジションである。

 ヴォルフを見下ろすオリベイラはほくそ笑み、ぺろりと唇についた鼻血を舐めとった。

 

「さて、これで手も足も出ねぇな、怖いかい、おっさん」

 

 そう言われたヴォルフは、反射的にオリベイラの無防備な股間を握りつぶそうと手を動かしかけたが、止めた。そんなことをしてルール違反だ何だと言われるのが面倒だったからだ。

 

「まいったよ、オリベイラさん、あんたの勝ちだ」

 

 ヴォルフはそう言って負けを認めたが、しかしオリベイラは構わずにヴォルフの顔面に拳を打ち下ろした。

 雨あられのように降り注ぐ拳は、流石にヴォルフの太い腕のガードをすり抜け、いくつかは顔面にヒットする。頑丈なヴォルフの顔も、あっという間に擦り傷や内出血で一杯になる。

 

「おい、オリベイラ!相手の人は負けを認めたぞ!試合終了だ!」

 

 ノーマンが悲鳴のような声を上げるが、オリベイラには届かない。それとも、届いていて聞こえないふりをしているのか。

 気が狂ったような笑みを顔に貼り付け、ヴォルフを殴り続ける。

 それを嫌がったのか、ヴォルフが手を伸ばし、オリベイラの腕を掴んで殴るのを止めようとする。しかしこの行動は、MMAのマウントポジションにおいては致命的な失策だ。

 オリベイラはヴォルフの左腕を掴み、流れるような動きで身体を横に倒す。ヴォルフの身体はオリベイラの足で抑え込まれ、腕は胸に抱えられ、肘関節が逆方向に極められる。

 腕ひしぎ逆十字と呼ばれる関節技だ。

 本来の試合なら、この体勢に入った時点でレフェリーが試合を止めている。そんな状況だ。

 しかしオリベイラはにやにやとした嫌らしい笑みを浮かべ、

 

「おい、おっさん、まいったかよ」

 

 嗜虐的な調子でそんなことを口にした。

 ヴォルフはオリベイラの太腿を掌で何度か叩き、ギブアップの意思表示を示しながら、口では、

 

「まいったまいった、あんたの勝ちだ」

「あんたは俺より弱いな」

「ああ、そのとおりだ。あんたのほうが俺より強いよ」

 

 ぎりぎりと肘を絞りながら、相手に屈辱的なことを言わせようとオリベイラは躍起になっている。弱者を思うさまいたぶることができるこの状況に、快感を感じているのだ。

 

「身の程知らずなことをして申し訳ありませんでしたって言えよ、おっさん」

「身の程知らずなことをして申し訳ありませんでしたオリベイラさん、これでいいかい?」

「ああ、だが、てめぇのその、舐め腐った態度が気にいらねぇなぁ!」

 

 そう言ってオリベイラは一気に身体を反らせ、ヴォルフの肘を折った。

 べきっと、恐ろしい音がリングから響き、流石にヴォルフの顔が苦痛に歪む。

 オリベイラは技を解き、左肘を押さえて蹲るヴォルフを見下ろしながら、

 

「へっ、思い知ったかよ。素人が変な負けん気起こすからこういう目に遭うんだぜ。これに懲りたら、今後の人生は隅っこのほうでちっさくなってな、でくのぼう!」

 

 思うさまに罵詈雑言を吐き出し、そして唾をヴォルフの顔に吐きかけた。

 その様子を見て、ノーマンやTBSBのスタッフは顔を青ざめさせた。TBOの金メダリストが、ただ見学をしていただけの一般人を挑発し、リングの上で暴行を加え、最後に骨まで折ってしまったのだ。これが一般に知られれば、大きなスキャンダルになる。普段から素行に問題のあるオリベイラは当然放校処分だし、自分達も何らかの責任を免れないだろう。

 どうにかしてリィ達に口止めをするべきか。それとも、自分達の処分を覚悟の上でこの事実をありのまま報道すべきか。打算に揺れるノーマンの前で、しかし、ヴォルフは何事もなかったかのように立ち上がり、一言の不満も抗議もなく、自分の足でリングから歩き去った。

 その堂々とした様子には、加害者であるオリベイラですらが唖然としていた。

 ヴォルフはリィ達のところまで歩き、そして恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。

 

「いやぁ、流石はチャンピオンだな。こてんぱんにやられちまったぜ」

 

 リィは苦笑して、

 

「ヴォルフらしくなかったな。腕も、わざと折らせただろう。なんで本気でやらなかった?」

「前も言ったろ?弱い者いじめってやつは、どうにも性に合わないのさ。これが戦場で、相手さんが銃の一丁でも持ってくれてるなら話は別だがね。腕の一本くらい、唾つけときゃ治るしな」

「損な性分だ。だけど、おれは嫌いじゃないよ」

「そう言ってくれると助かるね」

 

 リィが差し出したタオルを受け取ると、ヴォルフは、顔についたオリベイラの唾と汗を一緒に拭き取った。シェラが氷嚢を取り出し、ヴォルフの腫れあがった左肘に巻き付ける。

 

「悪いな、これじゃあしばらくは運転できねぇ。ルウ、お前さんがみんなを寮まで送ってくれるかい?」

「うん、いいよ。別にそんなに離れてるわけじゃないしね。でも、その前に、僕たちにはやらなきゃいけないことがあるよねぇ」

 

 にこやかに微笑みながら、しかし青い瞳の奥に危険なものがある。

 ヴォルフは試合の前に、急所はできるだけ狙わないことと、相手がまいったと言えば試合を止めることをルールとして提言した。そしてオリベイラはそれを了承した。

 ヴォルフはルールに従って戦った。その結果、自身の敗北を認め、何度もまいったと言ったのだ。

 だが、オリベイラは試合を止めることなく、白旗をあげているヴォルフをいたぶり、最後に骨まで折ってみせた。明白過ぎるルール違反である。

 リィ達は、一言ヴォルフが助けを求めれば、即座にオリベイラをリングから叩きだすつもりだった。それでも一切手を出さなかったのは、ヴォルフがそれを求めなかったからであり、つまりはヴォルフの意思を尊重したからだ。

 オリベイラは、最後までそれを台無しにしたのだ。十分過ぎるほどに、報復の対象である。

 リィも、にこやかに微笑みながら、全員を振り返り、

 

「で、誰がやる?」

 

 短くそう言った。

 言うまでもない。オリベイラという悪童にお灸をすえる作業のことである。

 立ち上がったのは、大方の予想どおり、この中で一番気性の荒い、見目麗しい少女であった。

 

「じゃあ、あたしだな。あの野郎には、花も恥じらう乙女の柔肌ってやつをべたべた触られたんだ。その分も含めて、たっぷり体で支払ってもらうとしようか」

 

 目じりを危険に吊りあがらせ、指関節をごきりと鳴らしながら立ち上がったメイフゥを、しかし小さな手が押しとどめた。

 メイフゥは心外と言った様子で、その手の持ち主に話しかける。

 

「おい、ウォル、何で止める?」

 

 メイフゥを止めたウォルも、リィやルウ、そしてメイフゥに負けず劣らずの危険な笑みを浮かべている。

 つまり、この少女もやる気なのだ。

 そして言った。

 

「おいおい、メイフゥどの。聞かん坊のやんちゃ坊主を躾けるのは、いつだって年長者の役割だ。そして、この場における一番の年長者はおれだぞ。いくらあなたでも、その役割は譲ってやれんな」

 

 どう見ても中等部の少女にしか見えないウォルだが、その中身は70歳を過ぎた元国王である。元国王が、こうも嬉し気に喧嘩事に関わること自体の是非は置いておいて、ウォルの言い分にも一理ある。

 メイフゥは苦笑して、再び腰を下ろす。考えてみれば、この場でヴォルフと一番親交が厚いのはウォルである。ならば、報復の役割の一番くじは、ウォルにこそ宛がわれるべきであろう。

 そして、ウォルという少女に恋するインユェはといえば、猛悪な男に喧嘩を挑もうとするウォルを笑顔で見送り、

 

「思い切り叩きのめしてこいよ、ウォル」

 

 にやりと不吉に哂う。

 対するウォルも不吉に哂い、

 

「言われるまでもないな、インユェ」

 

  そして無造作にリングに昇り、まだ何か悪態をつき興奮冷めやらぬ様子でリングに居座っていたオリベイラの前に立った。

 ウォルに気づいたオリベイラは、流石に目を丸くし、その後で大爆笑した。

 

「おいおい、何の冗談だ?次はお嬢ちゃんが俺とやろうってか?」

「ああ、そのとおりだが、何かまずいかな?」

 

 何の気負いもなくそう言ったウォルは、オリベイラの目の前で屈伸運動などをしている。

 馬鹿にされたと思ったのか、睨みつけるようにしてまだ中等部の少女を見る。すると、容姿はまだ幼いが、この少女も極上の美少女であることが分かる。腰まで届く黒髪は絹糸のように艶やかだし、白い肌は透けるようだ。顔立ちは極めて整っており、まだ成長途上のすんなりした体つきにも、女性特有のまろやかな美しさがある。

 先ほどヴォルフを痛めつけて満足したはずの征服欲や万能感がむらむらとオリベイラの精神に広がり、次の獲物を見定めた。無論、あの男のように痛めつけるわけではない。女には女への可愛がりかたがある。

 

「いいぜ、一応断っとくが、やりたいって言ったのはお嬢ちゃんだ。その上で、どうしてもやりたいなら付き合ってやるさ。そんで、ルールはどうするんだい?」

「お前は一々ルールというものが好きなのだな。ただの殴りっこにどうしてそこまで決まり事を求めるのかが俺には理解できん。それに、さっきはああもあからさまに、せっかく決めたルールとやらを破っていたではないか。そのお前とルールを取り決めたところで、何か意味があるのか?」

 

 不思議そうに小首を傾げたウォルが言うと、オリベイラは痛いところを疲れたように言葉を飲んだ。

 しかし、子供相手に大声を荒げることは彼の自尊心が許さなかったのか、辛うじて余裕と呼べる笑みを浮かべ、

 

「さっきはちょっと熱くなりすぎただけさ。あの大男には悪かったと思ってるよ。それに、俺は男だからな、お嬢ちゃんみたいな女の子を怪我させたらまずいだろう?だからルールが必要なのさ」

「なら、さっきのヴォルフどのとの闘いと一緒で構わん。あれなら俺にも理解できるし、何とか守ることも出来そうだ」

 

 腕をぐるぐると回して肩関節のストレッチをしながら、ウォルは軽やかな笑みを浮かべてそう言った。

 オリベイラは、鼻の穴を膨らませながらほくそ笑んだ。さっきのルールならば、少なくともこのリングの上であれば、目の前の美少女を好きに出来るということだ。無論、露骨な行為に及ぶことはできないにせよ、いたぶりかたなど幾通りもある。せっかくの機会だ。大人の男の恐ろしさを教育してやるのもいいだろう。

 

「いいぜ、お嬢ちゃん。大人を舐めるとどういう目にあうか、たっぷり教えてやるよ」

 

 舌なめずりしながら言うオリベイラに、ウォルはしたりと頷き、輝くような笑顔で、

 

「うむ、俺も正しくそのつもりだ。増長した悪戯好きの腕白小僧には、拳骨を落として身の程を教えてやるのが大人のつとめというものだからな」

 

 ウォルの実年齢を考えれば、正しく彼女の言うことは正しい。

 だが、当然のことではあるが、オリベイラにはウォルの言葉が理解出来なかった。そして、彼は怪訝な顔をした後で、気を取り直したようにウォルに相対し、

 

「なら、さっさと始めるとしようか。おい、お前ら。このお嬢さんにプロテクターをつけてやりな」

「プロテクターとは何だ?」

 

 ウォルが不思議そうに尋ねる。

 オリベイラが、流石に信じられないといった様子で、

 

「防具のことだ!まさかそんなことも知らねえのかよ!」

「うむ、知らなかった。しかし、防具なら不要だぞ。どうせ、お前から攻撃を受けるつもりはないし、ヴォルフどののように受け止めてやるつもりもない」

 

 さらりとした口調で言った。

 ウォルの言葉を侮辱と受け取ったのだろう、オリベイラは浅黒いを肌を真っ赤にさせて、プロテクターをウォルに付けてやるためにリングに上がろうとした取り巻き達を制する。

 

「お前ら、このくそガキの言葉が聞こえただろう。プロテクターは無しだ。この俺と、対等な条件で勝負するのをご所望なんだとさ。なら、期待には応えてやらねぇとなぁ」

 

 オリベイラの視線に危険なものが籠めらているのを、取り出し連中は悟った。

 そして、それはリングの下で事態の推移を見守るしかできなかったノーマンも同じであった。

 ノーマンは、再び、悲鳴のような声でオリベイラに向けて言う。

 

「おい、オリベイラ!まさかこんな小さな女の子と試合をするつもりじゃないだろうな!?」

 

 いくら性質が弱気なノーマンでも、これは譲れない一線だと思ったのか、かなり強い口調でオリベイラを詰問する。確かに、ウォルは見た目だけならば中等部の少女であり、身長と体重を比べればオリベイラと勝負になるはずがない。それでも試合をするとなれば、これは試合に名を借りたリンチであり、もしも見過ごせばTBSBの局員としての責任云々の前に、連邦大学の学生としての一般規則に反したとして罰せられても不思議ではないのだ。

 ノーマンの言葉にへらへらした笑顔で応えたオリベイラは、

 

「ノーマンさん、あんたの言いたいことは分かるがよ、俺はあくまで勝負を挑まれた側だぜ?TBOの金メダリストが、まさか挑まれた勝負を逃げるわけにはいかねぇだろう?それに、いくら俺だって、こんな可愛いお嬢ちゃんに本気を出すわけがねぇだろうがよ。優しく躾けてやるだけさ」

 

 無論、この言葉に納得したわけがないノーマンであったが、自身の前に立ちはだかるオリベイラの取り巻き連中の、暴力的な威圧には流石に声を失った。

 しかし、それでもこの試合は止めなければならない。その結果として、例え暴力を振るわれたとしても、ジャーナリストとしての責任を放棄するわけにはいかない。

 決意とともにリングに昇ろうとしたノーマンを、しかし年若い少女の声が押しとどめる。

 

「ノーマンどの、あなたの仰ることは一々ごもっともだが、勝負を申しこんだのが俺という一点においては、この男の言っていることが正しい。それに、勝負はあっという間に終わるだろうから、落ち着いて見ていてくれて構わんぞ。それと、あえて付け加えるなら、俺は男のつもりだから、か弱い少女が悪漢にいじめられるという構図はどうしたって成立しない。それを承知してくれると有難い」

 

 当の少女から、落ち着いた様子でそう諭されてしまう。

 とはいえ、いくら少女自身が勝負を挑んだのだとしても、看過していいこととそうでないことはある。未成年の少年少女は、大人からの庇護を受けるべき存在であり、そして自己の判断にまだ責任を負えない、また負わすべきではない存在なのだ。例えこの少女が、知り合いの敵を討つのだという使命感とともにリングに昇ったのだとする。その心意気は、大いに賞賛されても構わない。だが、少女を本当にオリベイラという、狂犬のような男と戦わせて構わないのかといえば、そんなことはない。その点、ヴォルフとオリベイラの戦いをただ見守っていたこととは次元が違うのである。もしも少女も性自認が男性だったとしても同じことだ。

 しかしノーマンは、不思議と、この少女の言葉に理を認め、このまま従ってもいいのではないかと思っている自分に気が付いていた。それは決して、『少女がこう言っているんだから何があってもこの少女の責任だ』という、いわば責任放棄の思考ではない。もっと深い、魂のようなところで、この少女の言葉に従おうとしている自分がいるのを、不思議と認めていた。

 もしかすると、この少女は、何か特別な存在なのかもしれない。例えば、これからの自分のジャーナリストとしての人生を左右するような……。

 そんな思考、あるいは妄想を抱きかけたノーマンは、しかし直観と理性のどちらかを取るかの選択で、分別を備えた大人としての当然の判断で、後者を選び取った。そして、この場における数少ない味方になるであろう、少女の友人たちに声をかける。

 

「おい、きみたち!きみたちからもあの女の子に言ってくれ!こんな無謀な勝負は認められない!」

 

 ノーマンの、極めて常識的な言葉に、しかし挑戦的な笑みを浮かべたメイフゥは、先程と同じ言葉を繰り返した。

 

「おいみんな。さっきは賭けが成立しなかったが、せっかくだからな。もう一度聞くぜ。どっちが勝つと思うね?」

 

 メイフゥの笑いを含んだ問いかけに、

 

「ウォル」

 

 短く答えたのはやはりリィであり、頷いたのはやはり全員だった。

 メイフゥはにやりと笑い、

 

「ってこったよ、ノーマンさんとやら。あたしたちは、全員がウォルの勝利にベットしたんだ。このままじゃ賭けが成立しねぇからよ、あんたもいっちょ握るかい?あの破廉恥男に賭けりゃあ、もしかするとちょっとした小銭くらいは稼げるかもしれねえぜ?」

 

 連邦大学の学生は賭博行為の一切が禁じられている!

 反射的にそんな模範的な反駁をしかけたノーマンだったが、それは思いとどまり、そしてこの連中の非常識なことに絶望の色濃い溜息を吐き出した。

 駄目だ。この連中は頭のネジが外れているに違いない。自分達の仲間の、あんなに可憐な少女が、仮にもTBOの男性金メダリストに挑もうというのに、その試合をあまつさえ賭けの対象とし、そして少女の勝つことを疑っていないのだ。

 ああ、駄目だ。やはりここは、自分が身体を張って試合を止めるしかない。

 そう、諦念に満ちた思いで振り返ったノーマンの正に眼前で、試合は開始してしまった。

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